1章 「サク」
人類が太陽系の様々な惑星に住み始めて数百年後の世界。
ここ、月の首都、「シーズ」のビジネス街にある一見古風な21世紀風のビルが、株式会社ウラシマの本社ビルだ。
ウラシマは老舗の人体凍結保存機器、通称、冬眠カプセルの製造、販売、管理及び制御を行う会社で、今年で創業300周年を誇る。まさに老舗中の老舗だ。
創業者の名はタロウ・ウラシマ。冗談のような名だが、彼が発明した冬眠カプセルの1号機は、当時の社会では一大センセーションを巻き起こしたという話だ。
今では珍しくも何ともなくなってしまった冬眠カプセル。この原理を利用して、ウラシマでは一般や研究者向けに食物や薬品などに使用する小型冷凍保存機器も開発・製造していて、最近はこちらの方がビジネスの主流だ。
とはいえ、自分を冷凍保存したいと願い出る人々が減ったわけではない。
ウラシマ本社ビルに隣接する別棟には冷凍保存施設が常備され、人体用カプセルは全てここで使用・管理されている。
全てのカプセルはコンピューターで秒刻みにモニターされ、常に最良のコンディションを保つように工夫される。だから、数十年後に目覚めるように依頼した身体でも、凍結時とまったく遜色の無い状態で目覚めることができるというのがウラシマの「売り」だ。
凍結期間の依頼は人によって様々で、四・五年の休養期間を願い出る人もいれば、二十年後、五十年後、果ては百年後まで自分を凍結したいという人がいる。家族が迎えに来る人もいれば、時間になって誰一人いない部屋で目覚める人もいた。
この人体用冬眠カプセルの保存施設がある本社別棟は、誰からともなしにいつしか「竜宮城」という愛称で呼ばれていた。
その、「竜宮城」内のとある廊下で、一組の男女が立ち話をしていた。
「今日のお目覚めは、16歳の男性。凍結期間50年。お迎えは受取人の弟さん、ね。ふぅ~ん」
白衣を着た女性が手に持ったノート大の薄型モニタータブレットの表示を読みながらそう呟くと、隣に立っていた同じく白衣を着た男性が頷いた。
「ああ。受け取りの予定時刻は本日16時に指定されているけど、年齢と凍結期間から、今から解凍作業に入って、教育セッションを受けてもらった方がいいんじゃないかって思うんだけど、どう?」
「そうね」
女性がそういってタブレットから顔を上げると、彼女を見つめていた男性と目が合った。
「何か?」
女性が首を傾げながら尋ねると、男性がニッコリと微笑んだ。
「いや。今晩、久しぶりにまた食事でも、どう?」
女性は、すぐに鋭い目つきに変わってこう言った。
「お断りします!」
「早! 何でだよ、キラ~?」
キラと呼ばれた女性は、腰に手をあてて少し首を傾げながら、目の前の男性を上目遣いで睨み付けた。
「あのねぇ、ヤン。あなたってば、食事中にずーーーーっと今開発中の簡易超高速凍結機器のメカニズムについて語りっぱなしなんだもの。お陰で私、あの晩に何を食べたのか、全く覚えてないのよ? そんなディナーって、ある? 誘うなら、あなたと同じような凍結機器開発オタクを誘えば?」
ヤンと呼ばれた男性は、キラの剣幕に押されて少したじろぎながら、両手を挙げて「降参」のポーズを取った。
「僕は、楽しかったのになぁ…」
キラは大きな溜息を突きながら「そりゃぁ、あなたはそうだったでしょうよ」と言って苦笑すると、「じゃ、解凍完了したら連絡してね」と言い残して去って行った。
長い黒髪を靡かせながら颯爽と去っていくキラの後姿を見ながら、ヤンは眼鏡を押し上げ、苦笑した。
「君も僕が解凍してあげたのにねぇ、キラ…」
キラはウラシマに勤め始めて三年になる。ここでの仕事は、「適応カウンセラー」と呼ばれる、解凍後のクライアントに現代生活を送る上での注意点などを教える教育係、と言ったところだ。
年齢は現在25歳くらいだろうと推定される。「推定」でしかわからないのは、彼女の実際の生まれ年や凍結理由、本当の名前でさえも、誰も知らないからだ。通常は会社に保管されているはずの依頼者・凍結対象者データが、キラに関しては何一つ残っていなかった。KIRAとだけ記されたデータには解凍希望日時すらも記入されておらず、全くの白紙状態だったのだ。なのに、五年前のある日、キラの入った冬眠カプセルが突如として解凍モードに入った。何故そのようなことが起こったのか、当時その場に居合わせたヤンですらもわからない。
