あなたが真実の愛だと呼んだその人は
※『わたくし悪女でございますので~』と世界観が繋がっていますが、未読でも全く問題ないです。
「……――お前とは婚約破棄する! 私は真実の愛を見つけたのだ!」
そんな声が聞こえてきたのは、カイが王都に戻って最初に参加した舞踏会でのこと。
友達である令息たちと近況話で盛り上がっていたら、突如ホールの中央で男の怒鳴り声が聞こえてきたのだ。
(……あれは、アーロン次期侯爵か?)
カイは目を細めて男を見た。
アーロン侯爵家と言えば、この国でも名家と言われるうちのひとつ。「婚約破棄だ!」と叫んでいたのは、その次期当主だ。
一緒に話していた友人二人も、顔を見合わせて驚いている。
「……おいおい、なんだよあれ」
「婚約破棄? アーロン次期侯爵と婚約していたのって確か……」
「公爵家のご令嬢じゃなかったか?」
次に彼らが見たのは、アーロン次期侯爵の婚約者である公爵令嬢だ。
彼女は顔を青ざめさせ、今にも泣きださんばかりの表情で震えている。
カイは友人たちに尋ねた。
「久しぶりの王都でよくわからないんだが、彼女は婚約破棄されるようなことをしたのか?」
「いや? そんな話は聞いたことがないぞ」
「評判もいたって普通のご令嬢だ。ちょっと箱入りなぐらいで」
その言葉に、カイは再びアーロン次期侯爵を見た。
彼は言ってやったとばかりに顔を紅潮させ、鼻息荒く人差し指を令嬢につきつけている。
カイはさらに尋ねた。
「……あと、真実の愛というのは?」
「ああ、それ」
友人の一人が鼻で笑った。
「最近流行ってるんだよ、真実の愛ってやつ。元は小説だったかな? 紳士も令嬢もみーんな夢中だから、もっぱら口説くときに使うのさ」
「けど、婚約破棄に使ったやつは初めて見たな……」
話していると、アーロン次期侯爵がまたなにやら叫び出す。
「さあ! 私にふさわしい、“真実の愛”を紹介しよう。彼女だ!」
それから、近くに立っていた女性の手をぐいと引く。
その姿を見て、カイは思わず息を呑んだ。
いや、カイだけではない。そばにいた令息たちもみな、彼女に見惚れて言葉を失っていた。
――そこに立っていたのは、氷の薔薇を思わせる絶世の美女。
卵型の小さな顔に、大きな灰色の瞳。つんと尖った鼻は作りもののように整い、ぽってりと赤く色づいたくちびるがなんとも艶めかしい。
女性にしては背が高くほっそりとしたその人は、髪もまつげも肌も、全身どこもかしこも白かった。
彼女は首をかしげたかと思うと、次期侯爵を見て言った。
「――そもそも、あなたは誰なの?」
ふたたび、辺りが静まり返る。
「……えっ?」
カイはとっさに口で手を覆った。一瞬、自分の声が漏れてしまったのかと思ったのだ。
だが声の主はカイではなく隣に立つ友人だった。彼はやっべ、という顔をしている。
そんなカイたちには目もくれず、女性はパシンとアーロン次期侯爵の手を叩き落とした。
「あと、わたくしに気安く触らないでくれる? 不愉快よ」
それから彼女は、カツカツと音を立ててアーロン次期侯爵の婚約者である公爵令嬢の前に立ち塞がった。
背の低い、どちらかと言えば可憐な外見をした公爵令嬢と、背が高く、冷たい美貌を持つ女性。
一見すると、小動物対猛禽類のような構図になっている。
一体今から何が始まるのか。
人々が見つめる中、彼女は口を開いた。
「あなた、この人との結婚はやめた方がいいわ。わたくしの名前すら知らないのに勝手に恋人宣言するような男よ。ろくな人じゃない。おいで、あなたのお父さまに告げ口しに行きましょう」
言って、公爵令嬢の手をつかむ。当然だが、公爵令嬢は戸惑っていた。
「えっ? えっ、えっ?」
「こういうのはスピードが大事よ。あの男が変な気を起こさないうちにさっさと逃げましょう」
なんて会話を一方的に繰り広げながら、半ば引きずる形で公爵令嬢を連れていく。
ずんずんと遠ざかる二人をあ然と見ていると、後ろで友人が噴き出した。
「おいおい、アーロン次期侯爵、名前も知らずに求愛していたのかよ!?」
「おかしいと思ったんだよ。よく考えたら彼だけ抜け駆けできるわけがないよな」
当の次期侯爵本人は、ぽかんと口を開けたまま突っ立っている。それから状況を把握したのか、慌てて女性たちの後を追っていく。
「……悪い、誰か説明してくれないか? 一体何が起きたんだ?」
カイは腹を押さえて笑っている友人たちに聞いた。
「そうか、カイは知らないのか」
たちまち友人らが、ガシッと両側からカイを囲む。
「教えてやろう。彼女はここ最近社交界を騒がせている“謎の美姫”さ」
「ある時から急に見かけるようになったんだが、不思議なことに誰も彼女の身元を知らないんだ。名前を知ろうにも、誰一人として相手にされなかったしな」
「でもアーロン次期侯爵もよく行こうと思ったよな。あれはどう見ても毒婦とか悪女とか、そういう類の女だろ。もしかしかすると北の――」
「そういうお前も、次期侯爵並みに振られていたよな?」
「うるさい! あそこまでひどくないぞ!」
そばで飛び交う軽口を聞きながら、カイは納得した。
(確かに美しい人だった。みんなが騒ぐ気持ちもわかる。……だが、私には関係ない)
カイは、友人の中では一人だけすでに爵位を引き継いでいる身。皆のように、恋だの愛だのに現を抜かしている余裕はなかった。
「そういえばカイ。今日は婚約者殿をエスコートしなくていいのか?」
「そうだぞ。まさかお前まであの美姫に真実の愛をー! なんて言い出したりしないよな?」
じゃれついてくる友人らを押しとどめてカイが言う。
「ないよ。私は結婚に愛など求められる立場じゃないからね」
途端、友人らがしまったという顔をする。
「あ、その……悪かったな」
「いいんだ、気にしないでくれ。それよりブリトニーを知らないか?」
