第2話
飲み物を手に抱えて席に着くや否や、りんは愛美にサンドイッチをせがんだ。呆れたように愛美はバスケットを開ける。
「わーい。いただきまーす!」
迷うことなくタマゴサンドを手に取り一口齧る。
「皆のお昼なんだから沢山食べないでね。」
「分かってるって~。」
受け取ったコーヒーを一口飲みながら薫が小さく笑った。
いくつかのブースで別れて同時進行で行われている競技の数々は、粛々淡々と行われていた。走り幅跳びをしている横のトラックで800m走がスタートし、一斉に選手が走り出す。その中に速秋の姿を見つけ、愛美はじっと見つめていたが、前を走っていた集団から離れていくのを見て思わず目を細める。トラックの中心ではハンマー投げと高跳びが行われていた。丁度男子が飛び終わり、若菜がマットの近くでストレッチをしているのが目に映る。地面に座り込み足首を回したと思ったら立ち上がり、足の屈伸を始めた。若菜たちに向かってホイッスルが鳴る。
「あ、いよいよだね。」
薫の一声で愛美とりんは勢いよく会場の方に目を向けた。りんはチーズサンドを手にしたまま叫ぶ。
「若菜ー!頑張れー!!」
若菜たちは順番通りに並びその場でストレッチを再開しながらその時を待っていた。最初の選手が手を上げ駆けだす。だがその光景は目に入らず、3人は若菜の出番をじっと待っていた。そしてその時がくる。予兆もなく立ち上がった若菜に3人はかじりつく勢いで目を見張る。だがりんだけはサンドイッチを咀嚼するのをやめなかった。それ以外の音は3人の間には流れていない。
ホイッスルが高らかに鳴り、若菜は右手を真っ直ぐ上げその場で構える。大きく息を吸い込んだのがりん達の席からでも分かった。右足を踏み出し若菜は前を見据える。そして息を一瞬止め一気に駆けだした。
全てが一瞬だった。丸く円を軌道を描きながら走りだしたかと思うと、バーを直前にして体を一気に逸らした。若菜の体が高く飛ぶ。それはバーを悠々と超え、3人は若菜が長い間空中に留まってるような錯覚に陥る。もはやバーが落ちる心配などしていなかった。他の選手など目に入らないくらい、若菜は特別なのだと痛感させられる。陸上に関して知識などない3人から見てもそれは感じるものだった。
マットの上で若菜の体がバウンドする音さえも聞こえたように、3人はハッとしてバーを見つめる。微塵も揺れることなくその場に留まっているのを確認した直後、観客から一瞬の歓声が上がった。どうやら若菜に魅了されていたのはりん達だけじゃないらしい。
茫然とマットから降りる若菜を見つめていると、若菜は3人に向けてVサインを見せた。
その後も若菜は順調に記録を伸ばし、自己記録更新だけでなく大会の最高記録を叩き出した。りん達のもとにやって来た若菜は満面の笑みで息を切らしている。
「なんで走ってくるの。あんなに飛んだばっかりで疲れるのに。」
薫から麦茶を受け取り、若菜は一気に飲み干すと、大きく息を吐いた。
「平気よ。あたしはもう午前中で終わりだし。それよりお腹空いちゃって。」
「だよねー。私もお腹空いた。はやく食べようよ。」
「はいはい。」
愛美がバスケットを皆の前で開ける。若菜が小さく声を上げ、すぐさま手を合わせた。
「いただきます!」
何種類もあるサンドイッチを4人は堪能する。若菜は相当お腹が空いていたのか、瞬く間に手にしているサンドイッチが口の中に消えていく。
「にしてもすごかったね若菜。他の選手とは別格って感じだったよ。」
「え?本当?飛んでる方は分からないんだよね。もう必死でさ。」
「うん。なんか風に乗ってるって感じ。体が浮き上がってるように軽やかに見えたもん。」
「それは確かに。まるで志那都比古神みたい。」
「何それ?またなんかの神様?」
BLTサンドを食べかけていた手を止め、愛美は口を開く。
「風の神様だよ。神名の「シナ」は「息が長い」という意味で、昔は風は神の息だと考えられてたの。風は作物を育てるのに大事だけど台風とかの暴風は人に被害が出るから、暴風を鎮めるために風の神が祀られるようになったってわけ。風を操り自身もまるで風のように自由に空を仰いだって言われてるわ。さっきの若菜みたいにね。」
それを聞いていた若菜が顔を歪める。
「大げさな・・・。神様に例えられると仰々しくてなんか恐れ多いよ。」
「それほどすごかったってこと。飛ぶ姿も綺麗だったし。」
「あー、ムービー取ればよかった!」
「りんやめて、なんか恥ずかしいから。」
高い声で4人は笑いあう。りんがもう一つタマゴサンドに手を伸ばそうとした時だった。
「りん?」
後ろから遠慮がちにかけられた声に、りんの手がびくっと宙に留まる。気付けば後ろに誰かが立っている気配を感じ、りんは勢いよく振り向いた。笑い声は失せ、他の3人は何気なく声の持ち主の顔を見上げた。
「・・・・・・咲子。」