「ヤンですらもわからない」のは、ウラシマにおいては非常事態である。ヤンは小さな頃から天才と騒がれ、地球にある科学教育の最高峰、地球科学テクノロジー大学を十四歳で卒業し、その後若干十六歳で博士号を修得した秀才中の秀才だからだ。
卒業後に幾多もの研究所からの誘いを断り、何故かウラシマに入社した彼は、瞬く間にありとあらゆる凍結機器を発明、開発した。現在二十八歳にして、この業界でヤンを知らないものはいないと言われるほどのこの世界での第一人者である。
なのに、そのヤンでさえも、キラの解凍に関しては全く予想も検討もつかなかった。それまで完全無欠で通してきたヤンにとって、この事件は彼の人生において唯一の屈辱である。だから、当人のキラがこれまたどういうわけかウラシマに入社してきた当初、彼女に対してどう接したらいいのものか、ヤンには全くわからなかった。
(キラはどうして、僕をいつも翻弄させるのかな)
三年経った今でも、ヤンにはその理由がわからない。
ヤンからの解凍作業完了の知らせを受け、キラは回復室Aへと足を運んだ。回復室に隣接するモニタールームの扉をノックすると、ヤンがドアを開けた。
「どんな感じ?」
「誰に訊いてるんだい?」
自信たっぷりに胸を張りながらキラに逆に質問してきたヤンを見て、キラはクスリと小さく笑って「あら、ごめんなさいね」と言うと、ヤンの横をすり抜けてモニタールームに入った。
ガラス越しに、真っ白で殺風景な回復室の真ん中にあるベットに横たわっている少年の姿が見える。彼はキラが来る三十分前に解凍室から回復室へと運ばれてきた。大小様々な機械が部屋の周りを取り囲んでいる解凍室に比べ、回復室は一見、普通の病室のように見える。違うところと言えば、窓が無いことと寝台以外の何もない、というところだろうか。
「ふうーん。結構な美少年じゃないの」
キラはニッコリと微笑みながら、手に持っていたタブレットに何かを書き込み、データを送信した。
「また、お得意の着せ替え人形ごっこかい? 相変わらず、好きだねぇ~」
ヤンが皮肉やや多めに呟くと、キラはそれを鼻で笑ってあしらった。
「何とでも言ってよ。どうせ今日しか会えないんだから、その間だけでも私の好みの服装をしてもらったって、別にいいじゃない」
「はいはい」
ヤンは空返事をしながらキラの側を離れると、モニタールームで作業をしている他の研究員達に何かを指示した。
「じゃ、後は頼んだ」
丁度ヤンが部屋を出ようとした時にモニタールームのドアがノックされ、開かれたドアからはスーツ姿の男性が姿を現した。
「おっと…。は? 何であんたがここに?」
意外な人物の登場に呆気に囚われたヤンが目を大きく見開いていると、スーツの男は怪訝そうに「何だよ。俺が回復室を覗きに来るのがそんなに変か?」と少し皮肉を言いながら中に入って来た。彼は彼の登場に驚き、立ちすくんだままの研究員達に軽く手を振って挨拶をすると、その目線はじっとガラス越しに回復室の中を見つめているキラに移り、さらにその目線の先にあるものへと移っていった。
「まだ目覚めないようだな、今回の眠り姫は」
キラはすぐ隣から聴こえた男の声に軽く反応すると、目線を回復室の少年から外さずに答えた。
「『お姫様』じゃないわ。『王子様』よ」
「王子様、ねぇ…」
二人はそのまま、しばらく回復室の少年をガラス越しに眺めていた。
「これってさ」
キラが目の前のガラスをコンコンと軽く叩きながら呟いた。
「ん?」
「いつも思うんだけど、これって、毒リンゴを食べて死んでしまった白雪姫を入れた、ガラスの棺みたいよね」
キラの言葉に、男が一瞬息を飲んだような気がした。男がキラに視線を移すと、キラは少し首を傾げながら男の顔を見上げていた。
「あなたがここに来るってことは、この子、本当に王子様なのかしら? ロウ…」
ロウと呼ばれた男は困ったように微笑んで言った。
「まあ、そんなところだ」
ロウはウラシマの現社長だ。
体調を崩した前社長のロウの父から会社を受け継いだのが四年前。ロウはまだ二十六歳だった。それまでは大学を卒業してからずっと、ウラシマで未来の社長として教育を受けてきた。
通常、多忙を極めるロウが「竜宮城」に姿を現すのは年に数回の視察とVIPの凍結・解凍に関わる時のみである。だから、キラは尋ねたのだ。この少年は王子様、すなわちVIPであるのか、と。
