2章 「レイラ」
ある日の午後。
天井の高い、落ち着いた空間を持つウラシマ本社ビルのカフェテリアは、キラのお気に入りの場所の一つだ。その一角にあるテーブルで、キラはランチの後にコーヒーを楽しみながらモニタータブレット表示された文字を目で追っていた。
その時、カツカツというハイヒールの音が近付いてきたなと思った瞬間、背後から不気味な声が響いた。
「キ~ラ~ちゃぁぁぁん?」
キラはタブレットから目を離すことなく、素っ気なく答えた。
「…その声はハナちゃん? なあに? また合コンのお誘い?」
「違うわよぉ~」
ハナと呼ばれた若い女性は、両頬を膨らませながらモニターを見続けているキラの隣の椅子に勢いよく座った。
「あたし、見たんだからぁ~」
「何を?」
「この間、あんた、社長と二人っきりで車から降りてきたでしょう~」
「…ハナちゃん、あのね」
キラはモニターから顔を上げると、溜息を付きながら頬杖を付いてハナを見た。
「誤解があるようだから言っておくけど、あれは、クライアントを社長と二人で送ってきた帰りだったの。わかる? お仕事よ。お・し・ご・と!」
キラはそう言い放つと、コーヒーを一口飲んだ。ハナは「ええ~?」と不満気な声を上げながら、さらに「つまんな~い」とまで言いながら、大き目のカールがかかった自分の茶色い髪を指でくるくると弄んでいた。
「つまんないって、何でよ?」
キラが眉間に皺を寄せながら尋ねると、ハナが嬉しそうに答えた。
「だって、わが社の美男子ランキング1位の社長と、美女ランキング1位のあんたがくっついたら、絵になるじゃない~。あたし、社長が他の女とくっつくのは反対だけど、あんたならまだ許せるわ」
「あら、それはいいわねぇ」
二人のすぐ側で別の声がして二人が顔を上げると、そこにはスーツ姿にショートヘアのいかにも「仕事ができます」と言った雰囲気の女性が立っていた。
「美男と美女のカップルなんて、マスコミが喜びそうだわ。いいんじゃない?」
「サチ。それ、本気で言ってる…?」
サチと呼ばれた女性は、手に持っていたサンドイッチの乗ったトレイをテーブルに置くと、キラの反対側の席に座った。
「あら。広報部としては、それもありかな~、なんて」
「…あんたが言うと、冗談に聴こえないわよぉ」
ハナはそう言いながらチラッと時計を見ると、慌てて席から飛び上がった。
「いっけない! 行かなくっちゃ。今日、午後にはVIPばっかりたくさん来るのよ! お化粧直しておかないと!」
「はいはい。頑張ってね、受付嬢」
「ありがと! カッコいい人がいたら、すぐにメールするから!」
「はいはい」
ハナはハイヒールの音をけたたましく鳴り響かせながら、カフェテリアを去っていった。
「…相変わらず騒々しいね、ハナは。キラは今日、この後にセッション入ってるの?」
サチが野菜ジュースを飲みながら尋ねた。
「ええ。今日は一件。女性がね。ただ、ちょっと問題が…」
「問題?」
サチが眉間に皺を寄せながら三白眼になっているのを見て、キラは慌てて訂正した。
「あ、うちの社の問題じゃないよ?」
「ああ、良かった…。心臓が止まるかと思ったじゃない」
サチは安堵の息を突きながらサンドイッチを頬張った。広報部勤務のサチにとって、ウラシマの機器や技術に何か問題が起こると一大事だ。
「あのね、彼女のお迎えとして登録されてる人が、迎えに来るのを拒否してるの」
キラの話を聞いていたサチは「ふーん」と相槌を打って口の中の物を飲み込むと、水を飲んで一息入れた。
「お迎えって…、男?」
「そう」
「凍結、何年?」
「15年」
「女は何歳よ?」
「28」
「お相手の男性は、今何歳?」
「…30」
「うわあ」
「…でしょ?」
