第1話 私の好きな人は、私よりずっと可愛い人を好きになった
私は、自分の顔が好きじゃない。
嫌い、と言い切るほどではない。
鏡を見るたびに「最悪」と思うわけでもないし、学校に行けなくなるほど悩んでいるわけでもない。
高校三年になった今も、朝、洗面所で前髪を直して、制服のリボンを結んで、いつも通り玄関を出ることくらいはできる。
ただ、可愛い子と並ぶのが苦手だった。
写真を撮るときは、できるだけ端に行く。
集合写真なら後ろ。
友達と二人で撮るときは、ほんの少しだけ半歩下がる。
自分だけが目立たない角度を、いつの間にか探すようになっていた。
そんな小さな逃げ方ばかり覚えている自分が、一番嫌だった。
「……私、何やってんだろ」
スマホの画面に映った自分を見て、思わずため息が出た。
教室の窓際。
朝の光が画面に反射して、私の顔をぼんやり浮かび上がらせている。
隣に写っている莉子は、今日も可愛い。同じ高校の制服を着ているはずなのに、どうしてこうも違って見えるんだろう。
リボンが少し曲がっていても、莉子だと抜け感みたいに見える。私だと、ただだらしないだけに見える。
「また自分の顔見てため息ついてる」
莉子が、横からスマホをのぞき込んできた。
「見てないし」
「いや、見てた」
「確認。これは大事な作業だから」
「何の?」
「今日も普通の顔してるなっていう確認」
「朝から何言ってんの」
莉子は笑いながら、私の肩を軽く叩いた。
その力加減が優しくて、少しだけ胸が緩む。莉子はこういう冗談を、本気で悪く受け取らない。だから私も、軽く笑って返せる。
こういうときは、笑っておけばいい。
私は昔から、それが得意だった。
自分のことを先に悪く言って、笑いにしてしまう。そうすれば、誰かに何か言われても、傷ついていないふりができる。
言われる前に自分で言えば、少しだけ安全な場所にいられる気がした。
少なくとも、私はそうやってきた。
でも本当は、笑うたびに少しずつ何かが擦り減っていることも、知っていた。
笑ったあと、頬の奥だけが妙に疲れる。莉子が黒板のほうへ視線を戻したあとも、私はスマホを伏せられずにいた。
暗くなった画面の中に、自分の輪郭だけがぼんやり残っている。
普通。
自分で言ったくせに、その言葉が喉の奥に引っかかった。
「今日、バイト?」
莉子が思い出したように聞いた。
「今日はない。明日と土曜」
「高三なのに偉いよね、美咲」
「偉いっていうか、ただお金ほしいだけ」
私は軽く肩をすくめた。
高校生になってから、私は駅前のドラッグストアでアルバイトをしている。放課後に数時間だけ入る日と、週末の午後に入る日がある。テスト前は減らしてもらえるし、受験勉強ができないほど詰めているわけではない。
レジを打って、品出しをして、店内放送を聞きながら「いらっしゃいませ」と何度も言う。帰る頃には足が少し重くなるけれど、自分で稼いだお金が通帳アプリの数字として増えていくのを見るのは、嫌いじゃなかった。
それで何を買うのか、このときの私はまだ、はっきりとは考えていなかった。
その日の放課後。
昇降口を出たところで、幼なじみの湊が私を呼んだ。
「美咲!」
振り返ると、湊が片手を上げて駆け寄ってくる。夕方の光の中でも、やっぱり無駄に顔がいい。
少し汗で乱れた前髪も、制服のシャツの袖を雑にまくっているところも、湊だと全部それっぽく見える。
こういうのをずるいと言わずに何と言うんだろう。
「なに?」
「ちょっと付き合って」
「何? 金ならないよ」
「俺を何だと思ってんの?」
「イケメン」
「正解」
「自分で言うな」
湊は声を出して笑った。
昔から、こういうところがずるいと思う。
誰とでもすぐ仲良くなる。初対面の人にも自然に話しかける。先生とも、まるで友達みたいに喋る。男女関係なく周りに人が集まって、本人はそれを特別なことだと思っていない。