「あー……彼女なら、さっき、休憩室の方に向かったのを見たよ……」
友人らが、ますます気まずそうな顔になる。――それだけで、カイは何が起きているのかを悟った。
「……そうか、ありがとう。彼女の所にいってくるよ。遅くなったが、婚約者としてエスコートしないと」
「……その、カイ」
立ち去ろうとしたカイを、友人たちが呼び止めた。
「……俺はカイのこと立派だと思うけど、自分の生きたいように生きるのも悪くないぞ」
「そうそう。領民のことを考えるお前は立派だけど、自分の幸せも考えてみろよ。俺たちは、何があっても応援するからさ」
「……ありがとう。その気持ちだけで嬉しいよ」
曖昧な笑顔を浮かべ、カイはその場を後にする。
向かう先は、カイの婚約者がいるはずの休憩室だ。
やがてそれらしき部屋の前にたどり着くと、カイはノックせず、そっと扉に耳を当てた。
途端、中から聞こえてきたのは女性の艶めかしい声。
(……またか)
まだ昼だと言うのに、婚約者殿は今日も違う男性とお楽しみ中だった。
予想通りとは言え、ため息が出る。
(……こんな状況でも、婚約を破棄できない私はさぞ哀れに見えているんだろうな)
カイは、今年二十三になるフィッツクラレンス伯爵家の当主。
婚約者であるブリトニーは男爵家の令嬢だ。
けれどブリトニーは信じられないほど恋多く、性に奔放な女性だった。
カイと婚約してからも彼女の奔放さは留まるところを知らず、むしろ加速する一方。
さらに最近はカイへの遠慮もなくなって、面と向かって嘲笑されることもある。
だがそこまでされても、カイはこの婚約を破棄することはできなかった。
――とにかくお金が、必要だったのだ。
ここ数年発生したとある問題のせいで、フィッツクラレンス家と領民たちは、その日の食べ物にすら困る有様だった。
そのため多額の持参金を持ち、なおかつ実家がとても裕福なブリトニーを切ることはできなかったのだ。
(……割り切るんだ。この結婚は金のためだと、最初からわかっていたこと)
カイはそっと扉から離れた。
そのままやるせない気持ちを少しでも晴らそうと、庭園をあてもなくぶらぶらと歩く。
そんな時だった。焦ったような声と怒号が聞こえてきたのは。
「っ……離して!」
「――何様のつもりなんだ!?」
カイは眉をひそめて声のする方向へと向かった。
やがて花々の向こうから現れたのは、アーロン次期侯爵と、先ほど彼をこっぴどく振った美貌の女性。
二人は言い争っていた。
「せっかく引き立ててやったのに、私の顔に泥をぬりやがって!」
「引き立ててやったですって? 寝言は寝て言って。あなたに引き立てられるほどわたくしは落ちぶれていないの」
「何だと! この……!」
カッとなったアーロン次期侯爵が手を振り上げる。とっさにカイは飛び出した。
バシッと響く、殴打音。
「……っ」
カイは殴られた頬をぬぐい、ぎろりとアーロン次期侯爵をにらんだ。
「――次期侯爵。あまり羽目をはずしすぎない方がいいですよ」
「なっ、おまえ、何を……!」
「ただでさえ今日の醜聞がある。これ以上お父上の耳に入るとまずいのでは?」
凄むと、次期侯爵の顔がカッと赤くなる。それから小さく吐き捨てたかと思うと、彼は逃げるように背中を向けた。
その後ろ姿を見ながら、ふぅとため息をつく。
(相変わらず、王都は騒がしいな……)
カイは王都が好きではない。だが伯爵家の当主たるもの、どうしても社交界からは逃れられない。結果、こういう場面に遭遇することもあった。
「あなた……わたくしをかばってくれたの?」
そこへ、声とともにひんやりとした指がカイの頬に触れた。
見れば先ほどの美女が、心配そうな顔でカイを覗き込んでいる。
「さすがに、女性が殴られているのを黙って見ていられないですからね」
「腫れてるわ。ごめんなさい、わたくしのせいね。ああ、魔法が使えればあんな男ゴミクズ同然なのに」
「……ごみくず?」
令嬢が口にするとは思えない過激な言葉に、カイが一瞬目を見開く。
それに、彼女が言った“魔法”という言葉。
「……あなたは、魔法使いだったのですか?」
この国では、ごく一部の限られた者だけが魔法を使える。
魔法使いたちは宮廷が囲い込んでいるため普段目にすることはないが、王都でなら遭遇する可能性もあった。
そういう意味では、彼女のミステリアスな雰囲気や外見は、魔法使いだと考えると不思議としっくり来た。
「わたくし魔法使いではないわ。……似たようなものではあるけど」
彼女が答えたその時だった。
「……――ティオさまあ〜〜〜! 大変ですぅ~~~!」
やたら甲高い声に振り向くと、遠くから小柄な侍女がこちらに向かって走ってきていた。
茶色の三つ編みを左右それぞれ一つずつぶら下げ、分厚い前髪の奥にはそばかすとつぶらな黒い瞳。
ゼェゼェと息を切らしながら、侍女はカイたちの前で立ち止まった。
「どうしたの? シロ」
「緊急事態です! わたくしめらのお宿が、火事で燃えてしまったんです!」
途端、女性の眉間に皺が寄る。
「何ですって!? 被害はどのくらい?」
「幸い、少し火傷した人が出ただけでそれほどでも……。ですが、しばらく泊まるのは無理でしょうねぇ」
「仕方ないわね……店主に見舞金を送っておいてちょうだい。それから新しい宿を探さないといけないわ。残念、あそこは気に入っていたのに……」
目の前で繰り広げられる会話を、カイはいぶかしげな表情で聞いていた。
(社交界に出てくるような女性が、宿に泊まる? 気にするのは店の被害だけで、自分たちの荷物は心配しないのか? それでいて見舞金をぽんと出せる彼女らは一体何者なんだ……?)
彼女たちの会話には、不可解な点が多すぎる。
(それもこれも彼女が“魔法使いのようなもの”だからなのだろうか?)