二人は顔を見合わせながら溜息を突いた。キラは両手で頭を抱えた。
「私、こういうケース初めてなのよ。どうしよう…」
サチはサンドイッチを頬張りながら頷くと、水を飲んでから言った。
「そうよね~。キラってば、自分の恋愛だってまだなのにね」
「…大きなお世話」
「でさ」
サチがニヤッと笑いながら言った。
「さっきのハナじゃないけど、社長とのこと、どうなのよ?」
「ど、どうって…?」
キラはドギマギとしながら平静を装うと試みたが、目は宙を彷徨っていた。サチはクスッと笑いながら、さらに追い討ちをかける。
「付き合ってないの?」
「そんなバカな~」
キラはテーブルに突っ伏した。その様子を見ながら、サチが追い討ちをかける。
「一緒に住んでたくせに」
「あれは、行く当ての無い私を、社長の御家族の御厚意で居候させてもらってただけだし」
サチは前屈みになると、突っ伏したままのキラの頭に向かって小さく囁いた。
「でも、好きなんでしょ?」
「……」
しばらく沈黙が流れた後、キラが上体を起こしてテーブルに頬杖を突いた。
「わからない」
サチは黙って聞いていた。
「わからないの。ロウに対する感情が、ロウに対してのものなのか、それとも、ロウによく似た他の誰かに対してのものなのか…。ロウと一緒にいると、何かを思い出すような、そんな感じがするんだけど…。変よね?」
困惑顔のキラに、サチはふんわりと優しく微笑むと、「いいんじゃない?」と言った。
「いいって、何が?」
「ん? そうやって悩むようになっただけでも、進歩でしょ? いいじゃない。ゆっくりと向き合えば」
「向き合う、ね…」
キラは少しの間、窓の外を見ながら考えていたが、「うん」と小さく言って荷物をまとめ、席から立ち上がった。
「もう行くわ。ありがとう、サチ」
サチはニッコリと微笑みながらキラに小さく手を振った。
「グットラック。ま、何かあったら一緒に飲んであげるから、連絡ちょうだい?」
「オッケー」
キラはサチに軽く手を振ると、「竜宮城」へと向かった。
最近、よくキラが自分の視界に入ってくるな、とロウは思っていた。
今もそうだ。ウラシマ本社ビルのエレベーターの中からは、吹き抜けになっている1階ロビーが見えるようになっているのだが、1階から40階まで昇るまでの僅かな時間で、1階ロビーを颯爽と歩くキラの姿を見つけてしまった。
普段は本社別棟、通称「竜宮城」の中にいることが多いキラは、本社ビルにいるとよく目立つ。今も、エレベーター内の全ての男性社員の視線がキラの上にあることは一目瞭然だ。それがロウには腹が立つ。そして、腹を立てている自分に腹が立つ。
(俺は一体、何をしてるんだか…)
少し冷静に戻って再びロビーを見下ろすと、そこにはもうキラの姿は無かった。今度はそれを残念に思う自分が少し残念だ。
キラは確かにロウの心の中において、他の女性とは違う場所にいる。しかし、それにはちゃんとした理由がある。
キラの解凍事件が起こった五年前、実はロウはそこにいた。
仕事で大きなトラブルがあり、ストレスを抱えたロウは一人きりになりたかった。だが、白昼の社内でロウが独りになれる場所など、そう多くは無い。ロウはふと、キラのカプセルが置かれた部屋を思い出した。昔、祖父に連れられた時もあの部屋や周りには誰もいなかったし、あの部屋のあるエリアに入るには、社内でもごく僅かな人間だけが持つ特別なカードキーが必要だ。そしてロウは、そのカードキーを持つことを許されている数少ない人間の中の一人だった。
ロウはキラの部屋に入り、しばらくの間、静かな室内で自分の頭を冷やしていた。
「…ちくしょう」
いくら腹を立てても、起きてしまったことを無かったことにする術はない。今は、そこからどう前に進めるかを考えなければならない。
