第1話
空は闇に染まって静寂を守っているのに、地上はサイレンの音が鳴り響き人の声が交差し赤と白のライトがまばゆいくらいに輝いていて、その天と地の差に眩暈を覚えそうになる。泣きはらした目がうまく開かず、擦りむいた膝は血が滲み、夏の夜でも冷ややかさが容赦なく肌を刺す。私は目の前の混沌とした光景を、まるで映画のスクリーンを眺めるかのように視聴していた。
先程まで家の中にいた筈だ。辺りを見回しても見知っている人はいない。ただ立ち尽くしてライトの眩さに苦戦していると、目の前を白い担架が通り過ぎた。乗っている人の顔は隠されて分からない。だが僅かに垣間見えた、履いているスリッパには見覚えがある。パタパタとせわしなく音を響かせ、まるでリズムをとっているかのような心地よさを感じさせたスリッパ。思わず担架の後をついて行こうとふらりと動き出した時、突然肩を掴まれそれを拒まれる。
茫然とその影を見上げるも、その顔は知らないものだった。だがこちらを見て小さく笑った顔から、私に言葉が投げかけられた。
「薫ちゃん。こっちにおいで。」
人の声がざわついた喧騒の中、その声だけがはっきりと耳に届いた。
「丸山、福原。いい加減どっちか引き受けてくれ。」
生徒会担当の桂田が貫録ある重い息を吐き出すも、薫はそれをもろともせず沈黙を貫いた。向かいに座る夏樹が口を開く。
「先生、だから私は副会長ならやるって言ったんです。薫が会長になれば私は喜んでサポートしますよ。」
「私は会長はやる気はありません。夏樹の方が適任かと。」
「なんでよ。絶対薫の方がいいじゃん。」
夏樹は頬を膨らませて薫を見るも、薫はワザとらしく目を反らした。その様子を見て桂田が呆れたように腕を組む。
「全く。毎年生徒会長になりたい奴が多くて大変なのに、なりたくないから揉めるなんてお前らが初めてだ。なんでそんなに嫌なんだ?」
すると薫が真っ先に口を開いた。
「今は時間がないんですよ。色々とやりたいこともありますし、何より高校は部活を中心にしようと決めてるんです。副会長ならともかく、生徒会長になればそれに大幅に時間が取られる。」
「そうですよ。だいたい生徒会長のやることが多すぎるんです。これじゃあ過剰労働です。」
「そうならないように生徒会で協力するんだろうが。それはこっちで何とかするから。」
それでも納得していない2人を見て、桂田は頭を垂れた。
「大体なあ、金山高の生徒会長になったら有名大学の推薦だってもらえるかもしれないんだぞ?皆がこぞって欲しがる席なんだ。それをお前らは無下にしようとしてるんだぞ?」
「別に推薦なんかいりません。」
「そうです。入学資格くらい、実力で取れます。」
桂田は何も言い返す言葉もない。この2人はそれができるくらいに優秀なのだ。
夏樹が投げ捨てるように言った。
「大体、そんなにやりたい人が他にいるなら別の人にすればいいじゃないですか。私達じゃなくてもいいでしょう。」
すると桂田は首を振って口開いた。
「金山高の生徒会長は自主制じゃなくて推薦だって知ってるだろ?前もって行った事前投票で挙げられた名前がほとんどお前らだったんだよ。他の子はあって一票か二票だ。」
「じゃあその多い方が生徒会長でいいじゃないですか。どっちが多かったんです?」
「途中から数えるのが面倒になって数えてない。」
「えー!なんでですか!」
「ほとんどお前らの名前しかなかったんだから数えても仕方ないだろう。あくまで事前投票。俺ら教師が選定する物差しでしかないからな。で、お前らのどちらかにしようって決まったのに・・・。まさかここでこんなに渋られるなんて予想外だったぞ。」
「じゃあもう一回2人だけの投票をしたらいいじゃないですか。」
薫がそう言うと、桂木は勢いよく顔を上げた。
「何?それは考えてたがそれでいいのか?それでもし決まったら自動的に決定になるぞ。」
「ちょ、ちょっと薫・・・。」
渋る夏樹を制するように、薫はたたみかけた。
「こうなってしまった以上どちらかが就任するのは確実でしょう。生徒が選んだことなら私達も文句は言いません。決まったとなれば責任を持って役職を全うしますよ。中途半端に投げ出したりしませんとも。ね、夏樹?」
