第6話
「そうですか、速水氏がね・・・。」
片岡は手にしていたコーヒーカップを静かに置き、手を自らの膝に置いた。
「はい。もうご存知かと思いますが、念の為ご報告に参りました次第です。」
「えぇ知っていますよ。とはいえまだ公にはしていないようですね。」
すると向かいの落ち着きのある女性が口に手を当て小さく笑う。
「それは勿論です。速水が倒れたと聞いて厄介なことになっても困りますから。なにせ職業柄、敵が多い人なので。」
第二秘書を名乗った女性はそう言ってコーヒーを一口飲んだ。二人しかいない空間なので飲み込んだ音でさえも耳に届く。
美人だった。色白で妖美な雰囲気を醸している容姿は、コーヒーカップを待っているだけで絵になる。さすが速水が第二秘書にするほどだと、片岡は目を細めた。黒光りする大きいソファにもたれ、2人は大理石の低めのテーブルを挟んで座っていた。
国内で有数の規模と実力を誇る速水病院の医院長には、市民に見せる仮面の笑顔ともう一つ、金さえ出せばどんな汚い医療技術でも提供する悪徳医師という顔を持つ。実業家や重役、政治家達を得意先に持ち、その道では名が知れている人物だ。勿論敵も多く、反感を買うことも日常茶飯事なのでいろいろ考慮されたのだろう。
第二秘書は視線を片岡に戻し、足を組んで小さく微笑んだ。短いタイトスカートからすらりとした足が覗く。だが片岡は目もくれず平然としている。
「そうやって一人ひとり報告に回っているのですか。大物が倒れると大変だ。私も心得ておかないといけませんね。」
現内閣官房長官の第一秘書という肩書きを持つ片岡は愛想笑いを向けた。女はまた笑って手をいじり始める。
「そう大変ではありませんよ。速水には6人の秘書が付いていますので分担すれば一日で充分ですわ。」
片岡は女の顔をちらりと見る。白い肌だと思っていたそれは厚く塗られたファンデーションのせいだとすぐに悟った。よく見ると細かくひび割れているのが目につく。凝視していることに気付かれないよう、片岡はすぐに視線を女の目に戻した。
医師に6人の秘書はいささか多い人数だ。それは速水が女性関係でも熱心だという証拠である。お眼鏡にかなった順番から秘書になるので、この女は速水の2番目のお気に入りということだ。速水の女好きは業界でも有名な話なので女達はそのことに対して隠すことを一切しない。
いやに高い鼻と整いすぎている二重瞼が、どこかでイラつきを覚える。よく見ると、目立つ色合いのスーツに胸元が広く開いたインナーを覗かせ、デニールの薄いタイツが色気をお通り越して下品でしかなくなっている。秘書とは名ばかりの、ろくにマナーを知らない馬鹿な女だと察した。色魔の社長がお気に入りの女を秘書として傍に置いておくよくあるパターンだ。仕事の場で髪をまとめるどころか素振りも改めようとしない。美人だと思っていた女も、隙を見つけてしまえば育ちの悪い勘違い女にしか見えなくなる。
「速水もだいぶ年ですので体には人一倍気を付けていたんですが、病魔には敵わなかったということです。今はだいぶ容体が安定していまして、近いうちに復帰できますわ。」
「そうですか。速水様には何かとお世話になっているので安心しました。お大事にとお伝えください。」
整形で作られた顔。自分の顔にメスを入れてまで速水に取り入りたい女はたくさんいる。異常な執着を示し必死に自分を売り込む。速水に言われればどんなことでも受け入れ実行する。速水はまるで女を催眠術をかけているかのように巧みに操り、操り人形の女達は為すがままに身をゆだねる。
整形をすることも手を汚く染めることも厭わない。
腹を痛めて産んだ子供を捨てることも躊躇しない。
「では、私はこれで失礼しますわ。」
女が立ち上がった瞬間、甘ったるい香水の香りが鼻を流れる。鼻を塞ぎたいのを耐え、片岡もその場で立ち上がった。
「では、これからもよろしくお願いします。」
片岡と女が同時に頭を下げ、女は最後に小さくと笑うとつかつかとドアの方に向かう。仕事で赴いたにしては高すぎるヒールが軽快に音を立てた。
引手を持ちドアを開ける。そして一歩踏み出そうとした時、女の滑らかだった動きがぴたりと止まる。片岡が顔が見えないのをいいことに初めて怪訝な表情をすると、女は顔を向くことなく口を開いた。
「仰らないんですね。速水に対するねぎらいや心配の言葉を。」
