4:2号館301号室への招待
私は喫茶店の椅子に座って、男性から手渡された名刺をじっと見つめていた。
【 白河眞琴 】
白い用紙に、男性としては珍しいかもしれない名前とメールアドレスが印刷されているだけ。霊能者の文字はない。シンプル過ぎる。私は一応「天城です」と名乗ってから尋ねた。
「それで、白河さん。大事なお話って何でしょう?」
白河氏は手をひらひらせた。
「焦らない。さっきまで半泣きだったんだから、甘い物を食べて落ち着きな」
軽くいなされて流石にムッとした。大家さんに衝撃的な事を言われてショックを受けていたところに、一方的に騙されただの鈍感だのドジっ娘だの言われたのだ。しかも霊能者……思い返して脱力した時、注文した品が運ばれてきた。私はコーヒーとアップルパイのセット、白河氏はチョコレートパフェである。
私は手をつけず、嬉しそうにパフェを食べ始める白河氏をまじまじと見つめた。
「遠慮せずに食べたら? この店はアップルパイも美味しいよ」
「えっとでは……いただきます」
おごってやるよ、と言われてからさっさと歩き出した白河氏の後を慌てて追いかけ、この喫茶店に入ったら私の要望は何も聞かずに注文されてしまったのだ。確かに私はアップルパイは好物だけど……美味しいとは思いつつもそもそ食べていると、パフェを食べる手を止めた白河氏が話しかけてきた。
「それで天城さん、名前は何て言うの?」
まあここまでくれば黙っていても意味はないだろう。私はかなり投げやりな気分で答えた。
「ひのかといいます。平仮名です」
「ふーん、ひのかさん。いい響きの名前だね。親御さんの命名?」
「はあ、父が……自分でも割と気に入ってます」
私の父親は、今は食品製造会社に勤める普通のサラリーマンだけども、若い頃にどこかの古い神社に長期居候をして、何かの修業をしていたという謎の過去を持つ。
「波乱万丈の運命を受け止められる名前だよ。直撃を喰らって、ぺったんこになっても又立ち上がれる」
「ぺったんこ?」
「さっき、鈍感とかドジっ娘って言ったのは悪かったけどさ。ひのかさん、霊感があるのに素直だから朱山の婆さんにあっさり騙されたんだよね」
はい? ひのかさん? さっき知り合ったばかりですけど。いやそんな事より。
「騙されたって……大家さんにですか?」
「マンションを覆ってる黒い霧。あれは普通の人には見えない。でもひのかさんには見える。婆さん、それを逆手に取って一時的に1号館に霧を移動させた。怪しいのは向かいのマンションだと、ひのかさんは信じて安心した。で、ひのかさんの入居が決まってから黒い霧を2号館に戻した。なまじ見えるから幻惑されたんだね」
私は呆気にとられた。
「移動させるって、そんな事が出来るんですか?」
白河氏はパフェのリンゴを齧りながら言った。
「あの黒い霧は婆さんが作って仕掛けた幕みたいなモノだから。部屋全部を含め建物ごと覆っているから、2号館全体がいわゆる事故物件みたいなもんだ」
聞きたくなかった単語が飛び出してぎょっとした。
「あの、でも、不動産屋の人は、301号室は事故物件じゃないって言ってましたよ」
混乱した私の言葉を聞いて白河氏はうなずいた。
「そりゃそうだろ。2号館は、建ってから今日まで誰も住んだ人間がいない。ずっと無人。だから不動産屋のいう心理的瑕疵なんか発生しようがない」
「えっ!?」
「婆さん、不動産屋や部外者に入居者がいると思わせる様に細工してた。役所関係や帳簿も疑われないようにしてたんだろうな。要するに、ひのかさんが2号館の最初の入居者ってわけ」
私は初めて2号館を訪れた時を思い出した。確かに建物も室内もどこもピカピカできれいだった……あれは未使用だったからなのか……嬉しくて舞い上がった気分を思い出して情けなくなる。しかし何でまたそんな手間のかかる事を、と思ってから急に気になった。
「白河さん、どうしてそこまで色々と詳しく知っているんですか?」
白河氏は背筋を伸ばして椅子の背中にもたれると、私の質問は無視して言った。
「それで本題だけど。ひのかさんがマンションに引っ越して落ち着いてから、俺を一度部屋に招待して欲しい。理由は何でもいいし、他の人間と一緒でも構わないから」
私は白河氏を見ながらしばらく固まっていた。言ってる意味が理解できない。引っ越し? あのマンションに? 301号室に?
