はじまりの日の町田(7)
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押さえつけていたのは、人を好きになるということだけではなかった。
大好きな音楽との接点は、勉強の気分転換に好きな曲を一曲だけ集中して聴くこと、休み時間に楽器屋でバンドスコアを立ち読みで眺めることだけになっていた。
予備校のすぐ裏にあるタバタ楽器に行くには、本校舎の前の路地を線路沿いのTOPビルのあたりまで戻るか、駅とは反対側の方向に進んでT字路を右に曲がるか、いずれにしても一度迂回してバス通りへ出なくてはならなかった。
遠まわりである上、バス通りはいつも歩道が混んでいて、タバタ楽器までたどり着くのに時間がかかった。
初めは素直に迂回していたが、ある日、予備校の外の非常階段を一階まで降りて、タバタ楽器の通用路を通ってバス通りへ抜ける方が、圧倒的に早くたどり着けることに気づいた。
その通用路は、楽器や書籍を店内に搬入した後のダンボール箱の置き場と化していた。早く通り抜けたい時でも、店員が通用路のあたりで何か作業をしている場合は、さすがに通ることはためらわれた。
本校舎三階の教室で、日本史の講義に出ていた。
難関私大文系コースの設置科目の中で唯一、五星塔子と同じ教室で机を並べる可能性のない科目だった。塔子は世界史を社会の選択科目にしていた。
いつも青いネクタイを着けている日本史講師のイワキが教壇の上で話した。
「推古朝の政治では、聖徳太子の活躍が目立つわけですが、このあたりは歴史資料を絡めた問題が頻繁に出題されるので、よく確認しておく必要があります。
まず遣隋使の派遣については、『隋書』倭国伝に書かれているこの文章ですね。
中国の書物なので原文は漢文ということになりますが、一般的にはこのような読み下し文の形で出題されることが多いです」
指先に付いたチョークの粉を教卓の脇で払うような仕草をしながら、イワキはさらに続けた。
「有名な一節は、『日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云云』というこの部分で、
日本の天皇が中国の皇帝に対して、対等の立場として手紙を送っているというところがポイントです」
隣の席の学生が、机の上に広げた歴史資料集に赤ペンでアンダーラインを引いた。イワキは黒板に示した関係図を指さしながら話を続けた。
「聖徳太子は中国の皇帝にこのような手紙を送ることで中国王朝の支配に対して『NO』という日本の立場を明確に示したということになります。
当時のアジアは中国王朝に従属する『冊封体制』が外交上の常識でしたので、かなりのインパクトだったことでしょう。
現代でいうと、そうですね、アメリカに対して一発ガツンと言ってやったというようなイメージでしょうか。前に、そんな缶コーヒーのCMもありましたけどね。ガツンという」
教室の中に軽い笑いが起こった。
日本史の講義が終わり、三階フロアから外の非常階段に出た。隣接したビルの飲食店の換気口からゴマ油の匂いが漂っている。吹きさらしの外壁は黒っぽく汚れていた。非常階段を一階まで下りた。
顔を出してタバタ楽器の通用路を覗いてみる。ギブソンやフェンダーといった楽器メーカーのロゴがプリントされたダンボール箱が並んでいるその風景は嫌いではなかった。
店員がいる気配はなかった。バス通りの様子が建物の隙間のわずかな幅だけ見える。人や車が行き交っていた。限られた休憩時間を有効に使いたかったので、そのまま小走りに通用路を進んだ。
半分くらい進んだところで、ダンボール箱の陰から女性の店員が飛び出してきた。とっさによけたが狭い通路だったので身体がぶつかった。
衝撃で手にもっていたクリアケースが前方に投げ出されてしまった。プラスチックの口が開いて、中身のテキストやノート、未使用のルーズリーフが袋から飛び出し、コンクリートの床の上にばら撒かれた。
ぶつかったのは、いつも二階の書籍コーナーのレジに立っている小柄でショートヘアの女性店員だった。ふんわりとしたブラウンの髪色。二十歳くらいだろうか。名札には「菊原」と書いてあった。
「ちょっと君。この通路は、うちの関係者以外、通っちゃダメなんだよ」
