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ユレルサンカク  作者: 秋沢一文
二章
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夏のさかりの町田(1)

【二〇〇〇年 七月 夏のさかりの町田】


 街の色が日ごとに夏に変わっていく。


 五階の窓から見える空に、こんもりとした入道雲が浮かんでいた。


 冷房が効いた教室の中で、黒板を打つチョークの音と、英文法の講師・オオスミの声が交互に響いた。ノートの上でシャープペンを走らせる音が、間合いを埋め、その後を追いかける。


 遠くの席に座る五星ごせい塔子は、冷房よけにストライプ柄のストールを肩にかけて授業を受けていた。束ねた黒髪の後れ毛がストールに軽くかかっている。


 講義の終わり頃、オオスミが黒板に長野県の住所を書きはじめた。


「えー、一学期の講義は今日で最後です。えー、それで夏期講習の期間中は、私ではなくて他の講師が英文法の講義を担当することになります」


 オオスミはさらに続けた。


「えー、しかしですね。この授業の中で行っていた英作文に関しては、しばらくやらないでいると感覚が鈍ってしまいがちなんですが、かといって自己採点するというのも難しいわけです。


 えー、そこで心配な方は、私が夏の間いる長野の牧場の方にですね、問題と答案を郵送してくれれば添削をして返送しますので。えー、この住所をメモって帰るようにしてください」


 オオスミはポカンとした表情の学生たちにそう言い残すと、「じゃ、今日は終わります」と言って、忍者のチョンマゲのように後ろで結んだ髪を揺らしながら教室を出ていった。


 勉強道具を片づける音、学生同士が言葉を交わす声、休み時間のざわめきが教室に広がった。


 窓の近くに行って外の景色を見た。ガラスに顔を寄せると、外の熱気がじんわりと伝わってくる。涼しい室内にいる時間が長いので、季節の感覚を忘れそうになる。


 日の光を浴びたくなり、そのまま外に出た。TOPビルの前の踏切を渡る。「絹の道」の石碑を通りすぎ、歩行者天国のエリアを示す黄色い車止めの横を抜けて商店街を歩いた。


 エアコンの室外機から透明のしずくが垂れている。店の出入口の前を通るたび、店内の冷まされた空気と路上の熱気の境目を感じた。


 セール品のワゴンを並べた雑貨屋の角を右に折れ、なだらかな下り坂を進んだ。お茶屋の店先から、茶葉を焚く芳しい香りがしている。


 正面にファストフード店の半円形の店舗と赤いパラソルが見えた。ジーンズショップの角を、銀行の建物の方へ折り返すようにして曲がり、駐輪場と宝くじ売り場を左手に見ながら上り坂を進む。


 駅ビルのレンガ壁の傍らにある、小さな稲荷神社の鳥居が目に入った。続いて、カリヨン広場の植え込みが見える。


 スズラン楽器の前あたりに差しかかった時、電柱の横に手ぶらでたたずんでいた女が、ふいに右腕に抱きついてきた。化粧品の濃い匂いがした。


「オニイサン、マッサージ。オニイサン、マッサージ」


 東南アジア系の女は片言の日本語でそう繰り返し、ノースリーブの服からむき出しになった腕をこちらの右腕に密着させたまま、二歩三歩とついてくる。


 女の漂わせている甘い香りと、ぴたりと密着した肌の冷たい感触に戸惑い、足元がおぼつかなくなった。


「あ、あの。僕、お金もってないですから。ノー・マネーです。ノー・マネー」


 そう言うと、女は強く絡みつけていた腕を放した。女の残り香が鼻先にまとわりつき、冷たい肌の感触の浅い記憶とともに身体から離れなかった。


 真上からの陽射しを受けて、建物が地面に落とす陰が濃い。カラオケ店のモニターにはPVが映し出され、スピーカーから店の外へ向けて音が流されていた。


 コーヒーの匂いがする。温かい空気の中に、溶けて染み出しているようだった。その香ばしさに誘われて、書店の隣のカフェに入った。


 窓際の席に座り、ガラス一枚を隔てた通りを歩く人たちの姿を眺めた。街を行く女性たちの服が薄着になっている。


 半袖シャツから覗く、弾力のありそうな二の腕。大きく開いた胸元。手で陽射しをよけるとあらわになるノースリーブの脇。気にしないようにと視線を逸らしても、またすぐ吸い寄せられるように目を奪われた。


(自習室に帰ろう……。)


