第2話
その場で軽くジャンプし顎を引くと、呼吸をゆっくりと整える。
目標を見据え、それを飛び越えている自分のイメージを作ると、若菜は腕を構え走り出した。
足を上げ腕を一杯に振り、フォームを崩さぬよう意識を集中させる。
目標に到達するまでに大事なのは、そこまでのプロセスがいかに出来上がっているかだ。いい走りをしないとそれを飛び越えることはできない。
飛ぶべきバーが、目前にまで近づく。
若菜はタイミングよく左足で地を蹴り、背中を反らした。
突如グラウンドの土の色が消え、視界を空の青い色が一面に満たした。
この時。バーを背に、足が地面から離れているときは、あたしは鳥になる。
重力に逆らい、空中を自在に動き回る。スズメでもカラスでもアホウドリでもハゲタカでもいい。ダチョウやキーウィは駄目。飛べたらなんでもいい。ニワトリも駄目。
この時間だけは誰にも邪魔はできない。この瞬間が好きで、若菜は走り高跳びを続けている。
高いバーほど空に身を任せた時の高揚感が大きい。それを感じていたくて、若菜はさらなる高みを目指す。今や欠かせないエースの立場を獲得していた。
目の前に広がる青空。手を伸ばせば雲のしっとりとした柔らかい感触を感じられるのではと錯覚させられる。
だが掴むことはおろか、手を伸ばそうとした瞬間、全身をごわごわしたマットが乱暴に受け止める。大きく若菜の体は沈み、マットはそれに反発しようとしなかった。一気に現実に引き戻され、真っ先に感じるのは空虚感だ。だがそれが若菜を襲うのは一瞬で、すぐに体を起こす。
バーは少しもたゆむことなく、元の位置を留めていた。
マットから降りると、すぐに理沙がやって来てタオルを差し出す。
「相変わらずやるわね」
無言でタオルを受け取り、若菜は額の汗を拭った。
「なるべく早く片付けろって先生が言ってたよ」
それを聞いて若菜は苦い顔を見せた。
本来今日はテスト期間で部活はないのだが、大会が近いことを口実にして許可をもらったのだ。本当は単に体を動かしたかっただけなのだけれど。
「まだ物足りないんだけど」
「私からしたら充分だと思うけど。かれこれ一時間ぶっ通しで飛んどいて」
「え、そんなに?」
校舎にある大きな時計台を見る。時刻は5時半を過ぎていた。生徒は既に帰った後らしく、校舎から人の気配が感じられない。
「さ、帰ろう。私も手伝うからさ」
そう言って理沙はバーに手をかける。800Mの選手である理沙は片づけをする手間がないのだ。しばらくその場に突っ立ていた若菜も理沙に手を貸そうと歩み寄る。
「そういえば、今日だよね。裁判」
「裁判?何の?」
「忘れたの?あんなに騒ぎになったのに。4組の山口さんの」
「あぁ、そういえば」
愛美のクラスメートだ。確か友達だと言っていた。
「さっき職員室に行ったらさ、先生達が小さな携帯のテレビで見てたの。どっかのチャンネルで生放送してるんだって。そろそろ判決がでるらしいよ」
用具をたたみ、マットの上に投げ入れると、二人は息を揃えてマットを引き始める。少女2人だけの力でも、古く小汚いマットは容易く動いた。砂をする音が妙に耳にこびりつく。
「気になるよね。どうだろう」
「そんなの目に見えてるでしょ」
さらりとそう言った若菜を、理沙は横目で見つめる。
「まあ、別にいいんだけどね。職員室寄ってから帰れって言ってたよ」
「また口うるさいハリセンか…」
陸上部の顧問、梁山先生。略してハリセン。
良い先生なのだが話が長い。気さくな先生なのだが少ししつこい。大変惜しい先生だ。
せっかく運動して気分良かったのに、これでは台無しだ。若菜は絶対にハリセンに目をつけられていると確信している。
あからさまに大きなため息を吐く若菜に、理沙は意地が悪い笑いを浮かべた。
自己紹介、始めます。
工藤若菜。愛美と同じ高校に通い、陸上部に所属している。
体を動かすことを何よりの喜びとしている。だが、走るのだけは嫌いだ。
走るといっても、バスケットボールやサッカーは好きだ。ボールを追いかけてゴールするというなんとも言えない充実感、達成感が堪らない。
だがマラソンやランニングは駄目だ。飽き性なので変化がないとすぐにやる気がなくなるのだ。
そのせいで陸上部にいながらも基礎練習の際のランニングが苦痛だ。走りのフォームが大事なのは分かるが量をこなせばいいという訳ではないと思う。理沙のような800Mの選手ならまだしも、あたしのような高跳びの選手にはもっとやるべきことが……。
……スポーツに関しては白熱しすぎて話が脱線するのでここら辺でやめておこう。
愛美の言葉を借りるなら、あたしも普通の高校生ではない。
ここで説明してもいいのだが、どうもあたしは話が長くなりすぎてまた白熱しかねないのでやめておく。
まあかっこいい言い方をするなら、『二つの顔を持つ者』といったところだろうか。
あ、これだけは忠告しておこう。
あたし達の『もう一つの顔』と対面するようなことをしないように。
後悔するよ、きっと。






