第8話
その日の業務を終えて最後に生徒会室に出た時、空は濃い夕焼け色に染まっていた。もうしばらくすれば深い夜がやって来るだろう。薫は重い息を吐いて階段を下りる。生徒会室の前の階段を下りればすぐに下駄箱が見えるのだが、いつもの見慣れた風景の中に、背中を小さくして座り込んでいる影を見つける。薫に背を向けているそれは、なんともいえない焦燥感と空虚感を漂わせていた。それを見て薫は目を疑うが、自分の確信が間違いないと分かると思わず駆けだしていた。後ろから走ってくる音が聞こえたのか、りんはゆっくりと振り向く。
「あ、お疲れ。もう終わったの?」
小さく息を切らした薫は呼吸を整えて言った。
「まさかずっといたの?2時間近くも。」
「あ、もうそんなに経ってたんだ。」
他人事のようにそう言うりんに、薫はいまだ驚いた様子を隠せない。元気なく笑ったりんは立ち上がってスカートのほこりをはたく。
「なんかさ・・・、薫の顔が見たくなって。1人で帰る気がしなくてさ。」
さらに驚いたのか、今度は少し口を開けてりんを見た。りんはそんな薫を見て思わず吹き出す。薫は下駄箱から靴を取り出しながら切なげな表情を浮かべるも、うっすら微笑を浮かべてりんに向き直る。
「じゃあ一緒に帰ろうか。」
2人は歩き出し校舎を出る。りんより少し高い薫は、歩き方が綺麗でそれだけで絵になる。黒く艶やかな髪が夕日の光と乱反射して輝きを放っているように見えた。校門を右に曲がった直後、りんが口を開く。
「いつから知ってたの?私の秘密。」
「ん?」
それだけでりんが何を聞いているか悟ったようだ。歩を止めずにそう返した薫は、顎に手を当てしばらく考えてから言った。
「さあ、いつからかなんて忘れちゃったよ。なんとなくそうかなあって思ってたんだけど、あんたがグレ始めた時確信したかな。」
「愛美達は・・・。」
「さあ?気付いてるかは知らない。そういう話したことないから。話題に出すことじゃないしね。」
「薫はさ・・・、何とも思わないの?」
「どういうこと?」
りんが突然立ち止まったので、薫は不思議そうに振り返った。りんは俯いてこちらを見ていない。
「だってさ、気持ち悪いでしょ?自分でも分かってるの、おかしいって。友達としてしか思ってなかった人から好意を持たれるなんて。それも、自分の常識ではありえない相手から。」
伊藤に告白された時、りんは初めて友達からそういう目で見られていたことへの不快感を知った。それと同時に友達を失った衝撃を感じ、改めて自分が異質な存在なのだと痛感させられた。
自分の気持ちは純粋だとしても、相手からしたら不純な異物でしかない。初めてそれに気付いた時、りんはそれを受けいれることができず智也たちと付き合うようになった。薫はきっとそんなりんの葛藤に気付いていたのだろう。その証拠に学校に行くことに対しては口うるさかったが、悪友から手を切れとは一言も言わなかった。
薫は細い目でりんを見つめる。りんの肩が小さく震えているのが分かった。
「私は別に善人じゃないし、全ての人の嗜好や考えを快く受け入れることはできない。目の前に同じような人が現れて告白でもされたら、嫌悪感を抱かないとは言い切れないかもしれない。」
りんは泣きそうな顔を上げ、こちらを真っ直ぐ見る薫の顔を見る。普段表情が乏しい薫の顔に、うっすらと笑みが浮かんでいた。
「でも、りんだからいいかなって軽く思えるんだよ。それも全部含めて私達の大好きなりんなんだもん。気持ち悪いなんて思ったことないよ。そう思ってたらこうして一緒にいるはずないでしょ?」
その言葉に、りんはハッとしたように背筋を伸ばした。その様子を見て薫は息を吐く。そして再び前を向いた時、薫の視界に自動販売機が映った。
「ちょっと待ってて。」
