表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5



2



 午前七時とは、いつも母親が起こしに来る時間である。

 朝食の用意ができたと一階から大声で呼びつけてくる。

 普遍的であると錯覚を覚える風習であるが、いとも簡単に変化をもたらすことができるだろう。

 例えば自分がこの家を出て一人暮らしを始めれば、母親は目覚めを告げる息子がいなくなるということなのだから。目下のところそういう予定はないのだが。

 仕事一筋の父はとっくに出勤している時刻であった。

 今のところ両親に変わりはない。

 もし劇的な変調が起こってしまっているとすれば、その息子、つまり三浦潮の側にある。

 母が起こしにくる数時間前、正確には一晩中考え事をしていて眠れたのかどうか不明である。

 三日前、渋谷区渋谷駅周辺で出会い巻き込まれた事件は、いまなお沈静化していない。

 約四百年ぶりに現れた勇者の末裔が、長きに渡る聖剣の封印を解いたという報道は鎮まることがないように思われたからだ。

 事実を公表すべき常盤幕府も未だ調査中の一点張りである。

 あの現場に居合わせた潮は怪我の治療をしてもらいはしたが、ほとんど無関係者と判ると身体が満足に動けないことを理由に自宅まで搬送された。魔務省の役人が運転する救急車だった。

 ようやく自力で風呂に入れるまで回復したのは昨日のことで、久しぶりに頭を洗って少しはさっぱりしたつもりだったが、気分は依然として晴れることはない。

 あの日、魔務省の公用車に詰め込まれる時、見送りに来たのはエルフ娘のエマ=クエーガーのみであった。

「まあ、敵意も害意もないのは間違いないから、こっちは大丈夫よ。いろいろ面倒を見てあげたけど、手間かけさせないでよね」

 こっちのセリフだと言い返したかどうかも怪しい。言ったつもりではあったが、ちゃんと言葉になっていたか不明なのだ。

「ちっ、聖女聖女とどいつもこいつもうるせぇな」

 彼の気が滅入っているのはそれだけが原因ではないのだが、そう言っておかねば立腹おさまらないのだ。世間が右を向けば左を、白と思えば黒を掴みたくなる性格である。

 勇者再来に世間が湧けば湧くほど白々しくなっていくのである。

 あの室井若菜という女は勇者でも聖女でもなく、自分の命と交換条件で魔務省に行くことを選んだという。細やかな借りではない。

 だが、それを返す機会は永遠に失われたと考えるべきだろう。

 もう会える保証も手段もないのだから。

 再度、一階から母親が叫ぶ声が思考を中断した。

 やれやれ、仕方ない。今日は出掛けることにするか。

 クローゼットから白いスーツを取り出して着替えを始めた。

 自慢のリーゼントは見る影もないが、玄関を一歩でも外にでる時はガチガチに固めることにしている。

 大量の整髪料を掌に出して一気に撫で付け整えていく。

 まずは後頭部から次に側頭部。一番重要な前髪が上手く決まるとその日一日の機嫌が良くなる。

 これで少しは気合が入るというものだ。

 ベタベタになった手を洗いに洗面所に行き、それからリビング・ダイニングの自分の椅子に座った潮の姿を見て母親は呆れ顔になった。

「あんた、これから仕事に行くのかい?」

「三日もサボったんだ。仕事しねぇと食っていけないだろ」

「生活はお父さんの収入だけで何とかなるんだから、あんたは本業を忘れないでよ!まったく……」

 いつもの小言を聞き流し朝ごはんに手をつけ始めた。時間は七時三十分だ。

 朝のニュース番組がテレビに映し出されているのを、何となく眺めながらである。

 やはり、今朝も聖女再来ネタである。

「他に報道すべきニュースはないのかしらね。毎日これじゃ飽きちゃうわ。映画でもレンタルしてこようかしら」

 世間に流されない血筋なのだと再認識した瞬間であった。



 都営丸ノ内線の新宿三丁目駅で降りた室井若菜とエルフ、エマ=クエーガーは不自然にならない程度に少しだけ変装をしていた。

 若菜は伊達眼鏡をして服装はいまどきの流行に合わせて黄色のワンピースの上から白いカーディガンを羽織っている。足元はこれまたごく普通のサンダルで白い靴下が眩しかった。

 螺旋樹から出てきた時のエルフ民族衣装では注視を集めて仕方ない。マントも巻かなければ彼女が注目される理由は無いと判断した。

 せっかく長き封印から解き放たれた聖剣は魔術全般を管理、調査や発展を役割としている魔務省の遺物調査課というところに預けてきた。今は短刀一本帯びない丸腰だった。

 愛用の細剣を身に付けていないのはエマ=クエーガーも同じだった。格好は藍色のセーラー服のような上下がお揃いになったものである。中高生の制服ほど安っぽい感じではないし、不思議と似合っていた。

「要は時間までに西新宿にある東京都庁に行けばいいのよね?」

 霞ヶ関に本部を構える魔務省のわりと近く、麹町のホテルが二人の滞在先に充てがわれたのだが、この三日というもの外出は控えるようにとの御達しだったのだ。しかし、自由を好む螺旋樹の妖精が一つどころにジッとしていられる筈はなく、若菜自身も外の世界を見てみたいと申し出たのだ。

 ちょうど東京都を代表する領主から会談の要請があり、それを口実に外出を求めて許可された。もちろん護衛と監視つきだが、特に事件性がなければ問題ないだろう。

「変な国の体制よね?日本全体に号令を出すのが常盤幕府なのに、その中枢といえる東京にもう一つの領主がいるなんて。無駄じゃない?」

 疑問を率直に口にしたエマ=クエーガーである。

「藩主というのが江戸幕府から続く大名の系譜で、近代化の煽りを受けて民主化しなければならなかったらしいわ。藩領は世襲されるけど、領主は選挙で選出されるらしいわよ。東京のような大都会ではその両方が混在するということね。権力は圧倒的に幕府が上だし、東京都領主選挙は幕府の後ろ盾を勝ち取った人が当選するみたいよ。ちなみに京都も同じような感じだと教科書にかいてあったわ。向こうは帝だけど」

 役人たちの取り調べを受けている開いた時間に、この国の歴史を勉強していた若菜のほうが教師役となっていた。人間世界に馴染みのないエマ=クエーガーにはどうも難しい政治事が頭に入りにくいのだった。