普通はVIPのファイルにはそれなりのマーキングがしてあるものだ。だが、この少年のファイルはどこにもそのようなマーキングは無かった。と、言うことは、この少年は社にとってのVIPではなく、ロウ個人の「大切なお客様」ということになる。その関係が少しは気になったが、キラはあえてそれを自分の中で押し殺した。尋ねたところで、ロウは何も答えてくれないに決まっている。今までだって、そうだった。答えてもらえない質問をしてイライラするより、今はただ、こうして隣に立っている方がよっぽど気分がいい。
ロウの側にいるのは心地良い。そう、まるでずっと昔にもそうしていたことがあったかのように。
だが、それを確認することは、キラには不可能だった。何故なら、キラには凍結以前の記憶が全く無かったから―。
解凍され、ここにある回復室の一つで目覚めたキラの記憶は、キラに関する記録同様、全くの白紙状態だった。名前を尋ねられても、年齢や家族のことを尋ねられても、キラは何も思い出せなかった。
脳内記憶の専門家の診察を受けてわかったことは、キラの記憶はあるにはあるが、脳の奥深くで「封印」されているらしいと言うことだけだった。
「何かきっかけがあれば、徐々に記憶は解除されていくことでしょう。焦らずに今を楽しむことです」
そう言われても、キラには何をどう楽しむのかさえもわからなかった。何をどうしていいのかわからず、キラは途方にくれたまま、感情さえも眠りに着く前に置いてきてしまったかのように、ただ人形のように過ごしていた。
その時、キラに異変が起こった。
たまたまキラの様子を見に訪れていたロウが専門家の診察結果を聞き終わり、壁際で独り座ったまま宙を見ていたキラに向かって歩いてきた。空ろな目をしたキラの目の前に立ったロウは、困ったような顔をしてこう言った。
「キラ…。お前は、これからどうしたい?」
その一言を聴いた瞬間、キラが涙を流し始めた。
顔はそれまで通り、淡々としていたが、それでもキラの瞳からは涙がボロボロと流れ落ちていた。そんなキラを見ながら、ロウが慌てふためいた。
「お、おい! どうすればいいんだ、これは!!」
同じ部屋の中で脳の専門家とキラについて話をしていたヤンが、呆れたような顔をして溜息をつく。
「副社長…。頼みますから、患者には手を出さないで下さいよ…。何泣かせてるんですか」
「お、俺はこれからどうしたいのかって訊いただけだ!」
「はいはい」
とりあえずキラから離れようとして、ロウがキラに背を向けて歩き始めた途端、キラの細い腕がロウの身体に巻きつき、ロウは背中に暖かな体温を感じた。
「あ、と、えーっと、キラ…?」
困惑しながらキラに尋ねるロウに、キラが首を横に振りながら答えた。
「嫌! 一人にしないって、約束したのに…!」
(いつしたよ、そんな約束!!)
ロウはキラにそう言ってやりたかったが、相手は女の子だ。しかも、つい最近永い眠りから覚めたばかりの…。
(誰かと、間違えているのか…?)
ロウは溜息を付きながら焦る気持ちを少し落ち着かせると、まだ自分の身体に回されたままのキラの腕に優しく触れた。
「…わかったから。とりあえず、今は腕を離してくれるかい?」
ロウの言葉と共に、キラの腕に込められた力がスルスルと抜けていき、キラはそのままペタンと床に座り込んだ。
「何か、思い出したかい? キラ」
その声に目をハッと見開きながらロウを見上げると、キラはしばらくその顔をじっと見つめていたが、やがて静かに首を横に振り、聞き取れないほど小さな声で呟いた。
「違う…。あなたじゃない」
だが、誰とロウが違うのかは、肝心のキラにもわからなかった。
その後、ロウがキラの一時身元引受人になり、自宅に連れ帰った。彼の実家には余っている部屋が何部屋かあったし、キラのような特異なケースは自社の管理下に置いておく方が安全だ。それに、キラを一人で街に放り出すのは危険極まりない。それはキラに記憶が無いからだけではない。キラは、通り過ぎる者全てが振り返るような美女だ。そんな彼女が一人で街をうろついたら、たちどころに男共の餌食になるに決まっている。
加えて、ロウの家では代々、キラは家宝のような扱いを受けていたのだ。通常、冬眠カプセルは多くのカプセルが一つの制御ルーム内に安置されるが、キラのカプセルだけは何故か昔から、それ一つだけが安置された小さな制御ルームの中にあり、その部屋に入るためには特別なカードキーが必要だった。
