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「安心しな、女王。俺がちょいと本気を出せば、ここに居いる連中、全員ぶっ飛ばして凱旋してやるぜ」

 気合十分に宣言したのはやたらと散らかった見たことのない部屋でのことだった。

「お?ここはどこだ」

 充満し鼻腔を刺激しててくれていた獣臭も野獣剥出しの殺気も感じられない。そもそもここは甘いいい香りがした。

 応接セットも書斎机もキャビネットも何もかも高級感が漂い、紛れも無く金持ちの部屋だということをかろうじて理解した。

 無人の居室で彼は考える。

 ここがどこかという解答に結びつく名案は浮かんでこなかった。とりあえず発現させているだけで周囲に悪い影響と及ばす疫病天人の響子を引っ込める。

 消え去る間際、彼女の指先が書斎机の一点を指した。

 やたら重そうなデスクもやはり書類が山となっていた。

 固定電話がわざわざダイヤル式の黒電話という骨董好きがこの部屋の主であるらしい。

 この書類からヒントを探しだせということだろうか。

 いや、答えはそこにあった。

 部屋の持ち主の名を示す名札があったのだ。

 魔務省長官燃燈毬とある。

 つまりここは魔女っ子の執務室ということで、中野区から空間転移で飛ばされたのだとようやく悟った潮である。

「まったく、事情くらい先に言ってから人を飛ばせよな」

 すぐさま自発的に瞬間的に察しろと他の者が聞いたら呆れることだろう。

「なんで自分を飛ばさなかったのか。単に人数オーバーだったのか。まあ、助けに行けばいいか。ここの連中に……美嘉ちゃんのことを上手く隠して話をしなくちゃいけないわけか。逆ギレで押しまくるか」

 それではいつも通りということになる。

 彼は座り心地の良さそうな応接セットのソファーに腰掛けた。長い足をガラス張りのテーブルに投げ出し、両腕を背もたれにまわした。

 初の会敵となった夢魔族の魔力に圧倒された次は空中ブランコである。縦穴のお犬屋敷では牙を突き立てるしか能のない小動物を虐殺したことで疲労の色が濃かった。

 ふう~と息を吐いて天井を見上げる。

 この建物のどこかにいる職員を探して救助を乞う。いきなり腰を低く頼み込むのは賢いやり方ではないと思われた。それに疫病天人を出現させたままで魔務省にやって来たのだ。

 勘の鋭いものや優れた魔術を扱えるものならば、とっくにその気配を感知しているだろう。

 ただ待てばいい。こうしてのんびりと。

「あんたらの親分に頼み込まれて、ここにやって来たものなんだが~?」

 重厚な扉を開けて入ってくる奴に、まずそう言ってやるつもりだった。

 


 日比谷通りを走る救急車を見下ろしていた藤崎すみれは特に何かを考えているわけではなかった。いつも思慮深いと評され彼女が憂いていない時はないと言われるほど表情はいつも儚げである。だからといって起きている間中、小難しいことに頭を悩ませているわけではないのだ。

 白いガウンの前を合わせることもなく窓辺に立ち、テラスの向こうに見えるビル群、大手町を眺めているのだ。

 刻一刻と変貌する東京の中枢である。

「燃燈毬さまがいなくなったと報告があってからすでに三十分です。歌舞伎町の大久保病院付近で夢幻受胎らしきものが発生したとも。関連を認めます。毬さまならば夢幻受胎を即座に収拾されて、現場に職員を呼び寄せると思うのです。魔務省本部職員の半分は、あの方の後片付けのために就職したと愚痴をこぼしていますよ」

 それでも最も被害が少なくて済む効率的な方法である。

 将棋で喩えるならば、飛車角桂馬を一人で体現する最強の駒なのだから。

 おまけに現場に出張ることを楽しみの一つとしている節がある。

「歌舞伎町での発生時刻と轟加奈子からの報告時刻はほぼ一致しているよ。その二十分ほど後に中野区のお犬屋敷跡地に夢魔族と数人の人間が上空から入り込んだらしいと、跡地警備隊から報告も入っている。さて、毬どのならばとっくに解決し、そう、お前の言うように魔務省に電話してきているだろうな。夢幻受胎発生場所から離れることもなく。イレギュラーな事件が発生したのか」

 藤崎すみれに応じるのは常盤六連という。

 常盤幕府の後継者であり若き陸軍幹部の一人である。

 百九十センチを越える身長を書斎机に沈めてパソコンの前に座ってキーボードを叩いていた。

 事務仕事が業務の大半を占める彼が滅多なことで現場に出ることはない。

 病を患っている父に代わって彼が行わなければならない裁決は多岐に渡る。

「そう思うのでしたら援軍の手立てを検討すべきではないでしょうか。あの方は幕府に必要です」

「うん、俺もそう思う。まだ子供の頃の話だ。毬どのの履物の鼻輪が切れて難儀をされていた。おぶって差し上げようかと兄と手を差し伸べたら怒られた。手を貸してもらいたいときは申しでるから、それ以外は構うなとの仰せだったよ」

「子供ですか」

「兄と俺が子供の頃の話だよ。毬どのは変わらないが。まあ、ご自分のことは自分でなんとかなさるだろう」

 やっと本日の業務を終わらせるつもりになった六連はパソコンの電源を落とした。

 飲みかけの紅茶を一口啜る。すっかり冷えてしまっていた。

「新しいものをお持ちしましょうか?」

「いや、いいよ。ありがとう。今夜はもう寝ることにしょう。待たせてしまって悪い。シャワーを浴びてくるくらいは待てるかな?」

 どうかしら?

 すみれは手を伸ばして六連の頬に触れた。彼との身長差ではつま先立ちしても唇まで届かない。ほとんどの女性がそうだろう。

「キスをしてくれたら待っています」

 優しく重ねられた。

 六連が別室にある浴室に行っている間に食器類の片付けを済ませてしまおうと手をつける。彼の執務室ではあるのだが、台所だって備わっている。

 この部屋から一歩も外に出なくても業務に支障をきたさないようにとの配慮である。

 源巴を教祖とする巴信者である彼女は、主である常盤六連に付き従う。彼こそ自分がただ一人認めた勇者なのだ。

 後片付けが終わった頃、六連が浴室から出てくる気配がした。

 彼が足を踏み入れるのと執務室の電話が鳴るのは同時だった。

「どうします?」

 鳴り響く着信音は内線ではなく外線であることを示していた。軽快なヒップホップは逆に陰鬱な気持ちにしてくれるのだ。

「この時間だ。急を要する事かもしれない。居留守は出来ないよ。頼む」

 直通の番号を知っている者からの常識的ではない時間にコールがある。それ自体が非常事態を裏付けていた。

「はい、藤崎です。ああ、轟大尉ですか。昼間はお疲れ様でした。ええ、その件ならすでに報告を聞いています。……ええ、判りました。では、後ほど」

 とても短いやりとりの後、受話器をおいた藤崎すみれは、せめて残念そうに見えないようにと願いながら笑顔を作った。

「今夜はお預けになりました。三浦潮が魔務省長官室に現れました」

 その名を聞いた途端、優男の表情は一変し犬歯を剥き出した。

「今度こそ首根っこ引っこ抜いてやる。無断侵入ならば十年は刑務所から出て来られないようにしてやる!」

「相変わらず仲良しですこと。妬けちゃいますよ」

 断じて仲良くなどない!

