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静かな闇のなかで

作者: レオ

 光源が何もないような、真の暗闇というものを私は知らなかった。

 関東でも田舎の方に住んでいた私は、このあたりに住んでいるような東京生まれの東京育ちの人たちに比べて、暗闇には慣れていると思う。

 友達を連れてよく遊びにいったお祭りの帰り道では、電柱のさきに付いている小さな豆電球が照らすたよりない空間以外は、本当に真っ暗なのだ。

 だから、電柱と電柱のあいだを歩いている時は、ほんの2,3歩歩いた先でさえも見えないし、普段は小さくて気付かないような低い虫の音が、まるで耳のすぐそばで鳴いているように聞こえてくる。

 それでも心細くなかったのは、力強く手を引いてくれる兄の存在が大きかったのだろう。兄といっても、当時は私と同じ小学生。おばけや幽霊が大の苦手だった兄が怖くないはずがないのに、そんなそぶりは一切見せずに、普段より小さくなったわたしの余幅に合わせて歩いてくれていた。

 そういうわけで、私の手より少しだけ大きかった兄の右手の温もりだけは、どんな暗闇の中でも間違えない自信があるのだ。


 当時感じていた暗闇が薄闇くらいに思えるような真っ暗な中で、いま私の左手に感じる温もりは兄じゃないことは確かだ。お互い大人になってからは手を繋いだことがないけれど、記憶の中にある半年前の兄の手は、”この人”のより、ほんの少し幅が広いように思う。

 しかも、指が長くほっそりして一見女性のような形をしているみたいだけど、手肌の滑らかさや大きさからいって恐らく男性だと思う。


 なぜ、こんな暗闇の中で見知らぬ男性と一緒なのか。おまけに手まで握られてるなんて。今さらだけど冷や汗がどっと出てきて一瞬恐慌状態になりかけたけど、こんな暗闇の中でパニックになってもどうしようもないことにすぐに気づく。逃げようにも、逃げる方向すらわからないのだ。幸いこの男性は特段私に何もしてこないようなので、とにかく、今はじっとして状況把握と対策を考えようと思った。


 こんな変な状況になる前までは、確か、市ヶ谷の本省で辞令をもらってから、陸自の新橋司令部まで徒歩で向かっていたはずだった。そういえば、大手町を南に抜けて東京駅の丸の内に出たとき、ヒューッという音が聞こえて、大きな爆発音が聞こえた気がする。

 耳はキーンとなって何も聞こえないし、視界は煙とほこりで灰色に染まる中、一瞬だけ晴れた空で私が見たのは、老朽化で建て替えが検討されていた地上38階建のJPタワーが真っ二つに折れるシーンだった。まるで映画のワンシーンのような現実味のない状況に、私の身体は金縛り状態になっていて、次第に立っていられなくなるくらいに地面が揺れだしたかと思ったら、視界は暗転してしまった。


 意識を失っていた時間がどのくらいかわからないけれど、その後私が何もしていなければ、今の状況になっているはず。そうすると、ここは地下なのだろうか。

 耳は正常に聞こえるようになっていて、そのためか、周囲がやけに静かに感じるし、時折小さい振動がお尻を通して伝わってくる以外は、何もない。あたりを見回しても真っ暗で何も見えないのだから目を開けていても仕方がないのだけど、開けていないと無性に不安でたまらないのだった。

 その時、彼の右手にわずかばかり力が入った。彼の細いけどしっかりした右手が、綿をつかむようにじわりと、私の左手を握る。私の不安が彼に伝わったのだろうか。

 まるで大丈夫だとでも言っているかのように2回、3回と繰り返されると、不安な気持ちがさっきよりも少しだけ落ち着いているのに気づいた。

 この人は、いったい何者だろう。こんな暗闇の中、どうやって私を見つけて、なぜ手を握っているのだろう。そんな疑問が頭をよぎったとき、彼は大きなため息をついた。


「空から女の子が降ってきたって映画みたいなシチュエーションだけど、こんな暗闇じゃどうしようもないよね」


 内容はともかく、聞こえてきた声は比較的若くて、落ち着いた感じの声だった。元気がなさそうな声音なのは、恐らく内容のとおりだからだろう。

 というか、暗闇じゃなかったら何かするつもりだったのだろうか、この男は。さっきまでの落ち着いた気持ちが一変、私は一気に身の危険を感じてきた。


「だいたいトマホーク打ち込む時間早めたんなら、こっちにも連絡よこせって話だよな。AFSの奴らめ」


 彼は恨みがましく悪態をついているが、内容的にはさっきの爆発のことを言ってるので間違いはなさそうだ。しかも、AFSってたしか敵国の統合指揮幕僚監部のことだから、この人はそれに近い敵地潜入局か諜報機関の人だろう。日本語が堪能なことから、ひょっとすると後者かもしれない。