ロウはまだ子供の頃に、祖父にキラのカプセルを見に連れてこられたことがある。祖父はキラのことを「眠り姫」と呼んでいた。確かに、カプセルの中で眠るキラは眠れる森の美女と言ったイメージだったが、小さなロウは、その数日前に学校の人形劇で見た「白雪姫」はこんな感じかなと思っていた。魔女が与えた毒リンゴを食べてしまい、ガラスの棺の中で王子様のキスを待つ白雪姫。その肌は雪のように白く、髪は黒檀のように黒い。
キラの隣に立ち、キラと話をしていると、ロウはあのカプセルの中で眠っていたキラとこのキラが同一人物だと言うことが本当に不思議に感じられる。
同一人物だと言うことはよくわかっている。ただ、眠っていたときと違い、今のキラは表情を持ち、会話をし、生き生きとした瞳を持つ女性だと言うことが少し違う。ヤンなどは「キラは喋らなければ極上の美人」とまで言うが、それもあながち嘘ではない。だが、ロウにはダダを言って困らせたり、嫌味を言ってみせたり、鋭い皮肉を言い放つキラも、またキラである。
「ロウ。あなた、この王子様の凍結理由はご存知?」
キラが少し上目遣いでロウを見ながら尋ねた。
「いや。詳しいことは。俺もそのデータに載ってる程度のことしか知らないな」
「ふぅーん」
いつものことだが、キラはロウに多くのことを訊いてこない。うるさく根掘り葉掘り尋ねてくる女も煩わしいだけだが、何も尋ねてくれないのは少し寂しい時もある。
「…質問は、それだけか?」
ロウの言葉に、キラの頭が跳ねた。
「あら、珍しい。もっとお尋ねしてもよろしいのかしら?」
不自然な敬語を使いながら生き生きとした瞳で尋ねてくるキラに苦笑しながら、ロウは「どうぞ?」と答えた。
「じゃ、この王子様とあなたの関係は?」
キラの質問から、VIPだという言い訳はもはや通用しないことを瞬時に悟る。
「親戚だ。爺さんの従兄の筋だから、結構遠い親戚だな。それに加えて、彼はカグヤ・コーポレーション現社長のお兄さんにあたる」
瞬時に、ロウはキラの瞳が好奇心で満たされているのを見て取った。
「カグヤって、星間引越業者の?」
「そう、あの『星から星への御荷物はカグヤが安心』のカグヤだ」
ロウのコマーシャルの声真似にプッと吹き出しながら笑った。
「へえ~。あそこの社長さん、ロウの親戚筋だったのね」
「今はそんなに『親戚付き合い』は無いけどな」
ロウの言葉に、キラがロウの家で暮らしていた時の記憶を急速に巻き戻す。
「そう言えば、そうね」
「それでも、まぁ、一応は親戚だからな」
「……」
キラの視線がガラスの向こうの少年の元へと帰った。その真っ直ぐで強い眼差しから、キラが今、この後の彼との「セッション」について考えているのだろうと言うことは容易に想像できる。キラのことだ。既に彼が眠りに付いてから今までの五十年に起こった主な変化については既にリサーチ済みだろう。
キラがこの仕事に付き始めた当初は「記憶の無い者にこの仕事を任せるのはどうか」と言うごもっともな反対意見が多数出たが、記憶の無い者だからこそ、今を生きるのに必要なことに気付くということもある。三年経った今では、キラはこの仕事では立派な適応教育のプロだ。世の中というものは、何がどうプラスに働くのか、まだまだ予想不可能なこともあるから面白い。
実際、キラの学習能力の高さにはあの「秀才」ヤンでさえも舌を巻いていた。目覚めて一年と経たぬ間にすっかりこの時代への適応を果たし、自立して働くに当たって必要な技能も身に付けたのは驚くばかりだった。今ではロウよりもコンピューターや流行に詳しいくらいだ。そんなキラの自立を、ロウは少し寂しいとさえ思っていた。
キラの横顔を見つめていたロウの胸ポケットから振動音が聴こえた。ロウはポケットから薄型のトランプくらいの大きさのカードのような物を取り出すと、左耳に付いた装置を左手で少し調節しながらカード上に映るものに向かって話し始めた。
「何だ。…ああ。…わかった。今戻る」
ロウはカードを胸ポケットに入れるとキラに言った。
「キラ。一度部屋に戻るから、終わる頃に呼んでくれ」
キラはロウに向き直ると、両腕を胸の前に組みながら言った。
「了解。相変わらず忙しいのね」
ロウは苦笑しながら「まあな」と答えると、右手を軽く上に挙げて部屋にいた研究員達に合図をし、モニタールームを後にした。
キラはロウの後ろで閉じられた扉を見ながら溜息を付き、その溜息の意味がわからずに戸惑い、一人苦笑した。
少年は、ゆっくりと目を覚ました。
