とある男の末路
どこか遠くで鴉の鳴き声が聞こえたような気がした。しかし男は懸命に走りながら頭を振る。そんなことはありえない。こっちに連れてこられてから人間以外の生き物を見てはいない。気のせいだ。よくよく耳をこらすと、聞こえるのは自分の荒い息遣いだけだった。
それに気付いた瞬間、胃の中の物がせり上がってくるような不快感に襲われむせ返ってしまう。ここ数日ろくな物を食べていないのに、吐くものなんてないはずだ。口に手を抑えながら、男は走り続ける。何があっても止まるわけにはいかなかった。早く、奴らの手の届かないところに行かなければ。
だが男の意思に反して、体は既に限界を超えていた。40近い体に遠慮なく襲いかかる疲労は計り知れない。それでも男は走ることはやめなかった。足に感覚がなく、すぐにもつれて転んでしまいそうだ。
なぜだ。男は光の差さない薄暗い道を走り続けながら自らに問いかける。
ほんの出来心だった。30代前半、会社の金融機関で働いていた男は、嫌がる気の弱い後輩と共に会社の金に手を伸ばした。気が付けばそれは莫大な額になっていて、隠し通すことはできなくなった。
男は主犯は部下だと証言し、有能な弁護士を味方につけ、懲役五年に落ち着いたが、後輩のほうは懲役十一年で男より重い罪に問われた。実際後輩が関わっていたのは最初の僅かな期間だけで、まさかこのような大事になるとは予想していなかっただろう。男は後輩に罪をなすりつけたのだ。
十一年というのは横領にしては重いが、それだけ男が使い込んだ額が大きかった。後輩は必死に身の潔白を訴えたが、それを証明する証拠がなく、後輩の証言は却下された。後輩には結婚を控えた婚約者がいた。だが刑が決まると同時に婚約は解消され、父親は心労がたたりあっけなくこの世を去った。そして後輩自身も、父親が亡くなったと知らされた直後独房で首を吊った。
男は刑期を終え、夜の街をさまよう生活を送った。そこでは刑務所にいた奴らなんて珍しくなかったから、男は気兼ねすることなく遊んでいた。だが金がなくなると、残っていた金でホストクラブを始めた。それが思いのほか繁盛し、瞬く間に横領時代の羽振りが戻った。
毎日笑いが止まらなかった。女をはべらせ酒をあおる毎日。そこでまた欲が出た。もっと金が欲しくなり、素人がよく知らずに薬の売買を始め、調子に乗ってやりすぎた。すぐに警察の足がつき、再び男は物々しい裁判長の前に立たされた。そして下された判決を聞いて閉廷した直後だった。急に意識がなくなり、気付いたらこの世界にいた。太陽が現れることがない、不気味な赤い月がずっと空に浮かんでいる世界に。
曲がってすぐに建っていた廃ビルに飛び込む。男は物陰に身を隠すと、やっと落ち着いたのか大きく息を吐いた。すると途端に胃が痛くなり心臓が大きく脈を打ち始める。男は顔を歪めるが、その表情は微かに安堵が感じられた。だいぶ遠くに来たはずだ。しばらくは休める。
なぜこうなった。なんで俺がこんな目に合わなければならない。俺より凶悪な犯罪者はいくらでもいる。なのになんで俺が命を狙われなければならないんだ。ふざけるな!
つけられた首輪が赤く点滅していることに気付き、男は舌打ちをする。
「うっとうしい…!」
首輪をつかみ取ろうとするが外れる気配がない。無駄だと分かっているが、男は苛立っていた。首輪に渾身の力を入れる。その時だった。
「みーつけた」
その場にそぐわない若い女の声がビル中に響く。男の動きがぴたりと止む。冷や汗が溢れ顎を伝うのが分かった。勢いよく振り向き、後ろにこちらを見て笑みを浮かべている少女の姿を捉える。
「短い鬼ごっこだったねえ。運動不足だよ、おじさん」
男と異なり息ひとつ乱さず、くすくすと笑っている。紺のジャケットにピンクのリボン。見たことがある制服だった。前に襲った少女も同じような制服を着ていた。僅かに風が吹き、スカートの裾が揺れる。いつもなら目を凝らしているところだが、男にはそのような余裕がなかった。薄暗くてもキラリと光る物を認めて、それが何かが分かったからだ。思わず息をひっ、と飲む。
見たこともないくらい刃渡りが大きい、三日月型の鎌を持っていたのだ。誰もが一度は想像するであろう、魂を刈る死神の姿がそこにあった。
口を鯉のようにぱくぱくさせ視点をさ迷わせる。男の頭にあるのは一つだった。
逃げなければ。そして少女に背を向け走り出そうとした瞬間だった。
ひゅん。空気が切れる音が耳の近くで聞こえた。そしてその直後、男の首が飛ぶ。ぐらりと体が傾き、血を吹きだして倒れた。全ては一瞬だった。
血が付いた大鎌を持ち、少女は変わらずくすくすと笑っている。だが恐怖で顔が不細工に歪んで動ない男の首を見る目は恐ろしく冷ややかだ。ヘッドマイクに向かって少女は口を開いた。
「こちら、りんでーす。ナンバー119,386の処分、無事に終わりました。あ、顔に血がついちゃった。汚いなー。えーと、ここは南の一番大きい廃ビルです。処理班をよろしくー」
「わかった。こっちも終わった」
少女の陽気な声とは異なり、マイクの向こうは落ち着いた声だった。
「若菜が標的を探すのに苦労してるから加勢してあげて。そこから近…」
「うわあぁー!」
明らかにマイクの向こう側ではない鮮明な声がりんの耳に届いた。割れている窓から外を見ると、丁度誰かが悲鳴を上げてビルの隣を走り去っていった。それを見てりんは笑う。
「みーつけた」
その瞬間だった。ガガガガガッ!とマシンガンを連打する音が耳をつんざく。外で男の体を無数の弾丸が通り抜ける様を、りんは口笛を吹きながら眺めていた。男の体が血飛沫と共に大きくぶっ飛ぶ。
音が止む。外に出ると、文字通蜂の巣になっている死体が転がっていた。
「手こずらせる。走るのは嫌いなんだから大人しくしてほしいよ」
見ると、マシンガンを抱えて若菜がため息をついている。とある学校のジャージを身に着けていた。
「殺されるって分かったら大人しくしてないでしょう」りんが笑う。
「二人とも終わったようね。今日はもう終わりよ。お疲れ様」
マイクから薫の声が聞こえる。
「やった。若菜ー、早く帰ろう。顔に血が付いちゃったから早くお風呂に入りたいの」
「私も疲れたな。今日の部活がハードでさあ」
何気ない話をしながら、二人は赤く照らされた道を並んで歩く。その道は、まるで血塗られたようだった。
2114年。日本は経済的に劇的な成長を遂げる。だがそれと同時に法を犯す犯罪者が急増。特に再犯者が増加の一歩を辿っている。各地にある刑務所は溢れ反り、それを危惧して裁判所が刑を軽くしてしまう傾向が出始め、その為人々はさらに容易く違法行為に走りるという悪循環ができてしまう。人々にとって法の裁きを受けることは脅威ではなくなりつつあった。
そこで政府は内密にある対策を進めていた。それが数少ない者にしか知られていないもう一つの世界、テリトリーの存在である。