「あいつら…。俺がウラシマの人間だからって、舐めやがって…」
同族経営だからといって、お坊ちゃん呼ばわりされるのをロウは誰よりも嫌っていた。
「俺は、俺の力で勝負してやる…」
その時、ロウはふと、誰かの視線を感じた。
誰もいないはずの部屋で視線を感じるなど、変な話だ。だが、ロウは確かに誰かに見られているような、そんな気がした。
辺りを見回しても、その部屋にいるのはロウだけ。いや、正確にはロウとカプセルの中で眠っているキラの二人だけだ。
(まさか、な…)
ロウはカプセルに近付き、中で横たわっているキラを見た。キラの瞼がしっかりと閉じられているのを確認して、安堵の息をつく。
(何だ。やっぱり俺の気のせいか)
カプセルの中のキラは、幼い頃に見た時と変わらない美しい姿をしている。あの時は別に何も思わなかったが、こうしてみると眠っているのが残念なくらいの美女だ。
「お前は、いいな。俺みたいに怒ったり、憤ったり、悩んだりする必要が無い。ただ、こうして眠っているだけでいいんだから…」
彼女はどうして眠っているのだろう。起きていた時はどんな表情をして、どんな声で話したんだろう。何が好きで、何をしたいと思っていたんだろう。
ロウはふと、そんなことを考えて苦笑した。
「でも、お前の声は、いつか聞いてみたいような気がするな」
フッと軽く溜息をついてその場を去ろうとした時、ロウの頭を激しい頭痛が襲った。
「っ!! 何だ、これ…」
視界が揺れ、動機が激しくなる。胸が圧迫され、息を吸うのも吐くのも苦しい。このままここで死んでしまうかもしれないと思った時、ロウは自分の目の前に立つ女の姿を見た。
薄明かりを放つその姿は、どう見ても先ほどまでロウが見ていたキラのものだった。だが、ロウの目の前に立つキラは、見たことも無いようなスタイルの服を着ていた。キラはロウを見ると微笑み、その額に軽く口付けると、そのまま空気に溶けるように掻き消えた。
「消え、た…?」
そんな馬鹿な、と思いながら何とか這うようにしてカプセルに向かうと、キラはそこでいつものように横たわって眠っていた。
「キラ…?」
ロウがその名を呼んだ途端、何故か急にカプセルが作動し始めた。
「な、何だ、これは…」
まだ激しい痛みを伴う頭を右手で押さえながら、ロウはフラフラと部屋の出口に向かった。部屋の中と外でアラームが激しく鳴り響き、誰かが遠くから走ってくるような足音が廊下中に響いた。全身が重くなり、視界が闇に閉ざされた。
目覚めた時、ロウは病院の一室に横たわっていた。そして、その場にいた彼の秘書から、キラが目覚めたことを知らされた。
(あれから、もう五年、か…)
時が経つにつれ、あの時に見た幻と冬眠カプセルの中で横たわるキラのイメージが薄れ、ロウに向かって拗ねたり笑ったりするキラのイメージが強くなった。
(時間とは、不思議なものだな)
フッと自嘲したような笑みを浮かべながら、ロウはエレベーターから降りた。
キラが今日のクライアントの様子を見に回復室へと向かう途中、いつもクライアントの解凍後の様々な事柄をアレンジしてくれている事務員のシェリーが血相を変えてキラに向かって走ってきた。
「キラ! 大変!」
「…その様子だと、やっぱりダメなの? お迎えさん」
キラが尋ねると、シェリーがブンブンと首を縦に振った。
「ど、どうすればいいかしら、キラ…。何かいいアイディアは無い?」
キラは「うーん」と言いながらモニタータブレットからクライアントの情報ページを引き出した。
「御自宅に連絡は?」
「クライアントの御実家には何度も連絡したわよ。でも、先方は『そんな人は知らない』の一点張りで…」
「御本人なのに?」