カイが考えていると、シロと呼ばれた侍女が肩を落とした。
「急いで探しますが、いいお宿はすぐには見つからないかもしれません……」
「そうね……」
彼女は考え込み、それから思い出したようにカイを見る。
「……あなた、名前は?」
「……カイですが」
「カイ。あなたいいところのお坊ちゃまよね? ということは、客人を泊められるほど家は広いはずよね?」
彼女が何を言わんとしているのか察して、カイは慌てて否定した。
「いや、確かに家は広いが、今は客人を泊めている余裕はないんだ。君たちにちゃんとしたご飯を出せるかもあやしい」
「お金がないの? それなら心配無用よ。わたくしが相場の五倍を出しましょう。シロ、お見せして」
「はぁーい」
にぱっとした笑顔で、侍女がどこからか膨らんだ小袋を取り出す。
開けられた袋の口から覗いたのは、まごうことなき輝く金貨だった。
◆
「……そういうわけで、しばらく我が家の客人として迎えることになった、名前は……」
「ティオって呼んでくださる?」
「ティオ……嬢だ」
しばらくののち。カイはフィッツクラレンス家の屋敷で、ティオと、それから侍女のシロを家族に紹介していた。
「……客人?」
いぶかしげに聞き返したのは、ぽかんとしている顔の母ではない。姉のゲルダだ。
気の強い姉は、不信感を隠しもせずにずいと一歩進み出る。
「どういうことなのカイ。もしかして、あなたも真実の愛とか言う……」
「違う、そういうのじゃない。本当に客なんだ。宿泊料をもらっている」
誤解されそうになって、カイはあわててもらった小袋を突き出した。
中から覗く金貨に、姉も母もはっと息を呑む。
ティオがにっこりと微笑んだ。
「使っていた宿が燃えましたの。それで寝床に困っていたところ、ちょうど彼が目の前にいたのでお願いしたんです。しばらくよろしくお願いしますわ」
その笑顔の美しさにほけーっと見とれていたカイの母が、慌てて案内しようとする。
「まぁまぁ、おうちが燃えてしまったの? それは大変でしたわね。さあどうぞこちらに。使用人がいないから大したもてなしができないんですけれど、部屋だけはいっぱいあるのよ」
カイの母は、おっとりとして人がいい。
もちろんティオが持ってきた金貨も効力を発揮しているのだろうが、恐らくお金がなくても彼女を泊めていただろう。
母に先導されにこにこしているティオを見ながら、姉のゲルダが肘でつついてくる。
「夕食の時に説明しなさいよね。――それと今日の晩御飯何?」
「……客人が来たから骨付きスペアリブ、と言いたいところだけど、羊肉のパイだ」
「いいわ。私はそれ好きよ」
この家での料理は、カイの仕事だ。
使用人を雇うお金がなくなったため、家族みんなで家事を分担しているのだ。母や姉は掃除や洗濯を、カイは家の修理や料理を。
最初は慣れなくて苦労したが、三年ほど経った今はもう当たり前のものとして馴染んでいた。
◇
「その……こんな家庭料理ですまない。明日は、もう少し客人に出せるようなものを用意するつもりだ」
テーブルに載せた羊肉のパイを切り分けながら、カイは肩をすくめた。
表面全体に軽くふりかけたチーズはこんがりと焼け、その下にあるのはほっくほくのマッシュポテト。
そこへスプーンを沈めると、一番下から出てくるのはトマトソースをからめたジューシーなあらびき肉。
どこか甘い、それでいて食欲をそそる匂いに、ティオとシロがうっとりと目を細めた。
ティオが待ちきれないように一口食べ、感嘆の声をあげる。
「……! とてもおいしいわ……! カイは料理上手だったのね。この国の食べ物はあまり口に合わなかったけれど、これは好きよ」
「うんうん、わたくしめのほっぺたが落ちそうですよ~!」
その横で、はふはふと熱を逃がしながらシロが頬を押さえていた。侍女ではあるが、彼女も客人であるため同じ席についているのだ。
「それはよかった」
カイがほっとした時だった。
姉のゲルダが、待っていましたとばかりに身を乗り出す。
「ねえ、お聞きしていいかしら? あなたたちは一体何者なの? 社交界の令嬢ではないわよね?」
「ゲルダ、詮索はやめなさい。お客様に失礼よ」
「だって……」
母にたしなめられて、ゲルダがむっとする。そこへ口元を拭いながら答えたのはティオだった。
「構わないわ。しばらく住まいをともにする仲ですもの。カイには話したけれど、わたくしは魔法使い――のようなものよ」
その言葉に、母が歓声を上げる。
「魔法使い? それはすごいわ。宮廷お抱えかしら?」
「いいえ、宮廷ではなく違う国から来たの」
「そんな魔法使いが、なぜ社交界に!?」
またもや食らいついたのはゲルダだ。
身を乗り出さんばかりの姉に、ティオがさらりと言う。
「それはわたくしが、“真実の愛”を探しに来たからよ」
カイはあやうくむせるところだった。
どんどんと胸を叩き、慌てて水を飲む。顔を上げれば、母が焦ったように胸元をぬぐっていた。……噴き出したらしい。
「……真実の愛とは? 君はそういう、流行に流されるようなタイプには見えなかったが……」
カイの言葉に、ティオの眉間に皺が寄る。
「全くよ。真実の愛なんてばかばかしいわ。でも母が言うの。『おまえには真実の愛が必要だ』と。ついでに真実の愛を見つけるまで、色々封印されたのよ。おかげで魔法も使えない」
カイは納得がいったようにうなずいた。
魔法使いの世界は独特だと聞く。ティオも、本当に“真実の愛”とやらを見つけなければいけないのだろう。……見つかるかどうかは別として。
「ああ、それで……」
「ふうん……。魔法使いねえ……」
姉のゲルダはまだいぶかしんでいた。
「――わたくしからも、聞いていいかしら?」
そう言いながら、今度はティオの目が光る。
「あなたたち、なぜこんなに貧乏なの?」
「ゴホッ! ゴホッ!」
容赦のない質問に母がむせた。カイはすんでのところで食べ物を飲み込む。
「そ、それは……」
ゲルダが言いよどむ。それをカイは引き継いだ。
「……元々はちゃんとした貴族だったんだ。ただこの数年、領地でバッタによる農地被害が続いて」
「バッタ? ……って虫の?」
カイはうなずいた。
オルブライト王国は、瓜のように南北に長く伸びた国。その中でもフィッツクラレンス家の領地は最南端にあるのだが、この数年はバッタの大量発生によって、致命的なまでの農作被害を受けていた。
「バッタによる“こう害”って、もっと南の国の話かと思っていたわ……」
ティオの話に、カイはおや、と眉をひそめる。
「詳しいんだね。実は我が家もずっと関係ない話だと思っていたんだ。けれど異常気象のせいか、領地も突如襲われて」
予想外の災害に、被害は甚大だった。
カイは領主としてあちこちを駆けずり回ったが、領民の生活は壊滅寸前。
毒餌や農薬を用意したものの、バッタの数が多すぎて焼け石に水であった。
結果、カイたちは悩んだ末に伯爵家の金庫を開けることにした。
王家からの支援金に加え、少しずつ財産を切り崩しながら領民を支援し、ようやく全員がなんとか食いつないでいる状態。
だがそれが四年も続けば、いっぱいだった金庫も空になるというもの。