それでいて、顔もいい。
本当に腹が立つ。
小学五年生の頃から、私は湊が好きだった。
きっかけなんて、はっきり覚えていない。気づいたらそうなっていた。家が近くて、登下校が一緒になることが多くて、夏休みには同じ公園で遊んで、冬には手をポケットに突っ込んだ湊の隣を、白い息を吐きながら歩いた。
湊は昔から、何気なく優しかった。
私が忘れ物をしたとき、何も言わずに自分のノートを机の真ん中に寄せて見せてくれた。下校中に私の靴ひもがほどけたら、先に気づいて「転ぶぞ」と言った。雨の日に傘を忘れた私を、当たり前みたいに家の前まで入れてくれた。
そのたびに私は、ほんの少しだけ期待した。
もしかして。
私だけなのかもしれない。
そんなふうに思ってしまう自分がいた。
でも湊は、同じことを誰にでもした。困っている子がいればノートを貸したし、重そうな荷物を持つ先生を見つければさっと手伝った。雨の日には、別のクラスの子にも傘を差し出した。
優しいのは、私が特別だからじゃない。
湊がそういう人だからだ。
分かっているのに、湊が私の名前を呼ぶたび、廊下の向こうからまっすぐ私を見つけるたび、心のどこかが勝手に跳ねた。
湊は私の隣に並ぶと、少しだけ声を落とした。
「実はさ」
「うん」
「好きな人ができた」
一瞬、周りの音が遠のいた気がした。
グラウンドの掛け声も、昇降口のざわめきも、誰かの笑い声も、全部薄くなる。湊の声だけが、妙にはっきり耳の奥に残った。
好きな人。
たった四文字なのに、胸の真ん中を静かに押されたみたいだった。
「……へえ。誰?」
「たぶん年上。大学生くらいかな」
「は?」
「毎朝、駅まで歩いてるときに見かける人」
「……ストーカー?」
「違うわ」
湊は慌てたように笑って、スマホを取り出した。見せてきた画面にあったのは写真ではなく、湊が描いたらしい雑な似顔絵だった。
「なにこれ」
「似顔絵」
「下手すぎ」
「うるさい」
「ていうか、写真じゃないんだ」
「撮るわけないだろ。さすがにそれは怖いじゃん」
「そこはまともでよかった」
「毎朝、通学路で見るだけだよ。駅前の公園の外周を走っててさ。ちょうど俺たちが通る時間に、向こうがランニングして戻ってくるんだ」
湊は、少し照れたように画面を見た。
「最初は、朝からすごいなって思っただけなんだけど。何回も見かけてるうちに、なんか、目で追うようになって」
「ふうん」
「走ってるときの姿勢とか、髪結んでる感じとか。息切れてるのに、ちゃんと前見て走っててさ。かっこいいっていうか、綺麗っていうか」
言いながら、湊の顔がぱっと明るくなった。
今まで見たことがないくらい嬉しそうで、その表情だけで胸の奥が少し痛んだ。
私は湊のそういう顔を、ずっと見たかったはずだった。湊が楽しそうに笑うと、私まで嬉しくなる。小さい頃からそうだった。テストでいい点を取ったときも、部活の試合で勝ったときも、湊が「聞いて」と寄ってくるのが好きだった。
なのに今は、その笑顔の向こうに私ではない誰かがいる。
嬉しそうな湊を見て嬉しいのに、その理由が自分じゃないことが悔しい。
そんな矛盾を飲み込むみたいに、私は喉の奥に力を入れた。
「……好きなんだ」
「うん。結構、本気」
「…そっか。じゃあ、応援する」
「マジで?」
「幼なじみだからね」
口にした瞬間、自分で嫌になった。
幼なじみ。
便利な言葉だ。
好きな人の隣にいられる理由にはなる。
でも、好きな人に選ばれる理由にはならない。
幼なじみという距離は近すぎて
恋人には遠すぎた。
湊は安心したように「助かる」と言った。その声がいつも通り優しくて、私はまた少しだけ期待しそうになって、すぐに自分で打ち消した。
違う。
これは私だけに向けられた優しさじゃない。
湊は、誰にでもこうなのだ。
私、ちゃんと笑えてたよね…?
