The cherry tree hears her dream
訳:桜が叶える彼女の夢
「佳代、元気か?」
いつものように病室に入ってくる俺の笑顔は、彼女にとっては最高の薬だと信じている。それぐらいしか、できることはないし。ただ、微笑む彼女の笑顔に、俺はいつも癒されていた。
「うん、孝也くんも元気そうだね」
中原佳代は心筋漸次弱体症という病気にかかっていた。心臓を動かす心筋がどんどん弱って、最後には心臓が止まる、と担当医に聞かされた。原因は不明、不治の病。
高校に入学した直後の発症で、やむ得なく入院することになってしまった彼女はどんなに辛いだろうか。中学からの付き合いである俺――保村孝也はそれから月に二、三回お見舞いに行くようになった。
「今日は調子はいいのかい?」
「うん、最近は胸が苦しいけど、今日は大丈夫みたい」
彼女が発症してからすでに二年。高校三年生となった今も、回復するどころか悪化していく一方のようだ。けれど、佳代はそれをなるべく俺に見せないようにしていることがハッキリ分かる。
「そうそう、私最近ね、不思議な夢を見るようになったの」
「どんな?」
夢の話しをするなんて珍しい。この二年間、あまりなかったことだ。俺は興味を覚えたので、聞いてみることにする。
「フフッ、聞きたい?」
余程いい夢だったのだろう。彼女はこういった、もったいぶった言い方はあまりしない。
「ああ、そこまでもったいぶって……是非とも聞きたいね」
「あのね――」
私の将来の夢は歌手になることでしょ。それが現実となっている夢なの。
もちろん、こんな病気にはなっていない状態で。真夜中のシーンとした劇場で、観客もいないのに歌う私がいるの。
ちょ、ちょっと、笑わないでよ、もぅ……。おかしくはなんてないんだから。
えっ、どうしてって。だって、そのときの私は充実しているから。
夢の話はそれでお終いだった。
「で、不思議なのは、その夢を最近毎日見るからなの」
「毎日ねぇ」
腕組して考えても、毎日同じ夢を見る理由なんて浮かぶわけがなかった。なんせ、心理学者でなければ、精神学者でもないからな。ただの高校生に分かるはずがない。
「保村さん、そろそろ面会時間が……」
そこに看護士が病室に入ってくる。
「あっ、すいません。じゃあ、また今度来るから」
手を軽く振って、彼女に別れを告げる。
「うん、待ってるね、孝也くん」
彼女も応えて、手を振る。窓から差し込む夕暮れの光が病室を、彼女を赤く染め上げていることに気づく。不吉ながら、それがまるで鮮血の色に思えてしまい、俺は表情を必死に隠しながら病室を出る。
そのとき、ふと淡い桜の香りがした。病室の窓から吹き込んできた風に紛れていたのか。もう一度、病室に戻ろうかと考えたが、看護士に迷惑だからやめにした。
それから数日後。
不吉な予感どおり、彼女は死んだ。涙は流れなかった、いや流さなかった。恋人ではなかったし、好きだったがまだデートもしていなかった。
だから、中学時代一緒に過ごしたという事実だけが、俺と佳代をつないでいた。そして、涙の代わりにあふれ出る想いがあった。
「どうして、神様はあの時が最後だと教えてくれなかったんだ。 もしも知っていれば、何かできたはずなのに!」
彼女が焼かれていく時にも、それしか考えていなかった。
それから数ヶ月が過ぎて、夏も間近の七月上旬。休み時間の合間に男子たちがワイワイガヤガヤと雑談していた。
「塾が終わって、夜も更けた十一時にさ。あの美しが丘駅からちょいと離れた場所に寂れた劇場があるだろう?」
「ああ、あるな」
受験、受験で疲れた彼らの雑談に、俺は参加せずにただ授業の復習をしていた。
「それでさ。ふと思って侵入してみたんだ」
「お前、勇気あるなぁ……!」
勇気があるない以前に、ただの馬鹿じゃないのか。時折耳に入ってくる話に集中できずに、俺はノートを閉じる。こんなときにも、俺は彼女の夢物語が脳裏に蘇る。
『真夜中のシーンとした劇場で、観客もいないのに歌う私がいるの』
そんな夢さえも叶わないまま彼女はいなくなった。俺は一体どうすればいいのだろうか。結局、彼女に何もできなかったのか。そんな疑問が頭でグルグルと回転していた。
「――んでさ、突然、“ガタンッ!”って大きな音がしたんだよ」
「マジかよ?」
「どーせ、何かが倒れたんじゃねーの?」
男子たちはまだ会話していたみたいだ。暇つぶしに俺はぼんやりと聞いてみることにする。
「だから、気になって探してみたんだが、“何もないんだ”」
「ハァッ? 当たり前だろ、廃業した劇場なんだから」
「だーかーらー、“何もないんだ”って!」
「何もない……? そういう音を立てる物が何もないということかよ、オイッ!」