 その点、本来いた世界との相違点に苦労しながらも、若菜は少しずつ理解していた。

 勉強熱心な性格なのか睡眠時間を削る日々が続いていた。

「ふうん?長老会議が民主主義ってことかしら?」

「長老にふさわしい人を選ぶ方法に選挙が用いられるのなら、あなたたちの世界も民主主義と言えるわね」

「いやあ、それは無いわ。エルフと言ってもやっぱりさまざまなのは知っているでしょう?他人に興味のない人も結構いるし。能力もそうだけど、何より螺旋樹を軽視するエルフが長老になったら一大事だわ!利益重視で樹までの通行許可を多種族に出したら里が汚されるもの!そりゃ通行料で儲かるでしょうけど」

「いろいろあるのねえ」

 同意と言うべきか受け流したと見るべきか。若菜たちは信号を渡り靖国通りを左に曲がった。

 平日のため通行人はサラリーマンが多い。通りの向こう側には花園神社が見えた。

 鳥居も何もかも同じように見えるが、その左側にはコンビニではなくレストランがある。そういう細かい箇所が若菜が居た世界と違う。大雑把なところでは共通していて、細部が異なる世界。

 ――これってパラレルワールドのようなものかしら。似て非なる世界とそう表現したような。

 ならば明らかな違い、エルフやホビット、まだ見ていないがドワーフという人種も些細な相違ということなのだろうか。

 それに人間が使う魔術。エルフが行使する精霊術も忘れてはならない。

 もっと歴史を深く勉強し探求したいという欲求を自覚していたし、せっかくだから楽しむことにしていた。

 それに先祖の室井智も無事にあちら側に帰って行くことができたのだから、きっと自分も戻れるはずと楽観視しているのだ。

 その方法を探していろいろと見て回るのもいいかもしれない。

 まずは現在の東京都知事、加藤氏との面談である。

 少し離れたところから複数の視線を敏感に感じ取っていたエマ=クエーガーは落ち着きがない様子だが、見られることに慣れていた若菜は気にせず歩き続ける。

 新宿区役所前の信号を横断した。

「立派な建物ね。誰の武家屋敷かしら?」

「新宿区の役所よ。こんな江戸時代風の日本建築なのが意外だけど」

 二人が見ているのはどこまでも続く白い壁であった。道路の角にそれはあったが、壁は高く長い。税務署通りへと続く道の遥か先に門番の姿を認めた。あそこが入り口か。

 ――なんて区民に開かれていない役場なのかしら?

 つい口に出してしまいそうになった若菜は、敷地内から伸びる高いビルを見上げた。

 外側は和風なのだが中身は違うようで十数階はあろう鉄筋コンクリート製のビルが三棟も並んでいて、互いの隙間はあまりない。地震で一棟が崩壊すると残りも無傷では済まないだろう。

「このデザインに意味なんてあるの?」

「私に聞かないでよ。江戸時代にだってここまで大きい規模の屋敷は大名屋敷くらいしか見かけなかったわ。それも強国の前田家や上杉家の江戸屋敷とか、有力な譜代大名でもこんなお屋敷は持っていなかったと思うわ」

 完全に田舎から出てきたお上りさんになり呆然としていた二人である。

 はっと我に返ったエマ=クエーガーは先を促した。

 時間はまだたっぷりある。しかし、彼女には先を急がなければならない、とある目論見があった。

 周囲を見渡して楽しそうにしている若菜の唇を、今日こそ奪う作戦だった。

 それは強引にではなく、あくまで自然な流れとして行いたかった。

 そもそも西新宿には公園があるという話を宿泊しているホテルで聞きつけたエマ=クエーガーは、知事との会談が終わってからそこに若菜を誘うつもりだった。ちょうど夕暮れ時になる筈なのでいい雰囲気を作り、後は勢いに任せる予定だ。

 その一大決戦の場となる公園を下見しておきたかったのだ。どのような精霊が住んでいるのかも確かめておきたかった。いざとなれば精霊術で雰囲気作りを手伝ってもらうつもりだ。

 下心を勘の良い若菜に悟られないように、意識して平静を装っている。いつもより大人しく静かにしているのはそのためだ。

 ――はしゃいではダメよ。大人の女を演じるのよ、私!何よりその場の空気が大事なんだから!

 自身に強く呼びかけた。

 エルフ娘の思惑を知らない若菜は新宿大ガードに向かって歩き出した。

 歌舞伎町が近づくにつれ人混みが激しくなってきた。人に酔いそうになりながら小柄なエマ=クエーガーは若菜のお尻を見失わないように注意した。

 向かってくる人や後ろから追い抜いていく人や自転車を鮮やかに避ける若菜のお尻を頼もしいと思っていたかは判らないが、目は憂いを帯び長く伸びた両耳がだらしなく水平にまでなっている。化粧をしていても頬の赤みが増していた。

 それを視界の隅に捉えた若菜は、またいやらしいことを考えているわね、と警戒した。

 煩悩に溢れたエマ=クエーガーよりも先に、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできたことに気がついた若菜は足を止めた。

 歌舞伎町一番街というアーチ型看板のある付近だ。声はさらに歌舞伎町に入っていったところから聞こえてくる。

 ようやく妄想から脱したエマ=クエーガーが、これって、と呟いた。

「そういえば貰った名刺には歌舞伎町の住所が書かれていたわね。こんな繁華街で探偵社なんて。舞い込む依頼内容も似たり寄ったりでしょうね」

 二人の美女がなんとなく見つめる先にはちょっとした人集りが出来ていて、喧嘩腰で怒鳴りあう複数の男たちを認めることができた。

「ここには二度と来るんじゃねえと拳で言っただろうが!てめえらのオツムに今度こそ叩き込んでやるぜ!」

 堅く握った右拳を突き出しているのは白いスーツに身を包んだガラの悪い大男、三浦潮であった。

 どんなに激しく揺れ動かしても乱れることのないリーゼント頭のすぐ下の額には、うっすら血管が浮かび出ている。

 その彼に殴られて逃げ腰の男たちは、あくまで話し合いの姿勢を崩してはおらず、手の平を広げて制止を求めていた。

「待てって!穏便に話し合おうじゃねえか!俺たちはこの倒産寸前の探偵会社が生意気にも居座る土地を、正当な価格で買い取ってやろうと言っているだ!悪い話じゃねえはずだ!」

「人が下手に出てりゃいい加減なことばかり抜かしやがって!」

 どこが下手なのかは本人にしか判らぬことだが、剣幕をそのままにさらに詰め寄る。一九三センチの巨漢、さらには歌舞伎町でも知られた喧嘩強さに五人の男たちは為す術もなく言い募るだけであった。

