第5話
「・・・冗談やめてよ。笑えないんだけど。」
無理に顔を笑わせようとしたせいか、頬がつって慣れない痛みが走る。すると伊藤は目を向いて驚いた表情を見せた。
「嘘じゃ・・・!」
「あんた咲子と付き合ってるじゃない。心変わりしたってこと?それともからかってるの?どっちにしても自分が何言ってるか分かってるの?」
自分でも驚くほど冷静で冷たい言い方だった。
「・・・・っ心変わりなんかじゃない。」
「じゃあ何。」
りんから見えるくらいに拳を強く握りしめ歯を食いしばっているのが見て取れた。りんは平然を務めようとするが、あまり上手くいっていないことは自分でも痛いくらいに分かってしまう。
「僕は・・・、本当はずっと伊吹が好きだったんだ。一年の頃からずっと・・・!」
「・・・・・・え?」
思わず返答に、突っぱねた口調が途端に緩んでしまう。
今、なんて?
「一目惚れだったんだ。でもお前その当時は怖くて近寄りがたい雰囲気だったし、話しかけることもできなくて・・・。」
「ちょっと待って。」
「お前が生徒会に入って来て話せるようになって本当にうれしかったんだ!話も合うし一緒にいる時間も増えてますます好きになって。」
「ちょっと待ってよ・・・。」
「伊吹、他の男子とはそんなに話さないし僕とは態度が違うだろ!?だから余計期待して・・・。」
「伊藤!」
叫んだりんに反応して、勢いづいていた伊藤の口がぴたりと止まる。だが怒りに似た震えは止まらず、いまだに拳を握りしめて震わせている。
「じゃあなんで・・・。なんで咲子と・・・。」
か細い声で呟くと、伊藤はさらに気まずそうに顔を反らし言った。
「あの日、お前言っただろ?『好きな人はいる』って。でもそれは叶わないって。」
「それは言ったけど・・・、だから何?」
すると伊藤はキッと目を尖らせてりんを見た。
「好きな人があんな風に好きな奴の話をしたら諦めるしかないだろう!?お前無自覚だっただろ。あの時叶わないって言ったくせにすごい幸せそうな顔してたんだ。そんなに好きなんだなと思ったらどうしようもないじゃないか!だから、お前の事忘れようとした時に咲子に告白されて・・・。」
「じゃあ何?あんたは咲子の事・・・。」
「あぁそうだよ。別に好きじゃなかったさ!付き合ってるうちにお前の事は忘れて咲子を好きになれると思ったんだよ!でも・・・駄目だった。あいつと会ってても、いつも頭をよぎるのは伊吹の事ばっかりで・・・。どうしても諦めきれなかったんだよ!」
りんは文字通り絶句した。思いのたけを吐きだしている伊藤の言葉はどれも信じたくないものだった。
『伊藤君って、好きな人いるの?』
照れて頬を赤らめながら聞いてきた咲子の顔が浮かぶ。
「伊藤、私は・・・。」
「分かってる。好きな奴いるんだろ?でも叶わないのなら僕にしておけよ!そんな奴さっさと忘れてさ。」
そう言ってゆっくり迫ってくる伊藤を、りんは茫然と見つめていた。
私を諦めきれなかった男が、私に忘れろと迫ってきている。それがりんの中で大きな矛盾を生じて混乱を招いている。
もはやりんには伊藤の顔など見えていなかった。伊藤の先にあるのは、伊藤の隣を歩いて幸せそうに笑っている咲子の顔。りんに立ち直るきっかけをくれた太陽のような笑顔。
だがその顔が途端に陰に侵され黒く染まって行くのが見え、りんは目を見開いた。
「駄目だよ、伊藤。私はだって・・・。」
言いかけていた言葉に気付いて思わず押し留める。自分の気持ちは誰にも知られてはいけない。
りんは首を振って大きく息を吸い込むと、やがて伊藤を真っ直ぐに見つめて言った。
「このことは聞かなかったことにする。私は何も知らない。あんたも何も言ってない。」
当然のように伊藤は驚愕の表情を見せた。反論しようと口を開こうとしたが、それより先に踵を返しその場から勢いよく駆けだす。
「伊吹!待てよ、おい!」
りんは止まらなかった。渾身の走りで風を切り、伊藤の声が聞こえなくなるまで足を止めなかった。
叫びたくなる衝動と泣きたくなる絶望感を奥歯を噛みしめて耐え、代わりに荒い息が口から洩れる。
伊藤は追いかけてこなかったが、切なさと傷ついた悲しみを募らせた視線が痛いくらいに背中に刺さる。