 私は学徒選抜で特別入隊している身とはいえ、相手から見れば殺すべき敵国の兵隊であることは間違いない。先程までとは違う意味で身の危険を感じたけれど、彼にしっかりと手を握られてるおかげで逃げることもできない。

 これまで生きてきた22年間の中で、私がもっとも進退窮まった場面だった。最後のあがきとばかり、少しでも逃げられないか、ちょっとだけ身体を動かした瞬間、右脇腹に鋭い痛みを感じて、私は思わずうめいてしまった。


「大丈夫!?」


 痛みで起き上がろうとする私を、彼は素早く左手で優しく抑える。


「寝ていたほうがいいよ。少し怪我してるみたいだから。ゆっくり深呼吸して」


 彼に言われたとおり、しばらく呼吸することに専念する。痛みで息ができなかったのが、すこしずつ落ち着いて呼吸ができるようになった。いくぶん落ち着きを取り戻すと、痛みを発する右脇腹あたりを恐る恐る触ってみる。患部のあたりは乾いた布がぐるぐるに巻かれており、中心部は何かで濡れたような感触があった。

 右手を腰の位置まで滑らせて触ってみると、そのあたりに濡れた感触はない。どうやら出血多量で死ぬってことはなさそうだ。


「出血は多くなさそうだから、心配しなくても大丈夫だよ」

「治療していただいてありがとうございます」


 「いやいや」と照れてるような、嬉しそうな声が聞こえてくる。真っ暗闇で心細かったのは、彼も同じなのかもしれない。


「生き埋めで怖いのは酸素がなくなることだからね。その点、僕らは運がよかった。石投げてみると遠くまで飛んでいくから、この空間広いみたい。人間二人分の空気くらい、十分すぎるくらいあるよ」

「生き残ったのは、私たちの他にはいないんでしょうか?」

「この暗闇だからね。赤外線スコープや熱探知センサーなんかがあれば別なんだけど」

「そうですよね」

「君が起きるまで耳を澄ませてみてたけど、うめき声一つ聞こえないから、たぶんここに生存者はいないと思う」


 あの当然起きた爆発と落盤なのだ。助かった私たちの方が奇跡だ。


「ここで出会ったのも何かの縁だろうね。僕はランド。君は?」


 敵軍の兵士かもしれない男に、ここで正直に答えるのは馬鹿なのかもしれない。しかし、なんだかんだで私は彼の手当を受け助けてもらってるわけで、彼がいなかったら、私は助かってなかったのかもしれない。

 助かっていたとしても、こんな暗闇の中一人ぼっちでは、精神が持つはずもない。そういうわけで、彼にはたしかな恩義があるのだった。それに、どっちみちこちらの素性がバレて殺されるのなら、本名だろうが偽名だろうが関係ないだろう。


「加賀ひかりです」

「ひかりちゃんね。この暗闇に燦然とかがやく良い名前だね」


 外国人ってこんな感じだったっけ。ひかり、ひかりと私の名前を声に出して嬉しそうにはしゃいでいる。ワシントン陥落前は、アメリカの軍人を省内でよく見かけたし、プライベートでも同僚数人とホームパーティに招かれることもあったけれど、ここまでひどくはなかった気がする。