まるで春の野原で日向ぼっこをしていたかのように、まどろむように、ゆっくりと。
少年はしばらくの間、天井をじっと見つめていたが、やがて視線を少しづつ右や左へと泳がせ始めた。
「お目覚めですか? 御気分はいかがです?」
モニタールームから研究員の一人がマイクを通して声を掛けると、少年は声の主を探し始めた。
「誰…? ここは…?」
「ここはウラシマの回復室です。あなたは50年の凍結期間を経て、本日目覚められたのですよ? おぼえていらっしゃいますか?」
少年は両目を閉じると、「ああ、そうか…」と呟いた。
「父に連れて来られて…。そう。僕はカプセルに入った。うん…。じゃあ、今は…、西暦2XXX年?」
「その通りです。御自分のお名前は覚えていらっしゃいますか?」
少年は白い天井を見つめながら答えた。
「…サク。サク・カグヤ」
「ありがとうございます」
モニター室の研究員達は様々な計器に出されている数字をチェックし続けている。
「心拍、呼吸、血圧…。よし、いいだろう。ドアのロックを解除します」
「じゃ、キラさん、行きますよ?」
研究員の一人に促され、キラと研究員は回復室へのドアを開けた。
「こんにちは。初めまして、サク君」
マイクを通さずに聴こえる声に反応して、サクが頭をベットから上げた。サクの顔に、少し緊張の色が見える。
「ああ、楽にしていて下さい。私は研究員のアニーシャ。こちらは適応教育担当のキラです。最終確認のために少し、お身体をチェックさせてくださいね?」
アニーシャと言う名の研究員がサクが横たわっているベットのボタンを操作すると、ベットがゆっくりと起き上がり、サクの上体を起こした。アニーシャが少年の目や口、耳などの点検を行なっている間、キラは数分前に回復室に届いたサク用の服を持ったまま、壁にもたれながらサクを観察していた。従順に最終チェックを受けるサクはキラの視線に気付き、少し頬を赤らめながら視線を反らした。
「…よし、と。チェック、OKです」
タブレットに記入をしながらアニーシャがモニター室に向かってそう言うと、スピーカーから「了解」と短い返事が聞こえた。
「それでは、モニターを外して、少し身体をマッサージしますね。」
アニーシャはタブレットをベットの端に置くと、サクの身体に付けられているモニター用のパットを手早く外し始めた。外したモニターを束ねて片付けると、アニーシャはサクの身体を軽くマッサージして筋肉をほぐすと共に、少年に身体を少しづつ動かしてみるように指示した。
「明日からは、御自分で今のような運動を毎朝、起きた時にやるようにして下さい。激しい運動はまだ控えてくださいね。あなたはまだ目覚めたばかりですから、身体が付いていかないと思います」
アニーシャは一通りの軽いマッサージを終えると、サクとキラに軽い会釈をしてモニタールームへと戻っていった。
キラは壁から背中を離すと、ゆっくりとサクに笑顔で近付いた。
「初めまして、サク君。私はキラと申します。身体の調子はいかが?」
それまで自分の指をゆっくりと動かしながらその様子をじっと見つめていたサクが、ゆっくりと顔を上げた。サクはキラと目が合うと、戸惑いながら微笑んだ。
「…何だか、不思議な感じです。僕がつい先程まで、50年も凍ったまま眠り続けていたというのが…。僕には、少し寝過ぎたくらいの感覚なのに。まだ、全然実感がわかないんです」
キラはクスッと小さく笑って言った。
「他の方々も、皆さんよくそう仰いますよ」
キラは手に持っていた服をサクの傍らに置いた。
「こちらの服に着替えていただき、そのあと別室に移ります。そちらで、あなたのお迎えが来るまでの間、あなたが眠っていた間にこの世界で起こった主な出来事や変化を少しお話いたします」
「あ、あの…」
サクが躊躇いがちにキラに声を掛けた。
「何でしょう?」
「それ…、どのくらいの時間が掛かります?」
「1時間ちょっとくらいだと思いますけど…。長いですか?」
サクは長い睫毛を伏せながら、何かを少しの間考え、キラに言った。
「それ、スキップすること、できませんか?」
「スキップ?」
「ええ。僕には必要の無いセッションだと思うんですけど」
「え?」
キラの戸惑いぶりを見たサクは慌てて首を横に振った。
「ああ、ごめんなさい。言い方が悪かったかな。僕は、出来れば僕が眠っていた間に起こったことを知るよりも、今のこの世界を見て、感じることに時間を費やしたいんです。それが、僕が凍結を望んだ理由だから―」