そんなカイを“買った”のが、国内でも一、二を争う資産家であるブリトニーの家だったのだ。
幸か不幸か、カイは昔から非常に見目がよかったため、それがブリトニーのお気にめしたらしい。
「……やっぱり、私納得がいかないわ」
がちゃんと、ゲルダがスプーンを机に叩きつける。
「どうしてカイが身売りのようなことをしなきゃいけないの? あなたはこの家の当主でしょう? ねえ、ブリトニーの支援がなくったって、私たちは立ち直れるわよね!?」
憤るゲルダに、カイの母は悲し気に首を振ってみせた。
「ゲルダ……。もう猶予がないの。ブリトニーの持参金がなくなれば、次はこの屋敷を売らなければいけないわ」
「なら、私が! カイじゃなくて私がお金持ちの人に嫁ぐわ! お爺さんの後妻に収まれば持参金がなくたっていいし、この家だって支援してもらえる!」
「駄目だ、姉さん」
カイは静かにフォークを置いた。
「フィッツクラレンス家の当主は私なんだ。ならば、責任を負うのも私だけでいい。……姉さんには、普通の幸せを手にいれてほしいんだ」
カイの言葉に、ゲルダがうなだれる。
「……それは私も同じよ、カイ。あなたは当主である前に、私の弟だわ。弟が幸せになってほしいと願うのは、お母さまも同じはずでしょう……」
しばらくその場に、きまずい沈黙が流れた。
それをのんびりとした調子で破ったのは、ティオだ。
「バッタがいなくなれば、問題は全て解決するの?」
「そう……だね。農作物が育てられないことには、どうにもならないから」
「それなら、魔法使いたちに頼めばいいじゃない」
ティオの意見はもっともだった。――だが。
「国王陛下には何度も嘆願しているが、魔法使いたちが動いてくれないんだ。彼らはプライドが高く、虫退治のためだけに駆り出されるのが嫌らしい」
「あら? この国の魔法使いは無能なのね。それぐらい秒で終わるのに」
無能。その言葉に母がプッと噴き出した。
「ふふ。あなたの力が戻ったら、ぜひともお願いしたいですわね」
「もちろんよ。カイに助けてもらった恩もあるし、おいしいおもてなしを受けたもの」
「しかし封印を解くためには、真実の愛を見つけないといけないのだろう?」
「……問題はそこよね」
カイが聞くと、ティオはうんざりしたようにため息をついた。その顔にまた母がクスクス笑う。ゲルダは面白くなさそうに見ていた。
◇
ティオが住まうようになった数日後、カイは痛む頭を押さえながら家に帰ってきていた。
今朝はブリトニーの家で、結婚式の打ち合わせをしていたのだ。だが色々方針がまとまってきた矢先、彼女は言った。
「それと、お姉さまとお母さまは参加を控えて欲しいのよ。みすぼらしくて恥ずかしいわ」
そう言ってくすりと笑われ、カイは黙っていられなかった。
自分を馬鹿にされるのは我慢できる。しかし家族を馬鹿にされるのは話が別だ。
二人はそのまま口論になり、最後には「何よ、あなたは私に買われたってこと、忘れないでよね!?」と捨て台詞を吐かれて終わった。
(家にお金が残っているうちに、なんとか姉さんの結婚相手を見つけて避難させなければ)
カイには、領民を守る義務があるから逃れられない。
だがゲルダにはちゃんとした結婚相手を見つけ、人並みの穏やかな人生を送って欲しい。
姉にふさわしい結婚相手を頭の中で考えながら家に入ると、応接間にはティオと、それから一人のご令嬢が座っていた。
見覚えのある顔に、先日アーロン次期侯爵に「婚約破棄だ!」と叫ばれていた公爵令嬢だと気付く。
「……これは、一体?」
カイが尋ねれば、満面の笑みのティオがこちらを向く。
「わたくしが呼んだのよ。ねえカイ。何かデザートがあったりしないかしら? エセル公爵令嬢をおもてなししたいわ」
「……りんごのコンポートがあるから、アップルパイなら」
「素敵! じゃあそれをお願いしても?」
横ではゲルダが「カイを顎で使うなんて!」とぷりぷり怒っていたが、カイは全く気にしていなかった。
エセルを連れてきたのには驚いたが、ティオだって客人をもてなすこともあるだろう。宿泊費をもらっているのなら、それにふさわしい働きをするべきだと言うのがカイの考え方だった。
同時に、これは意外な発見だったのだが、どうやらカイは誰かのために料理を作るのが好きだったらしい。
ティオとシロはこちらが恥ずかしくなるほど臆面なく褒めてくれるため、最近は彼女たちがどんな反応を見せてくれるか、ひそかに楽しみにさえしていた。
「――おまたせ、今日はシナモンたっぷりのアップルパイだ」
数十分後。コト、とカイはティオとエセルの前に皿を置いた。
ふんわりと漂う、シナモンとバターの甘く香ばしい匂い。たっぷりと卵黄を塗って焼いたパイの表面はつやつやと光り、生地の隙間から覗くのはくたくたにとろけたりんご。
「すごい……! これを、カイさまが?」
感極まったように聞いたのはエセルだ。
その横では、ティオが早くもパイにフォークを沈めている。サクッという音とともに、りんごの甘い匂いがふんわり広がった。
エセルとシロがごくりと生唾を呑む。
「……ああ、おいしい! りんごが、口の中でじゅわっと溶けていくみたい」
ティオがうっとりと言った。シロが、「もう我慢できません!」と叫びながらアップルパイにかぶりつく。
「……それで、エセル公爵令嬢はなぜここに?」
カイが聞くと、ティオがごくんと口の中のパイを飲み込んで言った。
「彼女ね、予想通り厄介なことに巻き込まれているみたいなの」
「厄介なこと?」
その言葉にエセル公爵令嬢がぺこりと頭を下げる。ティオがパイの端からこぼれたりんごを舐めとりながら言った。
「この間の男……元婚約者が、毎日待ち伏せしてくるらしくて」
ティオによると、アーロン次期侯爵とエセル公爵令嬢の婚約は、無事破棄されたのだと言う。
けれど、今度はアーロン次期侯爵が四六時中、エセルをつけまわすようになったのだとか。
「エセル公爵令嬢、このことをお父上には?」
カイが尋ねると、エセルは困ったように首を振った。
「まだです……。できれば、あまり大事にはしたくなくて」
社交界は醜聞が大好きだ。ただでさえ先日の騒ぎでエセルは目立ってしまっている。これ以上話を大きくしたくない気持ちは、カイにもよくわかった。
「めんどくさいわね。魔法が使えれば一発で凍らせちゃうのに。……どうしたらいいのかしら」
ティオがため息をつき、エセルもため息をつく。
そんな二人を見ながら、カイは言った。
「……よければ、私が協力しましょうか」
二人がぱっと顔を輝かせた。
◇
その日の夜。家にもどったカイは、応接間でくつろぐティオの背中を見つけると言った。
「ティオ。恐らく明日からアーロン次期侯爵の付きまといはなくなるはずだ。エセル公爵令嬢にもそう伝えておいてくれないか」
「本当!?」
がばっとティオが身を乗り出してくる。その恰好を見て、カイはぎょっとした。
彼女は下着かと見まごうような、いやむしろ下着の方がまだ慎み深いと言えるほど薄いナイトドレスを着ていたのだ。
あらわになった体の線に、カイはとっさに目を覆う。
「服を着てくれ!」
「着ているわよ?」
「そういうことじゃない!」
