起 1
梅雨も明けたというのに青空とは程遠い曇天は、さほど暑くなくても下着が身体にへばりつく汗をかく。
パトカーから聞こえる無線を聴きながら、制服姿の警察官と渡辺は団地周辺の地図を広げてタバコを弄りだした。
「渡辺さんタバコはちょっと…」
警察官に注意を受けると渡辺はタバコを箱に戻すと、
「ああ悪い、つい癖で」
渡辺は昔ほどタバコを吸わなくなったが考え事があるとタバコを指で転がしてしまう。
昼過ぎというのに団地横の公園は人もまばらで老人しかおらず、本来話を聞きたい若い親子の姿は見当たらない。
やはり先日の事件が原因なのかも知れない。警戒して家から出て来ないのだろう。
「渡辺さん。遅れました。」
建物から制服姿の警察官とサマースーツの男達が出てきた。
「鈴木、そっちはどうだったか?」
スーツ姿の警官は渡辺の部下で鈴木。鈴木達は団地内の聞き込みに行っていた。
あまり土地勘のない渡辺は、地域に土地勘のある警察官に協力してもらい周辺の聞き込みに出ていた。
「とりあえず情報をまとめるぞ。」
3日前の午前9時頃、集合住宅の一室で誘拐事件が起きた。
母親がゴミ捨ての僅かな時間、朝食を取っていた2歳の女児が忽然と消えた。
女児は食事の為リビングに設置された柵に囲われた食卓におり、自力では柵から出れない様になっていた。
ただ部屋のドアは鍵を掛けておらず、何者かが攫ったと思われる。
誘拐されたのは女児は田村カンナ。田村サチコの実子。母子家庭だ。5ヶ月前に離婚している。原因は元夫の家庭暴力と不倫。
元夫が不倫相手の元に行ってしまった。
離婚後はサチコも大人しく2人で近くの公園で見かけていたらしい。
ただ最近は怒鳴り声も多く聞こえて来るらしく、公園でも見かけなくなったようだ。
状況から身代金目的の誘拐とは考えられず、犯人からの連絡もない為、怨恨の類の犯行として捜査している。
現場は8階建ての3階角部屋で隣は階段になっている。
防犯カメラも各階段とエレベーターホールに有るが、当日は定期点検の為一時的にカメラが作動してなかった。
建物の玄関ホールには管理人室も有ったが、管理人は作業員と打ち合わせの為離れていた。
サチコが部屋を出てから戻るまで15分間の犯行であった。
4人はパトカーに乗りエアコンで涼みながら手帳を取り出し険しい顔を浮かべた。
「鈴木、近隣の住人はどうだった?」
「被害者宅の周りの住人で当日在宅していた方は上の階の斉藤さんの奥さんだけで、隣の西田夫妻は不在でした。他の階の住人も聞いて来ましたが、これといって重要な証言は有りませんでした。渡辺さんはどうでした?」
渡辺は手帳を見ながら、
「いや、特に無いな。管理人はカメラ点検で業者に調子が悪いカメラを案内した後、管理人室で業者の人とカメラチェックをしていたようだが不審者はいなかったようだ。周辺の聞き込みもしたが、事件のせいか人通りが少ない。」
渡辺は携帯電話を取り出し、誰かにかけ始めた。
「……藤田?田村さんは今話が出来そうか?…わかった。今から行く。」
渡辺と鈴木は他の警察官と別れて、被害者宅に足を運んだ
。サチコに話を聞くためだ。
田村サチコはもしかしたら誘拐犯からの連絡があるかもしれないので自宅で女性警察官と実母と一緒にいる。
「田村さんご気分どうですか?少し聞きたい事があるんですけど、良いですか?」
サチコはカンナが食事を取っていたテーブルに突っ伏した頭を上げた。髪はボサボサで、目は赤く充血している。
サチコは生気のない顔で頷いた。
「ありがとうございます。カンナちゃんとよく一緒に出かけた場所とかありますか?」
「カンナ?…カンナはどこですか?カンナは戻って来たんですか?!カンナを返してください!」
サチコは渡辺の腹部に抱きつき懇願し始めた。
「サチコさん落ち着いてください!カンナちゃんを見つける為にアナタのお話が聞きたいんです!」
「お願いします!カンナを返してください!何でもしますから!…もう怒らないから帰って来て…カンナ…」
サチコは渡辺から手を離すと泣き崩れた。
藤田とサチコの母はサチコに寄り添い、サチコを宥めた。
「渡辺さん、サチコさんからは私が話を聞きますので今はそっとしといて貰えますか?まだ話せる状態じゃないようです。すみません。」
藤田は少し落ち込んだ顔で渡辺を見つめた。
渡辺は女性のこういう時の顔に弱かった。
「いや、こっちも悪かった。サチコさん、必ずカンナちゃんは見つけますので待っていて下さい。」
渡辺は顔を引き締め強い口調で言い放った。