ウラシマでは、凍結者の家族情報は定期的に更新され、住所の移転などにも対応できるようにされている。
「そうなのよ。この方の場合、御家族はこの15年で移転もなくて、名前なども確認されたのに、『そんな娘はおりません』って言ったきり、取り合ってくださらないの」
「で、このお迎えの方も?」
「お迎えの方は『知らない』とは言わなかったけど、『自分は迎えに行けない』って。その後に、『もう関わらないで欲しい』と言われてしまって…」
「理由は?」
キラの問に、シェリーは首を横に激しく振った。
「何度尋ねても、教えてもらえなかったわ」
「そう…」
キラは時計をチラッと見ると、胸ポケットからカードを取り出して操作すると、耳に付けられた装置
に手を触れて少し調節した。
「…あ、ヤン? キラです。本日午後一の解凍クライアントの女性ですが、あとどのくらいで目覚めるか、あなたの予想が聞きたくて。…はいはい。そうです。あなたが一番確かです。…はい。…はい。わかったわ。ありがとう。…それは遠慮します。じゃ」
キラがカードを再び胸のポケットにしまった後、シェリーが尋ねた。
「そ、それで…?」
「あと二時間近くありそうだから、私がこのお迎えの人に会ってくる」
「ええっ?」
「だって、詳しい事情がわからなかったら、私達もどう説明したらいいか判らないじゃない?」
「そう、ね…。では、お願いできるかしら?」
「了解。ここにある情報、全てアップデートされてるのよね?」
キラがタブレットの画面をコンコンと指で突きながら言うと、シェリーは自信たっぷりに答えた。
「勿論よ」
「じゃ、行って来ます」
キラはそう言うと、先ほど来た道を引き返して行った。
シェリーが念のために回復室にキラが外出したことを告げに行くと、そこには先ほどキラが電話で話していたヤンがいた。
キラの外出を聞いたヤンは、椅子の背にもたれながら不貞腐れた。
「…なんだ。言ってくれれば、僕もキラと一緒に行ったのに…」
シェリーは首を傾げながら言う。
「あら、キラが断ったのはその件じゃなかったんですか?」
「いや」
ヤンは椅子から立ち上がりながら言った。
「今晩一緒に食事に行こうって誘ったら、いつものように断られたよ」
モニタータブレットに記載されている情報によると、今日のクライアントの「お迎え」として登録されている男性は、ウラシマ本社ビルからさほど遠くない場所にあるオフィス街にある広告代理店に勤めているとのことだった。
受付に不機嫌そうに現れた彼はキラを見ると一瞬戸惑っていたが、簡単な挨拶の後、空いていた会議室に通してくれた。
「突然、お邪魔してしまって申し訳ございません。改めまして、ウラシマで適応カウンセリングを担当しております、キラ・ツクヨミと申します」
「あ、いえ。こちらこそ、御足労いただいて申し訳ありません。キース・ウェルズと申します。ここで、主にデザインの仕事をしています」
キラはキースと名乗った男性から名刺を受け取ると、促されるままに椅子に座った。キースはポロシャツのよく似合う、爽やかな印象の男性だった。
「本日は急な訪問にもかかわらずお時間をいただきまして、ありがとうございます。今のこの状況では、お迎えの不在をどのようにクライアントに説明すればいいのか、わからないものですから」
キラがそう言うと、男性が困ったような顔をして「彼女の…御家族は?」と尋ね、それにはキラが静かに首を横に振った。
「クライアントの御家族は、クライアントとの家族関係を否定なさいました」
だが、キラのその答えは彼にとっては予想範囲内だったらしい。キースはキラに向かって頷くと、小さな溜息を突きながら言った。
「…やっぱり、あちらはまだ、怒ってらっしゃるんですね」
(「やっぱり」って…。やっぱり何かあったのね…?)