ペットボトルを幾つか抱え、とある高校の体操服に身を包んだ女子が、りんを驚いた顔で見ていた。りんも目を見開いて固まってしまっている。だが咲子と呼ばれたその子はすぐに笑顔を作った。その仕草が素早く自然で、日頃からやり慣れている様子だった。
「やっぱりりんだ。その声ですぐ分かったよ。久しぶり。」
「・・・本当久しぶりね。誰かの応援?」
「ううん。陸上部のマネージャーなの。今も飲み物の調達。」
りんの知り合いなので愛美達は口を挟む事をしなかった。暗黙の了解で邪魔をしないように努める。
「そうなんだ。元気そうでよかった。」
「うん。りんも今どうし・・・。」
瞬間、咲子の口調が鈍る。一瞬だけりんから外した視界の先に、薫がコーヒーに口をつけながら細い目を向けていた。その瞳からは好意を受け取れず、かといってひどい嫌悪も見当たらないが、妙な圧迫感を感じさせるものだった。りんに気を取られていて薫の存在に気付かなかったのだろう。途端に表情を硬くしそわそわと落ち着かない動きを見せた。
「あ、そろそろ行かなきゃ。また近いうちにメールするね。」
「あ、うん。じゃあね。」
りんが手を振ったのを少しだけ見届けると、咲子はあわただしく駆けて行った。どこか逃げるようにも見て取れた。すぐに愛美が口を開く。
「あれって中学の同級生だよね?えーっと、名前は・・・。」
「松尾咲子。中3の時りんと同じクラスだった。」
「そうそう松尾さん。え、でもりんと友達だったんだ。なんか意外。」
「意外ってどういうことよ、愛美。」
りんは愛美の手から食べかけのサンドイッチを抜き取り、一口で頬張る。
「あ!なんで取るのよ!まだ残ってるでしょ!」
「愛美が意地悪なこと言うからよ。」
ぎゃいぎゃいと口喧嘩が勃発する中、若菜は苦笑いで見守っていたが、薫はりんを神妙な顔で見つめていた。
若菜は大会の打ち上げに出る為再び部活のメンバーと合流し、午後の競技に若菜は出ないので、3人は帰りのタクシーに乗りこんだ。しばらく走っているとりんの携帯が音を立てて震える。何気なく宛名を確認すると、『松尾咲子』と表示されていた。
「松尾さんから?」
画面を虚ろな目で見つめるりんに、薫は言った。りんは小さく笑うが、表情はどこか固い。
「うん。また遊ぼうって。」
「そう・・・。」
心配そうな顔を向ける薫に、りんは勢いよく背中を叩く。
「大丈夫よ。咲子とは友達だし。もうなんにもないんだから。」
だがそれは紛れもなく自分に言い聞かせているのだと、りんは重々承知していた。
マンションに着き、それぞれ部屋に戻っていったが、しばらくして薫の携帯に愛美から部屋に行くと連絡が入った。返信する間もなくチャイムが鳴り響き、薫は愛美を招き入れる。
「なんか気になっちゃってさ。あんな複雑な顔したりん初めて見るから。」
出された麦茶を一口飲むと、愛美は長い息を吐いた。タクシーでは空気を読んで何も言わなかったが、やはり愛美の目から見てもおかしく感じていたのだ。
「やっぱり松尾さんが原因なの?」
「まあ、昔いろいろあったのよ。確かりんがまともになった頃にできた友達だったかな。」
「あー、そういえばりんって中学入学してから荒れてたよね。私達には変わらなかったけど。なんでだったっけ?」
「さあね。」
明らかに何か知っている口ぶりだったが、薫はこれ以上何も言わないので愛美は追及しなかった。
「で、松尾さんとなにがあったの?」
「ちょっとした喧嘩。・・・ていうかあれは喧嘩って言うより八つ当たりされただけなんだけどね。詳しい内容はプライベートの事だから私の口からは言えない。後で仲直りしたって聞いたけど、あの様子じゃりんは引きずってるのかもね。」
「珍しい。あのりんが。」
「見かけによらず繊細な所あるからね。ところで愛美。」
コーヒーを片手に薫は座り込む。
「あの人どはどうなってるの?」
「誰の事?」
「田池君・・・だっけ?今日も随分熱心に見てたみたいだけど。」
飲んでいた麦茶を思わず吹き出しそうになるのを堪え、愛美は驚いて薫を見つめた。
「・・・気付いてたの?」
「そりゃあね。若菜と違う方向見てるんだもん。」
「相変わらず変な所に気付くね。・・・別に何ともないよ。あいつとは友達。」
へらへら笑いながらそう言う愛美を、薫はじっと見てからコーヒーを一口飲んだ。
「ならいいけど。でも愛美、それ以上感情的にならないようにね。」
「大丈夫よ。なんでそんなこと言うの?普段は私が彼氏作っても何にも言わないくせに。」
口をへの字にすると、薫の整った眉が曲がった。
「なんとなく言ってみただけ。なんともないなら別にいいや。忘れて。」
コーヒーを一気に飲み干す薫を、愛美は不思議そうに見つめて首を傾けた。
ねえ、約束を覚えてる?
小さい頃にあの木の下で交わした約束を、覚えてる?
その事についてお願いがあるの。私の我儘、どうしても聞いてほしくて。
もし、その約束を果たす時が来たらね・・・・・・・―――――――。