2:待てば海路の日和あり。多分。
私は夕飯のトンカツをもしゃもしゃ食べながら、姉のゆったりとしたお喋りを聞いていた。
「だからねえどうしようと思ったけど、結局そのまま。ひのかにもそういう事ってあるよね?」
「うん、まあそうだね。あるよ」
私が味噌汁を啜りながら返事をすると、姉はそうだよねえと呟きながらトンカツをゆっくり齧る。
3歳年上の姉、綾乃は高校を出てそのままバイトをしつつ占いの修行をして、今は割と人気のあるタロット占い師をしている。髪が長い以外は見た目は私と良く似ているが、性格は全く違う。とにかく、おっとりでのんびりなのだ。両親は同じように育てた筈なのに、と不思議がっている。実は私も不思議だ。
母親が漬物を小皿にとりながら私に尋ねる。
「そうえいば、ひのか。まだアパートの候補は見つからないの?」
「うん……まだ」
「もう2月よ。やっぱりここから会社に通いなさいよ。家賃は食費と電気代込みで安くしてあげるから」
「えーとありがと。でももうちょっと頑張って探してみる」
両親は私がこの家を出たがっているのを知っていて、それでも引っ越し料金と敷金の類は就職祝いで出してやると言ってくれている。なので、余計にきちんとした新しい部屋を見つけて心配をかけたくないと思ってしまう。
でも確かにそろそろリミットだ。うーむと思いつつお茶を飲んでいると、ご馳走様をした姉が台所の方を見て言った。
「へー、運転手さんがいるよ。久しぶりだね」
母親もそっちを見て、首を傾げた。
「あら本当だ。やっぱり成仏する気はないのね」
リビングと台所の境目に、ひょろりとした感じの黒い人影が体を揺らせながら立っている。多分男性のこの霊は、なぜか運転手さんと呼ばれ、ずっと昔からここに立っている。無害な存在で別に何もせず、母親に「はいはい邪魔、どいて」と言われると素直に台所のどこかに消える。ここ半年ほどずっと見えなかったけど、また戻ってきたらしい。
やれやれ、幽霊屋敷の我が家はよっぽど居心地がいいのかな……その時、ピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。壁の時計を見た母親が椅子から立ち上がりながら言った。
「お祖母ちゃんだわ。ひのか、出てあげて」
私も立ち上がってリビングから広くて薄暗い廊下に出た。古い家の分、屋内は広々している。唯一の利点か? ただし冬はとても寒いので、屋内でも分厚い靴下は必須だ。
2階に上がる階段横に座り込んでいる少年幽霊、太郎君の前を通り玄関に行って電気をつけると、三和土をぱたぱたと走り回る小さな足が見えてすぐに消えた。うるさいなあとぼやきながら、一応声をかける。
「はーい?」
「私だよ。寒いから早く開けて」
玄関の鍵を開けると、着物姿でストールを顔にぐるぐる巻きつけた祖母が、巾着袋を振りながら入ってきた。
「ただいま。あー寒い寒い。空きっ腹だと余計に寒く感じるね」
「今夜はトンカツだよ」
そう言いながら何か視線を感じた私は、そちらの方を見て思わずのけぞった。
玄関の靴箱の上に、ついさっきまでいなかった真っ赤な着物の大きな市松人形が鎮座して、じっとこちらを見ている。
「ちょっとびっくりさせないでよ! お祖母ちゃん、サチヨさん玄関に来てるよ」
ストールを外しながら市松人形を見た祖母は平然と言った。
「ここに居たいんだろう。ほっときな」
晩ご飯、晩ご飯と陽気に言いながら歩く祖母の後ろを歩きながら、一番奥の和室の棚から玄関まで瞬間移動してきた市松人形の謎の行動力にため息が出た。
ちらりと背後を振り返ると、人形は少し首をひねって私の方を見ているようだった。
祖母の葵は、元気いっぱいの後期高齢者で、本人曰く「幽霊やらお化けやらがたんまり見えるけど、何の役にも立たない」レベルの霊感の持ち主である。