「・・・・・・仕方ないか。」
話し合いをしても埒が明かないと判断したのか、夏樹もついに折れた。それを聞いて桂木はほっとした表情を見せる。
「よし、じゃあさっそく会議で日にちを決めないとな。いいか、これで本当に決めるからな。後でやっぱり嫌とか言うなよ?」
「そんな往生際の悪い事しません。」
「うん、カッコ悪いし。」
その後桂木に宣誓書を書かされそうになり、2人はうまく口で誤魔化して生徒指導室を出た。
その日は部活もなかったので、2人は近くのファミレスに寄っていた。とはいえ2人共甘いものは食べないのでもっぱらドリンクバーで時間を費やす。
「でもなんでそんなに生徒会長やりたがらないかなあ。やったらいいのに。」
「そっくりそのままその言葉を返すわ。」
アイスコーヒーにミルクを入れながら薫は言った。夏樹は苦笑いを返すしかない。
「本当はなんでやりたくないの?時間がないってただの口実でしょ?」
「・・・あまり表に出たくないの。晴れ晴れしい舞台の上、観客達の前で高らかに演説する支配者の陰で暗躍する黒幕的存在でいたいの。そんなこと先生に話したら何言われるか分かったもんじゃない。」
「なんか薫らしいね。闇に生きる女的な。」
そう言ってオレンジジュース美味しそうにを飲む夏樹を細い目で見つめる。
「あなたはどうなの?絶対私とは違う理由でしょ?黒幕なんてガラじゃないもんね。」
「まあね。目立つのは嫌いじゃないし。人前に立つのも平気だしね。演劇なら主役やりたいタイプね。」
「だったら・・・。」
「生徒会長やれって?まあ理屈で言えばそうなんだけどさあ。」
オレンジジュースを飲み終えた夏樹は、あらかじめ取っておいたカルピスに手を伸ばす。自分は甘党ではないと言い張る夏樹だが、選んでいる飲み物からして十分甘党だと薫は常々思っている。
「私はさ、自分の興味あること以外は別にやりたいと思わないのよ。中学の時だって生徒会なんて入る気なかったし、学級委員にもなるつもりなかったの。でもさ、他の人がやってるの見るともどかしくなるのよね。もっとこうしたらいいのにとか、私だったらもっと上手くできるとか考えちゃうの。一から自分の考えを教えるのって手間でしょ?だったら自分がやった方が早いって思って引き受けちゃったの。人をまとめるのは向いてたし苦ではなかったから楽しかったけどね。今までは私以上にできる人がいなかっただけ。でも今は違うわ。薫がいるもの。」
グラスに入っている氷をストローで回している薫は、起伏のない返事をした。
「私?」
「そう。薫だったら生徒会長になっても私は納得できるって思ったから。適任がいるのに興味のない事やっても仕方ないでしょ?今まで初めてよ、この人なら大丈夫って思えたの。だから私はやらないって言ったの。」
「夏樹、あなた私を過大評価しすぎじゃない?」
「私は滅多に人を褒めないの。そこら辺のやつらの軽い言葉と一緒にしないで。」
「・・・ふーん。」
「あとは投票次第だけどね。どっちが選ばれても恨みっこなしだからね。」
「分かってるよ。」
薫はストローを抜き取り、アイスコーヒーの氷だけを口に含んで噛み砕いた。
「ねえ、薫。今週の土曜日も保育園行く?暇だから遊びに行っていい?」
「いいけど・・・。部活は?」
水泳部のエースである夏樹は休みもびっしり部活が入っていた筈だ。
「プールの水道の工事で休みなの。家にいてもやることないし。久しぶりに子供と戯れたいなーって。」
毎週土曜日。薫はとある保育園のボランティアに行っている。土曜日でも仕事で忙しかったりする人は結構多く、休暇を取りたい保育士達の代わりとして出向いているのだ。夏樹もごくまれに遊びに来ている。
「園長さんに連絡しておく。言っとくけど最近ハードだよ?」
「分かってますよ。子供好きだから苦にならないし平気。」
そう言ってられるのも今の内だと、薫はコーヒーを口に含みながら心の中で囁いた。
児童施設『あさがお』は、住宅地という喧騒から少し外れた平地に建っていた。薫たちの住んでいる所から電車で10分くらいの所だろうか。駅を降りて50mほどでその鮮やかな藍色の屋根が見えてくる。薫と夏樹は動きやすいジャージにエプロンを身に着け、やって来た子供たちを出迎えていた。