それから、あーだこーだと議論していたが、先生が入ってきたことで打ち止めとなった。しかし、どうも俺の胸に引っかかることがあった。
劇場の跡地で、物音か。今日にでも行ってみるか。
夜十一時。夏だというのに、冷え冷えとした空の下、月に照らされ歩く俺がいた。
目的はもちろん、例の劇場に行くためだ。俺は電車で通学する人だから、終電が過ぎるとヤバイのだが、まぁ大丈夫だろう。ただ、探索するだけなのだし。
そうこう考えている間に、その劇場に着いた。ここに来る前に調べたところ、この劇場は一年ほど前に廃業となったようだ。経営者の家族は破産し、一家心中で死んだと記事にはあった。おそらく、物音というのは死んだ経営者の――。
「いや、それはないか」
悪いけれど、幽霊とかお化けとかは信じないのだ。この眼で見ない限りは……。
「どこから入るんだ……?」
と思うと、壁の一部が壊れていた。俺でも入れそうだ。
「狭いけど……よっと」
なんとか這い出ると、埃を払う。窓から差し込む月明かりに照らされ、廊下は思ったほど暗くはない。歩くたびにギシギシと板張りの廊下が鳴る音に、俺は内心焦ってくる。
「い、一応、これって、犯罪だよな。不法侵入で捕まったりしないだろうな?」
冷や汗を拭い、劇場の扉の前まで来る。その重い扉を前に開けるのを一瞬ためらった後、ゆっくりと開ける。
先ほどの廊下もボロボロだったが、劇場も酷いものだった。天井に近い壁にはカーテンが掛かっていたのだろうが、今では剥ぎ取られている。そして、カーテンが隠していた窓から差し込む月の光を受けて、観客席は薄く見える。だが、その席も木製だったのか。ボロボロで、虫食いだらけだった。
舞台の方は、観客席側よりも月光が差し込むようで、それはまるでスポットライトのようだった。だが、床は穴だらけでとても演劇などができる状態ではないみたいだ。
「何も無いのか?」
とりあえず、舞台に向かって歩いてみることにした。もしかすると、床に穴が開いているかもしれないので、細心の注意を払いながら歩く。ギシッ、ギシッと今にも壊れそうな心細い音を立てつつ、舞台から数メートルのところに来た。ふいに大きな物音が劇場に響いた。
「ッ!?」
物音が劇場の壁に反射していく。俺は思わず身をかがめる。
誰かが入ってきたのか。いや、考えたくは無いが、ここはもしかすると中毒者のたまり場なのかもしれない。考えたくもない想像が頭の中を掠めては消えていく。心臓もバクバク鳴っている。誰かがいるとすれば、その人にまで聞こえるんじゃないかと不安になる。
「お、落ち着け、落ち着け……」
どうやら、足音がないことから、誰かが来たわけではないようだ。そっと、立ち上がると周りをキョロキョロする。何も異変がない。
「じゃあ、あの物音は一体?」
そのとき、脳裏に浮かんだのは彼女の夢だった。
『真夜中のシーンとした劇場で、観客もいないのに歌う私がいるの』
ハッとして、舞台を見る。見るとそこには、佳代らしき“少女”がいた。
『木葉の絨毯、冷えてきた風、舞い散る紅葉~♪』
服はあの病院で着ていたものではなく、白いドレスだった。髪はいつも通りだったが、お洒落なのだろうか、耳にはイヤリングをつけていた。月の光が本当にスポットライトのように彼女を照らす。
『それら全ては秋から冬への先駆け~♪』
その手にはマイクが握られていている。彼女に間違いなかった。声は響いているのだが、果たして本当に耳で聞いているのか分からない。けれど、楽しそうな彼女の表情を見れば、そんなことは些細な問題に違いない。
『もうすぐ訪れる冬の厳しさ~♪』
そういえば、この歌詞、聴いたことがある。入院当初、彼女がこっそりと病室で書いていた歌詞のフレーズだった。じゃあ、彼女はやはり佳代なのか。
『秋の優しい季節は過ぎ去ろうとしている~♪』
そこで歌は終わりのようだ。ふと、彼女はこちらを見る。
「か、佳代?」
俺は込み上げてくる感情を抑えながら、呼びかける。だが、彼女は反応しないどころか、困った表情をする。
「佳代じゃないのか?」
俺はもう一度呼んでみるが、彼女は何かを催促するばかり。口が動いているのだが、なんと言っているのか聴こえない。よく見てみると……『は、く、しゅ』と言っているのか。
「ああ、そうか。拍手か!」
歌を聴き終わった後に拍手をするのは当然だった。俺はありったけの心を込めて、彼女に拍手を送る。
すると、彼女は困った顔から笑顔になり、お辞儀をする。そして、スゥーッと消えていく。
「待ってくれ、佳代!」
俺は舞台まで走るものの、しかしたどり着く前に消えてしまった。あれは彼女の幽霊だったのだろうか。いや、あの笑顔は間違いなく彼女の笑顔だった。俺はただ、月明かりが照らす舞台を見ているしかなかった。