キラはどんよりと沈みそうになる気持ちを叱咤しつつ、キースに単刀直入に尋ねてみた。
「あの…。15年前に何があったんですか…? あ、ここでお聞かせいただくことは全てクライアントの守秘義務に基づきまして、絶対に口外いたしませんので…」
キラがそう言うと、キースは少し口をつぐんで黙ってしまった。
そのまま時間だけが流れてしまうのかと思った矢先、キースが口を開いた。
「俺は、彼女の生徒だったんです…。俺はまだ15歳で、彼女は当時28歳でした。ああ、彼女はまだ、今も28歳のままなんですよね」
彼が入学した高校で、彼女は美術を教えていた。
彼女は生徒である彼と恋に落ち、彼との未来を夢見た。もちろん、周りは反対した。彼はまだ15歳で合法的に結婚できる年齢にさえ達していない、ほんの子供だった。だが、周りが反対すればするほど、本人達は意固地にこの恋を貫こうとした。そんな中、彼女が一番気にしていたのが二人の年齢差だった。それを解消する手立てとして、彼女は独り、15年の眠りに踏み切った。
「ショックでした。俺は年齢差なんて関係ないって言ってたのに、そこまで気にしていたのか、と。それでも、最初は15年なんてすぐだと…。俺がしっかりとした大人になって彼女を迎えに行けばいいんだと、そう信じてました。俺も、あの時は彼女のことを本気で愛しているんだと思ってましたから。でも…」
キースは一瞬、口をつぐみ、何かを頭の中で整理するかのように目を伏せた。その間、キラは黙って彼が再び話し始めるのを待っていた。
やがてキースはゆっくりと目を開くと、そのままどこか遠くを見つめながら言葉を紡いだ。
「彼女が眠りに入った後、しばらくして…。まるで呪縛から解けたような、何だかそんな感覚になったんです。急に、目の前が開けたような…。暗い部屋から出たような…」
キースの声は、少し震えていた。
「『気持ちが冷めた』と言われればそれまでかもしれません。でも、俺はきっと彼女と一緒にいた時、彼女の強い気持ちに、かなり流されてた部分があったんじゃないかと思うんです。自惚れかもしれませんが、それ程、彼女の俺に対する想いは強かったから…」
彼女が眠っていたこの15年の間に、彼は大学に入り、卒業して今の会社に就職した。そして数年前に大学で知り合った別の女性と結婚した。彼は、彼自身の人生を過ごしている。
「俺には妻も、子供もいるんです。彼女には悪いけど、俺は今、幸せなんです。そんな俺が、何も無かったように彼女を迎えに行けるわけなんてないんです。裏切ったと思われても仕方がない。けれど、でも…」
キースは迷いながらも、必死に頭の中で言葉を探し、そして言った。
「時間は、常に動いてるんです。15歳の子供が大人になって、30になって…。この15年は、俺の人生の中で、何よりも大きな15年だったと…。そう、俺は思うんです。時間が動けば、人の気持ちも動きます。服や音楽に流行があるように…」
キラに一つだけわかったことは、彼の人生に、クライアントの居場所はもはや何処にも無いということだった。
「竜宮城」に戻るまでの道程は、キラにとってはとても長い道程に感じられた。
キースの話から、クライアントがどれだけ彼のことを愛していたのかはわかる。だが、この15年という月日は二人の間に大きな歪みを生んでしまった。クライアントにとっては眠りに付いた時点からの続きでしかないが、キースにとって、彼が言った様に15歳の少年が30歳の大人の男性に育った時間は何よりも大きいと思う。キラにとって、クライアントの想いも大事だが、キースの今の幸せも大事にしたい。
(どう説明したら、受け入れてもらえるのかしら…)
現時点での恋愛偏差値が非常に低いキラにとって、この状況は辛い。悶々と思い悩んでいるうちにウラシマ本社ビルの正面口に到着し、それとほぼ同時に、胸のポケットに入れていたカードが鳴った。
