5:私と一緒にお引越し
駅の改札口を出てすぐに、友人の神代菜々子が防寒着にジーンズという服装で柱の陰に立っているのを見つけた。急いで駆け寄ったけど、何やらぼんやりとしている。
「おはよー、今日は朝早くからありがとね……ちょっと電車が遅れてごめん……えーと大丈夫?」
お肌の手入れに命をかけていた華やか美人の菜々子の顔は少しやつれ、目の下にうっすらクマが出来ている。自慢のロングヘアも艶が無くパサついているようだ。彼女は私の顔を見ながら呟いた。
「薔薇ノ木ニ薔薇ノ花咲ク ナニゴトノ不思議ナケレド……たまには菊でも咲けっての……」
私は焦りつつ笑顔を浮かべた。
「うん、白秋だっけ? わかったわかった、ちょっとそこのカフェでコーヒー飲んでモーニングを食べよう。ね? もちろん私のおごりだよ」
私は菜々子の腕を取ると、彼女を駅のすぐ横のカフェに誘導した。
今日は、いよいよ「メゾンあけやま2号館」への引越し日である。
301号室の部屋のガラス窓が勝手に閉まったのを目撃した時、私は耐えられなくなって涙をぽたぽた流しながら泣いてしまった。
怖くは無かった。でも頑張ってようやく手に入れた希望が、訳のわからないモノに振り回され、邪魔され馬鹿にされたようで悲しかった。自分の無力さに落ち込みまくり……そして泣きながら開き直った。
こちとら幽霊屋敷で生まれて育ったんだ! 怪奇現象ごときにびびってたまるか!
――霊能者の白河氏が私に言ってくれた、私のひのかという名前は「直撃を喰らって、ぺったんこになっても又立ち上がれる」という言葉が心のどこかで励みになっていた。
私は涙を拭い、家に戻ってから対策を練った。
祖母に「初の一人暮らしはやっぱり不安」と相談して、身を守ってくれると言う黒い石の置物を借りた。「メゾンあけやま2号館」は祖母が知り合いから預かって来た不動産屋の名刺がきっかけで縁が出来たのだ。私がトラブルを起こせば、祖母や知り合いに迷惑がかかる。それはどうしても避けたかった。
私だってもうすぐ会社に勤務する社会人になる。身内に頼らず、自分で判断して対応するんだ。
タロット占い師をやっている姉は、自分と家族は絶対に占わない。それでも私が不安を訴えると、何やら調べてくれて「うん、気をしっかり持ってれば大丈夫。ひのかちゃんは頑丈だから」と言ってもらい、室内に鉢植えやお花を飾るといいよと笑顔でアドバイスしてくれた。
そして今朝、私は「メゾンあけやま2号館」へ出発した。新居で掃除などをしてから、引っ越し荷物や、新しく買った家電製品や家具を受け取る手筈になっている。忙しい日になるだろうし何となく心配で、掃除道具の他に当座の着替えと愛用のノートPCなどは重いけど肩に担いで行く事にした。
そして私は、玄関で見送ってくれる祖母と母親(父親と姉は出勤済)に手を振って、ともかく元気に家を出た。
昨夜のうちに、家の中をふらふらしている影や、白い手、廊下に座っている太郎君、私の部屋の半透明の女性に別れを告げた。みんなからは少しだけ不思議そうな感覚が伝わってきて、迷惑な存在だったけど、やっぱりしんみりしてしまった。
市松人形のサチヨさんは和室の棚に戻して、「私はいなくなるから、ここで大人しくしててね」と言い聞かせた……何となく不満そうな表情を浮かべていたけど、仕方ないよ……。
そして今。泊りがけで手伝ってくれる事になっている菜々子と、新居の最寄り駅で待ち合わせたけれど、彼女は両親が経営している大きな花屋の仕事が超忙しくてへろへろ状態であった。
「いやもう、手伝いじゃなくて社員だからさ、ベテラン店員さんに教わりながらびしばし働いてる。充実してるけどね」
カフェで熱いコーヒーを飲み、ホットドッグを齧ってようやく覚醒したような菜々子が心配になる。
「今日、大丈夫? 無理しなくてもいいんだよ」
「平気平気。明日まで休みを取ったし、いい気分転換になるよ。久しぶりに寝坊も出来そうだし」
「もちろんだよ。今日頑張って明日は2人とものんびりしよう」
私としても、現実的で明るい菜々子がたとえ一晩でも一緒にいてくれると嬉しいし心強い。カフェを出て歩きながら、大家さんが口の悪い婆さんだけど、気にしないでねと言っておく。菜々子は「まかせなさーい」と頼もしく返事をしてくれた。
