第3話
2週間ぶりに教室に入ると、クラスの会話が一瞬止み、視線が一気に向けられているのが痛いくらいに伝わってきた。だがりんはそれに耐え、窓際の一番後ろの席に素早く腰を下ろし外を眺めた。足をかけ肩肘を突く様子はいかにもグレた生徒だと言わんばかりの仕草だ。ひそひそと自分を横目で見て何かを言っているが、聞こえないふりをしてやり過ごす。何を言われても仕方がない。中学生にしては派手な化粧に短いスカート。校則違反のパーマがかかった髪に派手なピアス。どれも話題のネタになるものばかりで自分でも笑ってしまう。
今日は先生に呼び出しを食らっていたから仕方なく来ただけで、それが済めばさっさと帰るつもりだった。また薫たちに叱られるが、そんなもの何ともない。自分の為に叱ってくれていることは重々承知だ。
でも、それでも譲れないものがある。どうしようもなく荒れたい気分なのだ。自分でもどうしようもできない悩み。薫たちに相談しても解決しない悩み。事実を受け入れないといけないと分かっていても待っているのはつらい現実しかないのだと思い知らされる。何もかも捨てたい。なんでこんな自分で生まれてきたのかと己の運命を恨みたくなる。きっとそれを伝えた所で薫たちには理解できるはずもない。途方もないまま疲れ果て、今は全てを放棄して何にも考えたくなかった。馬鹿な不良たちと遊び回り、考えることも忘れるくらい無茶苦茶になりたいのだ。
居心地の悪さにも慣れ、りんはようやく机に対して体を真っ直ぐ向ける。そして何気なく前を向いたその時だった。
「はい、りんちゃん。これ休んでたときのプリント。」
予期していたなかった目の前のプリントに、りんは思わず目を見張る。そして次に驚いたのがその声だった。業務的な冷たいものではなく、優しい温もりある声が耳に心地よく響く。
「あ、ありがとう。」
気付けば素直にプリントの束を受け取っていた。そして目をにしたまま恐る恐る前を見る。プリントを渡し終えたのにも関わらず、優しい笑みを向けて立っている女子がいた。りんは茫然としていると、その女子はいきなり両頬を引っ張ったのだ。
「!?」
文字通り訳が分からない”はてな”の表情をしているりんを見て、その子はさらに崩れた笑顔を見せた。表情からしていじめの一環でしている訳ではないことは安易に見て取れる。
「やっぱり。りんちゃそうやってとぼけてる時の顔の方が断然可愛いよ。C組の工藤さんと丸山さんといるときはすごい楽しそうに笑ってるのに。そんな怖い顔してたらもったいないよ。」
そう言ってりんの顔を引っ張ったまま、その子は面白そうにまた笑う。りんは怒るタイミングを失い、ただ困惑するしかなかった。張り詰めていた糸が緩み、先ほどの淀んだ感情がどこかへ消し飛んでいく。
そしてやっと手を放したと思ったら今度はりんの顔を両手で押さえ、為すがままになっているりんを嬉しそうに眺め始める。
これが松尾咲子との出会いだった。
「それは駄目。絶対浮気してる。断言してもいい。」
りんが由子にびしっと人差し指を向けると、由子は深いため息をついて頭を垂れた。
「やっぱり?なんか怪しいと思ってたけどそう思う?」
放課後に金山高の制服に身を包んだ女子たちは、近くの喫茶店でお茶会を開いていた。
「でも分かんないよ。もしかしたらサプライズでなんかしようとしてるんじゃないの?それでコソコソしてるとか。」
七海がそう言うと、りんは手を大きく振ってその意見を却下した。
「由子の誕生日はまだ先だし、記念日も全然違う日なんでしょ?携帯にロックかけてるだけならまだしも、名前間違えるって決定的じゃん。」
「そうだよね・・・。せめて携帯の中身さえ見れたらなあ。」
それを聞いてりんはにやりと笑い、自分の携帯を取り出す。
「彼氏さんの携帯ってスマホ?」
「そうだけど。なに、なんか秘策でもあるの?」
「ふふん。友達に教わったんだけどねえ。」
りんは携帯の画面の制服の裾で綺麗にふき取ると、己の息をハーと吹きかけた。表面はわずかに水分を帯びるが、気にするほどでもない。湿気の多い日はよくなる現象だ。
「これで画面を触るとね・・・。」
適当に画面に触れ、それを由子に手渡す。光に照らすように見ると、はっきりとりんの指紋がはっきり残っていた。
「あ!これ・・・。」
「大体の場所覚えておいたら4つの番号は分かるでしょ?あとは24パターンの番号を地道に探せばいいってわけ。4桁の番号全部試すより断然楽でしょ?あ、間違いすぎてロックかからないようにね。適当に何か言いつけて番号だけ分かれば、目を盗んで試せるでしょ。」
「すっごーい!なるほどね。こんなこと思いつかなかったわあ。」
「その友達かなりやるわね。こんな小技知ってるくらいだからそれなりに場数踏んでるんでしょ?あたしもいろんなこと教えてほしい~!」
「色々テクニック仕入れとくよ。」
親指をびしっと立て得意気に言うと、りんに高い声がかかる。
「いいこと教えてもらったから今日は私がデザートおごるよ。」
「本当?ラッキー。じゃあ私は・・・。」