ぴくりと眉が動く。だが声音が変わらないように努めた。
「名医である速水氏のことですから心配は無用だと思ったんですよ。余計な心配は逆に迷惑だと思いまして。」
「まあそうですか。ですが普通は人として一言あると思うんですよ。その人を嫌っていない限りはある程度気遣うものだと思いません?」
女が振り向く。片岡はあからさまな作り笑いをして見せた。
「あなたも速水の敵側ということでしょうか?」
躊躇いなくそう言った女はにこりと笑う。冷ややかさを隠すような不自然な笑みだった。
「私は誰にでもそうなんですよ。」
片岡はお手上げのポーズをしておどけて見せた。
「こういう仕事をしているとね、人に対する情なんてものは死んでしまうんですよ。自分で殺したって言った方が正しいでしょうか。この業界では命取りになりますからね。隙を突かれたら一瞬で転落してしまいますから。常に腹の探り合いです。」
首を傾げ片岡の様子をじっくりと眺めていた女は、やがて今度は口元だけで笑った。
「私、そういう人嫌いじゃありませんよ。」
「お褒めに預かり光栄です。」
「では失礼します。」
頭を下げ今度こそ廊下に足を踏み入れた女に、片岡は呼びかける。
「一つだけ言伝を頼んでしよろしいでしょうか?」
女の足が止まる。
「速水にですか?」
「いいえ、違います。」
不思議そうな顔を向ける女に、片岡は穏やかな口調で言った。
「第一秘書の方に、片岡がよろしく言っていたとお伝えください。」
馬鹿な女ではなかったなと、片岡は心の中で訂正した。
「工藤、ちょっと待て。」
部活に向かおうとしてた若菜を、ハリセンが背中に呼びかけ引き止める。薄汚れた白衣に身を包んだハリセンは、うっすらと無精ひげを生やした顎を撫でるように触って立っていた。ホームルームが終わったばかりなので辺りは騒々しく、文化祭の予定が発表されたばかりなので浮足立った高い声があちこちで聞こえてくる。
あからさまに苦い顔をすると、ハリセンは小さく苦笑した。
「この前のテスト、出来は自分でどう思っている?」
それを聞いて思い出すのは、ほとんど曖昧に答えた解答用紙だった。化学は一番手ごたえがなかったことを覚えている。赤点も取れているかどうか分からない。
「さあ、出来なさすぎてもう記憶にないですねえ。」
掴みどころのない返答を返すと、ハリセンは小さく息を吐く。
「・・・そのことで話がある。5時に化学準備室に来い。」
「その時間は部活中なんですけど。」
「少しで終わる。脱け出して来い。」
それだけ言うと、口を曲げて無言で拒絶している若菜を無視して、身を翻して行ってしまう。風に乗った白衣が揺れるが、ちっとも格好良く見えない。
ハリセンに呼び出されることは珍しい事ではない。若菜は鬱陶しそうに首を曲げ視線を高く見据えた。
4時58分。時計で時間を確認すると、若菜は化学準備室の扉を開ける。部活を抜けてきたので体操服のままだ。
「失礼します。」
ガラッと音を立てて開いた先に見えたのは、小さい部屋にいくつもの薬品の瓶が収められている古い棚と、お世辞にも整頓されていると言えないデスクに肘を置いてファイルを開いているハリセンの姿だった。
若菜の声にも顔を上げることなく、ファイルに視線を落としたまま曖昧に返事をする。
「おう来たか。」
入口でしばらく突っ立っていると、ハリセンはようやく顔を上げた。そして目の前の丸椅子をポンポンと叩く。もう見慣れた椅子だ。毎回これに座らされて小言を聞かされているが、脚が不安定でぐらぐらと揺れるので心許ないのだ。
扉を閉め、指定された椅子に腰かける。ぐらりと揺れそうになるのを、足でバランスを取って堪えた。この部屋はどうしても好きになれない。何かわからない薬品の匂いが鼻をくすぐる。病院の匂いと同じだ。
「なんで呼ばれたか分かるか?」
先程の話からテストの内容であることは間違いないのに、回りくどい言い方をするので若菜は小さく苛立つ。
「前のテストの話じゃないんですか?」
そう言うや否や、ハリセンは待っていましたとばかりに一枚の紙をファイルから抜き取り、若菜の目の前に掲げた。赤ペンで勢いよくあちこち撥ねられている。丸を数えた方が圧倒的に容易だ。だが点数は思ったより悪くはなかった。薫とかに見せたら呆れられるだろうが。
「点数を知った感想を聞こうか。」
「あたしにしてはいい出来だと思います。」