「メゾンあけやま2号館」は相変わらず黒い霧に覆われていた。私は少し憂鬱になったけど、菜々子は「きれいでいい感じじゃない」と喜んでいる。
近づくと、建物の前に大家の朱山さんが立ってこちらを見ているのに気づいた。やっぱり私を待ち構えているような……。
でも気にしないようにして、ぐっとお腹に力を入れて元気に声を出す。
「おはようございます。今日引っ越して来たので、よろしくお願いします」
今朝も派手な模様の半てんを着こんだ朱山さんは、じろりと私を見たけど前回のように妙な事は言わなかった。
「荷物を入れる時に、建物や部屋に傷をつけるんじゃないよ。作業員が乱暴しないようにあんたがきっちり見張っておきな。そっちは友達かい?」
菜々子も笑顔ではきはきと挨拶をしてくれた。
「はい、神代といいます。はじめまして。天城さんの部屋に時々遊びに来ますのでよろしく」
朱山さんは目を細めて背の高い菜々子をじっと見上げてから、ふんと笑った。
「あんたみたいに派手な娘はお呼びじゃないけどね。夜中に酒を飲んで騒いだりするんじゃないよ」
そう言うと、さっさと向かいの1号館に去って行った。
私が「ごめんね」と小声で謝ると、菜々子は「確かにきついねえ。でもかえって防犯上安全かもよ」とクスクス笑った。私も笑いつつ、菜々子はお呼びじゃないとはどういう意味だろう、と内心不審に思った。
301号室に入り荷物を置くと、菜々子は自分のバッグから小型デジカメを取り出した。
「母親からさ、家具とかを置く前に室内の写真を撮っておけって忠告されたんだよね。退去時に壁や床の傷とかで揉めたりしないようにって。こんだけ綺麗なら不要かもだけど、一応撮影しとく。後でデータをひのかのパソコンに転送するから」
「うわ、確かにそれがいいかも。ありがとう、お願いしとく」
菜々子は以前から花の撮影を勉強しているので、画像関係に明るい。私はからきしだけども……だって私が撮影するとやたらと変なモノが写りこむのだ……。
その後、担いできた掃除道具で、2人で室内や水回りを掃除した。白河氏の言う通り、今まで誰もこの部屋に住んだ事が無いのが本当でも、掃除はきちんとしておかないとだ。
やがて予定通りに引っ越し荷物が到着。作業員さんたちに指示して主に6畳間に段ボール箱を積んでもらう。荷物は極力少なくしたので、スムーズに終わり、その後届いた冷蔵庫や洗濯機、照明も手早く設置してもらえた。これでとりあえず生活できる。やれやれ。順調だったけど、最後の作業員さんにお礼を言って見送った時は、夕方近くになっていた。
どうにも気になるので、6畳間の窓のカーテンだけは急いで取り付けた。これで一応安心。
ひと段落したし、昼ご飯もクッキーを齧っただけなので、早い目に晩ご飯を食べに出ようかと話し合っていた時、菜々子のスマホが鳴った。
「お店からだよ……今日は休みだっての。ちょっと向こうで話して来る」
菜々子はしかめ面になりつつ、急いで玄関の方に行って何やら喋っている。私は、少し肌寒くなってきたのでカーディガンを出そうと段ボール箱の『衣類』と書かれた箱に手を伸ばし……動きを止めた。
段ボール箱が小刻みにカタカタカタカタカタカタ……と揺れている。えっ? と気づいた。この気配には覚えがある。さては。慌ててガムテを引っぺがし、蓋を開けると。
真っ赤な着物の市松人形、サチヨさんと目が合った。
「サチヨさん! あんた付いてきたの? いつの間に!」
両手で抱き上げ、思わず大声で問い詰めたけどもちろん返事は無い。得意げな表情を浮かべるサチヨさん。さてどうしてくれようと思った時、菜々子の電話が終わったようなので、急いで箱に戻して蓋をした。どうするかは後で考えよう。そこから動かずにじっとしててね、とサチヨさんに小声で言い聞かせてから、私は菜々子と食事に出かけた。
この辺は、美味しそうで賑やかな飲食店が多くて嬉しい。焼肉屋で菜々子の大好物であるカルビを山盛り食べ、別の店でアイスを食べ、コンビニでお菓子や夜食などを買い込んでご機嫌で「メゾンあけやま2号館」に戻って来た時はすっかり暗くなっていた。何となく習慣で建物を見上げた私は、どきりとした。2階の部屋、道路側に面した202号室に明かりがついている。けれど奇妙な事に、夜はまだ冷えるのに窓は全開で、しかもカーテンが取り付けられていないのが、ここからでもわかる。無人で家具も何もなく明かりだけがついた部屋……まさかね……。