「鈴木、また聞き込みに回るぞ。」
「渡辺さんいいんですか?あんなに断言して。もしかしたら娘さんはもう…」
渡辺は鈴木を睨みつけて
「警察が最悪の結果を軽々しく口にするな!最悪の結果を考えながら希望を持って行動しろ!」
「はい!すみません!…でもあまりにも情報がなくて…犯人達は何が目的なんでしょうか?」
「それはこれから足で探す。今回は衝動的誘拐の可能性が高い。必ず何らかの痕跡が残っているはずだ。」
今回の誘拐事件は誘拐犯からの連絡が無かった。
元夫も事件当日アリバイが有り、子供を連れ去る動機も不十分だ。
近親者の可能性も周りとの交友も乏しかったサチコにカンナを連れ去る人物は見当たらなかった。
だとすればサチコ、カンナの行動範囲内でカンナを知る人物の衝動的誘拐が考える。
田村宅の前で外を眺めながら、渡辺はタバコ弄りだした。
「鈴木、斉藤さんはまだいるか?」
「はい、近く引っ越すみたいなので荷造りしてると思います。」
「斉藤さん、お忙しい中すみません。もう一度事件当日のお話を聞かせて貰えますか?」
鈴木は、柔らかい口調で話しかけた。
斉藤は妊娠しているのだろう。パッと見て分かるくらいお腹が膨れている。
「…もう一度ですか?さっきと同じですよ。
朝から下の部屋から泣き声と怒鳴り声が聞こえたと思ったらドアを閉める音が聞こえて、しばらくしたら泣き声が聞こえなくなりました。その後私は買出しに出て、帰って来たら騒がしくなってました。」
「出掛ける時は何か不審なモノは見ませんでしたか?人とか車とか?」
渡辺が鈴木の後ろから顔を覗かせた。
斉藤は顔を顰めながら渡辺を見つめた。
「特にないです。…もういいですか?荷造りしないと。」
斉藤は部屋の奥を見てた。奥の部屋にはダンボールが積み重なっている。
「すみません。もうすぐ引っ越されるんでしたね。どちらに引っ越されるんですか?」
「そこまで言わないといけないんですか?」
「すみません。もしかしたらまたお話を聞かせて貰うかも知れませんので念の為です。」
斉藤は玄関に置いてあったダンボールに腰掛けた。
「ココから車で30分位の所です。少し広いマンションに…」
「新築ですか?」鈴木は微笑見ながら腰を屈ませて斉藤に目線を合わした。鈴木のこういう時のコミュニケーション能力の高さは渡辺を超えている。いや、渡辺がただ単に不器用なだけかもしれない。
「はい。もうすぐ子供も生まれますし、早めに引っ越しておきたくて。」
斉藤はお腹を擦りながら笑を浮かべた。
「それはおめでとうございます。でしたらあまりお時間を取らしては悪いですね。我々はこれで失礼します。お身体には気を付けて下さい。ご協力ありがとうございました。」
鈴木は話を深入りさせず、足早に斉藤宅を後にした。
「渡辺さん、あまりしつこく聞き過ぎるとダメですよ。斉藤さんもだいぶお腹が大きくなっていたので、動くのも辛いんじゃないですかね。」
「すまない。なんか焦っていた。」
エレベーターを待ちながら、渡辺はまたタバコを弄りだした。
エレベーターが1階に着くと、管理人の橋本が玄関ホールを掃除していた。
「丁度良かった。橋本さんお話を聞きたかったですよ。今お時間宜しいですか?」
「はい。大丈夫ですけど、先程もお話しましたよね?」
「いえ、ちょっと確認なんですけど、管理人室を離れたのはどのぐらいですか?」
渡辺が橋本に質問を投げかけると、鈴木は手帳を取り出しメモを取る。
「ほんの5分くらいですよ。映りの悪いカメラが7階にあるのでそこに業者さんを案内した後、管理人室に戻ってカメラの映りを確認してました。田村さんが帰って来るまでは特に変わった事はなかったです。」
「誰も管理人室前を通らなかったんですか?」
橋本は少し間を置いて、
「特に気が付かなかったですね。業者さんと無線機で話しながら監視カメラのモニターを見ていましたので。まぁ普段も朝や夕方は出入りが多いので気にも止めていませんよ。」
渡辺は橋本の話に違和感を感じたが、何処に違和感があるか確証が掴めず次の言葉が詰まってしまった。
Riririn♪Ririririn♪…
渡辺が次の質問が喉から出てきそうになった時、不意に鈴木の携帯電話が鳴り出した。渡辺達の上司の篠崎課長からだったようだ。鈴木は「課長です」と、言うと渡辺達から離れて行き建物の外に出て行った。
渡辺が再度飲み込んでしまった質問を言葉に出そうとすると、
「渡辺さん!大変です!」鈴木が声を張りだし、渡辺の元に戻ってきた。
「どうした?」
「また誘拐事件です!」