 本当に、この人は敵国の人なのだろうか。


「ひかりちゃんは年はいくつ?」


 おまけにデリカシーもなかった。最初からちゃん付けだし。勝手にだけど、外国の男の人って紳士ってイメージなんだけど、私だけなのかな。


「女性に年齢尋ねるのは、失礼じゃないですか」

「旅の恥はかき捨てってね。君の国の言葉でしょう」

「意味が違います。だいたい、そういうランドさんこそ何歳なんですか」

「こう見えて、僕は30になったばかりなんですよ」

「真っ暗で何も見えませんけどね」

「それは残念なことです」

「発言がおじさんっぽいので、むしろもっと年齢上かと思ったくらいですよ」

「ひどい。せっかく楽しく話せるようになって生き生きとしてきたのに、なんだか一気にマシンガンで蜂の巣にされた気分です」


 真っ暗な闇の中で、笑い声が弾んだ。笑うと脇腹が痛んだけど、不思議と彼と話さずにはいられない気持ちになる。彼はもしかしてスパイで、女の人をかどわす訓練を受けているのかもしれない。はたして彼に私を落とすメリットがあるかどうかわからないけど、それでも良いと思った。

 何も見えない中、一人ぼっちでいるよりは全然いい。暗闇は暗闇のまま目の前に存在しているけど、どこからも光のまったく届かない真の暗闇でも、濃度や温度というものがあるのかもしれない。闇が薄く、空気が温かくなっている、そんな気がしたのだ。


「ひかり、もう少しだから頑張れ」


 彼に優しく肩を揺すられて、気がついた。少し眠っていたようだった。「何やってるんだよ、まったく。これだから日本のMODは」とか呟く彼の声音は、さっきまでの明るいものとはうってかわって、ひどく深刻そうな響きがした。


「もしかして、救助が来るんですか」

「うん。君の手当をしてからすぐ、救急信号を出した」

「救急信号・・・あ、非常用の!」

「君の腰のホルダーから離れ落ちてなくてね、運が良かった」


 ということは、私が軍属だってことはバレているのだ。

 しかも、こんな暗闇の中、手探りで相手国の非常用装置を使いこなせるなんて、彼は相当のプロだ。彼は、私の額に浮かんでいるであろう汗を、乾いた布で優しく拭ってくれる。


「私が学徒兵だって、気づいてたんですか」

「うん。天井から落ちてきた君を抱きとめたとき、軍服の素材で気づいたんだ」

「敵なのに、どうして助けてくれるんですか」

「敵って、ひかりは僕が誰なのか分かるの」

「あんまり自信はないけど、BNDのGL部隊とか」

「君はエスパーか」

「あたりですね。正解したので、教えてください。なんで、助けるんですか」

「今まで誰にもバレたことないのに、自信なくすな」


 しばらく本気で落ち込んでいたみたいだけど、私がこの質問の答えを聞くまではてこでも動かないことを察すると、「ま、いいか」と観念して少しずつ語り始めた。


 彼の実家は裕福らしく、政治的なコネで情報局に採用されたこともあって、同僚たちには影で馬鹿にされていた。能力面はど素人だったので、彼自身は特にそのことに不満はなく、コネで採用されていたのも事実だし、アルバイトもしたことがなく働くのがはじめてだった彼は、見よう見まねで諜報活動に勤しむ。

 もともと人と仲良くなるのは得意だったので、自然に敵国の人々の中に溶け込み、情報を引き出すのは、そう難しいことではなかった。1年前からワシントンDCに移り住み、それからしばらくして1つの情報を手に入れる。本国に送ってみても何ら反応がない。

 しばらくして信頼できる本国の政府高官に調べてもらうと、本庁上層部にて途中で握りつぶされていたことが発覚。国益より私腹を肥やすことを優先した上層部の連中に心底頭にきた彼は諜報活動を放り出し、本国に情報を送るのをしばらくやめることにした。

 ワシントンからの情報が途絶え、本国には同僚たちから不正確な情報が送られ続けた結果、大西洋上で偶発的な軍事衝突が起き、結果的にワシントンDCが灰燼に帰してしまった。


「もちろん、自分がいれば戦争は起きなかった、とか言うつもりはないけどね」


 もしかすると防げたかもしれなかった。そうすれば、ワシントンで得た友人を死なせずに済んだかもしれない。それが彼の悔恨の原因らしい。以来、彼はそのことをうまく消化できないでいた。戦争で兵隊が死ぬのは仕方がないのかもしれない。しかし、民間人は別だった。

 ワシントンDCでは、殺された兵隊の数よりも、何倍も民間人の犠牲者のほうが大きかったのだ。アメリカの次に派遣された日本でも成果は芳しくなく、結果、首都空爆後の大手町の地下に生き埋めになっている。