それから俺は毎日彼女の歌を聴きに劇場に出かけた。死んだ後も彼女は歌うのであれば、俺はただ一人の観客になろう。あの晩にそう決めたのだ。月に照らされる彼女はいつも一曲歌って拍手を受けた後に消えてしまう。
だが、それでもかまわない。喋らなくてもいい。ただ、いつもの笑顔をしてくれればいい。少女が笑顔でいてくれれば、それだけで……。
月明かりの公演を聴きに行くようになってから、二週間後。終業式の帰り道、ふと胸騒ぎを覚えて、俺は必死に走った。目的地はもちろん、あの劇場だ。汗が吹き出るが拭うのも面倒だ。
「あぁっ!!!」
俺は愕然とした。あの劇場が取り壊され始めていたのだ。クレーン車やショベルカーによって、どんどん崩されていく。
「そんな……」
俺は彼女が死んで初めて涙が溢れた。
昨晩が最後だと知っていれば、何かできただろうに。そうだ、彼女が死んだときも同じ想いを抱いた。また何もできなかった無力感と、今度こそ彼女を失ったという悲しみに俺は溺れかけていた。全てが嫌になるって、こういうことから始まるんだろうなと、ふと思った。犯罪者がよく語る言い訳に『この世全てが嫌になったから――』というのがある。そういう告白を聞いて、何を馬鹿なことを言っているんだと、馬鹿にしていたけれど。
今なら、すっごくよく分かる。それでも、何でかな、やっぱり違うのかな。俺はそんなちんけな犯罪者とは違う。全てが嫌になるだなんて、嘘だ。それを肯定してしまえば、佳代と過ごしたあの時間さえも嘘になる。
佳代の歌を幻想の中、聴いていたことも嘘になる。それだけは、嘘にしてはいけない。確かに彼女は恋人ではなかった。だが、そうじゃなかったからって、どうだというんだ。
俺は、佳代が世界で一番好きだった。その想いだけは真実なはずだ。だから、今後悔していることは、彼女に何もできなかったことじゃない。その想いを伝えられなかったことだけだ。
そのとき、彼女が歌っていた歌詞のフレーズが脳裏に浮かんでくる。
『季節は巡る、けれど時間は巡らない
歩いてきた時間は
どんなに時間をかけても
二度と手に入ることはない』
ああ、そうだ。後悔したところで、もう過去に戻ることはできない。最後にもう一度だけ……この劇場に来よう。それで、本当に最後だ。
ここ数日快晴だった空は、今日はどんよりとしていた。明かりがないのが不安だったが、記憶を頼り舞台に向かう。取り壊し工事もまだ始まったばかりのようで、入り口は壊されていたが、舞台は大丈夫だった。
「佳代」
俺はもう一度彼女に会えないかと願いながら呟いた。すると、どこからか声が聞こえた。
『孝也くん、今までありがとうね』
紛れも無く彼女の声だ。
『私ね、桜の木にお願いをしたの。もしも死んでしまったら、三ヶ月間、劇場で歌いたいって』
「そうか、それで今までここで」
納得はできるのだが、なんだかロマンチックでこそばゆい。けれど、今こそ言えなかった想いを伝えるときだ。
「佳代ッ! 俺、大事なことを言い忘れていたんだ。俺、お前のことが、好きなんだ!」
『孝也くん、私も好きだよ。けど、ごめんね、もう会えないんだ』
「佳代ーーっ!」
それ以上はいくら叫んでも、彼女の声は聞こえなかった。しばらく、観客席に腰を落としていた。そのとき、サッと月明かりが差し込む。舞台にあった何かを照らしていた。
「なんだろう、これ?」
舞台にあがって拾ってみると、それは一片の桜の花びらだった。同時に佳代と最後に会ったあの日に嗅いだ淡い桜の香りがした。
「そうか、あの桜なのか」
俺はその花びらを大切にポケットに仕舞うと、劇場跡から後悔だけは残さないように立ち去った。
『でも、何も後悔なんていらない
その一つ一つの大切さをしっかりと集めればいい
過ごしてきた季節を時々思いやれば
未来に希望を持てるんだ』
そう、希望を抱いて。前へ、まっすぐに。
それから、あの劇場は完全に壊され、俺は高校を卒業して千葉にある大学に進学した。あの桜の花びらは今では大切に押し花のしおりにして取っといてある。
そして、桜が咲く季節になるたび、俺はあの頃体験した奇跡のような日々に想いを巡らす。今も、アパートの布団に寝転がって、しおりを眺めていた。目を閉じれば浮かんでくるあの日々は、今でも色褪せずに残っている。
俺はしおりをテーブルに置くと、窓をアパートの窓から身を乗り出す。そして、風とともに運ばれる桜の香りで胸いっぱいにする。
この千葉に咲く桜と、あの日病室で嗅いだ桜は違うはずなのに。同じ香りがするのは、どうしてなんだろうな、佳代……。
「佳代、元気か?」
俺は桜が風に舞う真っ青な空に向かって叫んだ。
「俺はコッチで元気にやってるぞ!」
終
※作中にでてくる疾患は架空の疾患です。