第1話
「じゃあこの文を垣内、読んで…」
教壇に立つ斉藤の声がぴたりと止まる。その視線の先には、教科書を立てて隠れるように寝ている平川愛美の姿があった。イビキこそは立てていないが、途端に静かになった教室に穏やかな寝息が聞こえてくる。
斉藤は手に持っていた教科書を閉じ丸めると、ゆっくりと愛美の机に近づく。周りの生徒がくすくすと笑いだすが愛美が起きる様子はない。一つ前の席の緑がおろおろと斉藤と愛美を交互に見る。そんな緑の気も知れず、愛美は何とも呑気で幸せそうな寝顔だ。愛美の机に近づくにつれ、斉藤の眉間の皺が深くなってゆく。
すぐ隣までやって来た時、斉藤の影で暗くなったことに気付き、愛美の意識が僅かに夢から起こされた瞬間だった。
「ふぁ?」
「平川ー!」勢いよく振り上げられた教科書が愛美の頭に直撃した。
「だっ!」
間抜けの声の後に出た小さな悲鳴に教室がドッと沸き起こる。
叩かれた個所を抑えながら、愛美はひきつった笑いで斉藤を見上げた。
休み時間にこっぴどく怒られた愛美は、肩を落としながらサンドイッチを一口齧った。
「たかが居眠りでなんであんなに怒るの?職員室だから皆に見られるしすごい恥ずかしかったんだから」
全く反省の色が見えない愛美に対し、緑は苦笑いで返すしかない。分厚い眼鏡の向こうの目が細く愛美を見る。
「愛美ちゃんは頻度が多いんだよ。それに古文の時はいつもそうじゃない。斉藤先生も目に余ってたんだよ、きっと」
「だってあんな訳分かんない文章聞いてたら眠くなるじゃん。呪文だよ、呪文。斉藤はきっと魔法使いなんだよ。それも眠りの魔法しか使えないポンコツなの」
「きっと愛美ちゃんにしか聞かないんだろうね」
呆れたようにそう言うと、緑はプチトマトを箸でつまむ。
「またバイトだったの?ばれないように気を付けてね」
「大丈夫よ。絶対分からないから」
「もう、他人事みたいに。今に痛い目見るよ」
甘く考えている訳ではない。この仕事はきっとばれない。なにせ、人よりちょっと(?)特殊なのだから。
まあ、ばれたら大問題どころではないのだが。
パックのココアを飲もうと手を伸ばした時、一言も話さず黙々と弁当を食べていた沙恵が急に立ち上がる。そそくさと机の上を片付け始め、あっという間に荷物を鞄の中に収めてしまう。
「ごめん、じゃあ今日はもう帰るね」
その言葉に、愛美と緑はハッとしたように沙恵を見つめる。
「そうか、今日だったね。頑張ってね」
「私が頑張ることはないんだけどね。けどありがとう」
「テレビ見るよ。いい結果を祈ってる」
「うん。じゃあね」
口角を吊り上げるだけの薄い笑いを向け、沙恵は手を振り教室を出ていく。
残った二人は、沙恵の姿が消えるまでその後ろ姿を眺めていた。
「辛かっただろうな、沙恵ちゃん。今日も無理せずに朝から休めばよかったのに」
ぽつりと緑が呟く。
「あぁ、そうだねぇ」
曖昧な相槌を打つ愛美は、好物のタマゴサンドを食べるのに夢中だ。
「もう、本当に心配してるの?今日で決まるんだよ?」
「大丈夫だよ」
頬を膨らませる緑に愛美はそう言うと、口の中のものを味わってゆっくり咀嚼し、間を置いてからもう一度言った。
「絶対、大丈夫」
自己紹介、始めます。
私、平川愛美。ごく普通の公立校に通う高校2年生。
食べるの大好き。寝るの大好き。何かと爪が甘い所があるので、怒られたり呆れられたりすることもしばしば。
『やるときはやる。やらないときはやらない』をモットーとし、毎日を過ごしています。
そんな平凡な私にも、まあ言えない秘密はあるわけで。(誰にでもあるだろうけど。)
まあその内容は薫辺りに任せるとして。
ただこれだけは言えます。少なくとも、私達は普通の女子高生ではないのです。