ある朝目覚めると私は自分が性格の悪い悪役令嬢になっている事に気が付いた。悪役令嬢としての記憶も残っている。さて、この場合、私の自我同一性をどう捉えれれば良いのだろう?
悪役令嬢を選択しようとしたのですが、ジャンルが”恋愛”だったので選べませんでした。
ある朝目覚めると私は自分が性格の悪い悪役令嬢になっている事に気が付いた。
私はそれに戸惑いを覚える。
何故なら、私の顕在意識は、私を菊池奈央という名の日本に住む社会人女性であると私に訴えていて、死んだ記憶も何らかの魔法陣で転移させられた記憶もなかったからだ。仕事を終えて帰って来て明日に備えて早めに就寝したような気がしないでもないから、それを考えるのならこれは夢なのかもしれないとも思う。だが、夢にしてはリアリティがあり過ぎる。本人に区別が付かないのだから、現実でも夢でも同じだろう。この状況を受け入れるしかない。
――この世界が、仮に水槽に浮かんだ脳が見る夢の中であったとしても、私にはそれを受け入れるしかないのだから。
だが、この状況を受け入れるにしても、取り敢えず解決するべき疑問がある。
そもそも、これは転生なのだろうか? 転移なのだろうか?
仮に私が死んでいて、死してなお自我同一性を保ち、異世界の悪役令嬢に生まれ変わったというのなら異世界転生で良いのかもしれない。しかし、私の精神だけが異世界に送られ、悪役令嬢に乗り移ったとするのならば、異世界転移という事になる。
果たして、どちらなのだろう?
状況を更にややこしくさせているのは、私に悪役令嬢としての記憶がある事だった。正確には“これから悪役令嬢になる者の記憶”なのだが、とにかく、だからこそ私は自分が悪役令嬢であると知っているのだ。
私自身がプレイしていた訳ではなかったのだが、学生時代に流行っていたノベルゲームがある。少女漫画に出てくるような王宮が舞台で、その話に主人公の敵役として登場するオフィス・ベラントという悪役令嬢に私の容姿は瓜二つであるばかりでなく、その他の設定も全く同じなのだった。
王宮に勤め始める前だから、まだ“悪役”令嬢ではないかもしれないが、それでも同じキャラクターだ。
記憶があるのならば、転生で良いのではないかと思われるかもしれない。だが、話はそう単純ではない。
何故なら、記憶というのは脳に書き込まれた情報に過ぎないからだ。仮に私の精神がオフィス・ベラントにインストールされ、彼女の脳を乗っ取ってしまったのだとしても、彼女の記憶を持つ事は可能である。
つまり、悪役令嬢の記憶がある事は、私が転生したという証拠になりはしないのだ。転移である可能性は消えない。
人格というのはその時の脳の状態に依存するのだろう。記憶のあるなしではない。仮に記憶を植え付ける装置が開発されたとしても、脳の性格に関わる部分が修正されない限り、元の人格は保っているのではないだろうか?
もちろん、完全に影響を受けないという事はないだろうし、そもそも明確な境界線もないのかもしれないが、それでもそれは別々のものだろう。
――或いは、転生でも転移でも構わないではないかと言う人もいるかもしれない。しかし、これは私にとっては大問題なのだった。
転生でかつての記憶を王宮に勤め始める前に思い出したというのであれば、まだ許せる範囲である。だが、精神が転移しており、彼女の脳を乗っ取ってしまい、結果として彼女の人格が消えたというのであれば、これは観方によっては殺人と変わらないのではないだろうか?
ただし、“彼女の人格が消えた”というのは誇張された表現である。
何故なら、彼女の人格は、私と混ざり合った形で残っているからだ。それははっきりと自覚できる。従来の私では執るはずのない行動を執ってもいる。
先にも述べた通り、私の顕在意識が私を菊池奈央だと訴えているから、私は私を菊池奈央だと思っているが、だから定義によっては今の私はオフィス・ベラントの自我同一性を継続している存在と言えるかもしれないのだ。
実際、(当たり前だが)周囲の人間は私をオフィス・ベラントだと認識している。そして、性格が柔らかくなったなどと噂し合っている。
人格というものが、社会の中で他の人々と関わるからこそ存在するものだと仮定するのなら、私は自分をオフィス・ベラントと認識するべきなのかもしれない。
この話は、誰とも関わらずとも明確な自我が人間に存在していると信じている人には分からないかもしれない。
だが、人間の自我とはそのように揺るぎないものではない。むしろ、社会との関りや扱われ方で大きく変わってしまうものなのだ。
――或いは、それならそれで構わないではないか、どちらにしろオフィス・ベラントとして生きるしかないのだからと、そのように思う人もいるかもしれない。だがしかし、それでは済まない事情が私にはあるのだった。
両親である。
もしも私が乗り移る事で、オフィス・ベラントの人格を別のものに変えてしまったのだとすれば、彼らに私はどう謝罪をすれば良いのだろう?
