失われた時の相模原(8)・最終回
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肩を叩かれて目を覚ました。
ゲームセンターの制服を着た男性店員が横に立っていた。彼は露骨に迷惑そうな顔をしながら言った。
「お客様。閉店時間が過ぎております。すぐにご退席ください」
周囲を埋めつくしていた音の洪水は、いつのまにか消えていた。客の姿もなかった。ベンチから立ち上がり、逃げるようにその場から立ち去った。
店の外に出ると同時に、同じ男性店員が入口のシャッターを閉めた。それを茫然と眺めていたこちらに、彼は一度も目をくれることはなかった。
しばらく眠りに落ちていたせいか、頭の中で鈍く響いていた痛みも、熱っぽさもなくなっていた。
すっかり冷めたペットボトルのお茶を飲んだ。ゲームセンターの爆音が、遠い記憶のように感じられる。静かな夜だった。
駅に向かい、終電で相模原に帰った。冬の夜の空気は、冷たく澄んでいた。家に着いたのは午前一時過ぎだった。
街灯のオレンジ色の光が、家の前のアスファルトの二車線道路を浸していた。その色に同化していて、初めは全く気づかなかった。
門扉のノブに手をかけて、一度道路の方へ軽く顔を向けた時、それを見つけた。
一匹の茶トラの猫が手前の車線の真ん中あたりで横向きに倒れていた。車に轢かれたようだった。
もう交通量の少ない深夜だったが、このまま道路の上にさらしておけば、通過する車に何度も踏まれてしまうことは容易に想像できた。
見知らぬ猫だったが、このところ姿を見せなくなっていた野良猫のタマや、昼間大山のコマ参道で出会った三毛猫の姿も重なり、不憫に思えた。
左右を確認し、車道に出た。猫は首輪をしておらず、静かに目を閉じて横向きに倒れていた。腹に数センチの傷があり、裂けているのが見えた。
猫の前足と後ろ足を一本ずつもち、時折胴体も支えながら一段高くなった歩道の縁まで引き寄せた。
まだ轢かれて間もなかったのか、あるいはオレンジ色の街灯の熱を身体に受けていたからか、猫の足や胴体には微かなぬくもりが残っていた。
あとは公共機関に連絡して死骸を引き取ってもらうしかなかったが、いまは午前一時を廻った深夜だった。家に戻っても、家族はきっと寝静まっている。
ひとまず、これ以上は車に轢かれない場所まで移したということで納得し、家の中に入った。
気にせずに寝てしまうつもりだったが、そのまま死骸を路上に放置しておくことは気がひけ、古い新聞紙とスーパーマーケットのポリ袋をもって猫のところに戻った。
(お前のことはよく知らないけど。死体をさらしたままにするのは、あまりにもかわいそうだから……。)
新聞紙を何枚か地面に敷いた。その上に猫の死骸を載せようと、再び猫の足と胴体に触れた。その時、はっきりと分かった。
猫の身体のぬくもりが、消えていた。
さっき車道の真ん中から歩道の縁まで引き寄せた時、猫の身体から発せられていたはずの微かなぬくもりが、一度家の中に入り、新聞紙とポリ袋を探して戻るたった数分の間に、全く感じられなくなっていた。
この両手の指先が捉えていたのは、小さな炎のように燃えていた命が、完全に消え去っていく、その瞬間だった。悲しく残酷な別れを経ても、実感することのできなかった生と死の感触だった。
すっかり冷たくなった猫の身体を、足と胴体を支えて新聞紙の上に載せた。そのまま丸くくるみ、歩道の上に口を広げて据えたポリ袋の中に、両手で抱えるようにして入れた。
ポリ袋の口を軽くしばり、街路樹の根元の柔らかい土の上に載せた。
(ゴミみたいに扱ってゴメンな……。)
しゃがみ込んで、ポリ袋の中の猫に、静かに手を合わせた。
冬の夜の寒々とした空気の中で、気持ちを込めて祈った時、確かに感じていた。
猫の身体からたった数分間で失われていったのと同じぬくもりが、この合わせた手のひらの中にもあるということを。
それを意識したとき、胸の奥で重くつかえていたものが吐き出され、損なわれていた全身の感覚が、一つずつ取り戻されていくのが分かった。
合わせていた両手を開き、手のひらを見た。
右手が感じているのか、左手が感じているのか、あるいはその真ん中から感じられるのか、猫の身体からはかなく消えていった命のぬくもりが、この手のひらの中にはあった。
そのぬくもりは、初めて覚えるものではなかった。
それを教えてくれた人がいた。菊原美月だった。美月は言った。
(『ヤマトくんの手は、女の子みたいで、丸っこくて、あったかいよ』『前からずっと、そして今も。ずっと、あったかいままだよ』)
そしてまた、同じぬくもりは、彼女の肌の中にもあった。それは、荒みきっていた心に、安らぎを与え、静かな眠りを誘うような温かさだった。
選んでくれた人がいた。受け入れてくれた人がいた。それが美月だった。
迂回路の時間に見ていた夢が、長く伸びた影が、はかなく終わりを告げたあの日も、美月は近くにいてくれた。
(『何かあったんだね。ヤマトくん。でも、私はここにいるから。私はここにいるからね』)
本当に大切なもの、失ってはならないものの感触は、ここにあった。
立ち上がり、どこへ向かうでもなく深夜の郊外の街を歩いた。オレンジ色の街灯に照らされたアスファルトの道を、ひたすら歩いた。
そして歩きながら、携帯をポケットから取り出し、草津の菊原美月に電話をかけた。
歩く足のテンポより、ずっと遅く感じられる呼び出し音が長く続いた。
急がなければ、跡形もなく消えてしまった人や、目の前で失われていった小さな命の明滅のように、美月がどこか遠くの見えない場所へ消え去ってしまうような気がして、深夜だということも気にせず、ずっと呼び出し音を鳴らし続けていた。
長く続いた呼び出し音の後、ようやく美月が電話に出た。
「もしもし。ヤマトくん? どうしたの?」
「いま、いいかな?」
「うん。私も話したいと思ってた。ずっと……」
深く息を吸って、ゆっくりと吐き出す。
長い間、残したままにしていた最後の空欄に、静かに答えを書き込んでいった。
「美月さん。そばにいてくれないか? どこにも、行かないで、ほしいんだ」
〈了〉
約4ヶ月にわたる本作の連載は、今回で終了となります。お付き合いいただきました皆様、誠にありがとうございました。作品をお読みいただいた方々、興味を持っていただいた方々に、心より感謝申し上げます。
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〈著者・秋沢ヒトシのプロフィール〉
秋沢一氏 /コピーライター、作家。小説『見えない光の夏』で第3回立川文学賞・佳作。ラジオCMコンテストでの受賞歴少々。お問い合わせは、「作家 秋沢」で検索するか、以下のアドレスでアクセスできる、ウェブサイトのフォームから。https://akisawa14.jimdo.com/