「今の、この世界を…?」
意外な申し出にまだ戸惑っているキラに、サクは真っ直ぐな瞳で頷いた。それを見て、キラの顔から笑みがこぼれた。
「わかりました。本当のところ、その方が私は得意かもしれません。ちょっと失礼―」
キラは胸のポケットから薄型のカードを取り出して操作した。
「あ、ロウ。キラです。…はい、目覚めました。それで、セッションですが、クライアントの御希望で、これから2、3時間ほど外に出て来ます。…え?」
キラが目を丸くした。少年の目からも、キラが慌て始めたのが見えた。
「はぁ? あ、いえ、こちらは一向に構いませんが…。そちらは大丈夫なんですか? …はい。…はい。…了解しました。それでは、15分後に。はい。ありがとうございます」
耳の装置を切ると、キラはカードを胸のポケットに入れた。顔はまだ「信じられない」という表情をしている。
「…何かあったんですか? キラさん?」
サクが不安気にキラに尋ねると、キラはハッと我に帰って首を横に振った。
「いえ、えーっと、外に行くのに、王子様をお守りするための騎士が参上するそうです」
「は?」
「ああ、えーっと、弊社の社長が是非、御案内させていただきたいと…」
少年はキラの言葉に首を傾げていたが、やがて思いついたように言った。
「そう言えば、ウラシマの今の社長さんって、誰? 僕が凍結されたときはサイゾウさんだったけど」
サイゾウ・ウラシマはロウの祖父だ。
「現社長はロウ・ウラシマ。サイゾウ・ウラシマの孫にあたります」
「サイゾウさんは?」
「数年前に亡くなられたと思いますが…。そのあたりのことは、ロウにお尋ね下さい」
「…うん」
サクは短く返事をすると、フウ、と溜息を付いた。
「やっぱり、50年って…。思ってたよりも長いんだね」
「……」
サクのこの言葉に、キラはどう返していいのかわからなかった。自分が眠っていたは、ロウの話からも十年や二十年のことではないと言うことはわかっている。ひょっとしたら、百年、二百年の話かもしれない。しかし、今のキラにとって、眠っていた年月は全く関係のないことだ。何故なら、キラにはスタート地点がどこにも無い。凍結以前の記憶を持たないキラにとって、眠っていた年月を短いとか長いとか感じるための始点は、どこにも存在しなかった。
「あ、僕のことばかり話して…。ごめんなさい」
サクが黙りこくってしまったキラに気を遣って話しかけると、キラは我に返り、慌てて首を横に振った。
「いいえ。私のほうこそ、ごめんなさい。ちょっと、考え事をしてしまって…。それで、サク君は行きたい所や見たい所の御希望はありますか?」
キラの言葉に、サクはうーんと唸りながら上を向き、天井を見つめた。
「まずは…。そうだな、展望台みたいなところ。今のこの街の全景が見られる場所があれば、そこで。それから、この街で今一番流行っている所。それから…」
サクは少し口をつぐんで黙ってしまったが、意を決したように言った。
「シーズ大学付属総合病院へ」
「…病院?」
「うん。そこの庭にね、ちょっと見てみたいものがあるんだ」
キラは最後の意外な選択に戸惑ったが、あれこれ詮索するよりも、まず行動を起こすほうを選んだ。
「了解」
キラは少年に着替えてこの部屋で待つように告げると、自分も外出の準備をするために一度部屋を後にした。
着替えたキラが迎えに行くと、サクはキラが与えた服に着替え終わってキラを待っていた。
「わぁ。やっぱり、思った通り! よく似合うわ」
「そ、そうですか…? こんな服が今、流行っているんですか…?」
「ええ。よくお似合いです。選んだ甲斐があります」
「はぁ…」
着慣れない服に少し戸惑いながら歩くサクを連れてキラが本社ビルのロビーに到着すると、そこには既にロウが待っていた。
「お待たせしてしまったかしら?」
「いや、俺も今さっき着いたところだ。そちらがサクさん、で宜しいでしょうか?」
見慣れない丁寧な態度のロウにむずがゆくなりながら、キラは男性二人の遣り取りを微笑みながら見守っていた。
「はい。あなたがウラシマの現社長さん、ですね?」
「ええ。初めまして。ロウ・ウラシマと申します」
「初めまして。サク・カグヤです。今日はよろしくお願いします」
「いえ、こちらこそ」
2人は笑顔で握手を交わす。
「では、参りましょうか」
キラが二人を促すと、ロウが頷いた。
「そうだな。外に車を待たせてある」