⸻
それから数日後。
湊がその女性に声をかける日が来た。
私まで一緒にいる必要はないと思った。むしろ、いないほうがいいに決まっている。湊が誰かに恋をして、その相手に近づこうとする場面を、どうして私が隣で見なきゃいけないんだろう。
けれど湊に「美咲がいると緊張しないから」と言われてしまった。
断れなかった。
その言葉は、少しだけ甘かった。
私がいれば安心する。湊にそう思われていることが、嬉しくないわけがなかった。長い時間を一緒に過ごしてきたからこその距離。湊の緊張をほどける場所に、自分がいる。
でも同時に、それは恋じゃないのだと思い知らされる言葉でもあった。
湊は私の前では、かっこつけなくていい。つまり私は、湊が好きな人の前で見せる顔を見るための、ただの足場みたいなものだ。
駅までの道を、湊と並んで歩く。朝の通学路はいつもと同じはずなのに、湊がそわそわしているせいで、空気まで落ち着かない。
湊は鞄の肩ひもを何度も持ち直していた。緊張しているときの癖だ。小学生の頃、発表会の前にも同じことをしていた。そういう細かいことを、私は知っている。
知っているから、余計につらい。
「いた」
湊が小さく言った。
駅前の公園に沿った歩道の先。
その人は、ちょうど走り終えたところらしかった。
白い速乾素材のTシャツに、薄いグレーのウィンドブレーカー。黒いランニング用のレギンスに、軽そうなスニーカー。長い髪は高い位置でひとつに結ばれていて、首にはイヤホンのコードと小さなタオルがかかっている。
左手首のランニングウォッチを指で止めて、少しだけ膝に手をついていた。肩が上下して、息がまだ整いきっていない。頬はうっすら赤く、こめかみのあたりに汗が光っている。
走ったあとの熱をまとっているのに、その人の周りだけ朝の空気が澄んで見えた。
綺麗だった。
テレビに出ている人みたいな、派手な綺麗さじゃない。ただ、目で追ってしまう。立っているだけで、その場の空気が少し変わるような人だった。
湊が息をのむのが分かった。
私はその横顔を見て、胸の奥が冷たくなるのを感じた。湊は、こんな顔をするんだ。見とれるって、こういうことなんだ。
「行けば?」
私が言うと、湊は一瞬だけこちらを見た。
「お前も来て」
「なんで私まで」
「頼む」
「……しょうがないな」
湊はほっとしたように笑って、その人へ向かって歩き出した。
その笑顔に、また少しだけ救われてしまう自分がいる。こんなときでさえ、湊に頼られれば嬉しい。嬉しいと思う自分が、みじめだった。
最初のひと言をどう切り出すのか、私は隣で少しひやひやしていた。けれど湊は、驚くほど自然だった。
「すみません」
女性が顔を上げる。
まだ呼吸が少し弾んでいて、返事の前に小さく息を吐いた。
「はい?」
「急に声かけてすみません。俺、いつもこの道を通ってる高校生なんですけど。朝、よくここ走ってますよね」
言ってから、湊は慌てて手を振った。
「あ、変な意味じゃなくて。本当に、通学のときに何回か見かけてて」
女性は一瞬驚いた顔をしたあと、ふっと笑った。
「目立ってた?」
「目立つっていうか……走ってるの、すごいなって」
「朝から息切れしてるだけだよ」
そう言って、女性はタオルで額の汗を押さえた。息はまだ少し荒いのに、声は柔らかかった。
朝によく見かけること。急に声をかけてすみません、とちゃんと謝ること。相手が困らない程度に話題を振って、笑わせて、でも一方的には話しすぎないこと。
こういうの、本当に上手い。
女性も、最初こそ少し驚いていたけれど、すぐに穏やかに笑った。ランニングウォッチをもう一度見てから、ペットボトルの水をひと口飲む。
「高校生?」
「そうです。高校三年」
「若いね」
「お姉さんは?」
「私?」
「すみません、なんか大学生かなって勝手に思ってて」
「合ってる。大学四年。二十三歳です」
「やっぱり」
「何、その“やっぱり”」
「なんか、大人っぽいから」
女性が笑った。
その笑顔を見て、湊も笑った。
私は二人の少し横に立ちながら、その光景を見ていた。
似合う。
そう思ってしまった。