かみ合わない応酬をしていると、ぱたぱたと誰かの足音が聞こえてくる。現れたのはゲルダと侍女のシロだった。
ゲルダが叫ぶ。
「ち、痴女!」
「ティオさま! そのお服は自室でしか着ないでくださいませとあれほど!」
シロがいそいでガウンをティオに手渡す。彼女はしぶしぶ着ると、「それで?」と聞いてきた。
「あの男のことはどう解決したの?」
「あ、ああ。……彼の父親とは面識があってね。息子の現状を伝えたら血相を変えていたよ」
もともと公爵家の方が圧倒的に地位は上。
ただでさえバカ息子が婚約破棄騒動を起こしているのだ。そこへ公爵令嬢をつけまわしたことがバレたら、アーロン侯爵家の名は再起不能なぐらい地に落ちる。
良識ある当主なら、とる手段はひとつだった。――息子の頭が冷えるまで、軟禁するのだ。
カイが説明すると、ティオは感心した。
「世の中にはそういう方法もあるのね……賢いわ」
カイは「むしろそれ以外に何の方法が?」と聞こうとしてやめた。恐らくティオなら「魔法で片づける」と言うのが容易に想像できたからだ。
「それより! せっかくだからみんなでお祝いしましょう!」
にっこりと微笑みながら、どこに用意していたのかティオがワインの瓶を見せてくる。見れば、同じくにっこりした顔でシロも大量の酒瓶を抱えていた。
「そんなには飲めないよ……」
「よし! 負けないわよ!」
なぜかやる気を出しているのはゲルダだ。
「いや姉さんは下戸だろう?」
「うるさいわよ。女にも意地の張りどころがあるの。それにあなたとティオを二人きりにしたくない!」
なぜかゲルダは、ティオが来てからずっと彼女を敵視していた。それには構わず、むしろ嬉しそうにティオが笑う。
「飲み比べするの? まあ嬉しい! 最近わたくしと飲み比べしてくれる人がいなくて退屈してたのよ」
「……ティオさま、相手は一般の方ですので、お手柔らかにお願いしますよ……」
シロが心配そうな表情で言った。
「じゃあ私は、何かお酒に合うつまみを作ろう」
そう言ってカイは厨房へと姿を消した。
――三十分後。戻ってきたカイが見たのは、酔いつぶれて爆睡しているゲルダと、なぜかその横に倒れていびきをかいているシロの二人。
「残念。一瞬で潰れちゃったわね」
そういうティオは、一人で三本くらい瓶を空にしているのだが、いたって平静だった。
(酒豪……)
呆れるやら感心するやら、複雑な表情でカイは持ってきた皿を机に乗せる。
「まあ! これは何? おいしそう」
すぐさまティオが飛びついてきた。
今回用意したのは、トマトとオリーブオイルのブルスケッタと、肉巻きポテトのチーズフォンデュだ。
「ブルスケッタは、トマトとバジルをオリーブオイルで和えて、バゲットに載せただけの簡単なものだ」
説明もそこそこにティオがかぶりつき、くぅっと至福の表情を浮かべる。
「ううん……! ほどよいしょっぱさがたまらない……! こっちのポテトもとろとろチーズが最高! これはお酒が進むわね!」
(まだ飲む気なのか)
隣でちびりとワインをすすりながらカイは戦慄した。
そんなカイにはおかまいなしに、ティオが話しかけてくる。
「ねえ、退屈だからあなたの話を聞かせて」
「話……って言っても、最近の流行には疎いんだ。ずっと領地に行っていたから」
「領地の話でもいいわ。あなたはよく領地に行くの?」
「元々我が家は、領民を大事にする家系なんだよ。年間のほとんどを田舎の邸宅で過ごして、王都へは必要最低限の時しかこない」
それからカイは、フィッツクラレンス家のことや領民たちのことを話した。
先祖代々ずっと、領主と領民は深い信頼関係を築いてきたこと。先代であるカイの父が若くして亡くなったとき、家族の他に領民もカイのことをとても気遣ってくれたこと。
「……あの時は納屋に入りきらないぐらいの農作物やお見舞い品で、家が埋もれて大変なことになったよ。しばらくは毎日とうもろこし漬け。ありがたいんだが、巨大なとうもろこしに追いかけられる夢を見た時はさすがに参った」
何がそんなにおもしろいのか、目の前ではティオが大爆笑している。……大方、酒が回ってきたのだろう。
ティオはひとしきり笑ったあと、ふっと目を細めて言った。
「だからあなたは、あんな婚約者でも婚約破棄しないのね」
カイはドキリとした。
ティオは真実の愛を探すため今も社交界に出かけているらしいのだが、どうやらそこでブリトニーのことも仕入れてきたらしい。
「……そうだね。こう害がいつ終わるか誰もわからない以上、今の私にはこれしか残されていないから」
「ふぅん……。ま、上に立つのって大変よね。責任ばかり重くて、ときどき無性に投げ出したくなるわ」
そう言ってティオは遠い目をした。
(……彼女も何か、抱えているのだろうか)
一瞬、カイはそのことを尋ねようかと思った。だがその前にティオが口を開く。
「あなたは逃げ出したくならないの?」
カイは考えた。
「……正直、少しだけ思うよ。周りから『自分の幸せも考えろ』と言われるしね。でも、そんな簡単な問題じゃないんだ」
自分も酔っているのだろうか。いつも固く胸の中にしまい込んだ本音が少しだけ漏れ出る。
もうひとくち酒を含んだところで、カイはティオが静かなことに気づいた。
「……どうかしたのかい?」
尋ねると、透き通った灰色の瞳がじっとのぞきこんでくる。その瞳に吸い込まれそうになって、カイはあわてて目をそらした。
「あなた、わたくしが『責任』とか言っても笑わないのね? 大抵の男は、『ご婦人がそんなことを考える必要はない』と笑ってくるのに」
ティオの言葉に、カイは「ああ」と言った。
「人それぞれ立場は違えど、抱えるものはある。その重さを、他人が勝手に決めていいものではないよ。僕からすれば、なぜ笑うのかがよくわからないな」
「……ふぅん。あなた、ちょっといいこと言うのね」
褒められたと思った次の瞬間、目の前にティオの顔が迫っていた。
「……え?」
ほんのり上気した頬に、濡れた唇。揺らめく瞳。
目前に迫るただならぬ美貌に、カイが狼狽する。
「ティ、ティオ……」
「なあに? 何か不都合でも?」
美しい顔が妖艶な笑みを浮かべながら迫ってくる。
カイは一瞬その勢いに流されかけ――間一髪のところで顔を背けた。
むにっ、と頬に押し付けられる唇の感触。
「だ、だめだ! 私には婚約者がいる」
「あら、残念」
カイは逃げるようにしてティオから慌てて離れた。
「こ、今夜はもうお開きにしよう。二人とも起きるんだ」
爆睡するゲルダとシロをばしばし叩き起こしながら、カイは暴れまわる心臓の音に聞こえないふりをした。
(今までどんなご婦人に迫られても平気だったのに、何だってこんな……)
横ではまだティオがくすくすと笑っていた。
◇
さらに後日。
今年もまたバッタが大繁殖の傾向にあると知らせを受け、カイは疲れた顔で帰路についていた。
だが、玄関の戸を開けてあ然とする。
「お! 主役のお戻りだぞ!」
「さぁさ、みんな待っていたんだカイ先生!」
そう言ってワッと群がってきたのは、馴染みの友人たちだった。
(なぜ、彼らが? いや、それ以外にもなぜ我が家にこんなに人が?)
