6:怪談話にうってつけの夜
「学生時代は古いアパートの2階に住んでたんだけど、1階から2階への階段が鉄製だったのよね。で、その階段を上る時、カンカンと足音がものすごくうるさいんだけど、足音がしても誰も上がって来てないって良くあったなあ」
「真夜中に玄関のドアを開けて、閉める音がしたから行ってみたら誰もいないのよね。部屋で飲んでた連中と、今の何!? って大騒ぎになったわ」
私は、会社の休憩室で昼食のサンドイッチを食べながら、先輩社員たちが口々に語る怪談話を聞いていた。
「天城さん、何かそういう変な体験ってある?」
話を振られた私は、急いで思い出してから答えた。
「ああええと。以前実家でチャイムが鳴ったので玄関に行ったら、ドアの曇りガラスの向こうに真っ赤な人影が見えたんです。どなたですかって声を掛けたら、火事ですよって女性の声で言うので急いで開けたら誰もいなくて……何かのいたずらかなと思ってドアを閉めてふりむいたら、廊下に赤いワンピースを着た長い髪の女性が立っていたんです。すぐに消えていなくなりましたけど」
先輩たちはびっくりしたような顔をして私を見ている。えっと、受けなかったかな……?
4月になり、私は新入社員として働き始めていた。
ネット通販が主なファッション専門の販売会社で、多種多様な衣料品や雑貨を取り扱っている。私は新入りとして、まず商品の検品や在庫管理を担当する事になった。とにかく数が多くて大変だけども先輩社員に教わりながら何とか仕事を覚えていった。バイヤーさんや倉庫の現場には男性がいるけど、職場では女性社員の方が圧倒的に多いので気楽だ。納品予定日に商品が入ってこない! とか、コートのボタンが丸形のはずが四角形になってる! とか細かいトラブル対応で夢中で走り回っているうちに、あっという間に日は過ぎて4月も終わりに近づいていた。
仕事が始まると、毎日疲れてほとんど何も出来ず、帰って風呂に入って晩ご飯を食べるとすぐに寝てしまうだけの日々。週末も掃除洗濯などの家事や買い出しで終わってしまう。つくづく働きながらの一人暮らしは大変だ。最初の頃のホームシックはとっくに消えていた。実家に顔を出せる余裕はまだ無いけれど、時々電話で家族と話しているおかげだ。
けれど「メゾンあけやま2号館」に関しては、どうにも不安で不穏な緊張感が漂って落ち着かない日々を過ごしていた。
とにかく建物に人の気配がしないのだ。会社からの帰宅時、どこかの窓の明かりはついている。ドアの開け閉めの音も時々聞こえる……かなり大きな音だけど……でも住民とは一度も会う事がない。向かいの「メゾンあけやま1号館」はどの部屋も住民の気配がするし、出入りする人も何人も見かけるのに……。
あの自称霊能者、白河氏が話していたようにこの2号館は無人で、私が最初の入居者で、住んでいるのは私だけなのだろうか……かなり疑っていたけど、でも……。
そして一番の驚きは、大家の朱山さんの姿を全く見ない事だった。
当初はなるべく会うのを避けようと思っていたのに、それどころではなかった。言われた通りの期日に家賃を管理人室に持参した時も「ドアのポストに入れておけ」と張り紙がしてあり、翌日には「口座の準備が出来たからここに毎月忘れないように振り込め」という素っ気ない指示が書かれた紙が301号室のポストに入れられていた。
もしかしたら私と会って話すのを徹底的に避けられているのだろうか、と考えてしまう。
現に、朝の出勤時に1号館の前の道路を掃除している大家さんを見かけて挨拶をしようとすると、素早く建物の中に入ってしまう。こんな状態では、店子として何か相談する必要が出来たらどうしたらいいんだろう……と、電話で友人の菜々子に言うと「不動産屋に言えばいいよ」とアドバイスされた。ああ、なるほど。でもどうにもスッキリしない。
「良かったんじゃない。あんな口の悪い婆さんと顔を合わせずにすんで。朝から晩まで見張られて、ガミガミ言われたらそれこそ大変だよ」
菜々子に慰められ、それはそうなんだけど……最初はあんな怖い事を言われたし、自分でも身勝手だと思うけど、ここまで避けられて嫌われていると思うとしょげてしまう。
やっぱり一度、白河氏に今の状況を相談してみようか? でも困った現象の類は何も起こっていない。第一この部屋に招待してくれと向こうに要求されたのに、引っ越してきた日のメールの返信以降何の音沙汰も無い。白河さん、私の事は全然心配していないんだな、と私は市松人形のサチヨさんにぼやいた。白河氏とサチヨさんは何らかの形で繋がっているのかと思ったけど、あれきり全くそういう感じがしない。