心が今にも欠けてしまいそうな恐怖に苛まれながら、りんは必死に耐えた。耐えることしか、今はできなかった。
だが欠けるどころか粉々に砕けてしまうことになるのは、その次の日の事だった。
「あー、楽しかった。りんとこうして遊ぶのってほんと久しぶりね。」
クリームソーダのアイスをすくって美味しそうに食べながら咲子が言った。白のシフォンワンピースに色取り取りの花柄があしらっており、穏やかな雰囲気をもつ咲子によく合っている。背が低いのを気にしていつも履いていた高めのヒールが、いつの間にかペタンコ靴になっていた。
「高校が違うとあまり会う機会もないしね。はい、これ咲子の。」
そう言ってりんは先程撮ったプリクラを切り分けたものを渡す。色鮮やかな落書きと種類豊富なスタンプが二人の笑顔を彩っていた。咲子は顔を輝かせてそれを眺める。目を細め眠そうにあくびをすると、咲子は恥ずかしそうに顔を赤くした。
「ごめんね。ちょっと寝不足でさ。」
少し落ち着かない仕草を見せるも、りんは穏やかに笑って見せた。
「りんって金山高だよね。すごいね、進学校じゃん。」
「私は落ちこぼれの方だよ。勉強も薫に見てもらってるし。ついて行くのがほんと大変で。」
「そう、丸山さんにね・・・。」
あからさまに落ちたトーンに触れることもせず、りんは抹茶ラテを一口飲んだ。黒い蝶があしらわれたタトゥータイツにデニムのショートパンツ。淡いオレンジのポンチョとこげ茶のムートンブーツが冬を演出していた。りんはソーダにストローを刺してせわしなく動かしている咲子を見て目を細めた。
少し、顔が丸くなっただろうか。面長だった顔が少しむくんで見える。にもかかわらず顔色が優れないように思えて違和感を感じる。咲子は再び小さくあくびをしてから口を開いた。
「最近どう?彼氏とかできた?」
唐突な質問にも関わらず、りんは落ち着いて答える。
「えー、何人か付き合ったけどどれも長続きしなくてさあ。ほら、私我儘だから愛想つかされちゃうの。付き合ってられないって。」
けらけら笑いながらそう言うと、咲子もつられて笑い出す。その笑い方は昔と変わっていなかった。
「相変わらずポジティブねえ。楽観的っていうか、なんというか・・・。」
「それってほめてるの?けなしてるの?」
「けなしてなんかないよー。だたそういう所なんか羨ましくって。私って何かに夢中になると他の事が目に入らなくなるから。どっぷり嵌っちゃって抜け出せなくなるのよねえ。」
「私みたいに軽く考えてる方が問題だと思うけど。」
2人の間に大きな笑いが起こる。だが今度は咲子の表情がすぐに元に戻り、腕の中の時計を見つめ始めた。そして店の時計を見てせわしなく足を揺らし始めたのを、りんは見逃さなかった。
「咲子、なんか用事でもあるの?それなら今日はもう・・・。」
「え?いや違うの。あのね、りん・・・。」
水滴が付くのを構わず、咲子はソーダのグラスを手で包んだ。足の揺れは止まらない。
「実はね、私付き合ってる人がいるの。」
「へえ、そうなんだ。どんな人?」
「友達に紹介してもらってね、優しい人よ。でね・・・、りんに紹介したくて。」
「え?」
思わず誘いにりんは気の抜けた声を出した。咲子は手をもじもじさせ顔を俯かせながら言った。
「中学の時さ、いろいろあったでしょ?仲直りしたけど最後まで気まずくて・・・。だからちゃんと仲直りし直したいなあ・・・って。私にとって、りんは大事な友達だから。迷惑かな、こんなの。」
「咲子・・・。」
しばらくりんは茫然として黙っていたが、やがてにっこりと笑って言った。
「ありがとう、咲子。じゃあ会ってみようかな。」
咲子は勢いよく顔を上げ、緊張の糸が切れたようにほっと息をついた。
「良かった。断られるかと思っちゃった。じゃあさっそく行こうよ。彼、近くのアパートで一人暮らししてるの。今日は家にいるはずだから。」
咲子はそう言って立ち上がり、りんも慌てて席を立つ。りんの前を歩いて会計に向かう咲子の口は、歯を出して鋭く口角を上げていた。