見れば、舞踏会を開催したのか? と思うほどの人がホールに詰めかけている。みな見たことがある顔ばかりで、すぐに社交界の令息たちだと気付いた。
呆然としていると、悪友たちがにやにやした顔でどついてくる。
「おいおい、カイ先生よ~。まさかそんな特技を隠し持っていたなんてな?」
「あの“謎の美姫”を虜にした料理術、もちろん俺たちにも教えてくれるよなあ!?」
「は? 一体何の話を……」
話が掴めなくて戸惑っていると、いつも以上に華やかなオーラを振りまきながら、“謎の美姫”ことティオが笑顔で歩いてきた。
「ティオ、これはいったい」
「事後報告になってごめんなさいね。エセルとも話したのだけど、急遽お料理教室をやることになっちゃったの。先生はもちろんあなたよ」
「……何を言っているのか理解できないのだが」
カイは眉間を押さえた。見れば、ティオの後ろにはエセルが恥ずかしそうに立っている。
「あ、あの……この間カイさまに作っていただいたアップルパイがあまりにもおいしくて、その、ティオさまとお話ししていたらなぜか話がどんどん広まってしまって……」
そこへ、悪友の一人が身を乗り出してくる。
「聞けば、ティオさまの心ならぬ胃を掴んだのもお前の料理だって? すっかり話題になってるよ」
「そのせいで、今度は社交界に“料理ブーム”が来てるんだよ。おいしいスウィーツや一品料理を、もてなしのためにパパッと作れるのが今の“モテ”最前線なんだろう!?」
言いながら友が腕まくりをした。よく見たら既にエプロンまでつけており、やる気満々だ。
(……そういうことか)
ティオがやってきてから一ヶ月。彼女は相変わらず社交界に繰り出しているのだが、そこでカイの料理のことも吹聴したのだろう。
(それにしても一体どんな風に話したらここまで広がるのか。ある意味才能だな)
そんなカイに、ティオが笑顔でじゃらっと袋を突き出してくる。
「大丈夫よカイ。材料費と謝礼金をたっぷりもらったから、家計の足しにもなるわ」
ティオの言葉にカイは噴き出した。ちゃっかりしているというか、抜かりないというか。
(もしかしたら私は、とんでもない人を助けてしまったのかもしれないな)
笑いながらティオを見る。
「……ありがとう。せっかく君がくれたチャンスだ。存分に活かそうと思う」
「そう? お役に立てたのならよかった。お礼はおいしい晩御飯でお願いね」
「そうだな、何が食べたい?」
「なら、ローストビーフがいいわ。あなたの作るローストビーフ、柔らかさといいソースといい、絶妙なのよね」
ティオの言葉に、隣にいるエセルがうらやましそうにこちらを見ている。
「なら、今夜はそれにしよう。……その前に、生徒たちをもてなさなくてはね」
早くも舌なめずりを始めているティオに、カイは微笑んで見せた。
◇
突如始まったお料理教室は、それまでにないくらいカイを忙しくさせた。
全員は厨房に入りきれないため、それぞれ日程を組み、教える料理に合わせて材料を買い付ける。
当初、『貴族が、それも男が料理なんて』と馬鹿にされるかと思いきや、意外と社交界の若者たちは柔軟だ。
伝統やらしきたりやらよりも、目前の“モテ”を最優先してみなが真面目に通ってくる。
花嫁修業だと言って、うら若き令嬢がやってくることもあった。
そんなある日のことだった。カイの目の前に、予想通りの客がやってきたのは。
「どういうことなのよっ!!!」
顔を真っ赤にして怒鳴っているのは、カイの婚約者ブリトニーだ。
彼女はカイが出した桃のコンポートゼリーにも手をつけず、ぶるぶると肩を震わせている。
「……だからさっきも言った通り、君が思うようなことは何もない。ティオ嬢は客人として、宿泊費をもらった上で家に泊めている。疑うなら母や姉たちに聞いてみるといい」
「そんなわけないでしょう! 男と女が一つ屋根の下にいて、何もないなんてことの方がおかしいわ!」
唾を飛ばしながらブリトニーが叫んだ。
(……それは、君の自己紹介か?)