 常盤六連の主張は、この件に関しては周囲の賛同を得られないのだ。


 

 魔務省長官室にチンピラがふんぞり返って居座っていると最初に通報してきたのは、こんな時間まで仕事に没頭していた事務官だった。

 何か怪しくて不穏な気配を感じ取り、残業をしていた中では一番トップの次長を探しだして長官室を調べに行こうと誘ったらしい。

 ちょうど長官室の前に並べられた長椅子に、寝転がっていた軍服姿の轟加奈子がいたので事情を話した。軍服とはいえスカートであるが、どうにも色気が感じられない。帯刀してはいるものの昼寝を決め込んだ虎のようである。

 彼女は長官室への出入りを自由に認めらている数少ない人間なのだ。

「そんな怪しい雰囲気は感じなかったが、まあ、本職のあなた方が言うのならば、一応確かめてみるか」

 そんな調子で鍵もかけられていない執務室に入ると、幕府の重鎮たちですら腰を降ろすことを躊躇う毬のお気に入りのソファーに幼なじみが大威張りで座っていたのだから、加奈子の思考は停止した。

 なんとか目の前の景色を理解し受け入れると、激しい怒りが込み上げてくる。

「何をやっているんだ!お前はここをどこだと思っている!」

 まさか人生で最も苦手とする女性の本気の落雷に心底驚きながらも、潮は決めていたセリフを吐き出した。

「ここのボスに頼まれて俺は来たんだぜ、轟先輩。伝言を預かっている」

「歌舞伎町で発生した夢幻受胎のことか。それとも中野区のお犬屋敷に関わることか」

 正直、事情の説明が不要なのは軍部の情報網の繊細さを垣間見たが、それならば大塚美嘉のことを上手く隠して話を進めることも可能だろう。

 そいつを考える時間が必要だった。動揺してしまった自分を落ち着かせるためにも。

「お茶が飲みたいね。それから何か食べ物を頼むぜ。小腹が空いていてね。そいつを平らげたら話すよ」

 それ以降はだんまりを決め込んだ。轟加奈子の恫喝に全く応じない潮は瞼を閉じて薄ら笑いを浮かべるだけであった。

 致し方なしに二十四時間開けている省内の売店からサンドイッチやらおにぎりが運び込まれた。その間に加奈子がどこかに電話をかけていたのが気になったが、どうせエマ=クエーガーでも呼んだのだろう。それはそれで都合が良い。

 腹が減っていたのは本当のことで、もの凄い勢いで食べ始める。

「まあ、聞いてくれよ、先輩。俺はいつものように仕事が終わってから、女と歌舞伎町の大久保病院辺りをうろついていたんだ。なんでそんな所に居たのかって?聞くなよ、そんなこと。お互い身体を洗いっこしていた頃のガキじゃない。判るだろ?それでまぁ、偶然、花畑がどんどん広がって行くじゃねぇか。探偵の勘が冴え渡ったね。こいつは夢幻受胎に違いない。広がっていく方向の逆に向かえば、この騒動の張本人がいるんじゃないかってね。俺は女を逃すと中心部に向かって走り出したよ」

「中々の向上だが、その女というのはまさか室井若菜殿ではないだろうな?」

「はずれだ。しかし、室井若菜とは夢幻受胎の現場でばったり会った。渋谷駅で顔見知りになっていたからな。噂の聖女がどうしてそこに居たのかは本人に確かめてくれ。なんつったかな?大久保病院の向かい側にある孤児院……」

「大久保孤児院だ」

「そう!立ち寄ったこともないから景色と同化していて忘れていたぜ。その孤児院の建物内部に夢魔族らしき人影が逃げ込んだと聖女が言ったんだ。たまたま見かけただけかもしれない。だが、勇者の子孫がそう言うんだ。俺たちは事実を確かめるべく足を踏み入れた。結果として夢魔族は居て、戦闘になり苦戦していた所に燃燈毬が現れた。逃げる夢魔族。追撃する魔女っ子に抱きついて中野の犬屋敷跡地まで連れて行かれた」

 話は簡潔で必要な箇所を意図的に省いているように聞こえた。この男は自分からは詳細な情報を引き出せないと言外に込めていた。

「詳しい話は毬どのと若菜どのを救出してから直接問いただせということか」

 それまでには口裏を合わせて大塚美嘉なる人物がこの件に携わっていないことにできる。毬も巻き込むつもりだったが、あの女性はなんとなく協力してくれそうな気がしていた。

「それで伝言とはなんだ?」

「そいつが問題なんだ。なんせ幕府の役人が下級夢魔族を悪戯に放り込んでくれたお陰で、あそこって魔境になっているだろう?雑魚どもを蹴散らしていたら俺だけここに飛ばされたんだ。はて、あの壮絶な戦闘の中で魔女っ子はなんて言っていたかな?救出に関わる大事なことだったような」

 無言で轟加奈子が大股で歩いてきた。荒々しく襟首を掴んで潮を立たせた。

「とぼける気か!性根まで腐ったか!人命が掛かっているのだ!さっさと言え!」

「こうも手荒に扱われちゃ思い出すものも思い出せねえぜ」

「貴様!」

「やめておけ、大尉。この男から重要なことなど何も得られない。時間の無駄だ。しかし、毬どのと若菜どのがあの縦穴の底から身動きできぬ状態にある、ということは理解できた。市ヶ谷の陸軍第一師団を招集し進軍させる。速度こそ軍事において最も尊ぶべきことだ。大尉には現地に向かう陸軍と魔務省との連絡役を頼みたい」

 通路に姿を現したのは黒い軍服に身を包んだ常盤六連だった。

 いつも付き従う藤崎すみれを認めると、意地の悪い感情が込み上げてくる。

「いよう、お二人さん。相変わらず仲がいいねえ。中学生以来だが、お楽しの時間に、こりゃ悪いことをしちまったかなぁ」

「三浦潮、我が勇者を冒涜するのは許しますが、私まで侮辱する時は命をかけなさいと申し伝えたはずですよ」

 主より自分の名誉を尊重する従者も他にいないだろうが、常盤六連と三浦潮の関係を知る彼女ならではの返しであった。

 唖然とする家臣たちを前に六連自身苦笑している。尊厳を取り戻すかのように険しい顔をした六連は周囲の者どもに告げた。

「チンピラ如きに構っている場合ではない。時は一刻を争うのだ。神速を持って毬どのと若菜どのの救出作戦を開始する。不法侵入ならばこのまま網走の牢獄に送り込んでやるところだったが。いや、伝言とやらを伝える気がないのであれば役不足。斬って捨てるか」

「俺なんかに構うなよ。助けるつもりがあるんなら急いだ方がいいぞ。夢魔族二匹の猛攻に晒されて結界を張ってなんとか凌いでいるんだからな。夜明けまでは頑張るってぇ言っていたぜ」

 派手な歯ぎしりが聞こえてきたのは勘違いではない。

 六連は元来た通路を大股で引き返した。

 口早に部下たちに号令を下しながら。

 その一人となった加奈子に睨まれても潮は涼しい顔をしていた。

 エレベーターで六連が誰かとすれ違ったらしい。どうやら女性のようである。その小柄な人物は全速力で駆け込んでくると潮を殴りつけた。

 まさかいきなりそう来るとは思っていなかった潮は、泣きじゃくるエマ=クエーガーの両腕を力づくで止めた。その間にさらに二発殴られた。

「この馬鹿チンピラ!私の若菜を魔境に置き去りにするなんて!あんたが魔獣の餌になればよかったのに!」

「別に置いてきたわけじゃねえよ。俺だってここに飛ばされたんだぜ?まあ、落ちつてこれでも食えよ」

 エマ=クエーガーの口内に押し込まれたのは食べかけの焼きそばパンである。

「な、なによ、パンなんか囓ってる場合じゃないでしょう!」

「腹が減っては戦は出来ぬってな。昔の人は正しいことを言ったもんだ。なあ、役人さんたちよ、事件が解決するまでここにいてもいいのか?」

 残された魔務省の事務員たちは三人居て顔を見合わせた。自分たちも何かと忙しいのだが、部外者を二人も長官室に残して離れることは避けたい。備品の盗難などはエマ=クエーガーの登場により心配ないだろうが。なにより騒ぐエルフを抑えていてくれるのなら有り難い。

「隣の応接室を使いたまえ」

「食い物持って行ってもいいか?」

 好きにしろ、とぶっきらぼうに言われて、ありがとうよっと軽く礼を言った。

 隣接した応接室に行くには一度、廊下に出なければならなかった。

 両腕にいっぱいの食料と飲料水が入ったビニール袋を持って、足取りも軽く移動する。

 そこはVIPの対応をするらしく長官室より高級感に溢れていた。

 何者かの趣向が反映されることのない無難な作りであるとエマ=クエーガーは鼻を鳴らした。

 これならばおんぼろ探偵社の方が居心地がいいわ、などと思った。口にしない辺りこの自称探偵をまだ許してはいないのだろう。

「この部屋って盗聴器があると思うか?」

「ふん、VIP専用の応接間にそんなものあるもんですか!」

 刺々しく答える。

「よし、俺の考えを話そう」

「私を押し倒そうとしたって無駄よ。そんなことしたら肉片まで細切れにして、お堀にばらまいて魚の餌にしてあげるわ」

「そうじゃあない。この魔務省本部に安置されている聖剣システィーナを持ち出す」

「今度は盗人?私を巻き込まないで!若菜を助けに行くわよ。行かないのなら置いて行く!」

 有言実行。すぐさま立ち上がりドアに向かおうとする背中を呼び止めた。

「その女王さまから持って来いと仰せつかったんだよ。理由は判らない。伝言は二つあった。魔女っ子と女王からだ」

「……役人たちに伝えなかったのは何故?」

「理由が判らない。そんな根拠の無いことで連中が危険な魔境討伐に大事な聖剣を持参すると思うのか?」

 一理あると頷きはしなかった。だが、確かにそうだろう。若菜が使えもしない聖剣を欲した理由が気になる。彼女に予知などの能力はなくもちろん刃物だって、料理以外には使用したこともないはずだ。

