第7話
「先生。あたし武術って苦手なんですよ。」
たくし上がったTシャツを、若菜は丁寧に下ろして直す。そしてほっとしたように息を吐くと、己の膝に肘を置いた。ちらりと視線を窓の方に向けると、丸椅子が揺れて転がっていた。細い影が小刻みに揺れる。
「ほら、柔道にしたって合気道にしたって型があるじゃないですか?どうもそれに固執するところがあって瞬時に動けないんですよ。どの技をかけようか悩んでたら、すぐに勝負はついちゃってるんです。」
乱れた髪を手櫛で整え、服の汚れを軽くはたく。
「その点高跳びって深く考えなくていいじゃないですか。目の前のバーを飛ぶ、それだけですから。戦略を練って頭を使うようなスポーツはどうも苦手なんですよね。だからどれも友達に教えてもらったんですけど、中途半端に放り投げちゃって。呆れられちゃいましたよ。」
ふふふっと笑う若菜は、服の袖を掴み匂いを嗅いだ。匂いはこびりついていない。上げていた足を床に着ける。先ほどの丸椅子に比べると安定はしているが、座っている箇所が柔らかくて腰がゆらゆら揺れる。変に生暖かさが伝わってきて心地いいものではない。
何気なく手を付けると、短髪のちくりと刺す感触が伝わって来たので、若菜は少し驚いて手を上げた。それに反応するように体がゆらりと揺れる。荒い息と喘ぐ音が下で聞こえた。
「でもね、素人相手ならあたしでも簡単に押さえることはできるんですよ。護身術って言うんですよね?それだけはマスターしろって言われて、最低限のことはできるように頑張ったんですよ・・・って聞いてます?」
足をぶらぶらとさせながら、若菜はハリセンの顔を覗き込む。横倒しになって身動きの取れないハリセンの顔は、驚愕と重圧感で苦渋に歪んでいた。
いくら若菜が軽いとはいっても人一人乗っている圧迫感が苦しいことに変わりはない。先ほど腹部にきつい一撃を食らったのならなおさらだ。
目を見開いて信じられないような視線を向けるハリセンに、若菜は小さく笑う。
「バレバレなんですよ。さりげなくドアの鍵を閉めるし、人の少ない時間帯に呼び出すし。なにかあるとは思っていたけどまさか襲われるとは思ってなかったな。あたしを相手にするならそれなりに強くないと駄目ですよ。」
ハリセンは若菜の声を聞きながら先程の事を思い出していた。
一瞬だった。若菜の体を抑え込み顔を近づけた刹那、腹部に激しい衝撃を感じたと思えば、立場がすっかり逆になってしまっていた。押さえていた細い腕から大の男を圧倒する力がどこにあるのか。ハリセンを圧倒するまでの一連の流れはスムーズで、慣れた手つきで人を抑え込んでいる。
「あたしは別に呵責する趣味はないので何もしませんよ。でもまた何かあったら保証はできませんけど。」
若菜はハリセンの上からすっと立ち上がり、ハリセンの顔を見上げた。いまだ声を出さず怯えたような目つきで見てくるハリセンに、若菜はそっと告げる。
「では失礼します。笠井先生?」
その瞬間、ハリセンの表情がさらに固まり、狼狽と激しい動揺を漂わせる。ばがっと起き上がると、若菜をこれ以上ないくらいに目を見開いて凝視する。
「お前、なんでそれを・・・!」
「失礼します。」
節々が痛む中とっさに伸ばされた手を素通りし、若菜は薬品漂う部屋を後にした。
「今日は何言われてたの?」
「テストの出来について。」
襲われそうになったとは言えず、若菜は適当に返す。理沙は疑うことなく追求してこなかった。
部活が終わった帰り道。二人は近くの店でパフェをつついていた。期間限定のスペシャルパフェで、2人は夢中になって食べている。店が立ち並んでいる通りに、2人は窓際のカウンターに座っていた。夕方にも関わらず店はなかなかのにぎわいを見せている。
「また?最近本当に呼び出されるね。本気で心配になってきたんだけど。」
「大丈夫よ。なんにもなかったから。」
内心で理沙に小さく謝りながら言った。
予感はあったのだ。日頃から犯罪者を相手にしていると、自分に向けられている汚れた感情に敏く気付いてしまう。ハリセンの場合もそうだった。健全な教師の目から、女を狙う卑しい目に変わっていったのにそう時間はかからなかったはずだ。だがそれがあまりにもハリセンの雰囲気に溶け込んでいたので不思議に思い、薫に調べてもらっていた。
梁山茂樹。だがそれは第2の名で、本名は笠井健二。
かつて未成年に両親を殺し、同級生を強姦して少年院にいた過去があった。その時知り合った少年が若くしてある組織と関わっていたらしく、出所してその少年のツテで新たな戸籍を手に入れていた。犯罪者としての名を捨て、全く新しい名前で教師になっていたということだ。なんとも信じられない話である。
だが犯罪者としての内心はそう変えられるものではなかったようだ。そういえばハリセンがよく呼び出しているのは女子ばかりのような気がする。若菜と同じように被害に遭っている子もいる可能性が出てきた。
(まあ、あたしには関係ないけど。)