「はい。キラです」
カードには泣きそうな顔のシェリーが映っている。シェリーの後ろに、ヤンの横顔がチラリと見えた。キラはモニター越しにシェリーに見られないよう、小さく溜息をついた。
「キラ。あなた、今どこにいるの?」
「今、ちょうど戻ってきたところです。…目覚めましたか?」
「ええ。ついさっき」
「…すぐにそちらに向かいます」
「で、状況は?」
心配そうなシェリーの顔を見ながら、キラは溜息を一つ突いて静かに首を横に振った。その様子を見たシェリーが絶望的な声を出す。
「え、やっぱり?」
「ええ。相手はもう結婚してて、お子さんもいらっしゃるの」
「あっちゃ~」
カードの中のシェリーが頭を抱える。その後ろで「お、修羅場か?」と冗談のように言うヤンの声が聴こえ、それはキラを苛立たせた。
「とにかく、今すぐにそっちに行くから」
キラはそう言うと通話を切った。
キラが回復室に到着した時、クライアントは既に身体に付けられていたモニターを全て取り除かれ、研究員から身体の簡単なマッサージと筋肉の運動の説明を受けていた。
「遅くなって、すみません」
「本当だよ。遅刻はここでは厳禁だろ?」
回復室に隣接するモニタールームには、何故かヤンがいた。
「…何であなたがここにいるのよ」
「『何で』はないだろう? つれないなぁ…。君が来るから待ってたのに」
ヤンはそう言いながら立ち上がり、キラに近付くとキラの肩に手を回した。
「…この手は何です? セクハラで訴えますよ?」
「デートした仲じゃない」
ヤンの言葉に、その場にいた他の研究員とシェリーがギョッとする。そんな中、キラは冷ややかに言い放った。
「あなたの研究自慢を聞きながら、夕食を一緒にしただけですけどね」
「それは立派にデートじゃないか?」
キラは大げさに溜息を突いて見せた。
「関係が進展するどころか、一気に振り出し以下になりましたけど」
「え? えええっ?」
驚くヤンの横でシェリーが呆れながら手を叩いて二人の注意を促した。
「はい、両者ともそれまで! キラ、これが彼女の服。あなたは早く回復室に入りなさい。ヤンはとっとと自分の部屋に戻りなさい!」
「はーい」
二人が声を揃えて間の抜けた返事をすると、シェリーが悲し気に眉を寄せた。
「大丈夫だって、シェリー。私、何とかできると思う」
キラがシェリーに向かって微笑むと、シェリーは小さく頷いた。
「入りますね?」
キラが研究員の一人に声を掛けると、回復室への扉が静かに開いた。
クライアントはベットの上で、窓の無い回復室の中を不安気に見渡していた。彼女は美しい整った顔立ちをした北欧系の女性で、色素の薄い長い金髪がウェーブを描いて彼女の肩の上に流れていて、その姿はまるで絵本に描かれた「雪の女王」のようだとキラは思った。
「初めまして、レイラさん。私はキラと申します」
名を呼ばれた女性は声のした方に視線を移し、ゆっくりと微笑んだ。
「初めまして…。キラ、さん?」
「ええ。そうです。ご気分はいかがですか?」
キラがゆったりと微笑みかけると、レイラは自分の身体に尋ねるようにすうっと深く深呼吸をした。
「不思議な、感じね。本当に今は、私が眠ってから15年も経っているの?」
「ええ。正真正銘、西暦2XXX年ですよ?」
「そう…」
レイラはそう言って瞳を閉じると、少しまどろみながら微笑んだ。その微笑があまりにも幸せそうで、キラは胸が痛んだ。
「これから、少しお話をしたいと思います。私は本来は適応カウンセリングと言って、眠っていらした方の現代への生活適応をお手伝いする役目なのですが、レイラさんの場合、眠っていらしたのが15年と比較的短くていらっしゃるので、あまりお時間は取らないと思います」