「私が手伝うと思っているの?」

「ああ、俺一人じゃ聖剣を持ち出すなんて出きっこないからな。心配するな。鍵ならある」

 ポケットから取り出したのは幾つかの鍵がついたキーケースだった。

「それは?」

「轟加奈子の持ち物だ。襟首掴まれて首を締め上げられたときに盗んでおいた。轟先輩は魔女っ子の事務室にだって自由に出入りできるほどの信頼を得ているんだぜ。あの部屋の鍵なら他の部屋も解錠できるマスターキーってわけだ。あそこだけを開ける鍵なんて魔女っ子だって持ってないのかもしれない」

「それはどうかしら?」

「試してみるか。えっと、これが実家の鍵だな。一番古くて使い込まれているし、昔見た記憶がうっすらある。これはなんだ?まさか、彼氏の合鍵か?ち、色気づきやがって。ハートのシールなんか貼ってんじゃねえよ。こいつは車か。バイクと自転車っぽいな。残るはこれか」

 たくさんある鍵から消去法で目星を付けた潮は、今居る応接室の外に顔を出した。

 この時間まで残っていた職員は少なく事態は急を要する。

 六連がほとんどの職員を連れ出し中野区に向かったのは当然のことだった。魔務省の職員とはつまり魔術師にほかならない。

 信用できる人物エマ=クエーガーが同席することで、潮の見張りは不要と判断したのも致し方ない。不要な見張りに裂ける人材はなかった。

 当て身を入れられて昏倒させられる犠牲者がでなくてよかった。そこまで考える事のない潮は、鍵穴にキーを差し込んで回した。

 ガチャンとよく手入れされたシリンダーは動いてくれた。

「俺の読み通り。こいつは長官室だけの鍵じゃない。他の部屋でも実験してみるか?」

「ああ、もうわかったわよ!それでどうして私が協力しなくちゃいけないのよ。事が大きすぎるわ。外交問題よ」

「たかが、いちエルフが泥棒をしたところでどっちの社会も騒ぎゃしねえよ」

「エルフの長老家、クエーガーの跡取り娘が、人間の公的施設から人間社会の至宝を盗み出すなんて事が公になれば、私たちの面子は丸潰れよ!常盤幕府と螺旋樹の里との関係悪化は避けられないわ」

「え?なに、お前、いいところのお嬢さんだったのか?最初から言えよ。もう少し優しくしてやったのによ」

 確かに面と向かって言った覚えはなかったが、螺旋樹の里に出店するコンビニを選定する立場に祖父はいるといったはずだ。そこでピンときていなかったということか。

 耳の先端まで真っ赤にして叫びそうになった。

「聖剣を持って来いといったのは女王だ。俺はそのつもりだし、お前の力が必要になる。俺に強姦されたことを黙っていて欲しければ手伝えと、脅迫され無理やり協力させられたと言い訳しろよ」

「強姦なんかされてないし!指一本触れられてないわよ!もっと良い言い逃れは思いつかないわけ?向こうはそんなにやばい状態なの?九天の支配者がそこまで手こずるなんて」

 大塚美嘉という今回の犠牲者にして加害者がいなければとっくに勝負はついていた。いくらエマ=クエーガーでもそれは言えなかった。だから、不審が拭い去れないのだろう。あの魔女が苦戦をするような敵の存在を疑っている。

「まあ、非戦闘員の女王を守りながらだからな。敵は二匹だし」

 肩を落としてエマ=クエーガーが息を吐いた。どうやら諦めてくれたらしい。

「いいこと?幕府側と里の方への謝罪にも付き合ってもらうからね!燃燈毬の口添えを期待するわ」

「よっしゃ!そうこなくちゃな!それで聖剣はどこにあるんだ?」

「私が知るわけないでしょう!」

「得意の精霊術で探せるんじゃねえのかよ?」

「精霊に頼んで捜し物は可能だけど、すごくアバウトになるわよ。大体似たような造形をした物の場所に案内されるわ。てか、ここは幾重にも結界が張られていて、精霊との会話も上手く出来ないわ。足で探すしかないわよ」

 携帯電話などの文明機器を使いこなすわりに、足で仕事をするなど古臭いことをいう。

「まあ、いいさ。じゃ、出掛けるか」

 潮は食料を持って応接室を出た。

 何か心当たりでもあるのかと、おとなしくその後ろに続くエマ=クエーガーである。

 エレベーターで一階に降りた潮は受付と書かれたカウンターに向かった。

「なに?」

「昼間、俺の事務所に轟先輩が来ただろう?そのとき……」

「あ、今日は仕事が終えたら聖剣を見に行くって言っていたわね。急いでいるのに、こんなボロ探偵社に寄り道しなくちゃいけないことに苛立っていたわ」

「ボロなんて言っていないが、まあ、そうだ。あの人は律儀な人で、自由に立ち入ることを許可されていても、ちゃんと入出記録簿に記載すると思うんだよ。自分の名と目的と行き先だ」