ロウはそう言うと、悠々と先頭を切って歩き出した。
「えっ。よろしいんですか?」
キラが恐縮しながら尋ねると、ロウが笑った。
「お前…。俺が一緒なのに、タクシーを使う気でいたのか?」
「はぁ、すみません」
ロウはフッと軽く微笑んでキラの頭をコツンと小さな拳骨でノックすると、「行くぞ」と言って本社ビルの外へ出た。
キラはロウの拳骨が当たった部分の小さな痛みが、何故か嬉しく感じられた。
サクのリクエストを元にロウが連れて行ってくれたのは、数年前に完成したばかりの新しいシーズ・センターと呼ばれる高層ビルの中にある展望台だった。その階層の壁全てが窓で作られ、壁際5メートルほど手前から床と天井も全て透明の物質で出来ているため、そこに立つとまるで空中に浮いているかのような錯覚に囚われる。
「これは、すごいですね…。僕が眠る前には、無かったな、ここ…」
サクが興奮した様子で辺りを見回している。
展望台から望むシーズの街は、中心部の高層ビル群から遠くに広がる郊外の住宅街まで、彩が豊かだ。上には街を囲むドームがあり、人々が宇宙服無しでもシーズの中で暮らしていけるように設計されている。ドーム越しには近隣の町のドームが遠くに見え、空を仰ぎ見れば、そこには青く輝く地球が見える。
初めて体験する不思議な光景に、キラはしばらく我を忘れてその空間を楽しんでいた。
「お気に召されましたか?」
後ろでロウの声がして、キラは振り返って微笑んだ。
「ええ。何だか、不思議な感覚ね。月と、地球の間にいる…。地球に引き寄せられるみたいな、そんな感覚がするの」
そう言いながらまた地球を見上げるキラの横顔にロウはしばらく魅入っていた。
「日本の古典にある、竹取物語のかぐや姫のようですよ、キラさん。でも、かぐや姫がそうやって仰ぎ見たのは月ですけど」
サクがそう言いながら近付いてきた。
「かぐや姫?」
首を傾げながら尋ねるキラに微笑みながらサクが言った。
「あれ? 御存じないんですか? かなり端折って説明すると、地球で育った美しい姫君は実は月の住人で、ある日月から迎えが来て、帰って行ってしまうんです」
サクはキラの隣に立つと、キラと一緒に地球を仰ぎ見た。
「月に帰る日が近付くにつれ、かぐや姫は月を仰ぎ見ながら、涙を流したそうですよ」
「それは、月に帰りたかったから…? それとも、地球を離れるのが辛かったから…?」
「さあ、どうでしょう」
三人はしばらくの間、青く輝く地球をじっと眺めていた。
ロウにシーズの中心街を案内された後、三人はサクの希望通り、シーズ大学付属総合病院へとやって来たが、正面に到着した瞬間にサクの顔色が変わった。
「あ…。建物が…」
「?」
キラはサクの困惑の理由がわからずに首を傾げていたが、ロウが落ち着いた様子で言った。
「この病院は、建物の老朽化が進んだことを理由に、十年前に同じ敷地内で改築されたんだ」
「十年前…」
三人はとりあえず車を降り、サクに導かれるままに中庭を抜けて建物の裏手に向かった。
「やっぱり、無い…」
裏手には美しい庭が広がっていたが、サクの目的はそれではなかった様だった。
「そうか。あの病院、少し古かったもんな。改築されるなんて、考えてもみなかったよ。馬鹿だな、僕…」
サクは遠い目をしながら呟くと、ここを去ろうとして振り返り、一点を見つめたまま動かなくなった。
「サク君…?」
サクの様子に気付いたキラがサクの視線の先を辿ると、そこにはこちらに向かって歩いてくる一人の初老の男性がいた。
「お父、さん…? いや、そんなはずはないか。じゃあ、あれは、誰…?」
「あなたを迎えにいらした、弟さんですよ」
ロウの言葉に、サクは納得したように頷いた。
「ああ、やっぱり…。え、でも、どうしてここに?」
初老の男性はサクに近付くと、やんわりと微笑んだ。
「兄さん。サク兄さんですね? ああ、あなたはあの頃と少しも変わらないままだ…」
「ミツル…。お前なのか?」
「はい。とは言っても、私はもう、六十を過ぎてしまいましたけどね」
「いや。また会えて、嬉しいよ」
兄弟はしっかりと抱き合い、再会を喜んでいた。
「それにしても、どうして君がここに?」
サクがミツルに尋ねると、コウの代わりにロウが答えた。
「私が連絡したんですよ。あなたがここに来たいと仰った時に」
ミツルは頷きながらサクに向かって言った。
「兄さんが探しているものは、もうここにはありません。病院の改築工事が始まる時に、病院にお願いして、うちの庭に移転させてもらったんです」