「そう、ね」
レイラはゆっくりと目を開けた。
「こちらに、お洋服を用意させていただきました。まずはこちらに着替えていただき、別室でお茶を用意しますね。何か食べたいものとか、御希望はありますか?」
レイラは少し考えると「いいえ、特に…」と言って微笑んだ。
キラはレイラが服を着るのを少し手伝うと、少しまだ歩き辛いと言うレイラのために車椅子を用意し、カウンセリング・ルームへと移動した。
キラが使用するカウンセリング・ルームは、居間のような雰囲気のくつろげる空間になっている。部屋には大きなソファや観葉植物が置かれ、ここには窓もある。
キラはレイラをソファに座らせると、紅茶と茶菓子を用意した。
「どうぞ。まだあまりお腹は空いていらっしゃらないかもしれませんけど」
「ありがとう」
レイラはティーカップを手に取ると、それで両手を暖めた。
「暖かい…」
眠っている時は意識が無いから冷たさも感じないのだが、目覚めた後に初めて暖かいものに触れた時の安心感は、キラもよく覚えている。そしてそれは、目覚めた人に共通する感覚らしい。
「レイラさんは、目覚めたら何をしようってお考えでしたか?」
キラの質問に、レイラは夢を見るように少し上を見ながら答えた。
「そうね…。私は、彼と一緒にいられれば、それで…。あの子はどんな風に成長したかしら…。あ」
レイラの視線がキラへと移った。
「彼は…。キースは、ここにもう来ているかしら?」
レイラの笑顔はあまりにも幸せそうで、キラは一瞬躊躇ったが、正直に首を横に振った。
「え…?」
レイラの笑顔が徐々に曇っていく。
キラは胸に重い石が入ったような気がしたが、それでも自分は全てを正直に伝えると決心したのだと思い返しながら軽く拳を握りしめ、レイラに向き直った。
「残念ながら…。キースさんは、あなたを迎えることができません」
「ま、まさか、キースの身に何かあったの?」
キラの方へ身を乗り出しながら尋ねるレイラに、キラは言った。
「キースさんは、元気に暮らしていらっしゃいます。ただ、あの方には既に…」
「既に…?」
レイラの緑色の瞳がキラを真っ直ぐに見つめている。キラは口が渇くような感覚を覚えながらも、その言葉を口から出した。
「家庭が、あるんです」
「え…」
レイラは呆然としたまま、しばらく動かなかった。
「キースさんは数年前に結婚されて、お子さんもいらっしゃいます。『この15年はとても大きなものだった』と…。そう、仰っていました」
「…そ。嘘。嘘よ。あの子が私を裏切るなんて!」
高ぶる感情を隠すことの無いレイラに、キラは出来るだけ落ち着いて答えた。
「裏切ったんじゃ、ありません」
「あなたに何がわかるのよ? キースに会わせて。あの子に直接訊くから!」
立ち上がりそうになったレイラの両肩を押さえながら、キラは強い口調で言った。
「いいえ。それはダメです」
キラは真っ直ぐにレイラの瞳を見つめた。レイラの瞳は小刻みに揺れている。
「あなたにも、きっとわかると思います。15歳から30歳への15年の時間が、どれだけ重くて長いものなのか。そして、彼のその時間を手放したのは…、眠りに入って自分の時間を止めた、あなたです」
「私…? 私が、手放し、た…?」
キラはゆっくりと頷いた。
「彼と一緒にいたかったのなら、手放すべきではなかったんです。どんなに年齢が離れていても、側にいるべきだったんです」
「側に…」
レイラはそう言って俯いた。傍から見ていても、彼女が意気消沈している様子が手に取るようにわかる。
「酷な事を言ってしまって、申し訳ありません。でも、これだけは、もう一度言わせていただきます。今のあなたとキースさんを会わせることは、できません」