りんをその場に残し、薫は自動販売機まで駆けて行き、ディスプレイを真剣に見つめボタンを押した。そして買ったものを手にして戻ってくる。
「はい、おごり。」
差し出されたラベルを見て、りんは驚いて茫然とそれを受け取った。
アイスココア。幼い頃の約束の味。
それをしばらく眺めていたりんは、やがて合点がいったように微笑んだ。
あぁそうだ、薫は。
甘いものを飲まない上、猫舌で冬でもアイスを買う為ホットを選ぶという選択肢がないから、りん達の為に選ぼうとしたら必ずこれになるのだ。幼い頃からりん達の事を考えて、悩んで選んでいた様子が思い浮かぶ。
薫はいつもりんを見ていた。苦しい時も荒れてた時も、何も言わずに見守ってくれていたのだ。そしてこうして落ち込んでいる時、すぐさま手を差し出してくれていた。りんの全てを承知の上で。それが当たり前すぎて、ずっと気付かなかった。りんは1人ではなかった。いつも後ろには薫だけではなく愛美も若菜もいたというのに。
1人にならないために、あの時約束したというのに。すっかり忘れてしまっていた。
りんはアイスココアを両手で握りしめ、奥歯を噛みしめたままそれを額に当てた。缶から伝わる心地いい冷たさ。あの夏の日と同じだった。薫はその様子を穏やかな瞳で眺める。
「さ。帰ろう。」
薫が手を差し出す。りんは左手にアイスココア、右手で薫の手を握り、連れられて歩き出した。
「ねえ、薫。黙って聞いてくれる?私ね・・・。」
薫が前を歩くので、互いに顔が見えない。薫が頷いたかどうか定かではないが、りんは構わず喋りだす。
「私ね、咲子なら受け入れてくれるかもしれないと思ったことあったんだよ?何も追求しないで『ありがとう』って言ってくれるんじゃないかって。友達の関係を壊さないでいられるかもしれないって夢見てたことあったの。馬鹿でしょう?でもね、できなかった。私は友達でいられればそれで良かったし、告白して避けられるのが一番嫌だったから。でも、本当はね、心のどこかでひどく拒絶される様子が簡単に想像出来ちゃったから、怖くてできなかった。そしてそれはやっぱり予想通りだったって今日思ったよ。咲子はきっと私を受け入れることができなかったと思う。でも不思議だね。薫にならカミングアウトしても全然怖くなかったの。なんでかな?」
「当然よ。何年一緒にいると思ってるの。」
その声は投げやりで、だけど優しくて。薫らしい言葉だった。それがきっかけとなり、りんの涙腺が激しく緩んでしまう。
りんは顔を再び俯かせ、声を出さずに泣いた。握っている手から震えが伝わるので薫も気付いていただろう。だが薫は振り向かず、何も言わずに手を引いて歩いた。
冬が近付き風が冷たい夕方。握っている薫の手が暖かくて、左手から伝わるココアの冷たさなど全く気にならない。
2人の友達を失い悲しみの渦を巻いていた心は、いつの間にか穏やかな波が流れていた。そして新たに生まれた切なる想いの風が吹いたことを、りんは確かに感じていた。
私にとってアイスココアは、4人での約束の味。
そして生涯の恋の味。
「なんで分かっててて付いて行ったの?」
「なんか面白そうだったから。」
とぼけるりんを横目で見ながら、薫は渋い顔をした。が、すぐに穏やかな表情を作る。
「良かった。てっきり落ち込んでるかと思ったよ。」
「私がそんなことで落ち込むわけないでしょ。」
「嘘だー。昔は失恋して泣いてたくせに。」
「昔のことなんて覚えてませんー。」
忘れられるはずがない。だがそれは悲しい思い出ではなく、楽しくて笑い合った日々だ。そう思えるきっけを与えてくれたのは、かけがえのない大切な人。
「咲子もきっと悩んだと思うよ。少なくとも、私はそう信じたい。久々に会った私を選んだってことは、私に助けてほしかったんだと思うから。」
