第10話 先輩の、震え
「き、城戸、くん……」
吐息と吐息が触れる距離。
六月の暑さを忘れる程に触れ合う体が熱を持っていた。
小柄な柚子先輩を後ろから抱くように密着。
縁なし眼鏡の奥にある、とろんと潤んだ丸く大きな瞳が映しているのは俺の姿。
そして俺も、柚子先輩しか見えていなかった。
「あ、う……」
少しだけ冷静になったのか、柚子先輩の視線が右往左往し始めた。
けど、柚子先輩自身が動く気配は無い。
俺の手を上から掴んだ小さな手も、俺の膝の上に座っている状況も、そのままで。
魔法にでもかかってしまったかのように、俺は視線を外すことができなかった。
「……ん」
すると、柚子先輩はその瞳を強くギュッと閉じた。
俺の視線から逃れる為か、それとも別の理由があるのか、まぶたを閉じたまま動かない。
魔法が切れ、次に視界に入ったのは柚子先輩の唇だった。
真っ赤になったその顔にあっても、一際色づいて見えるピンク色の唇。
まるでキス待ち顔……なんてありきたりな思考が冷静になれない脳内で警鐘を鳴らし始めた。
「せ、せん、ぱい……」
酷く渇いた喉、その渇きが俺の唇に伝播する。砂漠のオアシスを思わせるみずみずしい唇が、目の前にあった。
俺たちの関係は先輩と後輩に過ぎない。
でも俺は柚子先輩のことが好きだ。
大好きな人が、俺の腕の中で、目を閉じて、待っている、ように見える。
――そう認識した時、体は勝手に動いていて。
「せ、先輩……お、俺――」
――そう、言葉を続けようとした時だった。
『キーンコーンカーンコーン』
『キーンコーンカーンコーン』
『キーンコーンカーンコーン』
『キーンコーンカーンコーン……』
無機質で、無情な、聞き馴染みのある、学校のチャイムが鳴り響いた。
永遠のように感じたその音は……俺の熱を奪い、冷静に戻すには十分過ぎて。
「…………うぅ」
柚子先輩が、震えていた。
強く閉じたまぶたが、その唇が、俺の手を上から握る……その手が。
「……すみません先輩、驚かせてしまって」
すぐさま俺は柚子先輩から離れた。
でも手は握られたままなので、顔と体だけだけど。
「…………ふぇ?」
柚子先輩もすぐに目を開けた。
ギュッと閉じすぎていたせいか、少しだけ涙を浮かばせて。
「…………うひゃぁっ!?」
驚いた柚子先輩が勢いよく立ち上がる。
ずっと握られていた手が離されて、熱が遠ざかっていくように感じた。
「……ごっごめん城戸くん! ぼ、ぼぼぼぼボクが引っ張ったせいで!」
「……い、いやいや違いますって! 俺がバランスを崩したのが悪いんですよ!」
「ち、違うよボクがこうグイッと引っ張ったから!」
「違います俺がこうガバッて動いたからですってば!」
いつかしたような、水掛け論だった。
それは一つの椅子を巡って互いに自分が悪いって言い合っている時と似た光景。
この慣れ親しんだ状況が、乱れた俺の心にはとても心地よくて。
「が、ガバッ……!?」
「え、あ……そ、そういう意味じゃなくてですね!」
けれど柚子先輩はそうじゃなかったみたいで。
つい先ほどまでの状況を思い出してしまい、ただでさえ赤い顔がより赤くなった。
「え、えっと……あっ! ちゃ、チャイム鳴ったし……きょ、今日はおしまいで良いかな!?」
「は、はい! ……お、俺は野球部が椅子を返すまで残ってるので先輩は先に帰ってください!!」
ぎこちない提案、ぎこちない返答。
「そ、そう? じゃ、じゃあお願いしちゃおうかな!」
「ま、任せてください!」
恥ずかしさと気まずさでどうにかなってしまいそうだった。
「ご、ごめんね! それじゃあボク、先に帰るから!」
「はい! お、お疲れさまでした! お気をつけて!」
スクールバッグを肩にかけた柚子先輩が小走りで部室の扉へ向かっていく。
その小さな背中が、より遠くへ行ってしまうかのような錯覚を覚えた。
ガララッと、扉が開く。
「…………」
柚子先輩が、外へとその一歩を踏み出して――。
「…………き、城戸くんっ!」
――振り向いた。
「さっ、さっきはちょっと、ビックリしちゃったけど、その、えっと、でも……!」
そして。
「い、嫌じゃなかったよ……?」
ガシャンッッ!!
小さくなっていく声とは真逆な激しい音を立てて、文芸部の扉が閉じられるが勢いが良すぎて跳ね返る。
駆け足で小さくなっていく足音。
半開きの扉。
そこにはもう、柚子先輩の姿は無かった。