「え、じゃあ…」
驚きながら目を見開いているサクに、ミツルは笑顔で頷いた。
「ええ、あの木は無事ですよ。うちの庭で、今年も見事な花を咲かせています」
キラとロウはカグヤ兄弟と共に、今はカグヤ邸の庭の一画にいる。
「綺麗な花ですね…」
満開の桜の木の下で、キラは花を見上げながら溜息を漏らした。
「ああ、見事な木だな」
ロウも珍しく、キラに同意しながら桜を見ている。
「この桜はあの病院でも、花が咲き始めてからはなかなか人気のある木だったんですよ。でも、改築の話が出た時に、この木を一時植え替えねばならないという話を聞いて…。どうしてもこれだけは、私の手の届くところでしっかりと守りたかったんです」
花を見上げているミツルに、サクは微笑みながら言った。
「ありがとう、ミツル…」
ミツルはニヤッと笑い、その面影には五十年前のいたずら少年の面影が宿った。
「当たり前じゃないか。この木の苗を父さんに黙って病院にこっそり運び込んだのは、私じゃないか。言うなれば、この木は兄さんの木でもあるけど、私の木でもあるんだから」
「あはは。そう言えば、そうだったね」
サクは笑いながら、木の幹に手を当て、そして自分の額を当てた。
「この木は、ずっと生きていく。これから、ずっと。僕がすぐにいなくなっても、ずっと…」
「えっ」
サクが呟いた台詞に、キラは思わず驚きの声を上げてしまった。
「あ、申し訳ありません…」
恐縮しながら頭を下げるキラに、サクは「気にしないで」と言って微笑むと、満足そうに桜の花を見上げた。
「僕はね、生まれたときから病弱で、この家よりもあの病院にいた時間の方が長いんだ。十五になった時に、残りの命はあと数年だろうって言われた。だから、この木をミツルと一緒に植えたんだ。僕がいなくなっても、この木が僕の代わりに、そこにいるように」
「……」
キラは、何も言えずにただ黙ってサクの話を聴いていた。
「十六の時、父に延命治療や治療法を探すための出費よりも、今すぐに僕を凍結して五十年後に解凍して欲しいって言ったんだ。本来なら僕が見ることのできない世界を、死ぬ前に、少しの間だけでもいいからこの目で見てみたかった」
サクは空を見上げた。桜の枝の向こうにはドームが光を反射し、その向こうには遠くに地球が見える。
「今日は、嬉しかったよ。僕の夢が叶って。こうして、花を咲かせたこの木も見ることが出来たし…。あれから五十年後のこの街を見て、歩いて、楽しむことが出来た。眠らなかったら、僕はこの景色を見ることができなかった…」
サクは視線を桜の花からキラとロウに移すと、ニッコリと微笑んだ。
「お二人とも、今日は本当にどうもありがとう」
満開の桜の下、西日を受けながら微笑むサクは、今にも空へと掻き消えてしまいそうなほど儚く、美しかった。
「とりあえず、あの子の夢は叶った、のかな…」
ウラシマ本社ビルへの帰途、車の中でキラがそう呟いた。
「ん?」
車の後部座席でキラの隣に座りながら仕事のメールを読み続けていたロウが、読みかけのメールから顔を上げてキラを見た。キラはロウの視線に気付かずに、ただ外の風景が流れるのを眺めていた。キラの側の窓には、少し不安そうな表情をしたキラの顔がうっすらと映っていた。
(私ももし、あの子の様にただ未来の姿を垣間見るためだけに眠らされたのだとしたら…? 私にはあと、どれだけの未来が残されているの?)
考えるだけでも怖くなる。自分が凍結された理由も、目覚めた理由も、キラは何も知らない。
(私は、私は誰…?)
「…キラ、落ち着け」
ロウの力強い声が、キラを思考の螺旋階段から力強く引き戻した。
「ロウ…?」
ロウを見るキラは、まるで迷子か、お化けに怯える子供のようだった。ロウは困ったような顔をして、キラの頭に軽く手を乗せた。
「心配するなって言っても、意味無いかもしれないけどな。余計なことを心配するよりも、今は、今を見つめろ。そうすれば自然に進む道が見えるさ」
ロウの言葉にキラは一瞬キョトンとした表情をしたが、その表情は次第に緩んで溶けていった。キラはクスッと軽く笑うと言った。
「私、そんなに不安そうに見えた?」
「ああ」
ロウはそう言いながら、再び視線を読みかけのメールに移した。キラはロウの横顔を見ながら、小さく呟いた。
「…ありがとう、ロウ」
「ああ」
車は緩やかに、ウラシマ本社ビルの正面口へと吸い込まれていった。