「そもそもこんな都会の一等地だ!将来的に相続税だって払えねえだろうが!だったら、さっさと売り払って大金を手に利息でだらだら荒廃的な生活した方が楽でいいだろうと言っているんだ。わかりやがれ!この単細胞め!」

「この土地は第五代将軍、徳川綱吉公から俺の先祖が賜ったんだ!てめえらみたいなやくざ者に売ってやるつもりはねえよ!帰れ帰れ!」

 グッと息を飲み込む男たちはまだ諦められず、殴られた下っ端が、畜生と叫んで腰の後ろから拳銃を抜いた。

 さすがに野次馬たちは身を伏せてしゃがみ込んだ。トリガーを引かなかったのは彼らの上司が止めたからだ。

 潮と交渉に当たっていた中年の男だ。

「こんな所でチャカを出すんじゃねえ!一般の方々に迷惑がかかるだろうが!」

 そこで粘るような真似はせず殴られて青くなり始めている頬を押さえた下っ端は、呻きながらも残された理性を動員させ、拳銃を元あったスラックスのベルトに捩じ込んだ。

「今日は引いてやるよ。この街で探偵業なんか正気の沙汰じゃねえ。また来てやるぜ」

 引き際はあっさりと群集を割き部下たちを引き連れて地上げ屋は退場した。

「一昨日来やがれ!撃てもしねえ鉄砲なんか持ち歩くんじゃねえよ!」

 自分の土地を守り切ったにしては負け犬の遠吠えに近い捨て台詞を背中に浴びせてやった。

 拳銃を向けられた瞬間、他の一般人同様身を隠すためしゃがんでしまったので格好がつかなかったのだ。

 体面を保つため、シュッシュッとボクシングのシャドーの物真似を始めた。

「どうですか!俺の手にかかれば地上げ屋なんて目じゃない!何かお困りの際には、新宿歌舞伎町の老舗探偵社、三浦探偵社をご指名ください!どんな難事件もこの頭脳明晰な拳が見事に解決してご覧にいれましょう!」

 上着の内ポケットから名刺の束を取り出し、居合わせた人々に配布する。

 受け取る者は誰もいなかった。それでも上辺だけの愛想笑いを必死に作り、次々に名刺を差し出す。

 わざわざ相手の手元に近づけているのだが、みんな慌ててその手を引っ込める始末だ。

 見ている分には面白い見世物だが、関り合いにはなりたくないのだろう。

 全滅かと思われた中、一人の若い女だけが一枚の名刺を受け取ってくれた。

 細く白い指から若い女性であると瞬間的に察知した潮は、どうせまた水商売のお嬢でストーカー被害に悩んでいる女だろうと落胆した。依頼があるのはそんなものばかりで、安い上に地味な仕事である。ついでに言えば、その手の依頼に飽きていた。

 だが、一件でも無駄にできない経営者が満面の笑みを浮かべて、低い腰を持ち上げる前に女の方が先に口を開いてきた。

「二枚目ゲット」

 そこにいたのは眼鏡をかけた室井若菜であった。隣にはもちろんあのレズビアンエルフもいる。

 貰ったばかりの名刺を指先で弄んでいた若菜とエルフの肩を両腕で抱きかかえるようにして、潮は探偵事務所に逃げ込んだ。

 考えがあったわけではないし、何故そうしたのかも後付けの理由でしかない。彼は一生懸命考えた。

 腰高障子を勢い良く閉めて、はあ~と肩が脱力するほど息を吐いた。

「なんでこんなことろをふらふら出歩いてんだ?自分の立場わかってんのか?ああん!」

 玄関でいきなり睨んでくるチンピラと若菜の間にエマ=クエーガーが割って入った。

「私の若菜にそんな下品な言葉を使わないでちょうだい!」

「あなたのものではないけどね」

 言いながら、今でも引き戸は珍しくないが、立て付けが不調になっている木製の扉を、よっこらせと開けて外にいる誰かに合図を送る。

 危険はない。大丈夫と身振り手振りで伝える。護衛役たちへの合図だと理解しつつエマ=クエーガーは背の高い男をまだ睨んでいた。

「ここが三浦さんが経営する探偵事務所ですか」

「こんな埃っぽいところは早く出ましょう。時間も無いのだから!」

「エマ、私、喉が渇いたわ」

 強く言い切ったつもりはない。いつもの口調であるのだが、そこには拒否を許さない堅い意思を感じたエマ=クエーガーは、この時もやはり若菜に従うのであった。

「珈琲くらいしかないぜ。まぁ、上がんなよ」

 両引き戸の内側は土間になっていて一枚の大きな衝立がある。部屋の中を簡単には盗み見できないようになっていた。

 その背の高い衝立自体は水墨画で書かれた年代物のようだが、どこかで見たことのある絵だった。土産物屋でよくある絵ということだ。

 土間で靴を抜いて膝歩ほどの高さにある板の間に上がり、その壁を迂回する。

 なかなか趣味の良いモダンな室内に若菜が小さな歓声を漏らした。

「俺のひい祖父さんは有名な探偵だったんだよ。金はあった時代だな。内装を改装したのも昭和中期だったかな。当時でもかなり少なくなっていた、明治時代辺りの古美術品を収集して昭和モダン風に仕上げたらしいぜ。そういうのには興味がない息子や孫は特に手を加えたりしていないから、そのまま残されいるんだぜ。ひ孫の俺もそうだが」

 簡単でざっくばらんとした説明をしながら、意外にもテキパキと客人たちへの珈琲を入れ始める。

 人間への造詣が深いエマ=クエーガーは楽しそうに壁に並んだ小物を手に取っては笑っている。妖精という言葉が様になる光景であった。

 分厚い大きな絨毯は何かの華をデザインしたものなのだろうが、さすがに痛みが大きくて判別できなかった。その上にある縦長の円形テーブルは重厚な光沢を放ち、どうやら向かい合う二人掛けソファーとセットのようだ。

 木彫りの足に同じ象の彫刻が施されている。クッションは上品な青だったのだろうが、すっかり水色と呼べるところまで色落ちしてしまっていた。

 エマ=クエーガーがいる右手の壁には古い書籍が陳列された棚がびっしりと並び、まだ余裕がありそうだった。もしかしたら潮の曾祖父という人物が、子や孫のお気に入りを並べて置けるようにと残しておいてくれたのかもしれない。