テスト用紙をファイルに戻し、ハリセンは初めて若菜の顔を見つめる。ハリセンの目がどこか怪しい光を灯していた。
「これで何回目だ?毎回ちゃんと勉強しろと言ってるだろ。」
「ちゃんと勉強してこれなんだから仕方ないじゃないですか。」
するとハリセンは違う色のファイルを持って立ち上がり、棚の薬品確認し始めた。話をしながら在庫管理をするのはいつもの事なので若菜は気に留めることはない。なにか作業をしながらでないとうまく話が出来ないのだ。若菜の後ろの方の棚に移動すると、作業を続ける。若菜は背を向けたまま耳を傾ける。
「違うな。お前絶対何もしてないだろ。教師ってのはな、答案を見ると大体分かるんだよ。真面目に勉強して駄目な奴と、何もしてなくてできない奴の違いくらいな。お前は圧倒的に後者だ。」
瓶のラベルを確認しながらハリセンはそう言った。若菜は小さくため息をつきそれを黙って聞いている。
「断言してもいい。お前はやればできる奴だ。なのにそれをしない。なぜなんだ?」
隣の棚に移動する際、ハリセンは入口の前を通った。
「勉強嫌いなんですよ。テストや成績の点だけで人を判断されたくないんです。」
「世の中そうはいかないくらい分かるだろ?」
「えぇ、世の中所詮その人の頭脳のステータスが全てなことくらい知ってますよ。特に学校はその典型だし。」
嫌味で言ったつもりだったが、ハリセンは気にすることなく瓶を見つめる。
「・・・・・・なら分かるだろ?お前は学校では下に見られていることくらい。」
「別に気にしません。」
コツ。
「大学はどうするんだ?」
「興味ありませんから。」
コツ。
「このままだとろくな就職先もないぞ。」
「別にいいです。」
コツ。
「・・・・・・俺がなんとかしてやってもいいぞ。」
「は?」
振り向こうとした刹那。
肩を掴まれる。強い力に椅子が耐えられなくなり脚が揺れて傾く。体が浮遊感に包まれたのは一瞬で、その直後には勢いよく床に背中を打ち付けた。
「いった・・・!何して・・・んぐっ!!」
乱暴に口を塞がれる。骨太くごつごつした男の手の感触。
「・・・・・・・!」
「俺が何とかしてやろうか?工藤。」
目の前にハリセンの顔がある。先ほどより目つきが怪しいものになっていて、若菜を見上げてべっとりとした嫌な笑いを浮かべていた。若菜の体の上に乗り上げ、動きを拘束している。
「俺は猶予を与えてやったんだ。今まで言ってきたよな?ちゃんと勉強しろって。それなのにろくに俺の言うことも聞かないで成績は散々だ。このままじゃ留年もあり得るんじゃないのか?親が悲しむぞ。」
若菜は抵抗しないのをいいことに、ハリセンはさらに笑みを浮かべる。
何が・・・、起こっている・・・?
理解できるのは、ハリセンに押し倒されているという現状のみで、言葉が全く入ってこない。自分が混乱しているのか、唖然としているかさえ分からない。
「お前には才能がある。部活がいい例だ。お前みたいな天才的な選手見たことないよ。でもな、世の中才能だけじゃ渡っていけないんだよ。それなりの力量がないとな。お前にそれがあるのか?」
ハリセンの顔が一気に近づく。若菜は目を見開き、ハリセンの目を見つめる。
『女子生徒に手を出したんだって』
「俺さ、お前みたいな才能があるのにろくに活用しない、無関心な奴が好きなんだよ。そういう奴はどこかで自分に負い目を感じてるからな。負の部分が垣間見えるのが堪らなくてね。」
ドクン。
『あなたのせいよ、何もかも』
「お前は何を恐れている?なぜ自分の力を発揮しない?なぜそうやって一般人を装って紛れている?」
ハリセンが顔を近づける。白衣からの薬品の匂いが、ハリセンの太い手からでも鼻に届いた。
この匂いは嫌いだ。きっと、あの男も同じ匂いを纏わせている。傍にいるあの女にも嫌という程こびりついているに違いない。
首を振りたかったが、口を塞ぐ手がそれを許さなかった。
「いずれ後悔するぞ?もっとしっかりやっとけばよかったてな。そうならないように俺が何とかしてやるよ。なあに、痛いのは初めだけだ。慣れれば大したことはない。俺に全て任せておけばいいからさ。」
ハリセンの手が左耳に触れる。髪をかき分けイヤリングをなぞっているのが伝わってきた。
ドクン。
『あの男と同じだな』
ハリセンは頭を若菜の胸に埋める。
果てしなく気が遠くなったように、若菜は虚ろな目で天井を見つめていた。