「ご、ごめんなさい。急いでたから」
何度か顔を合わせている店員だった。悟られるのはまずいような気がして、すぐにしゃがみ込んで、ばら撒かれたルーズリーフを集めた。
コンクリートの床の上は手が滑って紙が拾いにくい。黒っぽい埃がついてしまったものもある。一枚ずつ払いながらビニール袋に入れていこうとしたが、かなり手こずった。
菊原もしゃがみ込み、前方の床に落ちている日本史のテキストを拾った。彼女は裏表紙の名前の欄に目をやり、さらに裏返してテキストの表紙を眺め、しゃがんだ姿勢のまま言った。
「ふーん。ヤマトくんっていうんだ。なるほどね。湘北予備校の学生さんだったんだ。君って、よくうちで立ち読みしてる子でしょ?」
子という言い方に小ばかにしたものを感じ、黙って立ち上がった。
「いつもふらっとやってくるけど、時間はいつもバラバラだし、何者なんだろうって思ってたんだよね」菊原も立ち上がりながら言った。「君、何か楽器やってるの?」
訊かれているので、ぶつかってしまった手前、答えないわけにもいかない。
「ギターです。でも今は、もう弾いてません……。浪人生になって、勉強に集中しなくちゃならないから。高校の時に使ってたギターは、浪人が決まった日に、押し入れの奥にしまい込んだので……」
「へえ。ずいぶんストイックなんだね。浪人生ってもっとチャラチャラしてるもんだと思ってたけど。勉強の息抜きにギターを弾くのもダメなの?」
「それで、現役の時の受験に失敗したんで……」
「はあ。好きなんだね、音楽が。一度弾きはじめたら止まんなくなっちゃうくらいに……」菊原がつぶやくように言った。「そうか、ピュアでいいなあ。私も前はそうだった。ずっと、そんな気持ちでいられたらよかったのにな……」
菊原の少し寂しげな表情の意味が分からず、黙っていた。
「なるほどね。それでヤマトくんは、ギターを思いきり弾けないぶん、お休み時間にスコアを眺めて、予備校の勉強の息抜きにしてたってわけだ」
指摘された通りだったので、素直に謝った。
「は、はい。すいません」
「いいじゃん」菊原が笑顔になって言った。「そういうの、いいよ。カッコいいよ」
「音楽は気晴らしに少し聴くのと、スコアを立ち読みするだけにしていて……。なので正直に言うと、スコアはただ眺めてるだけで、本当は全く買う気ないんです……」
菊原がじっとこちらの目を見ながら聞いているので、動揺しながら話を続けた。
「……あの、なので、もしこういうのが、タバタ楽器の商売的にやっぱり問題があるようなら、もう立ち読みはやめます。他に何か気分転換できる方法を考えてみますんで……」
菊原は、肩をすくめて答えた。
「ふうん。いいよ。立ち読みくらい、好きなだけしなよ」
「え?」
「あんな目でスコアを読みふける横顔、見せられちゃね」
タバタ楽器の書籍コーナーでバンドスコアを立ち読みしている時、菊原から知らない間によく観察されていたということが、彼女のその言葉を聞いて分かった。
菊原はしゃがみ込み、コンクリートの床に散らばったままのルーズリーフを拾いはじめた。
上からだと、前かがみになった菊原の胸のふくらみが強調される。さっき通用路でぶつかった際、身体が軽くその胸のふくらみにかすっていたような妄想が頭の中に広がった。
慌てて目をそらし、しゃがみ込んでルーズリーフを拾った。菊原の髪から、柔らかい匂いが香った。
お互いに拾い終えて立ち上がると、菊原は日本史のテキストの上に数枚のルーズリーフを載せ、それを両手で目の前に差し出すようにして言った。
「また遊びにおいでよ。遠慮なんかしないでさ」
菊原は微笑を浮かべて、バス通りの方へ消えていった。
一章「はじまりの日の町田」は、ここまで。ストーリーは、この先まだまだ大きく展開していきます。「感想」「評価」「ブックマーク」などいただけたら、ありがたいです。よろしくお願いします。(秋沢)
〈著者・秋沢ヒトシのプロフィール〉
秋沢一氏 /コピーライター、作家。小説『見えない光の夏』で第3回立川文学賞・佳作。ラジオCMコンテストでの受賞歴少々。お問い合わせは、「作家 秋沢」で検索するか、以下のアドレスでアクセスできる、ウェブサイトのフォームから。https://akisawa14.jimdo.com/