 どこかのお土産品と思われる小物たちは、エマ=クエーガーが楽しんでしまうくらい多種多様に富んでいるようだ。

 埃が立たないか心配だったソファーは不思議と座り心地が良くて落ち着いた。

 職人が丹精込めて作った品物は色褪せることはあっても不具合を起こさないものなのだと、父親に言われたことを思い出した若菜は、確かにその通りなのかも知れないと納得した。

 まったく同じ商品が並んでいたら、値段の高い方を選ぶ一族でもある。

 安いものはそれなりでしかないが、高いものにはそれだけの理由があると豪語するのだ。

 若菜が座った後ろにはこれまた古びた階段があって、板のそこが抜けてしまわないか心配になる。

 部屋の一番奥に台所があって、潮が人数分の珈琲を煎れて戻ってきた。

「完全に事務所として使っているようね。ご自宅は?」

「風呂は無いけど住めないことは無いんだぜ。二階には布団も用意しているし。実家は下高井戸だ」

「お風呂が無いという時点で住居として不十分だわ。それに夜でも凄くうるさそう。木造建築なのだから壁が薄いものね。さっきの人たちは何?地上げ屋とか言っていたわよね」

「ああ、去年辺りからしつこく来るようになっちまってな。この土地を買い上げてビルを建てるんだと」

「こんな狭い場所にビルなんて建ててどうするつもりかしら?あら、ごめんなさい」

「あー、いい。何でも風俗専門ビルを作るんだと。地下一階がピンサロで二階三階がファッションヘルス、四階五階がイメクラで六階と七階がSMクラブだったかな。受付を一階フロアで統合しちゃえば人件費なんかのコストも抑えられるって言っていたな。土地ってのは横に広げられないから、縦に伸ばすんだと」

「ずいぶんお金を稼いでくれそうなビルに変わるのね」

「売るつもりはねぇから変わらねえよ。五代将軍から貰ったらしいから、勝手に売れねえ仕組みだしな」

「そうなの?」

「鷹狩の時、将軍の命を奪おうとした逆賊から窮地を救ったご褒美に賜ったらしい。以来、ここは俺たち三浦家のモノなんだが、誰かに譲ることは出来ない。俺たちが不要になった際には徳川将軍家に返さなくちゃいけないらしいんだが、その将軍家も江戸城を開城して常盤家に政権を譲渡すると紀州国に引っ込んじまって。常盤幕府の役人にも認可証を見てもらったんだが、徳川幕府からこの土地について一切の記述がないんだと。常盤幕府が権利を主張できるわけでもないらしい」

「忘れていたのでしょうね。日陰ですもの。つまり、三浦家が所有することは認められても、自由にはならない。おまけに売り払おうにもその許可を誰に求めればいいのか不明ということね。困ったものだわ」

 小物遊びを堪能したエマ=クエーガーが戻ってきていきなり文句を言った。

「珈琲は苦いからあまり好きではないのよ」

「珈琲ならあるぞって先に断っただろうが。飲まないなら言えよ。最初からお前の分なんか用意しなかったのによ」

 鼻で笑い若菜の隣に座ろうとして先客がいたのに気づく。一匹の三毛猫が丸まっていたのだ。

「あら、猫じゃない。おデブで可愛いわね。お昼寝中ごめんなさいね。でも、若菜の隣は私の特等席なのよ」

 熟睡していた三毛猫を優しく両腕で抱えると、まず若菜の横にちょこんと座り、猫を膝の上に置いた。喉の辺りを撫でてやっている。

「そういえば魔務省の連中、よく外出許可なんて出したよな。まさか逃げ出してきたのか。聖剣を持ってないところをみると放り出されたか?」

「あの剣は現在調査中よ。この世界の魔術系体ではないらしいから、時間はかかるらしいわ。どの道、私には不要のものだわ。だって……私の世界には魔術そのものが存在しないのだから。使い方が判らないのよ。剣道なんてやったこともないし」

「まさに猫に小判、いや大判だな」

「この子のことを言っているのなら、それは間違いよ。この三毛猫はエルフ猫なんだもの。ご利益高いのよ~」

「エルフ猫?」

 聞き返したのは若菜で、潮は剣呑な眼差しで応じた。

「エルフの猫。そのものよ。螺旋樹の麓にはたくさんいたらしいけど、今は数が少なくなっているわ。なんせ百年に一度しか繁殖期がこないものだから、増えるときは一気に増えるのだけれど、今は時期ではないのよ」

 マグカップを傾けて潮が胡散臭そうに言った。

「そういえば、その猫、爺ちゃんが子供の頃から今のまんま、デブ猫だって話だったな。与太話かと思っていたぜ」

「まぁ、普通は信じないわよね。螺旋樹以外の場所で見掛けるなんて本当に珍しいのよ。この子は人間たちで言うところの招き猫なんだから大事にしなさいよ。縁起物よ。招福の猫なんだから」

「招き猫が実在するとは驚きね。でも、招福のご利益もあまり効果は高くないようだけど。住処が寂れているわよ」

「寂れてねえし。爺ちゃんと親父が公務員をやっているから、ひい祖父さんの後を継いだのが俺ってことになるんだろうが、俺になった途端、依頼が激減したんだよ。ガキの頃、こいつの尻尾を踏んづけたのをまだ根に持ってやがるのかね。階段の上から落としたこともあったな。飲水に塩を混ぜて咳き込ませたりとか」

「チッ」

 エマ=クエーガーの膝元から舌打ちが聞こえた気がしたのは潮だけではない。すぐ隣りにいた若菜も確かに聞いた。

「気をつけなさい。声帯の作りが違うから喋れる子は少ないみたいだけど、こちらの言うことは理解出来ているのよ。怒らせると怖いのよ~」

「でも、このミケちゃんが招き猫だとして、この探偵社の衰退ぶりはどういうことかしら?」

「福の力を上回る疫病神が新しい主になったということね。神様なんて他界した人が神格化されたものだけど、強い未練を残したまま死んだ人は、現世に留まり不幸を招くことになるわ。あなた、死んだら歴史に残る疫病神になるわよ。すでにとり憑かれている可能性もあるわ」

「言い切ってんじゃねえよ、アホエルフ。この事務所に疫病神なんかいねえよ」

 死んだ人間が神となるのは日本に限ったことではない。だが、エマ=クエーガーの言うとおりなら、この世界は神だらけになってしまうのではないか。

 増えることはあっても死人が死ぬことはないのだから。一度、神格化され誰かしらの信仰を得てしまったものは永遠となる。

「そういうことね。八百万神なんて言葉は伊達や酔狂ではないのよ。一方の私たちエルフには螺旋樹、ドワーフの短足には富士のマグマ、ホビットのおチビちゃんたちは北海道の釧路草原が信仰対象となっているわ。一番偉いのは螺旋樹なんだけどね」