メニューを取ろうと窓際の方を向いた時だった。すぐに一組の男女が目に入る。人がそんなに多くないのでそれが誰であるか判別するのは容易い事だった。それが意外な人物なので驚いてしまう。
男の方は知らない人だった。だがその隣を歩く、肩にかかるくらいのショートの髪の女の子は間違いなく愛美だった。並んで神妙な顔をしながら話し込んでいる。思わず目を見張っていたが、それが以前話していた速秋だと結論づけた。デートにしては固すぎる図書館へ入っていったからだ。2人の姿が見えなくなるまで、りんは肩肘を突きながら見ていた。
並んで歩く後姿が、一瞬だけ昔のそれと重なった。丁度愛美と速秋と同じくらいの身長差で、ポニーテールの髪が動くたびに揺れているのを、いつも細い目で見ていたのを思い出す。その隣にいるのは、薫の誘いで生徒会に入った時に知り合った男だった。
薫たちや咲子のお蔭もあって、りんはどうにか立ち直ることができた。依然心に残る蟠りは消えないが、しっかり向き合えるようになった。人手が足りないからと薫に頼まれて書記として生徒会に入り、次第に学校の人との壁が薄くなってきた頃、その男の声は唐突にかけられた。
「伊吹さんってバスケ上手いよね。」
最初そう声をかけてきた伊藤正樹は、驚くりんに不器用に笑って見せた。小さく肩を落として自身なさげに、だが安定感を保つ声はとてもキラキラ輝いて聞こえた。
生徒会とバスケ部の掛け持ちをしていて、その頃から助っ人で女子バスケの試合に参加していたこともあり話が合った。気さくでおっちょこちょいで学力は少し残念だったが、自分の気持ちに素直で真っ直ぐな男だった。まだりんの過去を陰で囁く者もいる中、伊藤は何もなかったかのように分け隔てなく接してくれたのが本当に嬉しく、伊藤と話すのが楽しみになっていた。教室では咲子と盛り上がり生徒会では薫と伊藤達と共に活動を続け、りんは学校生活に馴染んでいき悪友ともそれなりの距離を置けるようになった。
だがそれからしばらくして咲子から受けた報告は、どうしようもなく胸を締め付けられたものだ。咲子が伊藤を好きだというのは知っていた。りんが伊藤と親しくなってからよく相談を持ちかけられていたからだ。
「ねえ、りん。協力してほしいの。伊藤君って好きな人いるか知ってる?」
薫たち以外で初めて気を許せる友達だ。真面目に真摯にそれに答えたが、自分自身の感情に気付いたことをどうしても言うことができなかった。咲子の相談に乗り、伊藤から何げなく色恋の話を聞き出すのは辛いものがあった。あんなに楽しかった伊藤との会話に怯え、遠慮がちに話すようになってしまったことにどうしようもない切なさが募った。
そして中3の夏の日。その苦痛の日々は終わりを迎える。
2人が付き合い始めて傷ついたが、どうこうするつもりもなかった。並んで笑いあう2人は本当にお似合いで、入り込む隙もなければ視界にさえ入っていなかった。だからいい。このまま友達としていられたらいいと、このまま幸せになってもらいたいと本心で思っていたが…。
「りん、早く決めてよ。いらないの?」
由子の声で、りんは目が覚めたように顔を窓から逸らした。
「ごめん、ちょっと考え事。」
「何?好きな人の事?」
七海が肘でついてくるのをりんは軽く制しながらメニューを見る。
「ないしょー。私このパンケーキセット。アイスクリームトッピングで!」
明るい声でそう言うと、先ほど考えていたことも忘れてしまっていた。
「寂しいんだよ、きっと」
「寂しい?」
薫がそう言ったのを、愛美が首を傾げて復唱した。もう飲みきったココアの缶をいじりながら薫は続ける。
「死んだ後ってどうなるか誰も分からないでしょ?たった1人で未知の世界に行くのが怖いんだよ。1人で何があるか分からない。頼れる人もいない。それって怖いでしょ?」
それを聞いてりんが自身の腕を抱え込み、大きく頷いた。少し想像しただけでもそれはとてつもなく孤独で悲しい。
「確かに。こうやって皆といれば楽しいけど、1人でいるのってつまらないし退屈で寂しいよね。」
「そうだね。嫌なことがあっても皆といれば忘れられるし、厳しい訓練があっても皆と一緒だから頑張れるもんね。」
若菜が考え深そうに息を吐いた。
「そう考えると・・・、確かに死ぬのって怖いね。皆と離れたくないもん。ずっと一緒にいたいよ。」
うずくまり顔をうずめるりんに、薫は頭にそっと手を添えた。そして優しく告げる。
「だからさ、死んでも寂しくないように約束しようよ。」
「・・・約束?」
りんが小さく呟くと、薫は大きく頷く。
「私達を繋ぐ、大きな約束。これから先、私達が離れないように、死を恐れないように。」
蝉の音が、うるさく木霊する。肌を伝う汗がじっとりと髪を濡らし、薫の声が生涯鼓膜を震わせ続ける。
「約束よ。これでずっと私達は一緒。」
4人で重ねた手は、今思い返すと小さくて未熟で。
でも4人は確かに満面の笑みで笑い合っていたのを、今でも覚えている。
私達が死への恐怖を失った瞬間だった。