実家から引っ越し荷物に紛れて付いてきたサチヨさんは、1DKの部屋で移動もせず大人しくしている。引っ越し翌日に祖母に連絡すると「気のすむまでそっちに置いてやっていいよ」とあっさり言われた。まあ私が生まれる前からあの古い屋敷にいたから、逆に現代的な狭いマンションが珍しいのかもしれない。
近所の家具屋の特売コーナーで買ったローテーブルを6畳間の隅に置き、その上にノートPCとサチヨさん、祖母に借りた魔除けの黒い石の置物を並べている。6畳間の向こうのベランダは、今は私も洗濯物を干したりするために普通に出入りしている。ただ窓が勝手に閉じられると困るので、バケツなどをかませるように注意はしている。
あと、自分でも理由は不明だけどカーテンを開ける気にはなれない。だから天気のいい日も、窓は開けても遮光カーテンは閉じている。畳が日焼けしないからちょいうどいいだろうと思っているけどさ……。
私のさほど深刻でない愚痴を聞くサチヨさんの表情は、何だか考え事をしているように見えた。
そして怒涛の大型連休、ゴールデンウィークが到来した。世間はお休みだけども、私の会社はネットでのセールが連続する書き入れ時で、休日出勤までこなさなくてはいけなかった。クリスマスと年末年始はもっと大変だよーという先輩の言葉にびびりつつ、特別手当と代休を楽しみに何とか乗り切り、気が付くと「母の日」も終わっていた。菜々子が働いている花屋から実家の母にお花は贈っておいたけど……来年はプレゼントを持って行きたいなあ。
やがて花屋で私以上の激務労働だった菜々子から「カーネーションの無い世界に行きたい……」という電話があり、近々ようやく私の部屋に何日か遊びに来る事になった。.今度はスマホの電源を切ってゆっくりする! と力説する菜々子と打ち合わせて、私も代休を取る事にした。真夏はエアコンが無いと熱中症で倒れるよ! という祖母が半分お金を出してくれ、最新のエアコンも6畳間に取り付け済だから急に暑くなっても大丈夫だ。301号室でゆっくり過ごすのを楽しみにするのは初めてだな、と私はウキウキしていた。
数日後の週末。私は少し残業があったので遅くなり、スーパーで買い物をしてマンションの近くまで帰ってきた時は9時過ぎになっていた。まあ明日は土曜日だからとゆっくりできる。色々問題はあっても「メゾンあけやま2号館」は立地は便利だし、治安も良くて暮らしやすい。建物が静かなのも何だか慣れてきたし、契約更新までは問題なく暮らせそうじゃない? 私の今の月給では家賃が安いのは心底有難い。
自称霊能者の白河氏に脅されすぎたなあ……最近の私の中では少しだけ彼の印象も薄くなっていた。でもその方がいいような気がする。1回だけ喫茶店で話をした人にしておこう、うん。
そう思いつつ、初めて会った時に白河氏が立っていた場所に近づくと、何となく何かを探してしまう。寒い日だったな……。
そう考えながら歩いていた私は、足を止めた。
建物の前の暗がりに、大家の朱山さんが立って私の方を見ている……私を待ち構えて……。
それでも何とか挨拶をしようとした私よりも先に、大家さんは私の顔を見ながら言った。
「やっとあんたも馴染んできたね」
「え?」
「部屋に色々余計な物を入れるんじゃないよ。面倒だからね」
それだけ言うと、私の返事を待たずに大家さんはさっさとどこかに歩き去った。
どういう意味だろう、余計な物を入れるなって。最初は1年ぐらいでこのマンションを出るつもりだったので、引っ越し時に楽なように家具は極力少なくしている。後は、菜々子や実家の姉が宅配便で送ってくれた花の鉢植えぐらいだ。
私はしばらく考えてから、はっと気が付いた。何を立ち止まってるんだ。早く部屋に帰ろう。そう思いながらエントランスに入った私は、白い足がすうっと目の前を横切るのを見た。わっ!! 久しぶりに見たので思わず声が出そうになった。落ち着け落ち着け。実家の幽霊屋敷では、ああいうモノはたくさんふらふらしてたじゃないか。実害は無い。
そう言い聞かせながら、エレベーターに乗り込んで3階のボタンを押す。扉を見ていた私は、今度こそ小さな悲鳴を上げた。
一瞬だったけど、狐のお面をかぶった何かがべったりと扉のガラスにへばりついてエレベーターの中を覗き込んでいたのが、はっきり見えた。なぜか、あれは2階の住民だと閃いた。でも生きた人間じゃない……。そしてふと足元に違和感を感じて良く見ると、床が水浸しになっている。さっきまでは何とも無かったのに!
