第36話 先輩の、想い
『……先輩って、良い匂いですよね』
『……先輩って、良い匂いですよね』
『……先輩って、良い匂いですよね』
何度読み返しても、本に書かれている文章が変わることはなかった。
柚子先輩、正気ですか?
俺にこのセリフを言わせて弱みを握ろうとしているんですか?
確かに思ってましたけど絶賛思いまくってましたけど、タイミングドンピシャすぎやしませんか?
「せ、先輩これ……」
「えへへ、浩一くんはちょっと匂いフェチなところがあるけどすっごく良い子でね! 後半ではこの匂いフェチのおかげでループに気づ……こ、これ以上はネタバレだから駄目っ!!」
嬉々として話してくれる柚子先輩の顔が目の前にある。
可愛い。
はしゃいで大事なことを喋っちゃいそうになった柚子先輩が可愛い。
浩一くん、名前で呼んでもらって良いなぁ……。
俺も一度だけ呼ばれたことあるけど、あの時は寝言だったしなぁ……。
「じゃあボクが地の文と凪ちゃんの役やるから、浩一くんのところを読んでね!」
「え、あっ、はい!」
脊髄反射の全肯定。
断る気は元から無いけど、心の準備がほしい。
「夕暮れに照らされた屋上に、新堂 浩一と柊木 凪の姿があった」
始まっちゃった。
心の準備が与えられないまま、柚子先輩の良い声が部室に響き渡る。
「二人は金網に手をかけながら無言で校庭を見下ろしている」
すごいな柚子先輩。
本当に本の内容を丸暗記してる。
目を閉じて得意気にスラスラと語り部のように物語を紡いでいくその姿が、目の前……いや膝の上にあった。
「ここは二人だけの秘密の場所、二人だけの世界。二人だけの特別な静寂」
この文芸部も俺と柚子先輩二人だけの世界だ。
秘密、ではないけれど俺にとって特別なのは間違いなくて。
……柚子先輩は、どう想ってるんだろう。
「屋上」
屋上。
おくじょう。
漢字で二文字。ひらながで五文字。
優しく背中を押すように言った言葉に、柚子先輩のこの本に込めた想いが込められていた。
本当にこの本が好きなことが、それだけで伝わってくる。
「今日ここで浩一は、凪に告白をする」
柚子先輩に名前を呼んでもらえている浩一くん。
物語の登場人物だけど、好きな人に告白する勇気を持っている。
俺にもこんな勇気があれば名前を呼んでもらって、先輩と後輩以上の仲になれるんだろうか。
今、椅子だけど。
「……城戸くん? セリフセリフ」
「……え? あっ!?」
心の準備なにもしてなかった!
くっけど言わなきゃ気まずくなる……こ、浩一君俺に力を貸してくれ!
「せっ、先輩って、い、良い匂いですよね……」
「ひゃあっ!?」
柚子先輩が跳ねた。
ビクッと震えて、俺の膝の上で跳ねた。
柚子先輩は左耳を押さえて跳ね上がり、後ろから覆うように回していた俺の右腕に体重が掛かる。
さ、避けられた……?
「ご、ごごごごめん……さ、囁くからビックリしちゃって……」
こ、殺してくれ……。
浩一くん、俺を今すぐ殺してくれ……!
「き、気持ち悪かったですよねすみません! 嫌だったらすぐに辞め」
「だ、だめっ!」
「……え?」
ぎゅっ。
本を話そうとした俺の両手が、柚子先輩の小さな手によって上から押さえられた。
「ぶ、部活だから……」
顔を逸らし、消え入りそうな柚子先輩の声がかすかに聞こえる。
耳の先まで真っ赤なその横顔が目の前にあって。
「や、やめちゃ……やだ」
――両手を覆う、確かな熱があった。
「……わかりました」
少しだけ、自分の不甲斐なさが嫌になった。
柚子先輩は大好きなこの本を俺と楽しむために持ってきてくれたんだ。
なのに中途半端に恥ずかしがって変な喋り方をした結果、柚子先輩を驚かせて俺が勝手に自己嫌悪に陥って……それは違うだろう。
こんなに必死に、俺の手を押さえてまでこの本の続きを一緒に楽しみたいんだ柚子先輩は。
その想いを俺が妨害してどうする。
俺は文芸部。
柚子先輩の後輩で、文芸部部員の城戸 翔。
だけど今だけはこの本の主人公、新堂 浩一だ。
「……俺、やります! 浩一くんになりきってみせます!」
さあいくんだ俺、いや浩一君!
浩一君の気持ちになって先輩に告白を……先輩に、告白を……?
――――――――――――――――――
『……だろう?』
静かに吹いた風が、そっと凪の長い髪を揺らした。
その日常的な光景が浩一にはとても神秘的に、美しく見えて。
彼女はいつもそうだった。
誰が何を言っても何処吹く風のように全てを受け流す。
その姿にいつからか浩一は惹かれていたのだ。
或いは、最初から。
変わらない、だけど膨れ上がり続ける想いを、今。
浩一は、この屋上という特別な場所で想い人にぶつける。
『……先輩のことが好きです。俺と、付き合ってください』
――――――――――――――――――
待って。
待って待って待って待って待って待って待って待って待って!!