喫茶店を出て10分足らず歩き、人通りが少ない路地に差し掛かった所にそのアパートはあった。決して古いアパートでないが、公道の裏手にあるせいかひっそりと佇んでいるように感じる。アパートに近付くにつれて咲子の足が速くなるのを、りんは隣を歩いていて感じていた。
「ねえ、彼氏って同い年?かっこいい?」
「あぁ、うん。かっこいいよ。」
返答があいまいになっている咲子を細い目で見つめながらも、りんは歩を止めなかった。鞄からそっとコンパクトを取り出しショートパンツのポケットに忍ばせる。
「ここの5階よ。」
慣れた手つきでエレベーターのボタンを押し、口を閉ざしたまま階のボタンをぼんやりと見つめる咲子はどこか上の空だ。先ほどの饒舌な様子はどこも見受けられない。
あっという間に5階に着き、エレベーターを降りるとすぐに歩き出す咲子について行く。そしてとある部屋の前でぴたりと止まった。札がかけられていない部屋は人がいる気配を見せない。りんは口を開こうとした時、咲子はインターホンを押さずにドアノブに手をかけた。立てつけが悪いのかギギッと音を立てる。
「りん、どうぞ。」
ドアを持ったまま部屋に促す咲子に急かされるまま、りんはおずおずと遠慮気味に中に入る。
「・・・お邪魔しまーす。」
そう言った直後、感じた部屋の異様さに思わず顔を渋くさせた。
靴が、あった。それも一つではない。大きさも種類も違う靴が5,6足ある。中には女物もあった。そして部屋には複数の人間の気配を感じる。のわりに恐ろしく静かで誰もりんが入ってきたことに反応を示していない。
がちゃ。
咲子が背中で鍵を閉める音がした。振り向くと咲子はにっこりと笑った。
「どうしたの?入って入って。」
「・・・・・・うん。」
ムートンブーツを脱ぎ、家に上がる。咲子はそれを待っていたかのように素早く靴を脱ぎ捨てると、りんの横を滑らかにすり抜け、真っ直ぐ奥の部屋に入ってしまった。
「あ、咲子・・・。」
「なんだ、りんじゃねえか。」
伸ばした手が止まる。空中で止まったままの手をそのままに、りんは開かれた左の襖から現れた男を捉える。
「・・・・・・智也?」
襖に手を当てたままニヤニヤを笑っている智也の顔は、悪い色に染まっていた。智也が出てきた部屋の奥に、女の子が力なく倒れているのが隙間から見え、それを見られまいと襖が乱暴に閉められる。
「咲子の友達ってお前だったのか。タイプ違うから意外だったな。こっちとしては都合がいいけど。」
「・・・もしかして咲子の彼氏ってあんた?」
すると智也の顔がさらに歪み、大きな口で笑い声を上げた。
「彼氏?あぁ、あいつからしたらそうかもなあ。俺はそんな気さらさらないけどな。ちょっと優しくして誘ったら簡単に乗って来ただけだよ。」
右の襖が開く音がした。2人の男が智也と同じ笑みを浮かべてりんを見ている。
「お前も咲子の仲間になればいいさ。ほら、あいつの様子見て来いよ。」
「・・・・・・。」
無言で智也を睨みつけるも、りんはゆっくりと咲子が消えた部屋へと歩を進める。後ろから迫るように智也たちがついてきてるのが分かった。開きっぱなしのドアの向こうへ一歩踏み出す。そしてりんは大きく目を見開いて息を飲んだ。
「・・・・・・っ!!」
靴の人数を超えた女の子達がいた。そして皆、ビニール袋を口に当て血走った目で吸い込んでいる。壁に寄りかかっている子もいれば、床に倒れてて涎を垂らしている子もいる。りん達が現れたのを見て、一人の女の子が体を引きづって智也の足元で頭を下げる。すると智也は小さく舌打ちをし異物を見るような目で女の子を見ると、ポケットから何かを取り出し乱暴に放り投げた。それをその子は鬼気迫る勢いでそれに飛びつく。
白い、粉。
「・・・いいバイトってこれ?まさかあんたがドラッグの売人になるなんて思わなかった。」
冷ややかにそう言うと、智也はりんの腕を掴む。
「さすが話が早いな。・・・別にいいだろ?いい金になるんだよ、これが。お前もじきにああなる。咲子に裏切られたせいでな。」
りんは智也の腕を振り払うことをせず、女の子に交じって薬物に浸ってこちらを全く見ない咲子を、悲しくも憐みの目で見つめた。
そこには太陽のように笑っていたかつての姿はない。