――2号館は、建ってから今日まで誰も住んだ人間がいない。
――不動産屋や部外者に入居者がいると思わせる様に細工してた。
白河氏の言葉を思い出していると、菜々子のスマホにまた電話がかかってきた。そして結局、急なトラブル処理のために菜々子は店に戻る事になってしまった。ぼやきまくりつつ、一旦部屋に戻り、6畳間の畳に置いた状態のノートPCに室内を撮影したデジカメの画像を素早く転送してくれた。そして「お菓子は適当に食べて」「戸締りはちゃんとするんだよ」「また連絡する」と言って急いで帰っていった。
1人になり、部屋の中は急にガランとした感じになった。家族が誰もいない家の中って、こんなに静かなんだ……。しょんぼりしてから駄目だ駄目だと気合を入れる。今からホームシックになってどうする。私は頬をぺしぺしと叩き、そうだと思い出して段ボール箱から無表情のサチヨさんを出してやった。ここに居たいならしばらく置いてやろうか、と思いながらノートPCと並べる。人形でも、ちょっとは気がまぎれるような気がする。
シャワーを浴び、6畳間の隅に布団を敷いてからノートPCでなるべく賑やかな音楽を流しつつ、私はスマホを片手に悩んでいた。
先日知り合って、ケーキセットをおごってもらった自称霊能者の白河氏に「引っ越してきました」とメールをしようかどうしようか、ずっと悩んでいるのだ。一応、名刺に書いてあった『白河眞琴』という名前とメールアドレスは登録してある。挨拶はしておきたいけど、この部屋に招待してくれと言われたのが引っ掛かっている。うーん、と散々迷ってから私は当たり障りのない文章を書いた。
<白河さん。天城ひのかです。先日はご馳走様でした。本日、301号室に引っ越してきました。これから注意して暮らします。また改めて連絡します。それでは。>
まあ、こんなもんでいいだろうと送信する。良く考えたら、男性に個人的にメール送信するなんて初めてだなあ……。何となく返信を待ちながら、菜々子がノートPCに転送してくれた室内撮影の画像を順に見る。よし、手だの顔だのオーブだの黒い霧だのは写っていないなと安心してから、最後の1枚に気が付いた。
6畳間を撮影した画像。
室内には、何も異常はない。けれど、窓。カーテンを取り付ける前の窓。窓の外に空が見える。この色は夕焼け空……?
そんな馬鹿な。撮影したのは午前中、まだ朝方と言っていい時間だ。
それに窓の外は灰色のビルの壁面しか見えないのだ。
この窓が勝手に閉まって鍵までかかったのを思い出し、思わず画像を削除しそうになったけど、いやレンズか光線の加減でこんな風に見えているだけかも。と思い直す。かなり神経質になってるなと思った時、スマホからメールの着信音がした。白河さんからだ! 急いでスマホを取り上げ、返信を読んだ私は目をぱちくりとさせた。
<市松人形の名前は、モモヨ。サチヨじゃない。でもずっとサチヨと呼ばれてたから、サチヨでも別に構わないらしい>
え、これだけ? 市松人形のことだけ?
私は文章を3回ほど読んでから、画像の事など忘れて人形に声をかけた。
「サチヨさん、あんたいつの間に白河さんと話をするようになってたの?」
もちろん返事は無い。でも面白くない。非常に面白くない。何やら自慢げな表情のサチヨさんを見ながら、私はふくれっ面になっていた。白河さんを招待するのなんか、当分無しだ。私の事なんか全然心配してないじゃん。悩んでいたのが馬鹿みたい。私はスマホを放り投げた。
その夜。暗くした部屋で寝入りかけていた私は、どこか遠くから響く音を聞いた。
――バターーーン!
……ああ、電気のついていた202号室から誰か出て行ったんだ……あんなに思い切りドアを閉めたら大家さんに怒られるよ……。
そして、窓の外からも何かの音が聞こえてきた。
――ガタンゴトン、タタタン、ガタンゴトン、ガタンゴトン……。
それは線路を走る電車の音だった。とても気持ちのいい音で、私は安心したような気持ちになって深い眠りに誘われていった。