 ふーん、と腕組みして頷いた若菜である。退屈そうに欠伸をしている潮には常識の範疇なのだろう。今更、耳を傾けるほどではないと。

「初めて聞いたぜ。お前さんたちにもいろいろあるのな」

「私の知識を披露して上げているのだから感謝しなさい。人間って本当に何もかも忘れちゃうんだから」

 今聞いた話はホテルに戻ったら、もう一度自分でちゃんと調べてみようと心に決めた若菜は、玄関の方に頭を向けた。人の気配を感じたのだ。

「三浦潮!いるのか!いるんだろう!出てこい!」

 詰問するような口調で玄関がノックされた。古い引き戸を破壊しかねない勢いだ。

 声の主は若い女性のようだが、親しみはないようで面倒くさそうに立ち上がった潮は、対応しに玄関に向かった。背の高い衝立の向こう側でなにやら聞こえてくるが、歌舞伎町の喧騒に紛れて聞き取れない。

 耳の良いエマ=クエーガーは小馬鹿にするように笑いを浮かべ始めた。

「どうやら苦手な人には頭があがらないようね」

「聞こえるの?」

 もちろんよ!意味があるのかウィンクをして肯定したエマ=クエーガーである。

 玄関先でのやりとりは五分ほどで終了し、潮が不機嫌な様子で戻ってきた。

「お客さんじゃないの?」

「いや、小中高校の先輩だ。腐れ縁ってやつでな。今は国防省陸軍に勤めてる大尉なんだが、この辺を移動中に発砲騒動を聞きつけてきたらしい。さっきの地上げ屋とのやりとりを誰かが通報してくれたらしいな。拳銃は所持していたが、発砲はしていないって言って追い返してやった。今日は向こうもどこかに行く途中だったらしくて、簡単に引いてくれて助かったぜ」

 肩を揉みほぐしながら、倦怠感も顕に説明する。

「幼なじみというものかしら?親身になってくれる人がいるのは有難いことよ」

「全然そんなんじゃねえよ!昔から人のことをパシリに使いやがって!今だって歌舞伎町入り口周辺の騒ぎならここだろうって、適当に来たんだぜ!」

「正解だったじゃない」

「……まあ、な」

 少し沈黙が流れた。

 こういうレトロな雰囲気が嫌いではない若菜は、珈琲を一口啜って息を吐いた。

「私はこの世界の住人ではないわ。ここと酷似した世界から来たのよ」

「ああ、なんかそういうことを言っていたな。それで?」

「それでじゃないでしょう!半年くらい前、私が手入れをしている螺旋樹の苗場に若菜が忽然と現れたのよ!真っ裸で!神秘でしょう!運命の出会いでしょう!結婚するしないないって思ったわよ」

「運命かどうかは別として、ここが私の世界ではない以上、私は元の場所に帰らなければならないの。室井智お爺ちゃんが異世界に来たなんて話は聞いたこともないわ。でも、聖剣の封印を解除できるのが室井智の一族だけだというのなら、それは受け入れましょう。智お爺ちゃんはここで大塩平八郎の反乱を鎮め、その直後に消えたというわ。それはつまりこの世界での役割を終えたということなのでしょうね。同じ理屈をコジツケルのなら、私は私の役割を全うしなければ、帰還する事ができないということになるの。だから、螺旋樹の里を出てきたのよ。居心地は良かったんだけど、あそこは私を必要としていないわ」

「職探しか?それで歌舞伎町に来るのは、早まった真似はよせとしかいえないぞ」

 どうしてそういう受け取り方になるのよ!エマ=クエーガーが反論した。端的な解釈ではあるが完全に的外れでもない。だが、一大決心をした若菜の行動にもっとロマンスを感じて欲しいというのが彼女の言い分だった。

「職探し。そういう表現でもいいわね。私にしかできないことを一つ一つ解決していこうと思っているのよ」

 クスクスと笑っている姿はとても聖女などではなく、年頃の女の子だった。

「あんたにしかできない事か。智教の教祖は止めておけよ。あそこはマジでヤバイ連中が揃っているからな。腕っ節の立つのがゴロゴロいやがる。さっき来た陸軍大尉、轟加奈子。あいつが大尉に昇格したのは、智教の幹部を一人捕まえたからなんだ。指名手配もされている立派な犯罪者だったんだが、そいつを殺した」

「……殺すことが賞賛される世界なのが残念ね。拳銃を民間人が持ち歩いていても咎められることはない危険なところ」

「発砲するには自衛のために限られているがな。自分の身を守るためには必要なのさ」

 白いスーツの懐から黒鉄の拳銃を取り出した。

 アメリカの市警察で採用されているリボルバー式拳銃で、銃身が短い銃だと記憶してた若菜は、グリップがハートのエースにアレンジされているのを見て、趣味の良し悪しではなく、それ自体の存在を嫌悪していたため眉を潜めた。

「弾丸は入ってないけどな」

 六発入るはずの薬室は言葉通り空っぽだった。

「俺にはこいつがあるから、こんなものは要らないのさ」

 拳を握り見せつける。確かに凶暴で破壊力はありそうだった。

 それでも鉄砲なんかよりよっぽといいと、若菜は微笑んだ。

「当たらなければ意味が無いのよね。この前は九天の支配者に手も足もでなかったじゃない。トドメは私が刺したようなものだけど」

「殺されてねえし、あの時の恨みも晴らしてねえな。続きやるか馬鹿エルフ」

 若菜の長息が二人を押し留めた。

「喧嘩するのなら将棋とはオセロとか平和的に決着をつけてもらえないかしら?」

「オセロってなんだ?あんたんとこの将棋に似た何かか?」

「私たちの里にもそんなものはないわよ。今度教えてよ」

 それを聞いた若菜は二人を無視してまた考え込んだ。

 基本的な部分では共通しているのに、オセロのように別に無くても困らない物が欠落していると思った。オセロは日本人が考案したボードゲームなのだが、もしかしたら、それを考えた人物がこの世界には生まれていこなかったのだろうか。だから不存在となる。

