「迷い園」
奥様がいらっしゃらない!
今朝、身支度を終えた奥様をお部屋まで呼びに行った花弥さんが慌てた様子で私たちのいた部屋へ飛び込んできたのです!
一緒にいた愛乃さんも、普段の沈着冷静さが吹き飛んだ様に目を見開き花弥さんに駆け寄る。
「奥様が!?一体なぜです!?身支度後、時間があるので待機室にいらっしゃったはずですよね?」
そう、本日はこの天守家のご子息様方が奥方を迎えられて初の大きな集まりである、『御目見えの宴』当日なのだから。
朝から屋敷中が大騒ぎで、私達奥様付きの女中も駆り出されて、奥様は大体の事はご自分でできる方だから、そば付きはなしでいてもらったのだ。
そもそも、この敷地内で危険な事はもとより在りはしないし、外部との接触がないこの区域にいて何が起きるのか?
だけど起きてしまった。
一体なぜ?
「御花摘み、ではないのですか?」
「確認しましたが、いらっしゃらないんです・・・!」
明らかな焦りより、泣き出しそうな花弥さんを前に、愛乃さんも考え込んでいる。
こんな時は、旦那様に1番に報告したいところ。
しかし、あの方は信用できるのか?
数日前の夕刻に出かけられて夜遅くにお戻りになった旦那様。
奥様にも会うこともなく。
その外出前に“とある噂”について尋ねた愛乃さんを振り切っていかれたという。
一体、どうなっているのか?
幾ら奥様の正真正銘、夫君ではあったとしてもこれはどうするべきか?
考え込んでいた私の耳に猫の声が聞こえた気がした。
***
えーっと、この状況は何?
目の前には・・・紗奈、さん“達”?
「南月さん?分かってます?」
何言ってんだっけ?この子。
いやまあ、「ちょっといいですか?」って、声かけられたからって、勝手に出てきた私も何なんだけど・・・。
彼女の後ろの男の人達は?
考えている私に再び紗奈さんが口を開く。
「貴方はこの後の『御目見えの宴』には出ないでほしいの。」
いやいやいや、出ない訳にはいかないでしょう?流石に。
「それは無理でしょう。嫁いだ以上は、義務だそうですし。」
だから、恥をさらさない様にと色々な手習いもこなしてきたのだ。
その期間や努力を考えても、流石に出ないのは「ないわぁー」と思った。
そんな私の返事が気に入らなかったのか、1度鼻を鳴らしたあと引きつったような笑みを顔に張り付けつつ口を開く。
「あら、意外と強欲なのね?貴方、別に嫁ぎたくもなかったそうだけど?未練でも?」
未練や強欲はわからないけど、もう嫁いでるし。
「この『御目見えの宴』で嫁認定されない場合は離縁もあるって知ってます?勿論、その後の補償なんかもあるみたいですよ?」
ん?そんな話は聞いていないけど、この子は本当に何を言っているの?
「あら知らないの?まあ、一般の出の貴方じゃ知らないのかしら。」
そんな事はないだろう、流石に。
そこまで考えて、「アレ?」と思う。
いくら、手習いを頑張ったとか、もうあきらめてしまったとか、何らかの経緯があったにせよ何でこんなに“粘って”いるんだろう?
分かれることが出来るなら、もう手習いもしきたりも関係なく、今までの生活に戻れるのに。
当初、望んでいたはずの事なのに・・・。
何で?
「ねえ、聞いてます?」
彼女の声は聞こえるが、考えが追い付かない。
「・・・旦那様はどうなります?」
そんな事を気付けば口にしていた。
「ああ、大丈夫ですよ?噂、ご存知でしょ?その為じゃないですか?」
旦那様と紗奈さんが親しくなっていたのは、あらかじめ離縁させる準備。
“しきたり”に則った。
脳裏に浮かんだ文章がゆっくり刻まれていく。
何だろう?
この、今までにない嫌な感じ。
可笑しいと思った。
でも、次の瞬間にはぽそっと「そうですか」とつぶやいていた。
呟いて、歩き出していた。
何処へというでもなく。
ただ、何かただならぬ喪失感を抱えて。
後ろで「あら物分かりがいいわねえ」という声が聞こえた気がしたけれど、構う気にもならなかった。
***
「南月がいなくなった!?」
蒼耶のこんな大きな声を出しているところを私が見たのはいつぶりだろうか?
・・・いや、ないな。
コイツは子供の頃から腹が立つほど落ち着き払っている気がする。
兄である私の事もいさめるような、いや、いさめていたか。
それなのに今はその妻がいないという事であわてている。
人間じゃないとまで思うほど沈着冷静で、コイツが当主でいいんじゃないかと思ったほどの次男坊がだ。
いや、今は蒼耶の妻・南月さんの事だ。
責任についても重きを置き、真面目な彼女がこの日にいなくなるというのは考えられない。
一体、何が?
そもそも彼女が最後にいたとされたのは身内のみが入る事の出来る区域である。
外部のものが入ることが出来ない。
構造上、外部からは、だ。
嫁入りして日の浅い彼女が迷ったというなら、分からないが・・・。
その事は重々承知であったと女中たちも言っているのだから、そんな事があるのだろうか?
そんな事を考えている私の横で袖を引っ張るのは妻・瑞季。
何だとそちらを向くと視線である方向を示している事に気が付く。
周りに悟られないようにそっと視線を動かすと、そこには一見心配をしている風を装う1人の女性。
三座たる弟の妻である紗奈の姿があった。
おおっと、演技するにももうちょっとないのかね?
目を見れば何とやらというが、酷いものだね?
嬉々として、何がそんなに楽しいのか。
これは、今回の婚姻には鬼がいたようだ。
視線を妻に戻すと、シレッとした様子の瑞季が袖の中に手を入れた。
・・・やはり、私1人でどうにかした方がよかったかもしれないと思ったが、まあ。
第一嫁問題のとりまとめに関しては、男衆の長が当主であるのと同じかそれ以上の意味合いでその妻の役割なのだし。
そう、しきたりであるという事で。
その血筋に生まれたという事で。
その代に他にいないという事で意見も聞かれる事なく嫁いで来なくてはいけなくなった彼女達の気持ちは同じ嫁がよく知っている。
そのすべてに目を配る事。
その思いに重きを置く事。
しかし、それが損なわれる事態が起きた時、この家は優しくはない。
この家には重い“しきたり”があるのだから。
***
猫の鳴き声がする。
誰も、もう誰もいない私を呼んでいるような声がする。
孤独には慣れている筈だった。
努力が報われないことになれている筈だった。
それでも諦めて次に進んでいたつもりだった。
だけど、いま、どうしたらいいのか分からない。
今まで通りだったのに、どうして諦めると思えないのだろう?
もう、疲れたのかも・・・。
私の中には何も、誰もいない。
埋もれていくだけの人生だ。
諦めてしまおう。
本当に・・・。