思いたくなかったのに。
二人の間には、まだ何もない。今日初めて話しただけだ。それなのに、湊の視線が自然にその人を追うたび、私の立っている場所が少しずつ薄くなっていく気がした。
二十三歳。
その数字が、制服を着た私からはずいぶん遠く感じられた。大人というほど遠すぎるわけではないのに、同じ場所には立てないくらいの差がある。朝から走って、呼吸を整えて、自分のペースで一日を始めている人。
私はまだ、湊の隣で鞄の持ち手を握りしめているだけだ。
「あ、ごめん。自己紹介してなかった」
女性がふと私のほうを見る。
「紬です」
「朝倉美咲です。高校三年です」
「美咲ちゃん」
紬さんは、名前を確かめるようにゆっくり言った。その呼び方が、妙に優しかった。
「湊くんと幼なじみ?」
「そうです。腐れ縁です」
「言い方」
湊がすぐに突っ込む。
紬さんは小さく笑った。
「朝から一緒に通学って、仲いいんだね」
「近所なだけですよ。私は湊の引き立て役みたいなものなので」
口に出してから、少しだけしまったと思った。
でも、いつもの癖で笑ってしまう。
「顔いい幼なじみの横にいる普通担当です」
「またそういうこと言う」
湊が眉を寄せた。
紬さんは、笑ったまま少しだけ私を見た。その目に、からかいではない何かが一瞬だけ混じった気がした。
「普通担当、か」
「冗談です」
私は慌ててそう言って、笑い直した。
その瞬間、私は思った。
この人には敵わない。
顔だけじゃない。
雰囲気も、話し方も、笑い方も。二十三歳という年齢が持つ少しだけ遠い感じも、走ったあとで汗をかいているのに綺麗に見えるところも、全部。
私がいくら冗談を言っても、湊の隣に長くいても、この人の前では子どもみたいに見える。幼なじみとして積み重ねてきた時間が、急にただの古い荷物みたいに思えた。
湊が紬さんを見る目は、私がずっと欲しかったものだった。
でも同時に、私は湊にそんな目をしてほしかったのだと、初めてはっきり分かった。
その日の放課後、湊はずっと紬さんの話をしていた。
私は駅前のドラッグストアのシフトが入っていたから、店までの道を一緒に歩いた。制服のままバイト先に向かう時間はいつもより短く感じたけれど、湊の声だけがやけにはっきり聞こえた。
「めちゃくちゃ話しやすかった」
「そうだね」
「また会いたい」
「会えば?」
「次どう誘えばいいと思う?」
「知らないよ」
「美咲なら何て言う?」
私は前を向いたまま、少しだけ唇を噛んだ。
聞かれたくない。けれど、突き放すこともできない。
本当は「やめとけば」と言いたかった。年上だし、急に声をかけるのは迷惑かもしれないし、そもそも湊にはもっと別の人がいるかもしれない、といくらでも理由を並べられた。
その別の人が自分であってほしいなんて、口が裂けても言えない。
湊の恋がうまくいってほしいと思う気持ちは、嘘じゃなかった。好きな人には笑っていてほしい。湊が幸せなら、それでいいと思いたい。
でも、湊が紬さんの話をするたび、胸のどこかで小さく黒いものが動いた。
うまくいかなければいいのに。
そう思ってしまう自分が、確かにいた。
「……普通に、また会いたいって言えばいいじゃん」
結局、私はそう言った。
「それでいいかな」
「いいと思う」
「じゃあ、そうする」
湊は嬉しそうに頷いた。
私は笑った。
いつものように。
湊はその笑顔を疑わない。私も、疑われないように笑うのが上手い。何年もかけて覚えた幼なじみの距離は、こういうときだけ妙に役に立った。
「じゃ、バイト頑張れよ」
「はいはい」
店の前で別れるとき、湊はいつも通り軽く手を振った。
私はそれに手を振り返してから、自動ドアをくぐった。
レジに立っている間も、紬さんの姿が何度も頭に浮かんだ。
ランニングウォッチを止める指。汗を拭う仕草。少し息が上がったまま笑う口元。湊がそれを見ていた横顔。
「いらっしゃいませ」
何度も言った。
「ポイントカードはお持ちですか」
何度も聞いた。