「興味深い現象ね」

「お、それって何年か前のドラマの決め台詞だろ?」

「私も見ていたわ!」

「螺旋樹でテレビなんか映るのかよ?」

「衛星放送だって入るわよ!バカにしないでよね」

 そんなわけないよな?嘘つきを見るような目付きをする潮に若菜が告げた。

「本当よ。ブルーレイだって一般的だったし、スリーディーテレビを持っている家庭もあったわ」

「スリーディーテレビなんて俺んちにもねえぞ」

 ――サブカルチャーもかなり共通しているのよね。

 二つの世界を知る若菜はお互いの相違点を探すのが楽しくなり始めていた。

「さて、そろそと行こうかしら」

 若菜が宣言をする。

「そうね。あ、その前に御手洗借りるわね」

 潮が部屋の一点を指さした。お手洗いと書いてある。

 再びソファーに寝かされた三毛猫は、少し寝返りをうって何事も無かったかのように眠り始めた。一日のほとんどをこうして過ごしているのだからお気楽な生活だろう。

「こいつが招き猫とはな。イメージ的にはトラ猫だと思っていたぜ。太っちょめ」

「そうね。あ、三毛猫の性別には女子しかいないのよ。雌猫なんだから優しくしてあげないと」

 余計な雑学である。

「ところで三浦さん、お急ぎの仕事はありますか?」

 少し考えてから天上を見上げた潮は、

「あの蛍光灯を交換するくらいかな」

 彼の視線の先には、なるほど、今にも切れて点滅し始めそうな家庭用蛍光灯があった。

「達成後に報酬を支払うということで、私からの依頼を受けてもらえないかしら?」

「蛍光灯の交換後ならいいぜ。……何かお困りですか?お嬢さん。三浦探偵社にお任せください」

 椅子に座ったまま上半身を前のめりにし、話を聞く体勢に入った。唇の端を持ち上げて営業スマイルを作る。

 若菜は天上の天使のようなほほ笑みで返した。

 潮の頭がくらくらするほど愛らしく美しいものだった。

「私が元の世界に帰る方法を探してください」

 一瞬の停止は何を言われたのか判らなかったからで、頭脳が動き出してからはそれがどういうことかを考えて返事をする。

「お安いご用ですよ」

 突拍子もないことを言った筈なのにあっさり受諾されたことで、今度は照れ笑いになった。

「あれ?気づいちゃいました。依頼はただ方法を探すだけ。成功の是非は別として、ということに」

「それだけでよろしいのですか。俺ならお嬢さんを元の世界に帰して差し上げますよ」

「……自分で何を言っているのか理解していますか?からかってます?」

「まあ、なんとかなりますよ。まずは図書館にでも行って異界旅行に関する資料を調べてきます。久しぶりに探偵らしい仕事だぜ!」

 リーゼントを手で撫でてキメたつもりだった。

「……私もいろんな人間を見てきましたが、あなたのような人はそうそういませんよ」

「俺のみたいなクールでワンダフルなパーフェクトマンは中々居ねえだろうな!」

「自分で言っていて恥ずかしくないの?てか、なんでトイレットペーパーがシングルなのよ!貧乏人!」

「普段は俺のケツしか拭かねえからそれで充分なんだよ!」

「私も借りようと思っていたけど、シングルならやめておくわ。ダブルが基本だし、どうせウォシュレットも無いのでしょう。ありえない。次に来る時までには、せめてダブルにしておいてくださいね」

