第2話
「だからって課題が進まなかったのをあたしのせいにしないでよ」
頬杖をついて睨んでくる若菜に、愛美は目の前にミルフィーユを置いた。
「そこから話が逸れたってことを言っただけじゃん。ほら、大きいのあげるから」
「普通のでいいよ。そこで膨れてるやつにあげてよ」
大きめに切られたミルフィーユをじっと見つめ、頬を膨らませて黙っているりんを指さす。
「あー、はいはい」
りんに皿を差し出すと、あからさまに顔が明るくなる。
「やったね。いいの若菜?」
「そんな目で見られて食べるほど肝が据わってない」
普通のサイズのケーキを受け取り、若菜はフォークを手に取った。
4人は愛美の家にいた。家といっても、同じマンションで隣同士なのでよく互いの家を出入りしている。泊まることも日常茶飯事だ。
薫がブラックコーヒーをすする。
「これ食べたらまた始めるからね」
「はいはい。休憩ね」
やはり薫に付き合ってもらうと早く進む。口をはさむことができないからだろうか。
薫だけのつもりが、なぜか他の2人も部屋でケーキだけを食べに来ている。
「にしても若菜は大丈夫なの?こんなにたくさんの課題いつ終わらせたの?」
「出されてすぐ。体動かしたかったから」
ミルフィーユの食べにくさに苦闘しながら、せわしなくフォークを動かす。
「にしても毎日やってない?テスト前なのに余裕だね」
「余裕じゃないよ。この前もハリセンに怒られたもん。いい加減勉強しろって」
「そういえば前にも呼び出されたんだっけ。なんでやらないの?」
「賢くなりたくないの」
最後まで残しておいたトッピングの苺を口に運びながら、若菜は言った。
「どういう理屈よ、それ」
りんが抱き枕を抱えけらけらと笑うのを見て、若菜は歯を見せ意地悪そうに言った。
「あたしはやればできるんですよ-」
「本当それ?」
「人の事より自分の事よ、愛美。続きやるよ」
薫の一言で、愛美は引き締まった顔を見せ机に向かう。
ケーキを食べ終え暇になったのか、りんが若菜に言った。
「若菜、ゲームやらない?この前言ってたゲーム買っちゃったんだ」
「ほんと?やるやる。愛美ゲーム機貸してね」
愛美の返事を待たず、若菜はリモコンをテレビに向けボタンを押した。
パッと映し出されたテレビの中では、鮮やかすぎるセットに見慣れたタレントが何人かトークを繰り広げている所だった。何気なくその様子を眺めていると、司会者らしき人がある人物に問いを投げかけた。
『ということは先生、やはり生活習慣というのは早いうちに見直す必要があるということですね。』
『そうです。それも若い人ほど生活習慣には気を付ける必要があります。』
パッと画面が変わり、白衣を着た人物の顔がアップで映し出される。
銀縁の眼鏡をかけ、肘を立て手に顎を置いている。腕に見るからに高そうな時計が鈍い光を放っていた。
若菜の目が驚異に彩られる。
がっと頭を乱暴に捕まれたような衝撃が襲い、その人物の顔にくぎ付けになる。
『あの男と同じだな。』
うっすらと髭を生やし、面長で切れ目を持つ顔でにこやかに司会者に頷く。
その左耳には、大きめの一つのほくろ。
『生活習慣病はすぐに改善すれば回避できる病気です。一度自分の生活を見直してみてください。』
薄い唇で笑う。
茫然と己の左耳に手を伸ばす。触れたのは人肌のそれではなく、大きめの丸いイヤリング。
片耳の、水色のイヤリング。
「若菜早くしようよ。テレビの設定それじゃ駄目だよ」
りんの顔が突如耳に入り、若菜は今起きたかのように意識を戻した。
「ご、ごめん」
黄色いボタンを押し、その男の顔は消えてなくなった。
「あぁ寒い。全く」
自分の腕を引きながら、女性は苛立ちを見せた。
耳には水色のイヤリング。パーマのかかった長い髪に雪がまとわりつく。
静かに振る雪の中、あたしは抵抗できない力で引きずられているため、うまく足で歩いている心地がせずただなすがままになっていた。
満月が照らしているにも関わらず、ずっと向こうは暗くてよく見えない。そこにはあまり建物は立っておらず、ぽつぽつと雪化粧をした木が立っている。
だがそんな関さんな景色の中でも、視界の先に見えている大きめの建物がだんだんと近づいていた。
少し丘に立っているそれは、優しげな明かりが灯っていた。
早足で止まる気配がない女性を見上げ、あたしは首を傾げた。だが女性はこちらを全く見ない。
高めのヒールで積もった雪にも関わらず、歩きにくそうな様子は微塵も感じられない。
「あぁ、寒い。絶対しもやけになってるわ」
あたしの手を掴む手には、触り心地のいい黒のファーが付いた手袋がはめられていた。あたしの手には何もない。身に着けているコートも、とても温かそうだ。
「あなたのせいよ、何もかも」
やがてあの建物の門までたどり着き、女性はそこで足を止める。
女性の手が、あたしの手を放す。あっけなく放された手から、冷たい空気が容易く温度を奪っていった。
女性が乱暴に左耳のイヤリングを取る。そしてあたしの前で膝を折ると、それを左耳につけた。柔らかい手袋の感触がくすぐったい。
女性が手を離した途端に耳が重く感じ、あたしは違和感に顔をゆがませた。女性はその顔を見るより先に立ち上がってしまう。
もう一度顔を見ようと思っても、女性は背中を向けてしまった。コートの前を掴み、背中を小さく丸める。
「あなたのせいよ、何もかも」
その場から一刻も早く離れるかのように、駆けだす後姿。
次第に風が吹き、その中で荒れ狂う雪が女性の姿を隠してしまう。
あたしは追いかけることもせず、ただ耳につけられたイヤリングをそっと触れていた。
後になって、あぁあれはお母さんだったのかと茫然と思い出すのだ。