ハピリオン
吾輩は犬である。
名はソヨタ、三人家族の一家と住む、室内犬である。
突然だが、吾輩は死んだ。
窓から差し込む日の光が心地よい、陽だまりの匂いがする、昼下がりの午後だった。
老衰だ。
もう何ヶ月も自力では歩けなかった。
母君の皿を洗う水場の音を聞きながら、ウトウトとしていたら、身体がなんだか軽くなり、気づいたら魂は肉体の外で浮遊していた。
母君の泣き叫ぶ声、瞬く間に集まる家族、なにやら父君がいつも纏っている、黒い布を着た人たちが来て、吾輩の肉体はあっという間に小さくなってしまった。
よく分からないが、何か掘ってある石の中に置かれ、吾輩はお別れを告げられた。
まだ小さい、吾輩の弟が泣き止まない。
ああ、どうして吾輩は肉体を離れてしまったのか。
駆け寄っても、駆け寄っても魂は弟の身体をすり抜けるばかりで触れられやしないのだ。
「このまま天国に行きたいかい?」
そう声を掛けてきたのは、なんとも胡散臭い、白の曇りメガネを被った人だった。その人は、かがんで吾輩と目を合わせた。キラキラとした角の飾りが眩しい。
「吾輩は弟の元に行きたいぞ」
「修行をしなきゃいけないよ。耐えられるかな、きみに」
「耐えて見せようぞ」
白い人は微笑んで、吾輩の頭を撫でた。薄っすら冷たく感じて、それが心地よかった。甘い桃の匂いがする。
その日から、吾輩の修行の日々が始まった。
白い人は天国で働いている、元人間だという。
主に、犬や猫の魂を管轄しているらしい。
修行は、走ったり、草をかぎ分けたり、羊を引率したり色々だ。
どうやら、犬としての鍛錬を積むことが一番修行になるとのこと。
天国は、どこまでも広がる大地と大空があった。
駆ける。駆ける。駆ける。
待ってて。待ってて。弟よ。母君よ。夫君よ。
必ず、そちらに参ります。
そうして何か月か経ったのち、吾輩は羽犬という妖怪になった。
羽犬とはその名の通り、背中に羽が生えている犬である。
羽は大きくすることも出来るし、小さくすることも出来る。
魂の位格が上がって、吾輩は地上に戻れることになった。
「ここまでよく頑張ったね」
白い人はそういって吾輩を撫でた。尻尾が左右に小気味よく揺れる。ここにも大分馴染んだから、離れるのは寂しいが、だからといって行かないという選択肢はない。
「またどこかで」
「ワン!(どこかで)」
お互いにそう言い、こざっぱりとした別れを迎えた。
走る。走る。羽を羽ばたかせて。
地上が見えた!
星空の下に広がるのは、住宅街の家々。
ぼんやりとした輪郭が愛おしい。
この中に、吾輩の家族がいるのだ。
一つ、一つ、匂いを確かめる。
たまに外犬が、久しぶりと吠えてくれた。
吾輩も吠える。
ああ、この感覚のなんと懐かしいことか。
匂いが近づく。
ますます足が速くなる。
とあるどこにでもある一軒家の前で足が止まる。
ようやく、吾輩は家に帰ってきたのだ。
「ワン!」
玄関の前で吠える。
気になったのか窓から弟が顔を出した。
弟がぴょんっと飛び跳ねる。
ドタバタと廊下を走る音と、母君の慌てた声が響く。
ついにドアが開けられた。
「ソヨター!!」
弟が吾輩に抱き着く。柔らかい体温が懐かしい。弟の肌の匂いに尻尾がブンブン振れる。
羽は小さく畳めば、人の目にはただの犬にしか見えない。
「え、うそ…」という母君の声がする。
母君をじっと見つめた。
母君が一筋涙を流す。
なんだなんだと後から気づいた父君も来た。
「ソヨタ!?」
「そうだよ!ソヨタが帰ってきたんだよ!」
「まじか…」
「あなた、きっとこれも何かの縁よ。こんなに凪になついているし、ソヨタそっくりだし…」
父君が母君を抱きしめる。
「ああ、そうだな。きっと戻ってきたんだ」
そして父君が優しく吾輩を撫でた。相変わらず優しい眼差しに、吾輩は嬉しくて胸が熱くなる。
「全く、一体どこで迷子になっていたんだ。とりあえず、おかえりソヨタ」
「おかえり!」
「ワン!」




