人身事故
「二番ホームに電車が参ります。危ないので黄色い線の内側までお下がりください」
最近になってようやく耳に馴染んできた、毎日のように聞いているアナウンスが響きわたる。右側を向くとちょうど住宅街の隙間をかき分けるかのようにカーブを曲がって、線路のまっすぐな部分に電車が差し掛かっているのが見える。ベンチに座っていた人は立ち上がり、涼しい待合室からは人がぞろぞろと出て来て、最初から足元の三角が並んだところにいた人たちは、降りる人たちの為に真ん中を空ける。反対側のホームに白杖をつきながら黄色い線の上を歩いている女性が居る。僕にとっての黄色い線は越してはならないラインで、生と死の境目を分かり易く表してくれている、境界線なのだ。しかし、今まさにその上を歩いている彼女にとっては、そこが一番安全に歩ける場所であり、逆にそこしか彼女には歩くことが出来ないのだ。左手には生の世界、右手には死の世界。その狭間を足元のわずかな凹凸の感触と手中の細い杖を頼りに歩くのだ。そう考えると、このアナウンスはいささか配慮に欠けている。
甲高いブレーキの音を響かせて、空気が噴き出す音を鳴らしながら僕の斜め前で扉が止まる。毎日同じところに停車できるのに感心していると、扉が開き車内の冷たい空気と共に人があふれ出てくる。僕はもはや定位置になっている座席に腰を落ち着けると、バッグから単語帳を取り出すが、開かずに流れ始めた外の景色を眺める。目線を左から右に動かすと、一瞬だけ外の景色がピントの合った写真に見えるが、すぐにフレームアウトして行く。目線を動かさずに外を眺めると建物や木々がいくつもの筋のように伸びた残像を残しながら去っていく。それを何度か繰り返しているとすぐに車内アナウンスが流れて、停車する旨を早口に流し、すぐに流暢過ぎて素人では聞き取れない英語を女性の機械の声で繰り返す。そこでようやく僕は単語帳を開くのだ。電車はみるみる速度を落とし、人々は慣性に従い同じ方向に揺れて、たたらを踏んだり隣の人に寄りかかったりする。完全に停車すると、軽やかなブザーと共に扉が開く。アナウンスは駅の名前を繰り返す。
僕は通学で電車に乗る時は必ず音楽を聞かないようにしている。
「おはよ~」
だっていつもここで乗ってくる君の第一声を聞き逃してしまうかもしれないから。君はいつものように丁度名も知らない会社員が降りて空いた僕の隣の席に座る。別に僕と彼女は付き合っているわけではない。連絡先すら知らない。きっと彼女からしてみれば僕は朝の電車の中での暇な時間をつぶすだけの相手でしかない。高校が同じわけでもない、ただの中学の頃の同級生でしかない。だから付き合っている男女のような他人の介入を許さないような空間が出来るわけでもない。でも僕にとっては朝のこの時間は一日の中で一番輝いていて、一番大切な時間なんだ。今まで生きてこんなに楽しみな時間が出来たことはない。小学校の時の初めての遠足よりもドキドキと不安と期待が混ざって夜に布団に入った僕を襲って時間と思考を奪っていくんだ。こんな時間が訪れることを僕は感付いていたのか、入学式の時に電車で見かけた君に思わず話しかけてしまった。君はそれに満員電車に圧倒されたのかどこか疲れた笑顔で返してくれた。あの時以来、隣に知らない人が座るよりは良いのか僕の隣に座る。そんな、消去法で選ばれただけなのに毎日毎日飽きもせずに律儀に君が隣に来てくれることに喜んでしまっている、どうしようもない僕が居た。どちらかが違う車両に乗れば終わる、薄っぺらい関係だった。
「おはよう」
「今日も電車の中で単語やってたんだ。私たちはまだ一年生なのに、すごいね~」
別に僕はすごくなんかない。第一、外をぼーっと見ているだけで単語帳にろくに目を通してないんだから。君に褒めてもらいたくて虚勢を張っていただけなんだ。そんなの自分が一番わかっているはずなのに、でっち上げただけの誉め言葉だってわかっているはずなのに、僕の心臓は少しの痛みと一緒にドクンと跳ねた。頭に残るのは単語なんかではなく君の一挙一動と唇が紡ぐ音。進むのは猛スピードの電車と、覚えてもいない単語帳のページ。外見よりも内面を見てほしいと思っている僕だけれど、結局は内面にメッキを張り付けて取り繕っている。内面の外見をよく見せているだけだ。君の為にという自分勝手な免罪符のもとに。
電車が揺れると君とわずかに肩が触れ合って、また離れる。その繰り返し。けど、その時に交わした僅かな熱はなかなか離れずに、むしろ僕を蝕んでいく。僕の中のどうしようもない部分を暴走させて、良識の感覚を薬のように甘く麻痺させてしまう。窓の外も周りの人々も電車に乗れば似た光景を味わえるのに、やっぱり君が隣に居るというだけでこの時間は特別になっていた。
僕が現状を甘受していると、電車は急停止しした。その拍子にいつもより強く肩がぶつかる。僕の心臓は一度だけ大きく収縮する。立っていた人は二、三歩歩いてしまう。
「お客様にお知らせいたします。ただいま踏切で人身事故が発生いたしましたので、急停止いたしました。お急ぎの所申し訳ございません。復旧の状況は随時お知らせいたします。」