 しれっと再来を約束する言葉はエマ=クエーガーの小首を傾けさせた。

 そんなことに気づきもしない探偵と睨み合っていたエルフ娘は、玄関を叩く音を聞いた。それはとても小さくて、優れた聴力を持つ彼女にしか聞き取れないほどであった。

「あら、またお客さんみたいよ。千客万来、繁盛してるじゃない」

 ソファーから立ち上がると数歩助走し、二メートルはあろう玄関前の衝立を飛び越えて、反対側に移動した潮の身体能力は凄まじい。

「凄いジャンプ力ね。精霊の助けも借りずに」

「スポーツ選手にでも転職した方がいいわよ。身体を使う方が得意そうだもの。高くもない知能を酷使する探偵業より自分を活かせるわ」

 潮が飛び越えた衝立をまた跳躍し後方宙返りで戻ってきた潮は、エマ=クエーガーに食って掛かった。どうやら助走なしでも二メートルの壁を超えられるらしい。

「おい!誰もいねえじゃねえか!騙しやがったな!」

「そんなはずは……」

「探偵さん!僕たちだよ!」

「あん?」

 人相悪く声がした方を見下ろした。

 衝立の右側から三人の子供が現れた。

「帰れ帰れ。ガキは嫌いなんだ。依頼は受けねえぞ」

 野良犬を追い払うようにシッシッと手を振った。

「仕事を選べる立場なの?」

 辛辣な若菜の言葉であるが、子供たちが手に持つ小瓶を指で指した。インスタント珈琲の空き瓶で中には小銭が詰め込まれていた。

 勘の働かない男にも察することができた。アレが報酬なのだろう。

「割に合わねえと思うぜ」

「可愛いじゃない。話だけでも聞いてあげれば?私も興味あるな」

 ――話を聞いたら断り難くなるだろうが。

 他人事のように言い捨てて若菜は小さな依頼人たちのためにソファーを空け、自分は書斎机の椅子に座り直した。まるで彼女が社長のようである。

 エマ=クエーガーは先を急がなければならない時間が迫っていたが、ここで変に急かせば若菜に勘づかれる危険があった。三毛猫を抱いてソファーの端っこに移動した。

 ここならアドバイス的な事をして話を手早く済ませることできるかもしれないからだ。

 依頼のお邪魔をしてはいけないという配慮からではない。

 部外者の二人が完全に見物する姿勢に入ったと勘違いした潮は、とても長い溜息をこれ見よがしに吐き出した。

 子供からの依頼は細心の注意を払わなければならない。時として悪夢が潜んでいるというのは探偵の同業者間では有名な話だ。

 まさか自分がそんなヤバイ事件に関わるとは露にも思わない。確率的に十万件中一件程度の頻度でしかない。そういうデータがあるのだ。

「では、よろしくね、探偵さん。巻きで」

 なぜかエフルであるエマ=クエーガーが開始を告げた。

 社長兼唯一の従業員は形式的に子供たちをソファーに座らせようとした。

「あ、こら、靴を脱げ!ここは土禁だ!」

 子供相手でも容赦のない男である。

 依頼人は三人の男の子である。外見に特徴はないから兄弟ということではないだろう。

 全員が十才程度であると予測する。

 夢見がちな年頃とも言えた。着ている物は普通なのだが、くたびれていてどこかサイズが合っていないように感じた。

「僕たちは大久保孤児院に住んでいるんです」

 孤児院育ちと聞いて、なるほどと納得した。お下がりの衣類を着まわしているのだろう。

 多少サイズが違うくらいのことは当たり前だ。

「大久保病院の近くのあそこか?先に断っておくぞ。うちは達成報酬制じゃない。相談料なんかもちゃんと貰うからな」

「鬼」

 これはエマ=クエーガーである。

「子供だからといって甘くするのは間違ってる。こっちはプロなんだ」

「わ、判ってます。今はこれだけしか払えないけど、大人になったら頑張って働いて残りを払います!」

 殊勝な心掛けである。

「よしよし、じゃ、小瓶を寄越しな。まずは、手付金と相談料だな」

 受け取ったコーヒーの瓶を開けて適当にひっくり返す。手の平に落ちた金額を数えもしない。

 右手の小銭を自分の手元に置いた。一円玉や五円玉、中には十円もあったが合わせても百円にもならない。それが最初の報酬だ。

「確かに貰ったぜ。話してみろよ」

「う、うん」

 いきなりごっそり持って行かれたことに衝撃を受けた少年たちは顔を見合わせた。

 誰が何を話すか決めてこなかったらしい。

 とりあえず、眼鏡少年が手を上げた。

「孤児院の大塚美嘉先生を助けて下さい!」

 思い切った様子で頭を下げてきた。

「悪いホストに騙されているんです」

 小デブ少年が後を繋げた。

「そうなんです!」

 最後にガリガリに痩せた少年である。

 彼らの話を要約すると、若いホストが大塚美嘉という女の元を訪れるようになったのは二週間ほど前のことであるという。

 大久保孤児院で生まれ育った大塚美嘉は中学を卒業すると、保育士見習いということで同孤児院に住み込みで就職したらしい。

 生まれ持った環境が何かと影響する社会で、孤児院育ちではまともな就職先が無かったのだろう。どんなに学校の成績が優秀でも、難しいのが現実だった。

 そんな苦しい環境でも一生懸命頑張る美嘉は児童からの評判も良く人気者であるという。

 美人先生は少年たちの憧れであるのだ。

「ほほう。あの美嘉ちゃんがホスト遊びね。そいつはずいぶんと似合わないな」

「大塚先生を知っているのですか?」

「俺はたいていの美人なら知っているぜ。西戸塚中学のマドンナだろう?中学を卒業して、確か高校へは進学しなかったんだよな。真面目で美人でおっとりした性格なんだが、勉強は平均的で奨学金を貰えなかったから仕方ないって落ち込んでいたような」

 眼鏡少年がトレードマークであるその眼鏡を直しながら、どうしてそんなに詳しく知っているのですか?と質問を重ねてきた。

「向こうはキュートで有名だったが、俺は喧嘩で知られていたからな。何度か会ったことがある。二三区中学対抗騎馬戦大会にも応援に来てくれたくらいだ。もう何年も疎遠だがね。ほんで、ぶっ飛ばしてもらいたい男はどんなやつなんだ?俺の分も一発加えていいのか?」

 面食らったおデブな少年が慌てふためいて、そうじゃないんですと制止してきた。

「殴ることを前提にしないでください。まずは穏便に話し合いでお願いします」

 不思議そうな顔をする潮である。

「話しても判らねえから喧嘩になるんだろう。だったら最初から殴っちまえばいいんじゃねえの?」

「暴力事件は院のみんなに迷惑となります。あくまで平和的に解決してください」

「まあ、一応、努力はしてみよう。覚えていたらな。その男はそういう風貌なんだ?違うやつを殴ったらそれこそ問題になるぜ?」

 子供たちはお互いの顔を確かめ合った。この人に依頼をするのはそもそも間違いだったのではないだろうか、と不安と後悔が滲んでいる。

 それでも何か思う所があるのか、やはり眼鏡少年が挙手する。

「僕らは誰もそのホストの姿を見ていないんです」

「ああん?」

 聞き返しただけなのだが大男に唸られて痩せた少年は、ヒィと悲鳴を上げた。

「姿をみてねえのなら、誰がホストなんて決めつけたんだよ」

 意識せずに眉間に皺が寄っていて悪人面である。

「こ、声を聞いたんです!僕が夜中トイレに行こうとして先生たちの個室の前を通ったら、大塚先生の部屋から誰かと話す声が!びっくりしてこの二人を呼びに行ったんです」

「無理やり起こされて、三人で大塚先生の部屋に行ったんです。ドアの前から聞き耳を立てなくてもはっきりとした話し声が聞こえてきました。声は一人分しかしなかったので、電話なのだと思います」

「そうなんです。内容は次の満月まで待ち遠しいと言っていました。迎えに来てねって!先生は僕たちを捨てて男と出て行くつもりなんです!満月って今夜じゃないですか!」

「いいじゃねえか、放っておこうぜ。好きにさせてやりなよ。満月の夜とかずいぶんとロマンチックな奴じゃねえかよ。美嘉ちゃんにはお似合いだぜ。依頼解決だな。アクションは起こしてないから着手金と達成金はいらねえよ。帰れ」