商品のバーコードを通して、袋が必要か確認して、お釣りを渡して、また「ありがとうございました」と言う。体はいつも通り動いた。店長に頼まれて洗剤の詰め替えを棚に並べ、閉店前の床を軽くモップで拭いた。
化粧品売り場の前を通ったとき、若い女の人がネイルの棚の前で足を止めていた。ベージュやピンクの列を眺めたあと、深い青のボトルを手に取る。少し迷ってから、その人は小さく笑った。
好きな色を見つけた顔だ、と思った。
校則ならきっと怒られる色。男の子受けとか、清楚とか、そういう言葉とは少し離れた色。でも、その人の指先に塗られたら綺麗だろうなと、なぜか思った。
その人がレジに来る前、別の男性客が会計をしながら、化粧品売り場のほうをちらりと見た。
「最近の子って大変だねえ。ああやって塗ったり貼ったりしても、結局は元がよくないとさ。女の子は若いうちからちゃんと可愛くしておかないと。男は多少雑でも仕事できればいいけど」
笑い話みたいに言われて、私は一瞬、返事に詰まった。
接客用の笑顔が、頬に貼りついたまま動かない。
その人がどんな服を着ているかとか、どんな顔をしているかとか、そういうことではなかった。そこに腹が立ったわけではない。
腹が立ったのは、知らない誰かを勝手に値踏みするその声だった。
自分には向けないものさしを、女の子には当然みたいに押し当てる。その感じが、蛍光灯の白い光よりもはっきり胸に残った。
「……お会計、八百六十円です」
私はそれだけ言って、レジを打った。
男の人が去ったあと、青いネイルを選んだ女の人が会計に来た。私は商品を袋に入れながら、ボトルの小さなガラス越しに揺れる色を見た。
可愛い、というより、綺麗だった。
たぶん、好きで選んだ色は、それだけで少し強い。
そう思ったのに、その感覚はすぐに、紬さんの笑顔に上書きされた。
蛍光灯の下にいる自分の顔が、どこか剥き出しになっているような気がした。
帰る頃には足が少し重かった。
家に帰って、洗面所の鏡の前に立つと、もう笑えなかった。
制服のリボンを外しながら、自分の顔をじっと見る。
目。鼻。輪郭。口元。
どこかが決定的に悪いわけじゃない。だからこそ、余計にどうしていいか分からない。
莉子みたいにぱっと目を引くわけでもない。紬さんみたいに空気ごと変えるわけでもない。鏡の中の私は、ただ私だった。
「……私、何が足りないんだろ」
小顔。
二重。
高い鼻。
細い輪郭。
流行っている顔。
女の子らしい柔らかさ。
並んでも恥ずかしくない何か。
そんな言葉が、勝手に頭の中に浮かんだ。
誰かに一つひとつ教えられたわけじゃない。なのに、いつの間にか知っていた。可愛いとされる形。褒められやすい顔。写真で前に出ても許される顔。恋をしても、選ばれて当然みたいに見える顔。
本当は、答えなんて一つじゃない。
湊が紬さんを好きになった理由は、顔だけじゃないのかもしれない。年上だからかもしれないし、雰囲気かもしれないし、声の柔らかさかもしれない。偶然、朝の光の中で何度も見かけたから、気になっただけかもしれない。
走っている姿が綺麗だったから。
自分の時間をちゃんと生きているように見えたから。
そもそも、恋なんて理屈で決まるものじゃない。
分かっている。
分かっているのに、私の考えはだんだん狭い場所へ落ちていった。
湊と紬さんが並んだときの光景が、頭から離れない。湊の整った横顔。紬さんの澄んだ雰囲気。その少し後ろにいる私。
比べたくないのに、比べてしまう。
比べたあとで、一番分かりやすい理由にすがってしまう。
顔だ。
たぶん、そういうことなんだ。
私がもっと可愛かったら。
私が紬さんみたいだったら。
湊は、私を好きになっていたかもしれない。
そう考えた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
顔のせいにすれば、少し楽だった。だって、性格や積み重ねてきた時間が足りないと言われるより、ずっと分かりやすい。変えられるかもしれないものに理由を押し込めれば、まだ希望がある気がした。
でも同時に、それは今の自分を丸ごと否定することでもあった。
この顔で笑ってきた。湊の隣にいた。莉子と写真を撮った。家族に名前を呼ばれて振り返った。