 入出記録簿など形だけの物で昨日使ったページの続きから今日の分が始まり、その後に明日が始まる一冊のノートである。

 ノートは痛みが少なかった。

 来訪者が多いため、一週間ほどで使い切ってしまうのだろう。ペラペラとめくると先頭のページは三日前の途中から始まっていた。

 今日のページの最後の方に轟加奈子の名はあった。目的は見学、行き先欄には本館五階魔術具研究課零室と丁寧な字で書いてあった。

「決まりだな」

 親指をエマ=クエーガーに立てた。

 一階フロアの壁に掛けられていた総合案内掲示板で本館五階を睨むように探す。

 魔術具研究フロアのようで、そこの一室が零室となっているようだ。

「零なんて縁起の悪い数字をわざわざつけるなんて、人間って変わっているわね」

「エルフ社会じゃそうなのか?俺たちは普通だぞ」

「零は螺旋を模倣した数字よ。上から見るとそっくりなのに、真横から見ると厚みが何もない。伽藍堂の数字」

「横からみたらどれだって厚みはないだろう」

「う!ただの迷信よ。良くない数字だって言われて育ったの!だから、零を好んで使うエルフなんていないの!」

「でかい声を出すなよ」

 潮が慌てた声を出した。

「さっきから職員たちが怪しそうな視線をこっちに向けているじゃない。こういう時は堂々としている方が不審に思われないものよ」

 それもそうか。いや違う。それはこのエマ=クエーガーというエルフが行動を共にしているからであって、潮一人だった場合、見つかった途端に誰何されていただろう。

 とにかくエマ=クエーガーの言う通り自然に振る舞うことにした。

 姿を見つかってしまっている以上は、もはやこそこそ隠れても仕方ないと吹っ切れた。

 なかなか神経の図太い女だなと感心した潮は、エレベーターに戻り五階を押した。

「その食べ物ってまさか若菜たちの分なの?」

「おう、一晩中何も食わないことになるからな。腹も減るだろうよ。目ぼしい物は俺が先に頂いちまったがな」

 中にはチーズ蒸しパンやいちごジャムパン、クリームパンなど甘い物が残っていた。どうやら、甘蜜系は苦手なようだ。

 二人を乗せたエレベーターはすぐに止まった。

 扉が開くと今までと大差ない通路が伸びていた。

 聖剣を研究しているとは思えない平凡さに、ここでいいのかと疑いたくなるほどである。

 しかし、案内掲示板で調べた通りの位置に零室はあったことに安堵したエマ=クエーガーは、侵入者対策の魔術罠が仕掛けられていないかどうかを調べた。

「精霊術でそんなこともできるのか?」

「馬鹿ね、精霊術ではないわ。私たちエルフにだって少しくらい人間の魔術を扱えるのよ。長い間生きていると退屈でそういうこともしたくなるのよ」

「夜這いのために覚えたのか?」

「違うと言っておくわ」

 深くは詮索しなかった。多種族の恋愛に関心がないからだ。おまけに同性にも興味を持たない、健全な青年はエルフが横に一歩ズレてくれたことで、大きな扉の前に立った。

 轟加奈子から拝借した鍵で解錠した。

 燃燈毬には施錠する習慣はあまりない。主が空間転移で飛んで行き不在になった後、この部屋の戸締まりをしたのが轟加奈子であることを当然知らない二人だ。

 大した力を込めてもいないのに鍵が開けられたことで、小さくガッツポーズまでしてみせた。

 閉めることができるのだから、開くのは当たり前のことである。その事を知らないだけなのだ。

 広くて丸い殺風景な部屋に入ると、妙な違和感を覚えたのはエマ=クエーガーである。

「ここは半分すでに世界が違うようね。そう、物質の行き来は自由にできるけど、この世界に非ずといったところかしら?……凄い。燃燈毬が最高の魔術師集団である九天を総ているのも頷けるわ。限定された部屋とはいえ、これほどの空間、擬似異界を形成できるなんて。こんな魔力は長老たちでも持ち得ない」

「ふーん、そんなにすげえのか。俺は何も感じないけどな。あの宙に浮かんでいる剣をかっぱらって、後はタクシーを飛ばすか」

「刃物を持った客を乗せてくれるタクシーがいればいいけどね。私を連れてきた理由はあれの封印を解けってことかしら?」

 封印といっても本来、美姫を封じていたクリスタルではない。

 何十枚もの札が貼られていて、如何にも厳重に封をされていると判ぜられるが、その正体は得体が知れない。

「こんなもの無理に決まっているでしょう。強引にやればさすがにここの従業員が気づいて駆けつけてくるでしょうし、時間を掛けられる訳でもないわ。やっぱり、若菜は私がこの身一つで救出してみせるわ!」

「幾重にも張り巡らされた封印か。こいつを力技で破る。何事かと集まる職員や警備員を振り切って逃げる。お前の精霊術で姿を見えなく出来たりするんだろう。姿隠しの術だっけ?外まで逃げ切ればこっちのもんだ」

 お気楽に言ってくれるわね、と溜息をついた。

「私だって無傷では済まないかもしれないわ」

「安心しな。封印を破るのはお前じゃない。俺が気絶したりしたら、とにかく剣だけは女王に届けてくれ」

 エマ=クエーガーを押し退けて聖剣を見上げる位置に来た。

 切っ先を下に向けた聖剣システィーナは沈黙し、ただの無機物である。

 しかし、強い魔力の波動を感じる。こいつは動きや能力を抑え込む封印なんかじゃない。

 聖剣に対して仕組まれた術式通りに攻撃を加えているのだ。それに対してシスティーナが微かに怒り始めているのを感じた。こいつには感情と呼べるものはないのかもしれない。だが、知能のようなものはありそうだ。この不当な扱いを不遜と断じるほどの知能が。

「解き放ってやるよ。ついでにお前のマスターの所に連れて行ってやる!出番が多くて済まねえ!疫病天人、響子!この札どもを喰い千切るぞ!」

 エマ=クエーガーが悲鳴を上げた。

 一瞬前まで何の変哲もないチンピラに膨大な魔力の巨魁が降って湧いたのだ。

 膨大な魔の力は魔務省の敷地全域に行き渡るほどである。しかもその属性を人目で看破したから、悲鳴を吐き出すことになったのだ。

 闇属性。

 光と闇を象徴する螺旋樹の半身とはいえ、まっとうな生き物がその身を染め上げて良いものではない。生きていられる筈がないのだ。

「なんなのよ、背後の童女は?」

「響子といって、疫病神の成り損ないだ。危ねえから下がってろ!」

 浮かんでいるとはいえ、長身の潮ならば手が届く高さに剣はある。刃の部分までで柄までは無理なのだが。刀身部分、もちろん平らな腹に狙いを定めた。

 不幸、不浄の長たる疫病神もどきの力を右拳にのみ集中させる。

 夢魔族ブルーノを殴りつけた時とは違う、これが彼の喧嘩闘法である。

「絶対不幸幻滅流!殴技!深淵の衝撃!」

 単純に言えば右ストレートである。ただ疫病天人の力をまるで弓矢の様に放出し異常なまでの貫通力を持たせたのだ。しかも、燃え上がっている呪符があるということは火属性も含有しているようだ。

 闇の炎は地獄の業火か。

 足元を揺らす衝撃にエマ=クエーガーは耐えた。鼓膜が激しく痛んだ。しばらく何もきこえなくなるほどの轟音が室内にとどろいたのだ。

 その代償は確かなものだった。

 浮力を失った聖剣が床に突き刺さっている。微かに傾き、まるで長い柄を潮に向けているようでもあった。

「俺の全力パンチで無傷かよ。こいつはすげぇ剣だな!よし、姿隠しの術をかけてくれ!」

 しかも、自然落下しただけでコンクリートの床に先端が二十センチ消えている。恐ろしい切れ味だ。聖剣を引っこ抜き持ち難そうにしてエマ=クエーガーに近づいた。

「耳が、耳がぁ!」

 両耳を押さえて悶えていた。

「早く俺たちの姿を隠せ!もうすぐ職員が来るだろうが!」

 左腕を耳から強引に離して怒鳴った。

「判っているわよ。なんかすでに後悔しているんだけど。その響子ちゃんだっけ?仕舞ってもらえない?そんな凶悪な人を出現させたままじゃ、術を掛けられないわ。生半可な魔術は効果ないでしょうね」

 頷いて響子に一言二言話しかける。

 亡霊少女の存在が感じられなくなると、エマ=クエーガーは素早く集中し術を唱えた。

 複数の人間の足音がもうすぐそこまで迫っていたからだ。

「おい、早くしろよ」

「もうかけたわよ。私とあなたはお互い視認できるわ。でも、他の人には見えていないの。範囲を限定する魔術なんだから私から離れないでよね。あんたなんかに近くに来られるのは不本意だんだけど」

 ちょうど職員やら警備員、総勢八名ほどが急行してきた。

 おそらく今省内にいる全員、あるいはほとんど思われた彼らは、粉塵収まらぬ零室の有り様にド肝を抜かれた。

 次にこの部屋にあると聞かされていた聖剣を手にしたチンピラとエルフが部屋の真ん中辺りに突っ立っているのを目にした。

「誰だ!お前たちは!」

「確か聖女と一緒にきたエルフと長官室に居座ったゴロツキだ!つ、捕まえろ!」

 紛れも無くこちらを指さされて、潮の目付きが剣呑になる。

「おい」

「あらやだ。この部屋って半分異界だから精霊術に失敗しちゃったのかしら」

「おい!」

「とにかくここから出なくちゃ」

「おいぃ!」

「何よ!」

「俺に担がれてろ」

 正面から細い腰を肩に担いだ。

 身体をくの字に曲げることになったエマ=クエーガーはさっきた食べた物が出てきそうになった。左手には長大な聖剣を逆手に持ち、右肩にエルフ、更に右手にはビニールいっぱいの食料を手放すことなく大男は走り出した。

 出入口は一つしかなく、そこから人が雪崩れ込んできるのだ。

 何人かは魔術師なのかもしれない。きっと殴り合いなどはしたことのない優秀な経歴の人間たちなのだろう。

 潮は突破が成功すると確信した。

 魔術師が魔術を捨てて数で迫ろうとしているのだ。よりによってこの自分に、である。

 走ったのは数歩に過ぎない。それで充分だった。男たちを十分に引きつけて潮はジャンプした。

 右か左ではなく上に向かって。

 棒高跳びの要領で背面になり見事に飛び越えた。

 彼らの頭上を通過中、男の一人と目が合ったエマ=クエーガーはずいぶん間抜けな顔をしていると思った。でも、自分もそんなに変わらない変な顔をしていたのだろう。

 大荷物を抱えて人垣を跳躍して越えるなど、こんな話を誰が信じるというのだ。

 着地の間際、腰を捻り背中で床をぶつけることもなかった。革靴にとっては酷い扱いへの不満なのか、ソールから煙を出していた。焦げる臭いが鼻腔をついた。

「おまえ、空は飛べるか?」

「み、短い時間なら」

「上出来だ!」

 まさか、と思ったが、きっとそうなのだろう。

 零室から脱出した潮は通路の向かい側の窓を破って建物の外に逃走するつもりなのだ。

「きっと魔術で補強されているわよ!」

「響子、頼む。絶対不幸幻滅流、蹴技!……天界の稲妻!」

 真正面から蹴りつけただけの蹴りである。それでも不思議なことに大きな窓ガラスは木っ端微塵に割れ砕けた。木製の枠も残さず破壊したことで、エマ=クエーガーを降ろしてから飛び降りるというロスも無かった。