とは思っても口には出さない。カイはため息をついた。
ティオとカイの話が広まれば、必ずブリトニーがやってくるとは思っていた。
だが、二人は誓って清い関係。他の令嬢ならともかく、ブリトニーに責められる云われは全くないのだ。
「大体、あなたの母と姉も頭がおかしいわよ! どう見たってあれは毒婦じゃない! あんなのを家に入れるなんて、慎みはないの!?」
その言葉に、カイの肩がぴくりと震える。
「……ブリトニー。それ以上は言うな」
「何よ!? 宿泊費もらったからって普通は泊めたりしないわ! ここは宿屋じゃないのよ。ああ、あなたの姉はそれもいいかもね。あの気の強さは下賤な店の女主人にぴったり――」
「やめろ!」
カイは怒鳴った。――女性に怒鳴ったのは、生まれて初めてだった。
「な、何よ……」
少し怯えた様子のブリトニーに、カイは低い声で続ける。
「……私のことなら、どんなに罵られても構わなかった。だが、家族を侮辱するのなら別だ。ブリトニー」
スゥッと息を吸い込み、彼女の目をまっすぐ見る。
「もう我慢の限界だ。――この婚約を破棄する」
「カイ!」
ブリトニーが叫んだ。
「な、何を言っているの……! そんなことしたら、あなたの家はどうなると思う!? あなたの領地は! 私の持参金がなければ、立ちいかなくなるんでしょう!?」
「お金ならこの屋敷を売ればまだしばらくは持つ。貴族としてはみじめなのかもしれないが、家族を馬鹿にされ続けるよりはよっぽどましだ」
「なっ……! なっ……!」
ブリトニーが、はくはくと口を動かす。
「そんなの一時しのぎに過ぎないじゃない! どうせすぐ音を上げて私にすがってくるに決まって――」
「往生際が悪いわね。いい加減に現実を見たらどう?」
そこへゆるりと姿を現したのはティオだ。
カイが驚いていると、ブリトニーがキッとティオをにらむ。
「何よ、やっぱりそういうことなのね!? どうせあなたもその女と“真実の愛”とやらに目覚めたんでしょう! そんなもの一時的な感情よ! すぐに痛い目を見るに決まってる――」
「おだまりなさいこのクソビッチが」
ティオの言葉に、ブリトニーがぎょっとした。カイも目を丸くする。
「ク……クソビッチですって!? なんて下品な! 聞きまして!? やっぱりこの女ろくなものじゃ」
「そういうあなたはアバズレでしょう」
「ア、アバ……!?」
汚すぎる言葉に、ブリトニーの頭がついていけなくなったらしい。
そのままの勢いでティオが詰め寄る。
「カイを責める前に、自分の行動を見直してみたらどうなの? あなたの噂、わたくしのところにまで届いているのよ。それからお相手はきちんと選ぶべきね。どこの男爵だったか子爵だったか……あなたのこと、何でも教えてくれたわよ。――なんなら今ここで話してあげましょうか?」
言って、ティオがふっと微笑んだ。
その笑みはぞくりとするほど妖艶で、同時に背筋が震えるほど冷たい。
『これ以上食い下がってくるなら、あなたの夜の生活のことを話すわよ』とティオは脅しているのだ。
「くっ……! 帰るわ!」
ブリトニーはキッとティオをにらむと、言葉もそこそこに身をひるがえす。それを、カイが呼び止めた。
「ブリトニー」
「なによ!?」
「“真実の愛”だが……愛は見つけるものではなく、築いていくものなんじゃないか」
「は?」
露骨に顔をしかめるブリトニーに、カイは言った。
「何年も何十年も共に生きて……最後に別れがやってきて初めて、その愛が真実だったかどうかわかるんじゃないのかと、私は思っている」
「何それ、意味わかんないわ」
鼻で笑って、ブリトニーが出て行く。
(……変なことを言ってしまったな)
なぜ、ブリトニー相手に「愛とは何たるか」を語ってしまったのか。
恥ずかしさに額を押さえると、様子を窺っていたらしい母とゲルダが現れた。
「二人ともすまない……婚約を破棄した。これで、この屋敷を売らなければいけなくなった」
「何言っているのカイ! 私はこの日を待っていたわよ!」
ゲルダがカイの手をがっしと握る。
「貧乏が何よ。没落が何よ。笑いたい人には笑わせておけばいいの。それより、弟があんなアバズレと結婚しなくなってよかったわ!」
「そうよ、カイ」
母も一歩、進み出た。
「私、反省しているの。母親なのにあなたに頼りきりだったわ……。カイはお父さまが倒れてからずっとがんばってくれていたのに。これからは私たちもがんばろうと思うの。みんなで一緒に支えていくのよ」
「母さん、姉さん……」
ゲルダが意気揚々と語る。
「そうよ! 発案者がティオっていうのが癪だけれど、お料理教室なら私とお母さまも手伝えるわ!」
「……ううん、それなんだけどゲルダ。ちょっと考え直してくれないかしら? あなたが厨房に出たら料理教室じゃなくて、爆発物製造教室になってしまいそうなのよ……」
「ちょっと! どういうこと!?」
母の言葉に、カイとティオが笑った。
(――大丈夫だ。みんなで力を合わせればきっと乗り切れる。ティオが作ってくれたチャンスをものにするんだ)
ちらりと見ると、彼女はいつになく優しい表情で微笑んでいた。
その笑みに、どきりとカイの胸が跳ねる。その高鳴りは止まることなく、ずっとカイの中で響いていた。
◇
「……申し訳ありません、公爵閣下。もう一度おっしゃっていただいても?」
フィッツクラレンス家の応接間。
邸宅売り払いの準備していたカイの元にやってきたのは、エセル公爵令嬢の父だ。
公爵閣下はにこやかな顔で言った。
「娘に聞いたのだが、君がエセルをアーロン侯爵家のバカ息子から助けてくれたらしいじゃないか。その手腕と謙虚さが気に入ってね。ぜひ娘の新たな婚約者となってほしいんだ」
「それ、は……」
「ああ、もちろん君の家の事情も知っている。我が家は公爵家。前の婚約者に負けぬほどの持参金と支援を約束しよう」
カイがごくりと唾を呑む。――願ってもいない話だった。
公爵家の財力は言わずもがな、エセル公爵令嬢は慎ましく謙虚なご令嬢。
前の婚約者とは比べるまでもなくいい話だ。
……にも関わらず、カイは即答できなかった。
「……しばらく、考える時間をいただけないでしょうか」
「構わない。ゆっくり考えるといい」
公爵閣下を見送ったあと、すぐさまゲルダが詰め寄ってくる。
「……どうしてすぐに頷かなかったの!? エセルさまは文句なしの淑女じゃない!」
「わかっている」
カイも十分すぎるほどわかっているつもりだ。
この話がとてつもなくありがたく、カイにとっては大きなチャンスだと。
……なのに、即答できなかった。
「……ティオね。ティオがいるから、うなずけないのでしょう」
ゲルダの問いに、カイがぎくりと身をこわばらせる。
「……違う」
「嘘つかないで! ……私が何も気づかないとでも思っているの? 馬鹿にしないでよ!」
ゲルダは怒鳴り、そのまま肩を怒らせて応接間を出て行く。
残されたカイがちらりと見上げると、壁際に立つティオと目が合った。
その顔には珍しく何の表情も浮かんでいない。ただじっと、吸い込まれそうな瞳でカイを見ているだけ。
「……エセルと、結婚するの?」
「いや!」