その全部に、自分でだめだと言ってしまうみたいで、痛かった。
その夜、私は初めて美容整形の広告を検索した。
二重整形。
切らない二重。
症例写真。
ビフォーアフター。
費用。
ダウンタイム。
打ち込む指先は、思ったより冷えていた。検索窓に文字が並ぶたび、後戻りできないことをしているような気がして、何度か消した。それでも結局、また同じ言葉を入れ直してしまう。
画面の中には、たくさんの言葉と写真が並んでいた。
明るい笑顔。短い説明文。簡単に変われるように見える見出し。
「自然に可愛く」
「印象アップ」
「自分に自信を」
「今だけ限定」
どの言葉も、軽くて、明るくて、迷いがなかった。まるで悩んでいる時間のほうがもったいないと言われているみたいだった。
スクロールする指が止まらなかった。
怖い、と思った。
知らない場所に行くことも、誰かに顔を見られることも、今の自分のどこが嫌なのかを言葉にしなければいけないかもしれないことも、全部怖かった。
本当に変わるのか。
変わったあと、後悔しないのか。
親には何て言うのか。学校で誰かに気づかれたらどうするのか。そもそも、そんなことを考えている自分を湊が知ったら、どんな顔をするのか。
そう思ってスマホを伏せた。
でも、数秒後にはまた手に取っていた。
画面の光が暗い部屋に浮かぶ。布団の上で膝を抱え、親指だけが勝手に動いていく。閉じたページをもう一度開き、見ないふりをした写真にまた戻る。
広告の中の女の子たちは、みんな笑っていた。
変わってよかった、と言っているように見えた。
もちろん、画面の向こうに本当の気持ちが全部写っているわけじゃない。それくらい分かっている。綺麗な言葉だけを並べているのかもしれないし、不安や迷いは写らないようにしているのかもしれない。
それでも、見てしまう。
もし私も、少しだけ変われるなら。
湊が私を見る目も、ほんの少し変わるかもしれない。
そう考えた自分に、また胸がざわついた。
私は費用のページを開いた。
表示されている金額は、サイトによって違った。大きく目立つ場所に出ているものもあれば、説明を読み進めないと分からないものもある。方法や内容で変わるらしいことは分かったけれど、何が自分に必要なのかは分からなかった。
安く見える言葉も、高く見える言葉も、どちらも怖かった。
私は机の引き出しを開けた。
バイト代を少しずつ分けて入れている封筒と、通帳アプリの残高を見比べる。今月の給料はまだ入ったばかりで、そこから定期代や参考書代、友達と出かけるときのお金を引いたら、自由に使える分はそんなに多くない。
もし本当にやるなら、親に頼むわけにはいかないと思った。
湊のため、なんて言えるはずがない。
自分の顔が嫌だから、なんて言ったら、母はきっと悲しそうな顔をする。父は困ったように黙るかもしれない。だから、費用を用意するなら自分のアルバイト代から出すしかない。
今ある貯金で足りるのか。
足りないなら、あと何回シフトを増やせば届くのか。
週末にもう一日入れば、少し早く貯まるかもしれない。夏休みに少しだけ多めに入れば、もっと近づくかもしれない。でも、学校もある。受験のこともある。増やしすぎたら、きっと疲れて顔どころではなくなる。
メモアプリを開いて、今月の給料と、封筒に入っている分と、これから入りそうなシフトをざっくり書き出した。
数字にすると、急に現実になった。
画面の向こうの「変わる」は明るくて簡単そうなのに、私の手元にあるお金は、レジで何時間も立って、品出しで腕を伸ばして、帰り道に足を引きずるようにして作ったものだった。
それでも、計算する手を止められなかった。
その中に、一枚だけ妙に目に留まる写真があった。
施術前の女の子は、どこか自分に似ている気がした。特別目立つわけでもなく、でも自分ではきっと何かが嫌だったのだろうと勝手に想像してしまう顔。
施術後の写真では、その子は別人のように見えた。
可愛くなった、と思った。
そう思った自分に、胸がざわついた。