 彼は勢いを失うことなく、外部に踊りでた。

「飛べ、エルフ!」

「こんなに勢いがついていたら止まらないわよ!魔術の飛行と違って精霊術のは力が無いのよ!」

「先に言えぇ!」

「相談しなさいよ!」

 空中でバランスの悪い中、潮が叫んだ。それでも自分にできることを理解していた。

 まず破損する心配のない聖剣を手放し、両腕を自由にした。

 エマ=クエーガーを胸元に持ってきて両腕で抱っこする。後は着地の衝撃に彼自身が耐えられれるかどうかである。

「よし」

「良しじゃないわよ~!」

 大地を目前にしてエマ=クエーガーの絶叫が響いた。

 振動は凄まじくはなかった。少なくともエマ=クエーガーは五階から落ちたわりに平気だったと安心した。日頃の行いかしら、そんことを考えてしまう。

「……汗すごいけど大丈夫?」

「おう、お前の体重が三十九キロで助かった。四十五キロ以上だったらアウトだったぜ」

 その六キロの違いはなんだろうと考えている暇はなかった。

「俺はしばらく走れないし歩けない。精霊術の飛行術で行けるところまで行くぞ。方角は中野区だ」

 どこか怪我でもしたのかと心配した。

「単に足が痺れただけだ」

 足首くらいまで土に埋まっている。

 長大な聖剣を拾うと今度はエマ=クエーガーが潮の腕を掴んできた。

 味わう浮遊感は夢魔族に吊るされた空中ブランコとは打って変わって穏やかで口笛を吹いてしまいそうだった。呑気なものだと怒られそうだが。

「あいつらの悔しそうな顔を見ろよ!ざまあみやがれ!へへん!」

 悪人の捨て台詞がこんなに似合う男もいないだろう。

 言葉の通り何事かを大声で言ってくる魔務省職員を後にして、二人は満月に向かって飛行を始めていた。

 ――まったく、こんな絶好の月夜に妖精と空中散歩とはね。俺にぴったりだぜ!

 東京都中野区、最下位の夢魔族を生かさず殺さないことを目的に徳川綱吉が施工させた通称、犬屋敷。その跡地ではこの聖剣を待っている女性がいるのだ。

 もう少しで戻ることができる。

 潮の気分はご機嫌だった。



 何か思い出し笑いをしたように、ふっと笑った燃燈毬を見つめるのは呆れ顔の若菜である。

「よく笑っていられるわね。私なんか恐怖とか不安を通りすぎて、怒りしか感じていないわよ。頭上を旋回する豚に」

「誰が高速回転するイケメンだ!簒奪者の血族め!」

 簒奪者なとど罵られたのは室井若菜であり、なんとなく彼女たちの話を聞いていた毬はのほほんとした表情をしている。

「そうとも!貴様の先祖が我々に対して何を行ったか、もっと親身になって聞くが良い」

 二匹がかりで結界への継続的な攻撃をする夢魔族を完全に無視して毬が苦しそうな若菜に声をかける。

「若菜ちゃん、限界なら我慢しないでぇ」

 額に汗を滲ませ奥歯を噛んで耐えている姿は、真に迫るものがあった。冷静さを維持する為の軽口であり、意識して深呼吸を繰り返している。

「耐えるところでしょ」

「諦めちゃえば楽になれるわよ。証人は私と美嘉ちゃんしかいないから。その隅っこのほうでしちゃえば?おしっこ」

「二十歳の未婚の女が人前でするなんて嫌よ!救援がくるまで持ち堪えてみせるわ!」

 そう言ってもねえ、救助が来てもすぐさま地上に行けるわけではないのだ。

「そうだ、毬ちゃん、あなた空間転移で膀胱内の尿だけ体外に飛ばせないかしら?」

「……理論上は可能だけど、失敗すると臓器を少し抉られることになるわよぉ」

 無茶苦茶である。だが、眼球は血走り、瞬きの回数も少なくなってきていることに気がついた毬は、彼女が遠からず結界の端に走り出すだろうと考えていた。ティッシュくらいは差し出してあげるつもりだ。

「あなたたちは何なのですか。魔務省長官と勇者智の子孫というのは紹介いただきました。私が言いたいのは、この状況でどうしてそんなにお馬鹿なことを言っていられるのですか、ということです」

「私の結界は外にいる二匹なんかには破られないから安全なのよぉ。助けが来るのを待っていればいいのだから、楽チンよ」

「真剣よ。乙女の尊厳が掛かっているのよ!いざとなったら、膀胱内の転移をお願い!全部じゃなくていいのよ」

「その調子だと尿道にまで達しているでしょうから、尿意はおさまらないかもよ?」

「逆立ちするわ!」

 どこまでも真剣にやりとりをするのである。

「もし助けが来なかったらどうするんですか!私はすでに死を選んだ人間です。でも、私のためにお二人を巻き込むことは忍びないです」

「なら最初から夢魔族なんて召喚しなければいいじゃない。あなたを喰らって完全体になったブルーノが人畜無害、海岸掃除に精を出すとでも思っていたの?」

 これは若菜である。

「夢魔族自身に破壊衝動は少ないと言われているわぁ。遭遇した場合に攻撃してくるかどうかは、半々といったところでしょうねぇ。人間に対しては。螺旋樹の守護者たるエルフたちなら戦闘発展率は必ず言っていいほどで、相手によっては死人がでるようだけどぉ。螺旋樹への憎悪は夢魔族なら全てがもっているわ」

「やっぱり危険な生き物なのね。三浦さんの方が凶暴そうだけど」

「……潮くんは優しいのよ。学校でいじめを受けていた私を助けに来てくれたりしていたのだから。歌舞伎町の探偵社で大お祖父様が存命の頃の話だけど。六連くんだって」

「……あの二人ってそんなに昔からの知り合いなの?中学生の騎馬戦でしか接点を持っていないと思っていたわ」

「幼稚園の遠足で葛西臨海公園に出かけた時に始めて出会ったらしいわ。数年後に聞いた話なんだけど、お互いに生涯最悪の出会いだったと言っていたわ。藤崎すみれさんも同い年よ」

「う~ん、何があったのかしら?」

 知り得る者は少なかった。

「とにかく潮くんは優しいわ。悪く言わないでください。周囲が誤解しているだけなんです。喧嘩の理由は、誰かの為にということが多かったわ」

「もしかして好きだったのかしら?」

「きゃ~!」

 ニンマリ笑い誂う若菜に両手で顔を隠した毬である。しかし、少し開いた指の間からしっかりと美嘉を見ていた。

「人気あったからな。私じゃダメだったの」

「いやいや、人気なんてあるわけないわ。そういえば騎馬戦の後の待ち合わせ。それこそお互いの勘違いなのではないかしら?三浦さんとしては優勝したら、キスって約束だと思っていたみたいよ。結果は引き分けになったから、約束は貰えないって思ったらしいわ。でも、あなたは違った。来て欲しかったのでしょう?」

 悲しそうに頭を振った。

「今となってはどうでもいいわ。夢幻受胎してしまった私の人生は決定されたわ。監視のついた牢獄で死ぬまで過ごすのよ。生き残ることができたとしても。でも、それはあのまま孤児院にいても大差なのよ。私なんかが結婚できて幸せになれるなんて思ってないし、お祖母ちゃんになるまであそこで子供たちの相手をするのも億劫だわ」