私は彼らの愛娘を殺してしまった存在なのかもしれないのだ。
流石、悪役令嬢だけあって性格が悪く、彼女には親しい人間がいなかったが、両親だけは別だったのだ。彼らはオフィス・ベラントに愛情を注いで育てていた。
私は両親に正直に告白しようか思い悩んだ。ただ、私が本当は菊池奈央という名の異世界の存在なのだと訴えても、「お前の腹を借りて生まれた天狗だ河童だ」とのたまうようなもので、信じてもらえはしないだろう。
だが、そのうちに黙ってもいられなくなった。両親の私に対する態度、つまりオフィス・ベラントに対する態度がよそよそしかったからだ。
彼らとはしばらく離れて暮らしており、久しぶりに会った折、彼らの態度に記憶と違うものを私は感じたのである。恐らく、私が別の人格になっているのを見抜いたのだろう。
私は覚悟を決めた。
信じてもらえるかどうかは分からないが、両親に本当の事を告げよう。
私は二人を自分の部屋に招くと「実は……」と切り出し、自分が思っているそのままの内容を話した。
私が自分は菊池奈央だと思っている事、オフィス・ベラントの記憶もあるし、彼女の人格も混ざり合っているが彼女の人格がそのまま残っているとは言い切れない事。
――もしかしたら、自分が彼女を消してしまったかもしれない事。
私は、両親は私の告白を信じてくれないだろうと思っていた。否、もし仮に信じたとしても怒り出すとだろうと思っていた。
ところが私の告白を聞くなり、両親は喜びの声を上げたのだった。
「良かった。あなた、成功したようですわよ」
と母親が言うと、
「ああ、しかも正直に話してくれている。誠実な人柄のようだ」
と父親が返す。
私はその反応に目を丸くした。
そして、そんな私の反応を観たからか、母親は深々と頭を下げるのだった。
「驚かせてしまったようでどうもすいません。実はあなた様を召喚したのは私どもなのです」
私がその言葉に驚愕したのは言うまでもない。
「一体、どういう事なのです?」
「はい」と言って、二人は説明を始めた。
「あなたは知っているでしょうが、私どもの娘はとても性格が悪いのです。将来が心配になるほど」
そう母親が言うと、父親が頷く。
「このまま王宮に勤めれば、何か問題を起こすと二人とも確信しておりました」
彼らの予想は当たっている。何しろ彼らの娘は悪役令嬢役である。具体的には知らないが、恐らく主人公へのいじめが裏目に出て、自滅するなりなんなりするのだろう。
「だから手を打ったのです」
と、彼ら声を揃えて言った。
「手を打った?」と私。
「はい。魔術師に頼んで、異世界に住むあなたの精神を娘の中に入れたのです。娘の性格を矯正する為に」
私はその返答に愕然とするよりなかった。
つまり、愛娘の人格を消し去ったのは、他でもないこの両親だったのだ。
自分が異世界に無理矢理に転移させられた事に対する怒りは何故か覚えなかった。もしかしたらオフィス・ベラントの人格と混ざり合っているからかもしれない。
「何故、そのような馬鹿な事を……」と私は言いかけて言葉を止める。
もし人格を変える事を非人道的と断じるのであれば、情操教育の類はどうなのだろう? どこまでの人格を変える行為が許容されて、どこまでが許容されないのだろう?
その刹那、そんな疑問を覚えてしまったからだ。
――考えようによっては彼らの選択は生物的には正しいと言える。
生物が子供を残すのは、自らの遺伝子を残す為だ。オフィス・ベラントの人格がどう変わろうと、彼らの遺伝子が残る事に変わりはない。
ならば、より遺伝子を将来に残すのに適した人格を自分の子供に求めるのは、自然な発想なのかもしれない。
だがしかし、そう考えるのなら、人格とは、生物にとって果たしてどれだけ意味があるものなのだろう?
私は自然と、そんな疑問を覚えていた。
異世界転移とか転生という設定って、自我同一性を扱うのに使えるなー と、随分前から思っていたのでやってみました。
もう少し練って、中編くらいの小説にしたら、もっと良いのができそう……
どうでも良いのですが、これを書き終えて、家にあったはずの、カフカの「変身」がどっかに消えているのに気がつきました。