羨ましいと思ったのか、怖いと思ったのか、自分でも分からなかった。ただ、画面の中の変化から目を離せない。
私はスマホの画面を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「……これくらいなら」
ほんの少しだけ。
変わるだけ。
今の自分を全部捨てるわけじゃない。少し整えるだけ。少し前を向けるようになるだけ。
そう言い聞かせるほど、言葉の端が危うく揺れた。
それでも私は、画面を閉じなかった。
⸻
一方、その頃。
紬は自分の部屋で、古い写真を一枚見ていた。
朝のランニングで使ったウェアはもう洗濯かごに入れてある。シャワーを浴びても、脚にはまだ少しだけ走ったあとの重さが残っていた。机の上には、飲みかけの水と、外したままのランニングウォッチが置かれている。
写真には、まだ幼かった紬と妹が写っている。二人で肩を寄せ合い、こちらに向かって笑っていた。
妹は、何も疑っていないような顔で笑っている。
紬は写真の端を指でなぞった。
妹は、中学生になった頃から、自分の顔を気にするようになった。
最初は、鏡を見る時間が少し長くなっただけだった。
それが少しずつ変わっていった。
写真を嫌がるようになった。人の視線を避けるようになった。外に出るのをためらう日が増えた。
紬は何度も言った。
可愛いよ、と。
大丈夫だよ、と。
けれど妹は、そのたびに苦しそうに顔を歪めた。
「お姉ちゃんには分からない」
そう言って泣いたこともあった。
紬には、どうすればいいのか分からなかった。
励ませばいいのか、そっとしておけばいいのか、専門の誰かに相談すればよかったのか。
「そんなことない」と言えば言うほど、妹の苦しさを軽く扱っているような気がした。それでも、他に何と言えばいいのか分からなかった。
正しい答えを探しているうちに、時間だけが過ぎていった。
そしてある日、妹は自ら命を絶った。
妹を追い詰めたものの名前を、紬はいまだにひとつにできない。
学校での何気ない言葉だったのかもしれない。友達同士の冗談だったのかもしれない。スマホの中に流れてくる、細くて、小さくて、整った顔ばかりの世界だったのかもしれない。誰かの基準を、妹自身が自分の中に取り込んでしまったのかもしれない。
紬のせいだと、誰かに言われたことはない。
それでも紬は、時々考えてしまう。
あのとき、もっとちゃんと話を聞いていれば。
「可愛いよ」と言うだけではなくて。
「気にしすぎ」と流すのではなくて。
ただ隣に座って、分からないままでも、苦しさを一緒に持とうとしていれば。
何か変わっていたのだろうか。
答えは、もう誰にも聞けない。
紬は写真をそっとしまった。
そして今日会った少女のことを思い出す。
自分の顔を笑いながら悪く言っていた、美咲。
その笑い方が、ほんの少しだけ記憶の中の妹と重なった。
「……大丈夫かな」
声に出してから、紬は自分でも少し驚いた。
そのときはまだ、ただ少し気になっただけだった。
はじめまして。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
この物語を書こうと思ったのは、
「可愛い」「綺麗」「細い」「若い」など、いつの間にか誰かが作った基準に、自分まで合わせようとしてしまうことについて考えたのがきっかけでした。
可愛くなりたいと思うことも、
綺麗になりたいと思うことも、
整形をすることも、決して悪いことではないと思っています。
でも、
「そうならなければ価値がない」
と思ってしまったとき、少しずつ苦しくなっていく。
この物語では、そんな気持ちを抱えながら生きる美咲たちを通して、
ルッキズムとは何なのか、
自分らしく生きるとはどういうことなのかを描いていきたいと思っています。
誰かの「普通」にならなくてもいい。
好きなものを好きと言って、
好きな自分で生きていく。
そんな物語にできたらと思っています。
これから美咲がどう変わっていくのか。
そして、彼女の周りにいる人たちが何を考え、何を選ぶのか。
一緒に見届けてもらえたら嬉しいです。