「そういうストレスが原因で現実逃避のように夢、妄想を抱くようになったのね~。夢魔族を呼び寄せる因子を含んだ夢をぉ~」

 大事な話をしているときは間延びせずにちゃんと喋って欲しいと思う若菜だった。

「酷い法律よね。誰が考えたのかしら。たった一度、間違いで夢幻受胎しただけで一生終わりなんて!」

「考えたのは私の父親ぁ。安土桃山時代だったかしら。織田信長公からの横暴な厳命よ。何とかしろと。それで考えたのは二次的災害を防止し、受胎してしまう可能性を持った直系の血筋を後世に伝えないということなのよ。今の時代になっても発生を防ぐことはできないけど、きっといつかは夢魔族の脅威を排除できるはずと信じての非道の法案は、当時から問題点を指摘されつつも現在まで残されているわ~」

「壮大な話ね」

「その織田信長公も夢魔族を逆に喰らって、天草四郎のような魔王になったのだけどねぇ。つまり、公の場合はライバルを減らす目論見だったのではないかと思われるわ」

「そうなの?第六天魔王だったかしら?ただの称号なのだととばかり」

「若菜ちゃんへの夢魔族に関連する被害のまとめぇ。その一、被害者が夢幻受胎すると被害者が願った夢世界が再現される。今回のような花畑なら被害は少なかったと見るべきね。それでも第八位のマホーラガは出現してしまっていたけど。ちなみに孤児院周辺のマホーラガは私が駆逐したわ。そのニ、被害者によって呼び出された夢魔族が被害者を喰らうと完全体となり手強くなるということぉ。その三、夢魔族の力を逆に被害者が吸収してしまった場合、歴史に名を残すほどの魔王になるわ。その力は絶大で単独でも国を傾けるわぁ。日本統一の一歩手前まで迫った織田信長公、市民を率いて宗教戦争を起こした天草四郎。海外にだっているわよ。ルーマニアの吸血鬼伝説の発祥とか、ナポレオン三世とかね。不幸な最後を遂げるという共通点から、やはり、人が手にしてはいけない禍々しい能力なのよ。以上」

 長い説明である。

「それでぇ、夢魔族と室井智の関係は?」

「……私は智お爺ちゃんと面識はないわ。だから、これは私の推測よ。でも、きっと、かなり正解に近いと思うわ。どういう手段を使ったのかは判らないけど、智お爺ちゃんはあなた方の言う真の螺旋樹があるというアストラル界に行ったのよ。そこで二十二の門番たちと何か約束をしたと思うの。その代償としてアストラル界の住人たち、二十二の門番とその眷属たるフェシス、それから夢魔族を私たちの世界に召喚できるようになった。でも精神体というのは私たちの方でも同じで具現化するには身体が必要になるわ」

「そうねぇ、精神体のままでは存在するだけでエネルギーを消費してしまうから~」

「お爺ちゃんが彼らのために用意したのは機械の身体よ。身体と言っても手足が在るわけではなくて、ドリームダイヴコンピュータシステムというソフトウェアの擬似人格として、彼らを使ったのよ。その能力は人間の夢世界への旅行を可能としたこと」

「魔法のような技術ねぇ」

「その通り!あの時、室井智の甘言に唆され戻ってきたものはいなかった!今も時折、同胞が居なくなる。外の世界とやらに魅了された愚か者どもだ!確かに我ら精神の存在であるアストラル界の住人ならば、人間を夢の中へ誘うことはできるのだろう!しかし、機械の身体を与えられたことによって、不死性永遠性を喪失し、まるで生物たちのように死というものまで得てしまった。超越者であるはずの我々がなんとも惨めになってしまった」

 ブルーノが結界を乱打しながら熱弁し肯定してくる。

「でも、それなら肉の身体を得たマガラスも、この世界に縛られ無限ではなく有限になるということよね?」

「その心配は無用だよ」

 代わりに答えたのは高速で回転を続ける本人、マガラスだった。気のせいか最初の頃より速度が上がっている気がした。

「もともと我ら夢魔族というものは、アストラル界の螺旋樹を破壊するためにいるんだ。現存する一つ一つの世界を崩壊させることは、螺旋樹を弱まらせる。弱体化させることになる。いつの日にか螺旋樹そのものを、根っこからへし折るのが存在意義なんだよ。この世界を法則ごと破壊してしまえば、肉の呪縛は解かれ元の精神体に戻る。そしてまた別世界へと赴くのだよ」

「そういうものなの?」

「そう言われてはいるけど、真実だとは思っていなかったわぁ。どうやれば法則を壊せるのかしら」

「生き物がいなくなればいい。それは虚無であり、虚無は全てを飲み込む」

 見ればブルーノの姿が薄くなっていた。ただそこに在るだけで力を失うというのは確かなようで、痩せ衰えていくのが判る。加えて乱撃である。相当早いペースで消耗しているのだろう。

「ふうん」

 鼻息を鳴らしたのは若菜だった。

「そんなに壊してばかりで楽しいの?もっと前向きに生きなさいよ。子供を作ったり美味しい食事を作ることに心血を注げば?」

「スケールの大きな話からいきなり現実的な内容になったわねぇ。子作りはともかく、ポジティブに生きようとしなくちゃつまらないわよね」

「前向き……ポジティブ。あなた方は生まれて何もかもを得ているからそういうことを言えるのです!私はブルーノさんやマガラスさんの言うことの方に賛同します。だって、望みのままに生きられない世界なんて私には価値がないんですもの!」

 強い感情を爆発させたのは大塚美嘉であった。彼女は続ける。

「親の顔も知らない私がどんなに努力しても、結局は頑張ることを何もしていない裕福な家の人には勝てないんです。どんなに頑張っても覆ることのない現実だと熟知して生きていることは……苦痛でしかないわ」

「思い通りに生きている人間なんてどこにもいないわよ。人にはそれぞれ悩みがあるわ。人に苦労している姿を見せているかどうか、悩みの種類だってそれぞれだから、共感を得ることは難しいでしょうね。でも、みんな頑張っているのよ。自分だけが辛いと思っているのはあなただけじゃないわ」