「薫お姉ちゃん、おはようございます!」
「はい、おはよう。靴脱いで入ってね。」
「夏樹お姉ちゃんだー!わーい久しぶりー!」
「わっ!いきなり飛びついたら危ないでしょ!」
「お姉ちゃん早く遊ぼうよー。ねえ。」
「ちょっと待ってね。今他の子のお出迎えをしなきゃ・・・。ほら引っ張らない!」
「ほら皆、お姉ちゃん達今忙しいから後でね。」
他の先生たちが入ってくれたので、てんやわんやだったお出迎えはどうにか落ち着いてきた。パーカーの腕をまくり顔を上げた時、園の門をくぐる親子が目に入った。手を繋いでこちらに向かってくる女の子と目が合うや否や、その子は薫めがけて走ってくる。
「薫姉ちゃん!おはよう!」
「知佳ちゃん、おはよう。お母さんおはようございます。」
「おはようございます。じゃあ知佳、良い子にしてるのよ?じゃあよろしくお願いします。」
大人しそうなお母さんが薫にぺこりと頭を下げ、知佳に手を振るときびすを返して歩いて行った。時計を見ると丁度児童がくる時間は終わっていた。
「お姉ちゃん、またピアノ弾いてよー。」
知佳が薫の手を引いてせがむが、薫は知佳の頭を撫でて言った。
「今日はお絵かきの時間があるからその後ね。ほら席に着こうか。」
「・・・はーい。」
頬を膨らませ不機嫌な表情を作るが、大人しく席に着いた知佳を見届けると、薫は両腕を引かれて困っている夏樹の下へ駆け寄る。
「ほら皆お絵かきの時間だよ。夏樹お姉ちゃんとは午後から遊ぼうねー。」
「えーやだー。今遊んでー。」
「夏樹姉ちゃんは私と遊ぶのー。」
「僕らと鬼ごっこするんだよー。」
「ごめんねー、後で皆で遊ぼうね。」
「ほら皆ー。お絵かき始めるよー。」
まるで木によじ登ったカブトムシを慎重にはがしていくように、夏樹から離れない子供たちを薫と先生とではがしにかかる。ようやく皆が席に着いた時、2人は休憩に入った。職員室に設けられた席で夏樹は力なく体を椅子に預けた。
「ほ、本当にハードだった・・・。」
「だから言ったでしょ。」
「ごめんねー。皆若い子が来て喜んでるのよ。丸山さんも人気あるしね。」
保母さんの一人がお茶を出してくれる。薫と夏樹は礼を言って美味しそうに飲んだ。
「福原さんも来てくれて助かるわ。孤児院の子は特に遊ぶ子が限られてくるから嬉しいのね、きっと。」
『あさがお』は子供を預かる託児所と、身寄りのない子供を引き取る孤児院が併設している。普通の保育園の施設の隣に子供が暮らす建物があるのだ。つまりここにいる子供たちは2つの場合に分けることができる。
「でもやっぱり子供はかわいいですね。私子供大好きなんですよ。」
「あらそうなの。それは嬉しいわ。こうやってボランティアに来てくれるだけで子供たちも喜ぶのよ。丸山さんは毎週来てくれてるからバイトととして雇おうか?って言ってるんだけど。」
「良いんです。お金目的でやってるわけじゃないんで。」
そうやってしばらく談笑していると、なにやら外が騒がしくなった。お絵かきの時間が終わり自由時間になったのだ。すると職員室のドアを小さく誰かがノックして入ってくる。
「薫おねーちゃんいますかー?」
振り向くと知佳が丸い目で辺りをきょろきょろ探している。伯母さんが近寄って声をかけた。
「知佳ちゃん。ごめんね、今薫お姉ちゃんはね・・・。」
「いえ、良いですよ。ピアノ弾いてあげる約束だったよね。」
それを聞いて知佳は目を輝かせて大きく頷いた。
「あら、いいの?まだ休憩中なのに。」
「大丈夫ですよ。じゃあ知佳ちゃん行こうか。今日は何を弾いてほしい?」
「んーとね・・・。『メリーさんの羊』!」
手を繋いで教室に向かう2人を眺めながら、夏樹はお茶を一口飲んだ。手を引いて走り出す知佳に戸惑っている薫は見ていて新鮮だ。
「薫って本当に好かれてるんですね。」
「えぇ。特にあの子、知佳ちゃんは丸山さんのこと気に入っててね。丸山さんにいつもべったりなのよ。」
保母さんはにこりと笑い、夏樹も興味深そうにほほ笑む。そして教室からピアノの音が聞こえ始めると、夏樹も腕を回し立ち上がった。