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ユレルサンカク  作者: 秋沢一文
一章
3/39

はじまりの日の町田(3)

   ▽


 四月の初めにクラス編成テストがあり、浪人生としての生活が本格的に始まった。


 本校舎とTOPビルの各教室に分かれて受験したクラス編成テストの会場で、五星ごせい塔子の姿を見かけることはなかった。ガイダンスの日以来、塔子とは顔を合わせていない。


 志望校が立智りっち大学の文学部であること、英文科を目指していること、小田急線を使っていること、彼女についてはまだそれくらいしか知らなかった。


 朝、JR町田駅で電車を降りて、可動式モニュメントの脇の階段から商店街へ下りた。まだ街は静かだった。


 町田と新百合ヶ丘で乗り換えて小田急多摩線沿線にある霧峰きりみね学園高校に通っていた頃は、JRと小田急を結ぶ駅前のデッキを通過するだけだったので、昼や夜の賑やかな町田の街の様子しか知らなかった。


 商店街の通りを小田急線の線路のところまで歩いた。踏切の警報音が響いている。左右両方の矢印が点灯していた。踏切の向こう側に、上階までガラス張りの壁面が伸びるTOPビルが見えた。

 朝のラッシュ時にぶつかり、行き交う電車がしばらく途切れそうにない。


 交番の脇の階段から地下道に下りた。路上生活者のダンボールハウスがいくつかあった。TOPビルの地階から地上に出て、湘北予備校の本校舎に向かった。


 正面玄関の傍らに、いつもの初老の警備員が立っていた。ガイダンス、正式な入学手続き、テキストの配布と何度か予備校に来ているので、既に顔なじみになりつつある。こちらから会釈をしながら彼の前を通った。

 奥の階段を上って四階に向かった。


 教室に入ると、今日が初回の講義だからか、まだだいぶ時間に余裕はあったのだが、もう多くの学生たちが集まっていた。出入口から窓に向かって横に長い教室だった。黒板も横長でとても大きい。


 出入口近くに丹波チューターが立って、教室内の様子を見ながら、空いている場所を探して席に着こうとする学生の交通整理をしている。彼にうながされて、正面やや左で後方の席に着いた。


 座った席から教室を見まわしてみたが、五星ごせい塔子の姿はまだなかった。その代わり、教卓脇の最前列の席に、見覚えのあるような大きな背中があるのに気づいた。


 丹波の指示で左右の席が順番に埋まってしまい、もう自由に動きまわれないので、教卓の近くまで行って確かめることはできなかった。


 クリアケースから、英語長文読解のテキストとノート、英和辞典と筆記具を取り出して机の上に並べた。


 テキストは縮小コピーしてノートの左ページに貼り、設問を解き、知らない単語は辞書で調べ、よく意味の分からない表現にはアンダーラインを引くなど、簡単な予習がしてあった。

 その英文は、アメリカの人権運動に関する記事だった。


 開始時刻の間際になり、ようやく五星塔子が姿を見せた。電車が遅れでもしたのか、慌てた様子で出入口のところに立つと、丹波に指示されて教室の後ろ側を通り、正面右奥の窓際の席に座った。


 彼女が左から右へと動いている間中、ずっと意識して視線を送っていたのだが、どうやら塔子はこちらには気づいていない様子だった。


 開け放した教室のドアの向こうから、職員用エレベーターの扉が開く音が聴こえた。廊下を軽快な足音が近づいてくる。

 出入口の近くに待機していた丹波チューターに「よろしくお願いします」と声をかけられ、一人の男性講師が教室の中に入ってきた。


 浅黒い顔に太い眉、長い髪、ブーツにスリムジーンズ、派手な柄シャツの上にジャケットを羽織っていた。彼は歩きながら、学生の方に一度チラリと目をやって教壇に立った。


 丹波が、その男性講師を紹介した。


「今日から、皆さんの英語長文読解の講義を担当していただきます。日向ひゅうがマゴヒコ先生です。それでは日向先生、よろしくお願いいたします」


「はい、英語の日向です。みんな、いきなり変なやつが出てきたなって思ったかもしれないけど、まあ予備校の講師なんていうのは大抵変わった人間ばかりなんで、今のうちにオレで慣れておいてね」


 緊張感のあった教室に、軽い笑いが起こった。


「それから『日向』をカタカナ表記にした『ヒューガ』っていう芸名で、バンドでドラムを叩いてたんだけど、音楽では全然売れなくて。今ではすっかり予備校講師が本業です。

 趣味は山登りで、丹沢とかよく行きます」


 日向マゴヒコは自己紹介を終えるとさっそく講義に入った。


 日向はチョークを右手に煙草を挟むような感じでもち、教卓の端に片手を置き、身ぶり手ぶりを交えながら熱っぽく話す。横長の黒板にチョークを走らせる音が響いた。


 時折冗談や下ネタを交えて学生たちの笑いをとりながら日向の講義は進んでいった。


 英語長文の読解が半分くらいまで終わった。日向の講義のスピードにも慣れ、少し余裕が出てきた。窓際の席に座る五星ごせい塔子の横顔に目をやった。


 塔子は黒板と机の上を交互に見ながら真剣な表情でノートをとっていた。凛としたきれいな横顔だった。


 次に、ずっと気になっている最前列の席の大きな背中を見る。背中を丸めるような格好でノートをとる姿にも見覚えがあった。


(やっぱり、土佐ミチスエだろうか? あいつも浪人したのだろうか?)