 尿意を忘れて若菜は美嘉と向き合った。その時である。遥か上空の地上に動きがあった。

 警備隊ではなく、それを越える人員の到着であった。

「やっときたわねぇ。ちょっと前に聖剣システィーナに施した私の呪符が破られたわぁ。救出部隊がそろそろ来る頃だと思っていたけど。おしっこはまだ大丈夫?」

「せっかく忘れていたのに思い出させないで。このままでは目撃者が増えただけじゃないの。速やかなるトイレ作戦を望むわ」

 趣旨が違うのだが、救助隊は確かに軍備を展開させていた。真上から入り込むサーチライトが増えたのだ。

 ほどなくして銃弾の嵐が襲ってくることだろう。毬の強固な結界を信じての強攻策だろうが。

「まずは下級夢魔族の排除。それから少数精鋭による夢魔族撃破」

 ざっと二十分という辺りかと毬は予測した。それも運良く常盤六連と藤崎すみれ、それに轟加奈子が突入しての時間だ。決着を見届けなくとも途中で脱出してもよい。

 普通の将兵ではブルーノとマガラスを撃破できないだろう。

「明かりよ」

 毬の胸元に何の脈絡もなく光源が現れた。彼女の拳ほどの小さなものだった。それを掲げる。

 光球は自身の結界と肢体をグルグルと廻すマガラスを素通りして、縦穴である犬屋敷跡地に光をもたらした。

 太陽を直視しているかのような強烈な光はマホーラガの位置を照らし出すだけでなく、多くの人間たちの希望となったことだろう。

『毬どの!これよりお救いいたします!今しばらくご辛抱ください』

 拡声器を使っての宣言は常盤六連だった。

「辛抱するのは私じゃなくて若菜ちゃんなのに」

「六連さん、早く!」

 そんなやりとりも聞こえなくなるほどの銃声が轟いた。

 高い壁を一周きれいに囲むようにして配置された兵士たちによる一斉射である。サーチライトの光量に負けない火花が飛び散る。

 毬の『明かり』によって内部が照らされ、小動物のような最下位夢魔族、マホーラガを次々に射殺していった。

 銃弾が降り注ぐ底に居た三人は両耳を手でしっかり押さえた。夢魔族マガラスの変態的猛攻に耐え抜いた毬の防御結界を信じるしかなった。

 約十分に及ぶ掃射は『撃ち方やめぃ!』という号令で終わることになる。

 再び『明かり』を唱え縦穴を調べる。

 爆煙のせいでくっきりとは視えなかったが、全滅とはいかない。

 だが、マホーラガどもで無傷なものは皆無であろう。

 二匹の夢魔族も姿を消していた。

「さて、一時撤退しこちらを窺っているのかしらねぇ。飛行術で地上に戻りましょう」

「最初からそうしていれば良かったのでは?」

 結界を張ったまま飛行すれば良かったのではないかと言ってみたのだ。

「展開させたまま移動できる結界は対魔術防壁だけよ。マガラスの物理攻撃を防げないわぁ。さっきまでのは空間を歪曲させる頼もしい結界だんだけど、身動き出来ないのよ」

 しなかったのではなく出来なかったわけか。それなりの事情をちゃんと教えてくれるところが、この魔女が人に頼られる所以であろう。

「大塚さん」

 若菜が手を差し出した。もう片方の手は毬と握られていた。

 体液で真っ赤に染められた不吉、不気味なところからは早く脱出したかった。

 差し伸べられた手を握る。途端、身体が重力を感じなくなった。

 毬を先頭にし上昇していく。

 真ん中に入った若菜のスカートの中が見えてしまい、反射的に大塚美嘉は眼下に視線を移した。

 死体。遺体。亡骸。躯。存在意義は違っていても確かに生きていた者たちなのだ。

 自分の居場所は陽の当たる地上ではなく、あの流血の地下であるような気がした。衝動が込み上げる。彼女はすでに闇をその身に宿してしまっていた。

 美嘉は若菜の手を離していた。

 高さは十分ではなかったが、よほど運が良くなければ衝撃で死ぬだろう。

 彼女の場合、より適切に言及するならば、運が良ければ死に、悪ければ生きてしまうことになるのか。

 もうどちらでも良かった。

 自身の身体を優しく包み込む何者かがいた。

 柔らかい感触、いい匂いがする。目を開いた。若菜が自分の身体を抱き締めてくれている。

「どうして!」

「死なせない」

 激突までの間にそう呟くことしか出来なかった。

 まったく無計画に自己を犠牲にする性分ではないと思っている若菜だが、損な性格ではあると認めている。

 若菜は奇怪な石像目掛けて毬の手を離していた。

 あの石像にまずぶつかり多少なりとも衝撃を分散させるつもりだった。

 そんな計画はまったく必要なかった。

 二人の身体を受け止める者たちがいたからだ。

 夢魔族マガラスとブルーノである。

 この二匹は逃げたと見せかけて、やはり機を待っていたのだ。

「動くな、燃燈毬!そこから動けば智の子孫を殺しちゃうよ」

 急激な激しい運動をしたせいかマガラスは、痩せていた。体全体を包んでいた贅肉が削ぎ落とされて、エルフのようにスリムになっていた。

 誰か判らなかったほどの変貌ぶりである。しかも、なかなかの美形だった。

 そのマガラスに頭を鷲掴みにされた若菜が藻掻いていた。両手でマガラスの腕を掴み、なんとかぶら下がっている。そして、夢幻受胎を引き起こした大塚美嘉を手中に収めたブルーノはほとんど半透明になりながらも、彼女を取り込み始めていた。受肉が開始されたのだ。

「これはまずいかしらねぇ」

 燃燈毬の焦りはまだ余裕がある様に見受けられ、誰にも正確に伝わらないから困ったものだ。



「観測班より報告です!」

 軍曹からの敬礼に返礼し、轟加奈子は報告する許可を出した。

「燃燈毬さま、室井若菜どのともう一人、民間人の生存を確認しておりましたが、上昇途中に民間人が落下。それを追った室井どのともども夢魔族の手に落ちました!夢魔族と燃燈さまは膠着状態とのことです」

 周囲からざわめきと溜息が漏れた。

 救出失敗か。誰もがそう捉えてしまうほど状況は最悪といえた。

「俺が行く」

「なりません。第一、あのボロボロの通路を走って降りていたのでは、時間がかかり過ぎます。障害を排除して自力で上がってきて頂くのが最善です。それは毬さまもご理解しておられるはずです」

「あの方が人を見殺しにできると思うのか?今もああして宙に浮いておられるのは、策を考えておられるからだ!毬どのが救うと決めたのなら、方針はそれでいい。俺が行き夢魔族の片割れくらい相手をしてやろう!パラシュートを持ってこい!」

 そんなもので降りるつもりか。妙案である。

 真下からの攻撃があると仮定するならば自殺行為であった。

 部隊は意見が割れた。

 命令に従うのが軍人である。しかし、上官一人を無謀な作戦に向かわせてしまえば、それこそ恥となる。そもそも作戦とよべないものである。

 そうしたやりとりを風の精霊から伝え聞いていたのは、三浦潮とエマ=クエーガーである。

 彼女が頼んで潮の耳にも届けれくれたのだ。

「へぇ、精霊術って便利なんだな」

「魔務省では使えないイメージを与えてしまったから、挽回のためにこういうサービスをしているだけなんですからね」

 言い訳をするエマ=クエーガーの顔面は蒼白となっていた。

 魔務省本部を無事に聖剣を持ち出した二人は、結局、エマ=クエーガーの飛行精霊術でここまで飛んできた。そのおかげで間に合ったといえるのだが、彼女の魔力はほとんど残されていないどころか、もはやいつ墜落しても不思議ではないほど消耗していた。

「俺の完璧な計画は話した通りだ。ちゃんと事前に相談したんだから異存はないだろ?」

「ほとんと行き当たりばったりの無計画な行為に付き合う私って、結構良いエルフなのかしら?」

「時間がない!やってくれ!」

 二人が浮いているのは縦穴のはるか上空である。

 もっとも現場に近く誰も警戒しない場所。

 エマ=クエーガーは腕を掴んだまま潮の背中に移動した。より密着させるために両足を彼の胴体に廻す。

「貧乳エルフめ」

「うるさい!エルフのバストはこんなものなの!殺すわよ!」

「おう!俺を殺すつもりでやりやがれ!」

 それを機に一気に降下を始めた。

 地上線を通過するのに数秒しか必要としなかった。

 防御壁の上では自軍の部下に自重を求められ、揉めている六連と目が合った。

「三浦!」

 彼の叫びを背中に受け取った。

「救ってみせろ!」

 言われるまでもない。

 急降下はまだまだ続き、空中で停止していた燃燈毬ともすれ違った。

「ブルーノは任せてぇ」

 ほとほと物分りの良い魔女っ子であると感心した。

 速度は増していき、地上に激突するまでに停止できないくらいになっていた。

「このままじゃ、二人とも潰れるわよ!」

「まだだ!もっと近づいくんだ!」

 おぶったエマ=クエーガーを誤って斬らないように聖剣を大上段に構えた。

 実は潮も剣術を教わったことはない。だが、ちゃんばらならば加奈子に付き合わされて何度もやったことがある。

 上に構えてタイミングを合わせて振り落とす。

 それだけできれば上出来だと信じていた。

 潮の背中からエマ=クエーガーが悲鳴をあげた。

「もうだめえぇ!」

「馬鹿野郎!喧嘩ってのは無茶をした方が勝つんだよ!」

 一発の弾丸となったリーゼントのチンピラと森の妖精は、縦穴の底ぎりぎりで進路を中央の石像に変えた。そこには若菜の頭部を握り潰そうとしているマガラスがいた。

 しかし、聖剣はマガラスではなく石像に向かって振るわれた。

 何かの邪神を模した石像の頭から斬りつけ、斬撃の勢いで急減速をかけるつもりだったのだ。

 両手を走る激しい痺れと戦いながら、巨大な像を両断した潮は、それでも止まらぬ降下の勢いに今度は足と腰の筋力を最大限に発揮し着地した。聖剣の切味が予測を上回ったのだ。エマ=クエーガーの重みで前のめりになる。

 その反動さえ利用して上体を捻った。

「受け取れ!」

 石に埋め込んで抜けなくならずに良かったと安心する暇もない。

 大きな手に掴まれて半分しかきかない視界で若菜は潮と聖剣を見ていた。

 左手が何かを掴んだ。とても懐かしい手触りだった。

 それを一閃させた。

 剣の素人が使っても恐ろしい殺傷力を有する聖剣システィーナは、マガラスの片腕を両断し若菜を開放した。

 地に足が着くのと同時、彼女は潮たちがいる左側に転がった。

「響子!出番だ!きついのを食らわせてやるぞ!」

 背中に居たエマ=クエーガーは彼のうなじの辺りから、疫病天人が出てきて再び悲鳴を上げることになる。

 慌てて背中から飛び退いて若菜と合流しようとした。

 その手は届かなかった。

 マガラスが残った手で若菜の足首を捕らえたからだ。

 逆さまに持ち上げられた若菜は剣の保持とスカートの裾を抑えるので必死だった。

「てめぇ!」

「動くな!片足くらいはなくても困らんだろう?」

「ダメよ、動かないで!若菜の足がなくなっちゃう!」

 叫びが幾重の言葉でほぼ同時に発せられた。

 三竦み状態となった現状に変化をもたらしたのは、少し離れたところで燃燈毬に追い詰められていたブルーノである。

「……形成はこちらが有利……。ここは退け」

「君から美嘉ちゃんを摘出する機会は今が最後なのぉ。それ以上、吸収が進めば私にも分離できなくなってしまうわぁ。そして、君の命は私の手の中。どちらが有利かしらぁ?状況把握もできないのぉ?」