すがすがしい笑顔だった。再会した時にはもう咲子は過去の人でしかなかったのだから、なんの悔いもない。これから更生してくれることを切に願うだけだ。
「さっき電話したらね、愛美と若菜、駅前のカフェにいるんだって。合流しようよ。私お腹空いた。」
「・・・相変わらずね。心配して損した。」
「えー、何その言い方。ひどくない?」
「はいはい、ごめんなさい。私も喉渇いたし行こうか。」
「あ、またそうやって話を逸らす。」
そう言って2人は笑いあった。そして仲良く並んで歩き出す。
りんは隣を歩く薫の顔を盗み見る。端正な顔立ち。艶のある髪。筋の通った目元。
そのどれもが輝いて見えて、りんはまた嬉しそうに笑った。
「ねえ愛美。昔りんが言い出したこと覚えてる?」
「・・・覚えてるよ。結構衝撃的だったからね。」
駅前のカフェのテラス席で、愛美と若菜は向かい合って座っていた。2人の目の前には見た目美しいパンケーキが置かれている。パンケーキにナイフを入れ、その味を堪能しながら若菜が言った。
「あの時さ、ほんとびっくりしたけど内心納得してたんだよね。私達って皆仲良いけど、りんは薫に特別な何かを持ってるってなんとなく感じてたから。」
「りんには薫みたいな気にかけてくれる人が必要なんだよ。私達も互いに気にするけど、薫みたいにずっと見守ることはできない。私達も実際薫に助けられてる所があるしね。りんはああ見えて一人で溜め込んで悩みがちだから余計だよ。全てを理解して助けてくれる薫が神様みたいに思えるんだろうね。」
『愛美、若菜。話があるの。』
例の一件があったその日の夜。仕事の帰り道、薫がいないときにりんは言った。
2人は立ち止まったりんの方を振り向き、続きの言葉を待つ。
『ねえ、約束を覚えてる?』
『約束?』
『小さい頃にあの木の下で交わした約束。』
『あぁ、覚えてるよ。忘れるわけないじゃない。』
『それがどうしたの?』
『その事についてお願いがあるの。』
『何よ、改まって。どうしたの?』
『私の我儘、どうしても聞いてほしくて。どうしても、お願いしたくて。』
『りん?なにそんな真剣な顔で言ってんの?お願いって何?』
『もし、その約束を果たす時が来たらね・・・。』
『うん。』
『何?』
『薫と死ぬ権利を、私に譲ってほしいの。』
「あれはすぐに反応できなかったなあ。あんな真剣で必死なりん、あれ一度だけじゃないかな。あそこでああいう風に返答できるなんて、さすが愛美だと思ったよ。」
「そう?それは褒め言葉として受け取っておくわ。」
そう言って愛美は紅茶を一口飲んだ。若菜が大きく切ったパンケーキを頬張った時、遠くから聞き慣れた高い声がした。
「愛美ー、若菜ー!」
見ると、道路を挟んだ先の歩道で、りんが大きく手を振っている。その隣で薫がアウターのポケットに手を突っ込んで立っていた。それを見て愛美と若菜は顔を見合わせて笑い出す。
「ま、りんがああやって笑ってるうちは大丈夫ね。とりあえず今は。」
「このパンケーキが取られないように、早めに平らげないとね。」
りん達が信号を渡り終えた時を見計らい、愛美と若菜はナイフとフォークを動かすスピードを速めた。それを見てりんはあんぐりと口を開け、慌てて駆けだす。
「ちょっと!何急いで食べてるのよ!私にも頂戴!」
「食べたかったら自分で頼んだら―?」
口に生クリームをつけながら愛美が叫んだのを聞き、りんは頬を膨らませながら全速力で走った。その様子を後ろから歩いて見る薫は呆れたように首を傾ける。
明日また裏切られることがあるかもしれない。心が砕けることもあるかもしれない。
それでもきっと私はまた笑うことができる。皆が傍にいる限り、あの思い出がある限り。
今から食べるパンケーキがびっくりする度美味しかったら、それで満足だと思えるのだ。