このアナウンスに近くのサラリーマンは舌打ちをし、幾人もの人は携帯電話を取り出して方々に連絡を入れ始めた。車内は雑然としだし、繰り返しのアナウンスが霞んで聞こえる。
「止まっちゃったね」
「うん。一時間目は確実に出られないなぁ。たぶん一時間近くこのままだよね。はぁ~」
僕はため息なんて吐いているが、その実全く落ち込んでいない。全部嘘だ。むしろこんなに困っている人が居て、社会を回している人たちが遅刻をし、学生は一時間目が出られなくなったというのに、喜んでしまっている僕が居る。そもそも学生は遅延届さえ手に入れてしまえばどうとでもなる。人一人の命がすぐ近くでバラバラに吹き飛ばされて、冷たい線路と車輪に挟まれて踏みつぶされて消え去ったというのに、こんなことを考えてしまっている。死んだ人にはきっと望みが破れて悩んで考えて何度も惟みた結果に飛び込んだのか、まだまだやりたいことが有ったはずなのに不幸な事故で落っこちてしまったのか。さすがに僕もかわいそうには思う。行き場をなくした悲しみがこんな形で解消されたのかと思うと、胸が苦しくなる。
けど、そうして出来た時間はずっと隣に君が居てくれるんだ。
他人の不幸は蜜の味とは言わない。それでもどのみち僕は他人の不幸を材料に幸福を得ているのだ。対価を払わずして偽りだらけの幸福浸っている自分は本当にどうしようもないと思う。
僕のこの考えが法で裁かれることは決してない。本当に思想の自由は有難い法律だった。けど、やっぱりこんな他人が死ぬことを願っているだなんて、人間の道徳に背いていることもよくわかっている。それでも僕は人間の根底にある感情を大事にした。少女漫画などでは美しく描かれ、人として生きている以上大切な感情の方を。結局僕にはわからないんだ。正義感に満ちた人として尊ぶべき道か、それとも人が好きだというどうしようもないほどに狂おしい感情か。
けど、この世界から数億円の損害が出た一時間は僕にとっては最高の一時間だったんだ。だって、クラスどころか学校も駅も違うし、家だって近いわけじゃない。そんな君と一時間も一緒にいられるんだ。
これが僕のちっぽけで、どうしようもなく大切で、果てしないほどに救いがくて、生き甲斐といえるほどの願いだった。
そんな願いを持ちながら電車に毎日のように乗り、君と話をしていた。ただぬるま湯に浸り続けていたんだ。人身事故で電車が止まることは何度かあったけど、自分たちが乗っていた電車が轢いてしまって一時間も止まることはさすがに一、二回しかなかった。やがて、寒さが肌を刺す季節になった。今日も白杖をつきながら歩いている人をホームで見かけが、思いっきり黄色い線よりも線路に近いところに立ち、彼女の唯一の道を塞ぎながらでかい声で談笑している高校生たちに、白杖をぶつけてしまった。頻りに頭を下げる。それに対して高校生は頭を下げて、自分がいた先頭を譲っていた。そんなやり取りを僕はここではないどこか遠くの幻想をを見据えるような掴みどころのない感覚で眺めていた。
傍からそれを眺めていると、冷たい空気を震わせながらホームに電車が入ってきた。電車には僕のような見かけだけでなく必死に勉強をしている人たちが増えてきた。僕はいつものように見飽きた景色をしばらく視界に流した後に、単語帳をカバンから取り出す。もちろん、音楽は聞いていない。ドアが揺れてガタガタいう音、対向車線の電車とすれ違い車体に空気が押し付けられる音、ディーゼルエンジンの重低音を聞いていた。やがてドアが開くと足を冷たい空気が触れて、撫でて、包み込んできた。左に座っているいつものスーツの男性が立ち上がり、寒さに身を縮めながら電車を降りていく。僕は単語帳に適当に目を走らせながらいつもの、どこか間延びしていて気が抜ける、それでいて暖かで優しい「おはよ~」の声を待つ。
しかし、その声の代わりに車掌の低い声がアナウンスで響き渡った。いつもの駅名を告げる時よりも焦った感じに早口で捲し立てているその間に僕の隣の席は自然と埋まってしまう。本当は「すみませんが、その席から立ちあがってくれますか?」と言いたかったが、相手の仕事に疲れたようなやつれ顔を見てそんなことは言えなくなってしまった。
「お客様にお知らせいたします。ただいま当駅で人身事故が発生いたしました。復旧に全力を注ぎますが、全線の開通は一時間はかかるものと思われます。お急ぎの所申し訳ありません」
今日も車掌は悪くもないのに頭を下げる。開いたドアの向こうからは「ジャッキ持って来い!」という声が響いてきた。車内はいつものように騒がしくなったが、僕は内心でもろ手を挙げる。
ほら、久々に折角人身事故が起きて電車が止まったんだ。一時間も時間が出来たんだ。君が僕の隣に居てくれる時間が増えたのに、なんで君は乗ってこないの? いつものように声を聞かせてよ。ねぇ、時間が無くなっちゃうよ。
僕がドアの方をみると丁度、青くあり続ける事に疲れたのか枯葉が一枚電車の床に力なく舞いながら落ちてきた。そして乾ききったそれはいとも簡単に輻輳する人々に、踏まれて、バラバラに、砕け散った。