「招待なんて出来ませんよ。私は何とかして引っ越しを取りやめるつもりなんですから」
「……忠告するけど、このまま入居した方がいい」
「どうしてですか? そりゃ違約金は必要でしょうけど」
「ひのかさんが入居を拒否しようとしたら、朱山の婆さんは全力で妨害してくる。あっちはもう、大家として店子のひのかさんの個人情報を完全に把握してるんだから」
私は言葉に詰まった。個人情報……。
「妨害って何を。私の個人情報の悪用とかなら、出るところに出ますよ」
白河氏は、食べ終わって空になったパフェの容器を丁寧に横によけた。
「朱山の婆さんの正体は、呪いが得意な拝み屋だよ」
「はあ? 拝み屋!?」
私は驚きつつも何だか納得した。確かに、私を見るあの表情は怖かった。
「そう。不動産と現金を山ほど懐に抱えた大金持ちで、なのに強欲で金の亡者。他人を利用したり騙すことなんか何とも思ってない。賃貸契約の時にひのかさんの生年月日と実家の住所を知られてるから、縁は簡単には切れない。逃げようとしたら、それこそあらゆる質の悪いモノを直接ぶつけてくるだろうね。ひのかさんが根負けして泣きつくまで」
「……」
「婆さんは、徹頭徹尾自分の事しか考えてない。今は抵抗するのは止めた方がいい」
マンションの入り口で浴びせられた気味の悪い言葉……。
――逃げても無駄だし逃がしゃしないよ。
何でこんな事に……少し前までは、あのマンションの301号室で暮らす日を楽しみに待ってたのに……うつむいた私に白河氏は冷静な口調で言った。
「婆さんは、ひのかさんを何としても301号室に住まわせようとしてる。だから予定通り引っ越してくれば、見張りはしても危害は加えないと思う」
思わず声が大きくなった。
「あんな所に住みたくありません! 見張られるのも嫌です! 大体何のために私が必要なんですか?」
「それはまだわからない。ひのかさんの霊感だとは思う。でも、だから俺は301号室に入りたい。招待されないと入れないけど、入れば多分色々わかると思う」
招待されないと入れない? 吸血鬼じゃあるまいし、言ってる事が思い切りあやふやなで怪し過ぎる。白河氏も私を利用しようとしてるんじゃ……。
私は頑張って睨みつけた。
「さっきも尋ねましたけど、どうして、そんなに詳しく知ってるんですか? そもそも白河さんの目的はなんですか? 別に私を心配してるわけじゃないですよね」
「……」
白河氏はしばらく黙ってから、黒縁のメガネを外して私を見た。両目が冷たく光り、私はどきりとした。
「俺の目的は復讐だよ。今はそれしか言えない」
白河氏はメガネを掛け直し、私を促して喫茶店を出ると「とりあえず今日はここまでにしておく。用があったらメールして」とだけ告げて、さっさと歩き去った。
ご馳走様を言う間もなく心細い思いで見送った私は、急に悔しく情けなくなってきた。
「メゾンあけやま2号館」から逃げ出した事、白河氏の色々な話を黙って聞いていた事。
脳内をぐるぐる考えがめぐる。良く考えてみれば、大家さんが若い私をからかった可能性だってあるし、白河氏の話も瘴気とか拝み屋とか信じにくいし、復讐とかのために利用されているような……そりゃ私に霊感はあるかもだけど建物を覆っていた黒い霧だって、錯覚か一時的なものかもしれない……不動産屋の鳴子氏が騙されているという証拠も無い……。
うん、幾ら私が色々見えるといっても、常識的な思考と判断は何よりも大事にしないとだ。
とにかくもう一度「メゾンあけやま2号館」に行って、301号室も冷静に落ち着いて観察しよう。私は深呼吸をしてそう決意すると、紙袋をぶら下げて2号館前まで戻った。
もし大家さんが、さっきみたいに待ち構えていたらどうしよう……無視すればいいかな……まさか殴り掛かってはこないだろう。
2号館の建物はやっぱり黒い霧のようなもので覆われていたけど、さっきよりは薄くなっている。そっとエントランスを覗いてみたけど大家さんも誰もいない。管理人室も明かりが消えている。
私は何となく足音を立てないようにして通路を歩き、エレベーターに乗って3階に上った。
建物内は静かで物音ひとつしない。誰も住んでいないから……いや、今日は平日だから外出しているだけだよと自分に言い聞かせる。
鍵を開けて301号室に入ると、ほうっと息をついた。
この部屋にはやっぱり何も悪いモノも気配も感じない。良かった。私は安堵しつつ6畳間のベランダに面したガラス窓を開け、室内に新鮮な空気を入れた。
それから台所のコンロの上に小さな鍋を置く。こうなったら縁起担ぎも大事に思えるな。室内を見回し、明るい色の家具を置いて爽やかな感じにしようと考えた。そうだ、花屋で働く友人の菜々子に頼んで綺麗な花を幾つか見繕ってもらおう。何か怪しいモノを見たりしても、家のモノたちで慣れているから何とか我慢できるはず。
両親やお姉ちゃん、お祖母ちゃんにはやっぱり心配をかけたくない。予定通り引っ越してきて、大家さんともなるべく顔を合わせないようにしよう。幸い家賃は安いから、最低1年ぐらいはここで頑張ってお金を貯めて、円満退去して次の新しい部屋を探そう。白河氏にはどう伝えようかな……越してきたなら招待しろと言われてもちょっと困る……。
その時。
ガラガラガラガラ、パタン、カチン。
6畳間の方からはっきりと音がした。私は一瞬固まってからそちらを見た。
さっき私が開けたガラス窓が、きっちりと閉められて鍵までかかっていた。