 珈琲瓶に蓋して少年たちに戻そうとする。

「いいわけないだろ!先生にどんな願いがあるのかは知らないけど、もし、お願いごとがあるのなら、それを叶えられるのは僕たちだ!」

「そうです!」

 眼鏡少年が熱弁しガリガリ少年が同意した。この細い少年は同調しかしていない。

「ふ~ん」

 もはやすっかり聞く気のない潮は先に受け取った小銭を数え始めた。

「第六位のブルーノなんて男に僕たちの先生を奪われてたまるもんか!」

 小銭を金額別に並べていた潮の手が止まった。

「第六位?」

「そうだよ!ナンバー六のホストでしょ!どこの店かは知らないけど!後、ガンダルヴァって階級だって!」

「あー、そいつはきっとアストラル界って名前の店じゃねえのか」

「アストラル界!そう言っていました!そこから早く来てっと。私の願いを叶えてくれるのなら、全てを捧げると!この場合の全てとは……あの、か、身体のことでしょうか?」

「僕は財産だと思う」

 そんな貯蓄があるかな。職員の給料は高くないよ。

 少年たちは見当違いな相談を始めた。そこはどうでもいいことだと、潮はエルフ娘を見た。

 我関せずといった様子で三毛猫の顎の下を撫でていたが、顔が青ざめていた。

「よし、判った。これから俺の言うことをよく聞くんだぞ。この件は確かに俺が引き受けた」

「え?」

 きょとんとびっくりしたのはエマ=クエーガーである。その彼女を目で黙らせて彼は続ける。

「お前たちは俺に会ったことを表情に出さないようにするんだ。確かに今夜は満月だから、そいつがやって来る。俺が美嘉ちゃんに付きまとうのを止めさせる。それでいいか?」

「はい!」

 三人は声を合わせて頷いた。

 インスタント珈琲の中に入っていた小銭をさらに二回も取り出し、報酬は受け取ったぜ、と笑顔を見せた。

 子供たちにはそれが、文句があるならかかってこい、と言われているようで怖かった。

 お茶を出すこともしていなかったので、三人はそそくさと逃げるように帰って行った。

 半分以下となった瓶を大事そうに胸に抱えて。

 彼らを見送るようなことはしないエマ=クエーガーがジロッと潮を見ている。

「どういうつもり?」

「なんのことだ?」

「本当にあなたが解決するつもりなのかと聞いているのよ」

「俺にどうこう出来る問題じゃないだろうが。魔務省に通報して終わりだろう?専門家がなんとかしてくれるさ」

「そして、その大塚美嘉は夢魔を孕んだ者として裁判に掛けられるのね。判決は判るわ。一生監獄で軟禁生活なのでしょう。人間の法律って野蛮だわ」

 嫌悪感も露わにエルフが唾棄する。

「事情を教えてくれるかしら?私の知らない単語が幾つも出てきたわ」

 社長のデスクに座ったまま、若菜が口論に発展しそうな二人を止めた。

「あんたの世界では夢魔族はいないのか?いや、こっちの世界にも存在しているわけじゃないんだが」

「本物の螺旋樹があるアストラル界。そこで螺旋樹を守護しながら住まう二十二の門番と眷属たるフェシスたち。その門番たちと敵対する夢魔族。本来アストラル界と私たちの世界はお互いに行き来することが出来ないようになっているの。世界の法則が違うのだから当然よね。でも、極稀にこちら側に来てしまう夢魔族がいる。人間が持つ夢見の力でね」

「人間は夢を見る。誰だってそうだろう。だがな、その夢を食い物にしているのが夢魔族というわけだ」

「人の夢に受胎し肉の身体を得た夢魔族は、世界の敵と成り得るの。そうなる前に食い止めるのが最上策なのよ。異界からの招かざる来訪者。被害者と加害者はこの場合、完全にイコールなのだけれど、すぐれた魔術師の素質を持っていると思われるわ。一度でも夢魔族を孕んだ者は、再発防止のために監視下に置かれるのというのが人間の法律よ」

「夢を喰う化け物たち。それに二十二の門番か。なんとなく聞いた言葉ね。私たちは機械の力を借りてアストラル界の住人の一部を召喚しているということなのでしょうね。きっと大半は門番に属するフェシスなのでしょうけど。夢魔族もいるのかしら。口の悪い子もいるけれど」

 高価なデスクに両肘を付き、手の平で頭を抱えるようにして若菜は独り思考に潜り込んでいる。ときどき零れる独り言は呟きでしか無く、綺麗な唇が微かに動く程度だ。

 どうももやもやするが、他にどうしようもないのだ。

 大塚美嘉は一生を棒に振ることになる。

 それを回避する手立てはあるにはあるのだが、気が進まなかった。というより、本当に可能かどうかをまず考慮しなければならない。

 室井若菜とエマ=クエーガーが帰って静かになった探偵社のソファーに座り熟考する。

 彼女が居座った社長のデスクになんて座ったことはほとんどない。

 高名な探偵であった曾祖父を越える名探偵になるときまで、それはお預けにするつもりなのだ。

 幼少の頃の記憶にしか無い曾祖父はトレンチコートを着ていて、自分の流儀を貫けといつも言っていた。

「流儀っつってもな」

「中身の詰まってないオツムを使って考えてるふりだけしてんじゃないわよ。鬱陶しい」

 目の前の三毛猫がこちらをピタリと見据えている。知性すら感じさせる双眸は眠たげであった。しかし、その長い髭を伸ばす口元が動いたのだ。

「そうだな。よく考えて動くなんてのは俺のやり方じゃないよな。ん?今誰かしゃべったか?」

 問いかけに答える者はいない。空耳か、とコーヒーカップを洗いに台所へと向かう。

 少しして戻ってきた彼は愛猫が寝転ぶソファーの前に股を開いてしゃがみ込んだ。久しぶりにこの猫を真正面から観察する。

 招き猫、エルフ猫ということが判明した三毛猫のアイシャである。若菜は勝手に好きな呼び方をしていた。それを咎める飼い主でも飼い猫でもない。

 名前などどうでもいいのだ。

 しかし、最初の飼い主である曾祖父がつけた名はアイシャである。

「こいつしゃべったりするのかね?」

 猫が呆れたように口を開けた。

「お?」

 何か言うのかと期待したが、それはただの欠伸だった。

 チッ、性格の悪い猫だぜ。期待した分、がっかりさせられて頭をグリグリ撫でわました。

「気安く触るんじゃないわよ」

「そいつは済まなかったな。さて、夜まで寝るか」

「目覚まし忘れんじゃないわよ。孤児院の就寝時間は二十二時だから、その二時間前にセットしておきな」

 携帯電話を取り出し目覚ましタイマーを二十時に合わせた。

「そうだ。寝る前にこいつのトイレを掃除しなくちゃな」

「ご飯と水も」

「そうそう飯と水も補充しておかなくちゃな」

 やることを全て済ませた潮がソファーに横になったのはそれから十分後であった。スヤスヤと寝息を立て始める若い飼い主をみつめる三毛猫は、猫らしからぬ溜息をついた。

 この男はいったいいつになったら、自分と会話をしていることに気が付くのだろうかと責めるよな視線である。

「だらし無くて間の抜けたところは大作とそっくり」

 大正後期から昭和中期にかけて活躍した名探偵、三浦大作を知る猫は身体を伸ばした。尻尾がだらりと落ちたがそれはいつものことだった。

 次に三毛猫の耳がピコンと動いたのは、表の靖国通りを何十代ものパトカーがけたたましいサイレンを鳴らして走り抜けたときだった。だが、それもどうでもいいと直ぐに寝息を再開する。

 それから数時間後三浦潮は自身がセットした目覚ましのアラームに半ギレしながら起床することになる。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