子供時代から色々あって、お見合いでこの天城家の屋敷に嫁いできてようやく怪奇現象と縁が切れたと思ったら、新婚初日にお嫁さんだーと屋敷中の霊やら何やらが寄ってきて、以来激動の時代と日々を生きてきた。どうやら私が祖母に一番似ているので、良き理解者である。ただし猛烈に手厳しいけど。ちなみに、穏やかで無口だった祖父は数年前にぽっくり亡くなっている。
さっさとテーブルに座ってトンカツを食べる祖母が、機嫌よく母親に言う。
「陽一はまだ帰ってないのかい」
「会社で急に退職する人が出たので今夜は送別会だそうで。遅くなるでしょうね」
祖母は丈夫な歯でトンカツを齧りながら、ちょっと考えるような態度を見せた。
「そうかい。じゃあ先にひのかに話してしまおうかね」
「え? 何を」
灰色の髪をきっちり結い上げた祖母は、いつもとてもお洒落だ。
「今日、お茶会で会った渡辺さんて人がいるんだけどさ。甥っ子が不動産会社に勤めてるけど、春までにもっと営業成績を上げたいらしい。で、私に家を探している知り合いはいないかって聞かれたから、孫娘が部屋探しをしてるって話したんだ。そしたらお役に立てると思うって甥っ子の名刺を渡されたんだよ」
祖母が巾着袋から名刺を取り出してテーブルに置き、私はじわじわと興奮していた。
「あんたも苦労しているみたいだし、こういうのは縁だからね。どうする? 明日にでも連絡を取ってみるかい? 気が進まないなら私から断るよ」
私は首をぶんぶんと振って名刺を手に取った。
「ううん! もう手詰まりだったから本当に嬉しい! 明日電話して相談してみるよ。ありがとうお祖母ちゃん」
祖母はうなずいた。
「渡辺さんはきちんとした人だから、甥っ子も大丈夫だと思うけどね。変な人ならすぐに逃げてくるんだよ」
シンプルで堅実な感じの名刺には【杉沢不動産 営業 鳴子信一】とあった。
私は風呂から上がって、自室のノートPCで杉沢不動産の情報をあれこれ調べていた。
ネットにはきちんとしたサイトがあって会社情報も載っている。営業の鳴子氏の名前もあった。とにかく明日電話して相談してみよう。
今までの部屋探しで不動産屋に直接行った事は2度だけある。けれど妙なところで引っ込み思案の私は気後れしてしまい、何より「事故物件はお断りです。とにかく絶対にお化けの出ない部屋を希望しています」とはどうしても言えなかったのだ。けれど、もうそんな悠長な事は言っていられない。この鳴子氏がきちんと相談に乗ってくれる事を祈ろう。
でも今回は、何だか上手くいきそうな予感がする……何とか払える家賃で霊現象とは無縁の明るい部屋。
私はうきうき気分でノートPCの電源を切り、本棚の上から私を覗き込もうとする半透明の痩せた女の顔に手を振ってから、部屋を出た。1階の洗面所で歯を磨き、居間でテレビを見ている祖母と母親と姉にお休みを言ってから部屋に戻った私は、ドアを開けてのけぞった。
真っ赤な着物の大きな市松人形、サチヨさんが正面の机の上からこちらを見ていたのだ。
「もうサチヨさん、びっくりさせないでよー。何で今夜は動きまくるのよ」
もちろん返事は無い。けれど階下の和室に戻してまた移動されるのも面倒だ。仕方ない今夜はほっとこうと私は決めた。サチヨさんがこの部屋に現れた事は何度かあるし。
その時、私は机の上に置いてあった鳴子氏の名刺の上にサチヨさんが座っているのに気付いた。
着物の裾から名刺が半分ほど見えている。
「ちょっとサチヨさん、これ大事な物なんだから。持って行ったり隠したりしないでよね」
私はサチヨさんを持ち上げて名刺を取り出し、きちんと財布に入れてカバンの中にしまい込んだ。それからしばらく本を読み、スマホでSNSを眺めてから私は部屋の電気を消した。
――暗くなった部屋で、机の上のサチヨさんが横目で私を見ているのが少し気になったけど、無視した。頑張って部屋を探して、サチヨさんともお別れするんだ……。