 カフェを出て、片方の矢印だけ点灯している踏切を待った。電車が横切り、遮断機が上がって、線路を挟む両側から人々が一斉に行き交う。


 赤茶色のギターケースを背負った男とすれ違った。時計を見た。まだ時間があることを確認して、タバタ楽器へ行くことにした。


 タバタ楽器の菊原と予備校の裏の通用路でぶつかって言葉を交わしてからも、休憩時間のバンドスコアの立ち読みのため、タバタ楽器にはよく足を運んでいた。

 立ち読みを容認してくれた菊原とは、店内で会うたび、いつも一言二言だけ言葉を交わした。


 ドアを開け、すぐ二階フロアに上がった。レジには男性店員が立っていた。菊原はいなかった。


 書棚からビートルズのバンドスコアを引き抜き、読みはじめる。『I Call Your Name』のイントロのフレーズをなぞってみた。


 ゴホンというわざとらしい咳払いに振り返ると、菊原が緑色のプラスチックのハタキを手にもって立っていた。


 百円均一ショップで買ったような安っぽいハタキだ。今おろしたばかりという感じで、全く生活感のないものだった。


 菊原が背中の後ろを左右に動き、手を伸ばして目の前の書棚にハタキをかける。小柄な彼女はこちらの肩に乗りかかるようにして、手を伸ばしたり、わざとハタキを空振りさせて腕に当てたりして、

 バンドスコアを読むのを露骨に邪魔してくる。そして、たまにわざとらしくゴホンと咳払いをする。


「あ、あの。ちょっと、菊原さん。ネタが古典的すぎると思うんですけど」


「なに?」菊原がハタキを突き出しながら、今度は横から身体をぶつけてくる。


「昔の本屋じゃないんだから。あと、オレ、一応お客なんですけど」


「お客? 春からスコアの一冊も、ピックの一枚も買ってないでしょうが」


 菊原がまたハタキを顔の前に突き出してくる。


「それを言わないでくださいよ。いまはギター弾いてないんだから。スコアやピックを買ってもあんまり意味ないじゃないですか。

 でも、もう二年前だけど、この店でエピフォン・カジノを買ったのは事実なわけで、そういう意味では、れっきとしたお客ですって」


「ふーん。カジノねえ」菊原がもっていたハタキを脇に挟み、片手で書棚の本の背表紙を並べなおしながら言った。「ヤマトくんって、ビートルズ好きなの?」


「好きです」


「え?」


 はっきりと答えたのに、何故か菊原が訊き返してくるので、もう一度言った。


「好きです。大好きですよ」


「私も好きよ。ヤマトくん」菊原が口元に悪戯いたずらっぽい微笑を浮かべながら言った。「今度ゆっくり話してみたいね」


「は、はあ」


 話がおかしな方向に進みそうになっていたので、ギターの教則本を探すふりをしてバンドスコアの書棚から離れ、強引に菊原との会話を切り上げた。


(まったく、どういうつもりなんだろうか?)


 教則本が並べられた書棚から適当な本を一冊手にとり、ページを開いて茫然ぼうぜんと眺めた。


 頭の中では、夏になり、制服が黒い半袖のポロシャツに変わった菊原の姿が繰り返しめぐっていた。ポロシャツの袖から見えた菊原の二の腕は、つややかな肌色をしていた。


「ねえ」背後から、一度姿を消したはずの菊原の声がした。「ヤマトくんって、オカリナもやるの?」


「へっ?」そう訊かれ、適当に手にしていた本の表紙を見ると、それはオカリナの教則本だった。慌てて取りつくろった。「いや、その……。どんな楽器に興味をもとうが、オレの勝手じゃないすか」


「ふーん。まあ、それはそうだけどねえ」疑わしそうに言うと、菊原はさらに続けた。「ヤマトくん、こないだ、勉強の気晴らしに音楽を聴くのはOKにしてるって言ってたよね?」


「はあ。一応」


「これ、あげるよ」


 菊原はそう言って、手にもっていた一枚のCDを差し出した。


「私が学生の時に作った曲を集めて、パソコンでCD-Rに焼いたやつ。全部インストの曲だから、ヤマトくんの趣味に合うかどうか分からないけど。よかったら聴いてみて」


 薄いプラスチック・ケースに入れられたCDの盤面には「菊原美月」という名前と、この作品集のタイトルなのか「ツクヨミ」という言葉が、シンプルなグリーンの背景とともにラベル印刷されていた。


「この『ツクヨミ』って、何ですか?」


「ツクヨミって、日本の神話に出てくる神様。ツキヨミっていう読み方もあって、名前の通り、月や暦をつかさどる神様なんだって。


 私、下の名前『美月』っていうから、月つながりでね。月の夜みたいな優しい雰囲気のCDにしたくて、こんなタイトルにしてみたんだ。ま、別にどこに出すわけでもないんだけどね」


 そう答えた菊原美月からCDを受け取り、TOPビルの自習室に戻った。


「評価」「ブックマーク」「感想」などいただけますと、とても励みになります。よろしくお願いします。(秋沢)


〈著者・秋沢ヒトシのプロフィール〉

秋沢一氏あきさわ・ひとし /コピーライター、作家。小説『見えない光の夏』で第3回立川文学賞・佳作。ラジオCMコンテストでの受賞歴少々。お問い合わせは、「作家 秋沢」で検索するか、以下のアドレスでアクセスできる、ウェブサイトのフォームから。https://akisawa14.jimdo.com/

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