「諜報活動で戦争を防ぐことはできないけど、ある程度のコントロールはできると信じていたんだ」

「諦めるんですか?私だったら、諦める前に何でもします」

「何ができる?ど素人同然の叩き上げでここまできた僕なんかに」

「実家は裕福なんでしょう。親のカネでもコネでも何でも使えばいいじゃないですか!」

「分かった。分かったから落ち着いて、興奮しないで」

「本国に見捨てられそうで最後だから、わたしを助けることで、死ぬ前に人として少しでも良心の呵責を減らそうとしてるんじゃないですか」

「表面だけ切り取れば、そうかもしれないけどね、ひかりを助けたのは別の理由さ」


 なんとなく、彼はウインクをしてるような気がするけど、私はさっきからこの人が死にたがってるような気がして許せなかったのだ。

 私だけ助かるなんて、そんなのはイヤだった。ただ、頭がぼうっとして、呼吸も少し苦しくなってきている。彼の言うとおり、少し興奮しすぎたのだろう。


「ひかりを助けたのは」


 彼の右手が少し強めに私の左手を握るのと同時に、パラパラと小石が転がる音がした。


「空から女の子が降ってくるなんて、本当に運命だと思ったんだよ」


 いい年した男が小学生みたいなことを言うなってキツく言い返そうと口を開く前に、大きな穴が開いて石が散らばる音が、そこら中の壁から一斉に鳴り響く。


「救助が来たよ。よく頑張った」


 私の頭をそっと撫でる彼の左手が、まるで別れを惜しんでいるように感じた。

 サーチライトの強い光が遠くにぼんやりと見える。目が霞んでいるのか、こちらを覗き込む彼の顔が見えない。

 彼は、こんなことをしている場合じゃないはずだ。私の非常装置で呼んだ救助部隊というと、恐らく内務省の緊急軍になるだろう。十中八九彼は逮捕されて過酷な取り調べを受ける。

 あの悪名高い強化尋問という名の現代の拷問だ。情報を引き出すだけ引き出した後は、恐らく死刑。彼の本国も、トカゲの尻尾を切るように、知らぬ存ぜぬを決め込むに違いない。


 続いて、たくさんの人の声がこだまする。逃げて、という叫びが、声にならない。


「そうかそうか。君も運命だと感じてるのか。やっと正直になってくれたね。これはハッピーエンドに違いない」


 どう見てもロマンもへったくれもないバッドエンドな結末なのに、彼は心底おかしそうに笑っているようだった。光が濃くなって、暗闇だった世界が、まるで真っ白な鳥たちがいっせいに羽ばたくように白の一色に染まる。

 大勢の人の声が洪水のように押し寄せてきた。ぎゅっと握った私の左手から、彼の右手が強引に剥がされる。目も良く見えないし、耳もあまり聞こえない。まるで波に漂っているように身体全体がふらふらする。

 顔全体に付けられた透明な救命マスクごしに彼の方を見ようにも、たくさんの人の影に隠れて、もはやどこに彼がいるのかわからない。溢れかえる光に飲み込まれるように、私は深い眠りに落ちていった。


 その後、救助部隊が比較的早く到着したことと、日本が誇る医療技術の高さによって、私は一命をとりとめた。

 主治医の話によれば、怪我の方は運良く肝臓をそれていて大丈夫だったのだが、私はどうやら出血死寸前のひどい状態だったらしく、止血の初期治療がなければ間違いなく死んでいたらしい。

 あらゆる意味で、彼に感謝しなければいけない。退院して軍務に戻ってから、それとなく彼のことを調べても何もでてこなかった。わかりきっていたことだけど、スパイ関連の情報はどこの国でも最高レベルの機密なのだ。

 ただ、せっかく彼にもらった命だったので、彼を見習って少しだけポジティブに生きてみることにした。


 まずは、男社会の旧態依然とした軍隊の中で生きていける環境を作ろうと、女性の権利向上を目指す政治家を集めて勉強会を開催し、外堀から埋めていった。

 私自身血を吐く思いで努力したけど、これが結果的に功を奏し、異例の速さで出世。

 25歳で外務省条約局に出向し、司法警察権を有する新しい国際機関による紛争の解決を目指し、これを戦争の抑止力とする新秩序に不可欠な基本条約の締結までこぎつけることができた。