レイラはしばらくの間ソファの上でうな垂れたまま座っていた。彼女の周りだけ、まるで時間が止まってしまったかのように静かだった。キラは何も言えず、レイラの隣に座り、じっと彼女の反応を待った。
やがて、レイラの口が小さく動いた。
「わかり、ました…」
俯きながらそう言うレイラは、とても儚げだった。
「私…、バカだったわ。自分勝手に、あの子も私のために全てを捨ててくれるなんて思ってた。15歳だったあの子に、捨てられるものなんて何も無かったのにね」
「レイラさん…?」
レイラは大きく息を吸って吐き出すと、口の端だけを持ち上げて無理に笑顔を作って見せた。
「これは、賭けみたいなものだったんです。最初から…。私は、13歳も年下のあの子に本当に愛されているのかどうか、不安だった…。だから、周りの反対を押し切って眠りについたの。それに、周りも私達の関係に感づき始めて…。私達には、逃げる場所がどこにもなかったわ」
レイラはソファにもたれると天井を見上げた。
「逃げずに、押し切る勇気も無かった…。だから、自業自得なの。仕方ないわね。ふふっ」
そう言って笑い始めたと思ったレイラは、気が付くと泣いていた。
「待つ勇気も、諦める勇気も無かったわ…。それで全てを失うなんて、私は本当にバカよね。私にはもう、何も残ってないわ…。私、あの時に、全てを捨ててしまった…」
泣き続けているレイラの肩を抱きながら、キラが言った。
「そんなこと、ありません。思い出も、あなた自身も、ちゃんと残ってます。だから、ここから先に進めばいいんです」
「でも、私…。実家からは、追い出されたし、仕事も、無いし…。私、これからどうすれば…」
キラは少し考えて、そして言った。
「なら、うちに来ます? 私、一人暮らしですけど、あなたが寝泊りするくらいのスペースはあると思います。仕事はこれから見つければいいし、当面は何とかなりますよ?」
レイラはキラの言葉にキョトンとした表情をしていたが、フッと表情を崩すと涙目のまま笑った。
「あなたって、お人よしね」
「そう言われたのは初めてです」
「そうなの?」
レイラに言われて、キラは頷いて言った。
「きっと私、あなたのことが他人事のように思えないんです。私も、眠りから覚めた時は何も持っていなかったから…」
キラの言葉にレイラは両目を見開いて驚いた。
「あなたも、凍結されていたの?」
キラは微笑みながら頷いた。
「ええ。それに私の場合、目覚めた時に記憶さえも無かったんです。だから、しばらくの間、この会社の社長さんのお宅に居候させていただきました。お陰様で、今は何とか一人暮らしができてますけど」
「記憶が…? それは、今でも…?」
レイラの問に、キラは「ええ」と言って頷くと紅茶を一口飲んだ。
「今でも、凍結前の記憶はありません。でも、解凍されてから、沢山思い出ができたから。だから、私は大丈夫なんです。だから、あなたもきっと大丈夫。少なくとも、私はそう思うんです」
レイラはしばらくキラの顔を見つめていたが、ゆっくりと頷くとキラに右手を差し出した。
「じゃ、ありがたく…。しばらく、厄介になるわね? よろしく、キラさん」
「こちらこそ」
二人は固い握手を笑顔で交わした。
ひとまず先のことが決まると、キラがソファから立ち上がりながらレイラに言った。
「さて。早速ですが、今日の夕食は何にします? 私、こうなることを想定していなかったんで、家の冷蔵庫に何も入ってないんですけど」
レイラはゆっくりと立ち上がりながら微笑んだ。
「じゃ、早速で悪いんだけど…。今夜は美味しいお酒を飲みたい気分なの」
「了解」
キラはテーブルに置いていたタブレットを手に取ると、友人のハナとサチにメールを打った。
「召集!!」
今夜は、女同士の賑やかな夜にしよう。ここから、全てを始めることができるように―。