器用に苺を小さなスプーンに乗せ、一口で放りこんだ時だった。
「ねえ若菜。携帯鳴ってるよ?」
「ん?」
頬を膨らませたまま、若菜派隣に置いてある開いたままの鞄を見る。マナーモードにしてある携帯白い光を発しながら小刻みに震えていた。振動時間的に電話であることと、その色から薫からのものであることが分かり、若菜は慌てて苺を咀嚼し飲み込むと携帯を持って立ち上がった。
「ごめん、ちょっと外出てくる。」
理沙は軽く手を振って変わらずパフェに向かう。若菜は小走りで店内を進み、入口付近で携帯を取った。
「はい、どうしたの?何かあった?」
『私だ。』
その声が薫のものではなく、嫌悪感しか抱かせない相手だと分かると、若菜はとたんに表情を固くした。
「なん・・・。」
『なんで薫の携帯からかけているか?お前の番号など知ったことではないからな。少し拝借している。薫もすぐそこにいるから安心しろ。』
まるで若菜の心を見通したように、片岡は高らかに言った。若菜の携帯を握る力が強くなる。
「・・・ご用件は。」
電話の向こうでフッと小さく笑う気配がした。
嫌いだ。この男の笑い方も。雰囲気も。何もかも。思わず舌打ちしたくなったが、どうにかして堪えた。
『・・・速水氏が倒れたらしい。持病の心臓発作だそうだ。』
ピクリと、自分の背中が震えたのが分かった。一瞬であったが思考がストップし、速水と言われてもピンとこなかったが、最近見たテレビの映像が頭の奥から流れ出す。
あいつが。あの男が。
「そう、ですか・・・。」
『命の心配はないようだがな。今は自分の病院で療養中らしい。』
テレビの中であざとく笑う、耳にほくろを持つ男。
一度も会ったことのない、生物的に父に当たる人物。
『第一秘書が傍に控えているらしい。なんとも献身的らしいぞ。』
それを聞いても今度はひどく驚かなかった。だがなぜだろう。過ごしやすい温度に保たれているはずなのに、手がひどく冷たくなる。
『あなたのせいよ、何もかも。』
第一秘書。あの男の一番のお気に入り。
「それがどうしたんですか?あたしには関係ない。」
『見舞いでも行ったらどうかと思ってな。速水氏もだいぶ歳だからな。』
「そんなの・・・。行くわけないじゃないですか。」
声が震える。それは動揺ではなく怒り。からかっているとしか思えない。人の触れてほしくない部分に容赦なく入り込んで、徹底的に荒らしてゆく。そしてその結末を娯楽として眺める。
若菜は思わず声を荒げた。
「いい加減にしてくれませんか。あたしはあんな奴の事なんて考えるのも嫌なんですよ!」
いきなり大声を上げ捲し立てるので、歩いていた人々がびくっと震え若菜を見る。電話に向かって女子高生が大人顔負けの剣幕でいるのだからいい見世物になっている。
そんな若菜の真剣な拒絶をあざ笑うように、片岡は淡々とした口調で言った。
『・・・・・・私はな、速水という男が嫌いなんだよ。』
唐突に発せられた言葉に、血が上りかけていた頭に疑問符が浮かんだ。
「は?」
『医者としても腕前もそう目立つもんじゃなし、上手くいいカモを吊って渡って来たくせにそれが自分の実力だと信じている。この世界では金さえ払えばなんでもする医者が優遇される、それだけの話だというのに。いい年して女をたぶらかしている所も気に食わない。メディアではいい顔して偽善者に努めているが、このご時世に珍しい成金のような振る舞いをする下品な男だ。一度食事を共にしたらよく分かる。マナーも言葉づかいもなってない。あんな男にすがる女も信じられないね。』
放蕩していた頭がゆっくり熱を冷ましていくように、若菜は冷静に片岡の話を聞いていた。それは心からの本心であると直感した。だが片岡の意図が掴めない。
片岡は恐ろしく論理的な男だ。人を嫌うにもそれなりの理由を持っている。片岡の言葉には速水の全てを分析した結果を伝えられているような正確さと説得力があった。
「何が・・・、言いたいんですか。」
暴走しかけた感情をなんとか抑え込み、若菜は落ち着いた声でそう言った。だが険しい顔は治らない。傍からみたらどう映っているのだろうか。別れ話で揉めているカップル?家出して両親と喧嘩している一人娘?
片岡の低く、ぼやけた声が告げる。
『私のように思っている輩はいくらでもいる。笑顔の裏では舌打ちしてるのさ。そんな奴がどうなろうと知ったこっちゃない。多少の打撃にはなるが代わりは他にもいる。勿論、私はも何があっても全く関心を持つことない。たとえ身内による不祥事でもな。』
それで悟る。この男は、あたしを試している。
反論しようと口を開こうとした。だが直前で吐き出す言葉が見つからないことに愕然とする。先程の片岡に対する苛立ちなど比べものにならないくらいの、渦巻く混沌とした闇が現れる。
『あなたのせいよ、何もかも。』
片岡の声が遠くなる。気付いたら通話が終わったことを知らせる耳障りな機械音が鼓膜を震わせた。若菜は静かに腕を降ろす。耳のイヤリングをそっとなぞり、目には決意の炎を灯していた。