今夜は2号館全体がおかしくなっている。ものすごくザワザワした気配が充満していて、頭が痛くなりそうだ。
3階に到着してエレベーターから飛び出す。視線を感じて、もう一つの部屋、302号室の方を見るとドアが半分ほど開いている。ここに住んで初めてだ。ドアの向こうは暗いけど、何かの気配と嫌な視線。反射的に睨みつけると、バターーーーン!! と勢いよく閉じられた。そうか隣人は怪しいモノか。何だか目まいがして気持ちが悪くなってきた。ともかく急いで鍵を開け、301号室に入りすぐに鍵をしっかりかけた。
玄関に立って、息を整え靴を脱いでいると……コンコン、コンコン……とドアを軽く叩く音がしたけど、無視をする。
電気を点けて部屋に入ると、ほおっと大きく息を吐いた。自分の部屋である301号室には、何の気配もしない。ここなら安心だ。
私はバッグと買い物袋を、ダイニングのちゃぶ台に置いた。奮発して購入した、大きめのちゃぶ台でお気に入りだ。真ん中に飾った、姉が贈ってくれた鉢植えの黄色の美しい花を見て心を落ち着かせる。大丈夫大丈夫。私は頑丈だ。けれどさて、これからどうしよう。とにかく晩ご飯を食べてからじっくり対策を練ろうか。空腹では力が出ない。朝になれば、2号館全体の気配も消えるだろう。過去の経験から、こっちが眠るとああいう連中は寄って来る。何とか寝ないようにして……。
ちゃぶ台の前に立ったままだった私は、その時、すうっと吹く風を感じた。
隣の6畳間から、風が吹いてくる。そちらを見た私は、6畳間が真っ暗なのに気付いた。明かりが全く届いていない。
ぐっと拳を握り、6畳間に入る。何の気配もしないけれど怯えた様子なんか見せてたまるか。隣室に入って、明かりをつける。
カーテンが、ふわりふわりと揺れている……今朝は確かに窓を閉めて出勤した。なのに開いている。誰かが開けたんだ。
私は急に焦った。こういう場合は、まず泥棒というか侵入者を疑うべきだ。警察を呼ぶ必要もあるだろう。ジャケットのポケットからスマホを取り出して室内を見渡す。荒らされてはいないようだけど貴重品は……その時、市松人形のサチヨさんが机の上からいなくなっているのに気付いた。盗まれたのか? サチヨさんレベルの市松人形は普通に買えば100万円はすると祖母が以前言ってたけど。それとも、侵入者に驚いてどこかに隠れたのだろうか。
あちこち探して、すぐに暗くて狭い浴室の浴槽の底に横たわるサチヨさんを見つけた。どう見ても誰かに放り込まれたような感じだ。急いでそっと抱き上げると幸いどこも壊れてはいない。ほっとしたけど……。
「サチヨさん、ひどい目にあったねえ。えーと気持ちはわかるけど、何とか鎮まって欲しいなあ」
市松人形のサチヨさんは、激怒していた。こんな顔が無茶苦茶怖いサチヨさんは初めてだ。これは絶対に侵入者に乱暴に扱われたな。
サチヨさんを抱えてなだめながら浴室を出た私は、ふと耳を澄ませた。
――ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン……。
線路を走る電車の音がはっきりと聞こえる。でもこの辺に線路など無い。私はサチヨさんをしっかり抱き締めてから、覚悟を決めて6畳間の入り口に立った。
カーテンと窓が完全に開いて風が吹き込んでくる。そしてベランダの向こうに、青空と古びた家が見えた。
陽光が明るく輝く広々とした青空、でも歪な絵画のような光景。私は目を見開いた。足がガクガク震える。
古い家の大きな窓から見える、家具も何も無い部屋の天井から、首を吊った人間が幾つもぶら下がって揺れている。
どの人間も大きさはまちまちだけど、顔や手足が真っ黒に膨れ上がってまるで風船人形のようだ。
あまりの禍々しい光景に私が悲鳴を上げそうになった瞬間、全ては消え、ガラガラガラガラ、パタン、カチンと目の前でドアが閉まり鍵がかかった。後には見慣れたビルの壁面だけ。
自分でも顔が青ざめているのがわかる。これは警察を呼ぶような出来事じゃない。でもどうしたら……その場にへたへたと座り込んだ私は、サチヨさんがカタカタと細かく震えているのに気付いた。サチヨさんがこういう風に動く時は、私に何かを訴えている時だ……ああ、そうか。
私はスマホを取り出し、泣きそうになるのをこらえながらアドレス帳の『白河眞琴』を表示させた。
<白河さん。天城です。突然ごめんなさい。どうしていいかわかりません。部屋に招待します。勝手ですけど相談させてください。ほんとうにごめんなさい>
自分勝手な支離滅裂な内容だ。でも恐怖で混乱した私が思い浮かぶのは、白河氏の顔だけだ。メールを送信し、耐えきれずサチヨさんを抱えてぐずぐず泣いていると、返信が届いた。
<サチヨが怒り狂っている。この番号にすぐに電話をして。泣かなくていいよ、ドジっ娘>