 腹部までをブルーノに取り込まれ、恐怖ではなく恍惚とした表情を浮かべる美嘉の耳にはもう届いていないのかもしれない。

 そのブルーノの首には青い紐のような物が巻き付き、ほんの少し力を加えるだけで切断できるという局面であった。

 さきほどまでいた場所から空間転移でブルーノの背後に跳躍した毬は、美嘉を助けるためにまず、この夢魔族の動きを止めなければならなかったのだ。

 生き死にの勝負ならば簡単につけることができた。それをしなかったということは、毬には娘が人質として有効ということの証明でもあった。

「俺とマガラスで貴様を討ち取る。貴様は強すぎる。貴様は我らの世界崩壊の最大の障害となるだろう。貴様が追ってくるのであれば、これ以上の吸収をせずに待っていてやる」

「……了承よ。この奥に犬屋敷と呼ばれる館があるわ。そこで待っていなさい」

「マガラス!退くぞ。奥の屋敷まで案内しろ!その娘を忘れるなよ」

「おい!どういうことだよ!魔女っ子!」

 騒ぐ潮を片手で制した。どうしてももう一言伝えて置かねばならないことがあるのだ。

「私がこれほど魔力を消費したのは実に百年ぶりかしら。ペリー提督率いるアメリカ艦隊を追い払った時以来よ。今日を逃すとまた百年待たなくちゃいけなくなるわ。私を殺したのなら、約束は守りなさぁい」

 青い魔力の紐を解かれ後方に飛んで毬から離れたブルーノは、戦慄の笑みを浮かべるしかなかった。隣に並んだマガラスにしても同じだっただろう。

 人間界最強の魔術師を討つ最初で最後の好機なのだ。

「頭に血が集まるわ。捕虜にも人権があるのよ!」

 逆さまに吊るされた若菜はしっかりと聖剣を握っていた。それを手放すのは彼女の生命線を失うのと同義であると理解しているのだろうか。

 騒ぐ彼女を小脇に抱え直したマガラスは、捨て台詞を残し奥の通路、闇に消えた。

「必ず来るのだ!」

 味気も何もない言葉は拍子抜けさせられるほどであった。

 鼻で笑い飛ばせない気迫は十分だった。

「面目ねぇ。マガラスの手が伸びるとは思わなかった」

 悔しそうに潮が後悔の念を口にした。

「ここまで苦労してやってきたのに、また振り出しじゃないの」

 肩を落とす彼らの背後で絞った雑巾を勢い良く広げる、心地良い音が響いた。

 毬が肩掛けを外し二つ折りに叩いたのだ。

 それを無残に斬られた石像に投げて引っ掛けた。

 ついに九天の支配者が本気になったのだ。

「まだ終わってないわぁ。追撃に移るわよ。地下迷宮とはいえ、犬屋敷までなら迷わず行けるわ。それに振り出しじゃなぁい。若菜ちゃんが聖剣を手にすることができたのだから、同じじゃなぁい。進展はあったのよぉ」

 見た目が童女ということに難はあるが、それでもこの状況ではとても頼もしかった。

「というわけで、私の体力と魔力を温存させるためにおんぶして行ってね。お腹も空いたわ」

 自分が楽をしただけじゃねぇのか?潮はそう言おうとして、ビニール袋の端を使って腰に巻きつけていた菓子パンのことを思い出した。

「食うか?」

「気が利くじゃない。臭いがしないところまで行ったら一つもらうわ。ここは血で咽返りそうだから。急ぐわよ。若菜ちゃんにはもう時間が残されていないのだから」

 今にも失禁しそうな尿意と戦い続けているのだ。

「それってどういうこと?」

 エマ=クエーガーが当然のように尋ねた。

 彼女のプライドの為に首を振っただけで教えようとしなかった。

 他者の質問に対して沈黙で応じることは珍しいと知る者は、それだけでただならぬ異変が若菜に起きているのだと察することができたであろう。

 残念ながら二人はそこまでの付き合いではない。

 言われた通り燃燈毬を背負った潮が、よしっと一声発し準備が整ったことを告げた。

「リーゼント戦車、前進!誘導は任せてぇ」

 もっとカッコ良いネーミングはねえのかと辟易した潮は走り出した。

 その後方、数歩遅れてエマ=クエーガーも続いた。

 夜明けまではまだ時間がある。

 暗闇に閉ざされた通路に足を踏み入れる手前で早くも下級夢魔族マホーラガが襲いかかってきた。少しでも力を残しておきたい毬は不参戦を決め込んだため、こいつらの相手は潮がやることになった。エマ=クエーガーとて帯剣しているが、今の体力と集中力ではまともに剣を振るえない。

「時間稼ぎか?」

「消耗させるのが目的でしょうぉ~。あんまり揺らさないでよぉ」

 背中から抱きついてくるだけの童女が不満を口にした。

「おい!エルフ娘!」

「自分の身は自分で守るから、あなたは前に進むことだけと考えていなさい」

 気の強い女たちだと潮がほとほと呆れた。

 下級夢魔族ならば疫病天人の力を借りなくても腕力で粉砕できた。

 彼に殴られた獣たちは吹き飛び、どこかにぶちあたり動かなくなるのだ。

 死んだのか気絶しただけなのかを調べる必要はない。

 だが、まだこれほどの数が生存しひしめいていることに脅威は感じる。

「こいつら今までそこに潜んでいたんだ?」

「迷宮内部に決まっているじゃない。この地下迷宮は中野区にしか出入り口は無いけど、内部は広大で、北は練馬区、西は世田谷区まで続いているのよ。東へは掘ってないと思ったけどぉ。新宿には地下街があって中野、練馬、世田谷は地下開発が進んでいないのは、この迷宮が原因なのよ~」

「生息数不明ってことはそういうことかよ!あの縦穴に集まったのが全部だと思っていたぜ!」

「私もよ!」

「あれだけなら新兵の訓練も兼ねてさっさと全滅させるわよ。この迷宮を浄化させるにはどうしても部隊を細かく編成し、危険な通路に派遣しなければならないわ。犠牲者も大勢出るでしょうね。だから、放置され続けたのよぉ」

「こいつらの頭の上で俺らは生活してきたのかよ。下高井戸は大丈夫か?」

「甲州街道より南には至っていないわ」

「危ねえ!俺んちは無事か」

 拳でガッツポーズを作った。

「あれ?」

 いつのまにかマホーラガたちが一匹も居なくなっていた。

 この周辺に居た連中を狩り尽くしたのかと錯覚するほど、静寂となっていたのだ。人間が話す声しか聞こえてこない。

 この状況では気持ち悪かった。

「下がらせた?」

 エマ=クエーガーの独り言が響く。

「私が戦う素振りをみせないから無駄だと悟ったのでしょうね。リーゼントの力もそれほどはっきり分析する時間があったとは思えないから、彼らにとっての敵は私一人という認識で構わないわ」

「ちっ、生意気なチビだぜ!」

「ちょっとぉ、私のお尻を触らないでよぉ。痴漢~」

「この状況で信じられねえと思うんだが、お前の尻を弄っているのはバカエルフだ。渋谷駅でもこういうやりとりしなかったか?」

 毬が後ろを振り向くと、鼻の下を伸ばしたエマ=クエーガーの手が確かに自分の臀部に触れていた。

「小さくて可愛いお尻だったから」

「二百年生きてきて初めてセクハラされたわ」

「おまけに幼児虐待も加算されるよな。まあいい。好きなだけ触って元気を取り戻しておけ。急ぐぞ!」

 一行は地下迷宮を再び走り出した。


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