 調印式は、欧州共和国の首都ウィーンで開かれるという。調印式の事前準備のために、ひとあし早く政府専用機で欧州に飛んだ。


 ウィーンにあるシェーンブルン宮殿に到着し、欧州側との最終調整や事前準備を黙々とこなした。首藤外務大臣も無事到着し、彼女の好意で調印式前夜の豪華なパーティーに出席させてもらう。

 私はお酒は飲めないので、ノンアルコールのカクテルで欧州政府高官と歓談した後、一息入れようと宮殿2階のテラスから、外庭を眺めた。

 宮殿内の光りに包まれた世界とうってかわって、外は薄い暗闇に沈んでいた。

 ウィーンは彼の母国だ。彼はたぶん生きてこの地を踏んではいないだろうけど、私はあなたの悲願だった戦争をなくす仕組みを、ようやく完成させようとしている。これで恩は返せたかしら、とそんなことを思っていると、首藤大臣が空いた隣の席に静かに腰掛けた。


「今回の立役者の一人は、間違いなくあなたよ。おめでとう」

「ありがとうございます。でも、大臣が応援してくれたのも大きいですよ」

「あなたは言ってもきかないから、若手最有力の小室幹事長とケンカした時は肝が冷えたわ」

「売り言葉に買い言葉です。学生時代にテニスで負けたのを、未だに根に持ってるんですから」

「まあまあ。そういえば、あなたはもう一人の立役者にはお会いしたかしら」

「欧州共和国のアトキンソンでしょう。挨拶させてもらいました」

「彼じゃないわ。一部じゃ影の宰相と呼ばれて滅多に人前に出てこない・・・あの柱の下で微笑んでいる、おしゃれなメガネをかけている彼よ」


 背は白人としてはやや小さめで、細身な方だろう。ひと目で高級と分かるスーツを難なく着こなした姿は、正真正銘のお金持ちのお坊ちゃんという出で立ちだ。

 普段から豪華なネックレスを胸元で光らせている首藤は、彼が身につけているフレームレスのスタイリッシュな眼鏡がお気にめした様子だけど、私としては、彼が柔らかく微笑んでいる表情が気になった。どこかで見たことあるような気がするけど、思い出せない。

 首藤大臣が私と同じ立役者というくらいだから、この件では色々お世話になったのだろう。私は国内をまとめるのに精一杯だったので、欧州内部の調整は、てっきりアトキンソンが全部こなしていたものと勝手に思い込んでいたのだ。

 メガネの彼はあんまり人前に出ないみたいだし、今夜中に挨拶をしようと決めて、会場に戻ることにした。


 欧州共和国のティニー首相が明日開かれる調印式への抱負を語りはじめたので、そろそろパーティーも最後だろう。

 会場の端から中央に集まるために前に進み出ようとして、なんと私はずっこけてしまった。

 何もないところで転ぶ女だと、与党幹事長の小室くんに馬鹿にされても仕方がない。真っ赤になりながら起き上がろうとすると、どこぞの紳士が「大丈夫ですか、お嬢さん」と右手を差し出してくれた。

 恥ずかしかったので、ややうつむき加減になりつつ、ドイツ語で「ありがとう」と言って、差し出された彼の右手に、私は左手で応じた。


 最初は何がなんだかわからずに、一瞬自分がパニックになったのかと思った。

 彼と右手を取った瞬間、まるで電流が走ったように感じたのだ。


 倒れたままでなぜか起き上がろうとしない私に、紳士は右手をあちこち揉まれる。彼の指の長さや大きさ、手のひらの形と温度をひと通りじっくりたしかめると、私は完璧に思い出していた。


 私は、この右手を知っている。


 私は顔をあげると、困った表情を浮かべている彼とバッチリ目があった。

 フレームレスのおしゃれなメガネの奥にある彼の目をじいっと見つめると、間違いなく動揺しているのがわかる。

 あの暗闇の中で、私に問い詰められていたとき、きっと彼はこんな目と表情をしていたに違いない。

 私が自分の正体に気づいてしまったことを、彼も認めたのだろう。

 わざとらしく溜息をつくと、彼は流暢な日本語でこういったのだった。


「とりあえず、ハッピーエンドにはなっただろう?」

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