「それじゃこのへんで、ちょっと誰か当ててみようか……。この文中のACLUっていうのが何のことか分かるかな?」日向が言う。「ええと誰がいいかな。えー、ヤマト。ヤマトくんいる?」


 一瞬、五星塔子の存在と、土佐ミチスエらしき背中に意識を奪われていて、日向ひゅうがが話した内容の前半がよく聞きとれていなかったのだが、

 名前を呼ばれたため反射的に「は、はい」と声を出して応えていた。


 教壇の上の日向マゴヒコがこちらを見た。


「分かるかな? このACLUって何のことだろう?」


(ACLU……しまった。)


 予習の時、何かの団体の略称だということは分かったが、文脈的に読み飛ばせてしまったので、ひとまずアンダーラインだけ引いておいた単語だった。

 後で意味を調べるつもりだったのだが、そのまますっかり忘れてしまっていた。


 日向が答えを待ち、話を止めたので、教室に妙な静けさが広がった。その場で考えようとしたが、当てずっぽうで答えられるようなものでもなさそうだった。諦めて、日向の問いかけに答えた。


「わ、分かりません……」


 受験生として最も口にしたくない言葉だった。苦い味がした。


「うーむ。確かに難しいな、これは」


 日向はそう言って教卓の上の学籍簿に目をやるそぶりを見せたが、二人目の学生を当てることはせず、そのまま解説を始めた。


「ACLUというのは、American Civil Liberties Unionの略で、直訳だとアメリカ市民自由連合になるけど、一般的に『アメリカ自由人権協会』と呼ばれている団体のことだね。

 アメリカの人権に関する記事なんかだとよく見る名前なんだよ。で、この文章の解釈は……」


 五星塔子の前でいきなり格好悪い姿をさらしてしまったことで、ひどく気持ちが沈んでいった。視界がぼやけ、日向マゴヒコの声が遠くなる。肩が重くなり、首筋が硬直した。

 さっきまで頻繁に視線を向けていた窓際の席の塔子の方を見られなくなってしまった。


 そこから先の講義は淡々と進んでいった。


「それじゃ、今日はこのへんで終わりにしよう」


 日向ひゅうががチョークを片づけながら言った。


「あ、それと、一年の最後の講義で、たぶん直前講習の最終日になると思うけど、みんなへの激励の意味を込めてギターの生演奏を披露するつもりだから。


 オレの専門は本当はドラムなんだけど、さすがにドラムは教室にもってこれないから、ギターでね。ま、ギターはロックンロールしか弾けないんだけど」


 日向マゴヒコが教室を出ていった。


(ギター……。ロックンロール……。)


 いつもならば胸おどるような単語が、今は身体の奥で鈍くこだましている。


 右手にもっていたシャープペンを置き、左手の指先を触った。ギターの弦を押さえるので平べったく硬くなっていたはずの指先は、皮が剥け、もう丸みを帯びていた。


 机の上に広げた勉強道具をそのままにして、茫然と最前列の席まで歩いた。


「あの……」肩越しに声をかけた。すぐに大きな背中が振り返る。「……ミチスエ?」


「あ、ヤマちゃん。さっき授業で名前と声を聞いて、そうかなと思ってたんだ」


 恥ずかしさを紛らわすため、わざとおどけた調子で答えた。


「うわ。さっきの聞かれちゃってたか。カッコ悪いな。なんだっけ、ACLU? もう一生忘れられないって。アメリカの自由だとかなんとか?

 完全なトラウマ。ミチスエ、あれってそんな有名なのか?」


「いや。あんなのみんな知らないって。普通の英単語じゃなくて、ほとんど専門用語じゃん。英語力とは全然関係ないと思うよ。試験ならコメ印で注釈がつくレベルでしょ」


「そうかね」


「そうでしょ。ヒューガ先生も分かって質問してるんじゃないの?」


 ミチスエに言われて、ようやく気持ちが落ちついてきた。


「しかし、ミチスエも浪人か。やっちゃったか?」


「ヤマちゃん。嬉しそうに言うなよ」


 ミチスエは苦笑いしながら、そう答えた。


 土佐ミチスエは、中学生の頃、相模原市役所の近くにあった学習塾に通っていた時の仲間だった。同じ学校に通ったことは一度もなかった。

 地元の学習塾で勉強していると、よく他校の友達ができた。ミチスエは相模原市内にある県立高校に進学していた。


「ミチスエが同じ予備校にいるなら心強いよ」


「うちの高校からも何人か湘北予備校に入ったみたいだし、相模原から町田の予備校に通ってる人って結構多いみたいだね。やっぱ横浜や東京に行くより近いから。

 ま、とにかく一年間、一緒に頑張ろうや」


(『一年間、一緒に頑張ろうねって。大変かもしれないけど』)


 ふいに五星ごせい塔子がくれた言葉が耳の奥で響いた。胸がざわついた。すぐに窓際の席の方を見た。学生がまばらになった教室から、もう塔子の姿はなくなっていた。


「評価」「ブックマーク」「感想」などいただけますと、とても励みになります。よろしくお願いします。(秋沢)


〈著者・秋沢ヒトシのプロフィール〉

秋沢一氏あきさわ・ひとし /コピーライター、作家。小説『見えない光の夏』で第3回立川文学賞・佳作。ラジオCMコンテストでの受賞歴少々。お問い合わせは、「作家 秋沢」で検索するか、以下のアドレスでアクセスできる、ウェブサイトのフォームから。https://akisawa14.jimdo.com/

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