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女を恨む

作者: viblon
掲載日:2026/06/19

 昔々、まだ環七が工事中だった頃、練馬区は見わたすかぎり、畑だった。ひとの姿もまずみられなくて、私と同年配の遊び相手といえば、ノリコちゃん一人しかいなかった。幼稚園にあがるまえの頃の話である。

 私はノリコちゃんをひき連れて、畑のなかの狭い道を歩いていた。

 すると、きれいな小さな花が道端に咲いているのに気がついた。花は黄色だったと思うが、よく憶えていない。もちろん種類もわからない。

「きれいな花ね」

 だったか、何だったか、ノリコちゃんがいった記憶がある。

「ぼくが取ってあげるよ」

 私は足を踏みだした。

 一歩か二歩、足をだしたところで、地面がわれた。

 肥溜めに土がかぶって、まわりと見分けがつかなくなっていたのだ。あっ、と思った瞬間、私は肥溜めに首まで浸かっていた。周囲の地面をひっ掻くと、却って躰は沈んだ。 私は叫んだ。

「ノリコちゃん、助けて」

 ノリコちゃんは「下目遣い」で、無表情に私を見おろして、二、三秒後に、その場から、走り去った。私は固い地面に爪をたてたまま、少しもうごけずに、ノリコちゃんの白いブラウスの背中を、絶望してみていた。

 女はまずい状況になったら、逃げるのだ、と思った。信じてはいけないのだ、とも思った。

 地面に爪をたてている腕の力が尽きたら、肥溜めに沈むのだ、と幼いながらに理解した。最後のときがちかづいているのだが、頭には何も思い浮かばなかった。泣きもしなかった。

 とても長いときが過ぎた。

 実はたいして長くはなかった、とも思う。

 エプロンをした母親がやってきて、私は肥溜めからひき上げられた。

 つぎの記憶は、裸にされて、庭でホースの水をかけられた場面である。水はとても冷たかった。腕を上げろ、股をひらけ、とホースを持った母親から指示された。隣のおばさんが顰めっ面で、庭のすみに立っていた。

 その後、母に風呂場で躰を丹念に洗われた。相当、臭かった筈なのだが、どういうわけか、においの記憶はまったくない。

 ときが過ぎ、学生時代に二か所のガソリンスタンドで、アルバイトをした。支店と、本店と。

 支店でひとり、本店でもうひとりののりこちゃんと出会った。典子ちゃんと、紀子ちゃん。

 もちろんノリコちゃんとは別人である。

 しかし、ノリコちゃんに対する気持ちがいくらか甦った。紀子ちゃんとは食事もしたのだが、テーブルを挟んで、どちらかといえば複雑な、混みいった感情のもつれがあった。

 女を恨む気持ちを口に出せたのは、ようやく七十を過ぎてからである。母に、ノリコちゃんの一件を話し、

「だから、女は信じられない」

 といった。

 すると、今年九十四の母は、東京弁で、鋭く、

「馬鹿」

 といった。「ノリコちゃんがあたしを呼びに来たんだヨ。ノリコちゃんがいなかったら、おまえはとっくに肥溜めで死ンでいたヨ」

 初耳だった。女を恨む気持ちが凍りついた。そんな事情があったのか……。

 典子ちゃん、紀子ちゃん、そしてノリコちゃん、ゴメンナサイ。


 毎度、馬鹿々々しいお話ですが、これ全部、実話です。

 

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