思わず大きな声が出た。あわてて謝罪し、なんとか呼吸を落ち着かせる。
「……エセル嬢と結婚すれば全て解決すると、頭ではわかっているんだ……」
「……彼女がイヤなの?」
気づけば、ティオがまた目の前に迫ってきていた。
身長の高い彼女は、カイと目線があまり変わらない。見下ろすでも見上げるでもなく、至近距離で視線が絡み合う。
「エセル嬢が、嫌なわけではない」
透き通る瞳が、じっとカイを捉えている。
(少し前の僕だったら、喜んで乗り換えていただろう)
だと言うのに、今こんなに気持ちが重いのは――……。
(……彼女が、いるからだ)
目の前で妖しく微笑むティオから目が外せない。
ふっと吐かれた吐息ですら、甘い気がした。
(だが、僕は一年後の生活すら保障できない貧乏貴族。それに――)
なんとか視線を外し、ずっと気になっていたことを尋ねる。
「ティオは、真実の愛を見つけたあとはどうするんだ。……国に帰るのか?」
その問いに、ティオはふっと微笑んだ。
「もちろん、帰るわ」
「ティオ」
カイが名を呼び、手を伸ばす。
だがそれをひらりとかわして、ティオは踊るようにカイから離れた。
「ここはわたくしが治める国ではないもの。ずっとはいられない」
灰色の瞳は、カイに問いかけていた。
『家も家族も全てを捨てて、わたくしについて来れるのか』と。
(……そんなことはできない)
いくら力を合わせると言っても、カイがいなくなれば母と姉の生活の困窮ぶりは今の比じゃないだろう。社交界で男の後ろ盾を失った女性は、驚くほど立場が弱いのだ。
それに、領地では今もバッタが猛威を振るっている。彼らの生活を立て直す義務が、カイにはあった。
「……あなたは領主だものね」
全てを見透かしたように、ティオが微笑む。その瞳には悲しいくらい透き通って、どこまでも美しい。
けれどカイは、彼女に手を伸ばすことはできなかった。
◇
「わたくしたち、そろそろこの国を発とうと思うの」
その日の夜。夕食を食べながら、ティオがなんでもないことのように言った。
ぴたりと、フォークを持つカイの手が止まる。
カイの母が驚いたように声をあげた。
「あら、そうなの? いつ?」
「三日後の朝、ここを発ちますわ」
「まあ!? とても急ね!?」
母が心底残念そうに言ったそばで、ゲルダがいぶかしげな目でティオを見つめている。
シロはどこか気まずげに、身をすくめながらそーっと仔牛のソテーを口に運んでいた。
「ええ、どうやら真実の愛は見つからなさそうですから」
「そうよねえ……そう簡単に見つかるものじゃないものねえ……」
考え込む母に、ティオはずっしりと膨らんだ袋を手渡した。
「これ、今までのお礼ですわ。まだバッタが大変なんでしょう? ささやかですがお見舞金を受け取ってくださいませ」
「まぁまぁ……! そんな気遣ってもらわなくてもいいのよ。でも、ありがたく頂戴しておくわね」
なんて言いながら、母はちゃっかり金貨の袋を懐にしまい込んだ。
本当ならそれを止めるべきなのだが、カイは呆然とティオを見つめていた。
(……ティオが、いなくなる?)
彼女の手を掴まないかぎり、いつか別れが訪れるとは思っていた。
だが、こんなにも早くその日が来るなんて。
(何か、彼女に言わなければ)
そう思うのに、カイは凍り付いたようにその場にただ座っていた。
――そのあとの数日は、呆然としているうちに過ぎ去ってしまい、ほとんど覚えていない。
気づけばティオが発つ当日の朝。カイは誰もいない庭で我を忘れたように立っていた。
「……カイ」
名を呼ばれてハッとする。一瞬、ティオかと思ったのだ。
だが振り返った先に立っていたのはゲルダだった。
「何よその顔。私じゃ不満?」
「いや、悪い。そんなつもりじゃ」
カイの表情に、姉が不機嫌そうに腕を組む。それから、ハァーッとため息をついた。
「もうすぐでしょう。ティオが出て行くの」
「……ああ」
「次はどの国に行くのか本人も決めてないって言ってたわね」
「……ああ」
「ってことは、今さよならしたら、もう二度とティオには会えないわね?」
「……ああ」
カイには、ただ返事をすることしかできない。ゲルダがいら立ったように言った。
「ああもう! 何なのよ、ここ数日ずっとふ抜けちゃって! そんなに嫌なら本人に行くなって言えばいいじゃない!?」
そこで初めて、カイは目を丸くした。
「……姉さんは、ティオのことが嫌いなのかと思っていた」
「嫌いよ! だって彼女どう見たって……ううん、それはいいわ。私の気持ちなんかどうでもいいのよ。それより問題はあなたよ! 心ここにあらずって感じで、見ていられないったら!」
「それは……悪いと思っている」
カイはうなだれた。返す言葉もなかった。
「……で、どうなのよ。ティオに行ってほしくないんでしょう?」
「……行ってほしくない。だが、どうやったら二人の道が交わるか、わからないんだ」
家族や領民を守らなければいけないカイと、国に帰らなければいけないティオ。
散々悩んだが、カイが国を捨てることも、ティオに国を捨てさせることもできなかった。
ゲルダがとびきり大きなため息をつく。
「ハァーッ。じれったいわね。交わる交わらないとかの前に、一度素直な気持ちを伝えて見なさいよ。……道はそれから探したっていいじゃない」
カイの目が見開かれる。
(……素直な気持ちを、彼女に?)
「全く、なんで私がこんなことアドバイスしなきゃいけないのよ……。ほら、あんたもぼさっとしてないでさっさと行って。ほんと、悩み始めるとうじうじして動かなくなるのは、小さい時から変わってないわね」
バシバシと背中を叩かれて、カイが苦笑いする。
思えば、小さい頃もカイが落ち込むたびに姉が背中を叩いてくれたものだ。……時には蹴り飛ばされたりもしたけど。
「痛いよ、姉さん。……それから、ありがとう」
「さっさと行ってきなさい。手のかかる弟ね。あ、お礼はフルーツたっぷりのタルトでいいわよ」
ひらひらと手を振る姉に背を向けて、カイは歩き出した。
足早に向かうは、彼女が泊まる部屋。
カイがドアノブを掴もうとした瞬間、それより先にガチャリと扉が内側に開いた。
今まさに部屋から出ようとしていた旅装束のティオと、ぱっちり目が合う。
「……あら、お見送り?」
「ティオ、僕は君が好きだ」
ティオが目を丸くする。
(……しまった、勢いで言ってしまった)
カイはとっさに口を押さえた。
「違う。そうじゃなくて……いや、君が好きなのは本当だ。ごめん、少しタイミングを間違えた……」
あたふたと慌てるカイを見て、ティオが笑う。
「わたくしのことが、好きなの?」
その嬉しそうな笑顔に、カイが観念したようにうなずく。
「……僕は、君のことが好きだ。君と、ずっと一緒に生きていきたい」
「ふふっ。じゃあ、わたくしと一緒に来てくれるのね?」
「それ、は……これから話し合おう。何かいい案を」
「ダメよ。あなたに拒否権はないわ」
そう言ってティオが妖しく微笑んだ次の瞬間、カイの唇に彼女の唇が押し付けられていた。
柔らかな、それでいてひんやりとした感触に、甘い匂い。
頭がくらりとして、抗うこともできずカイはされるがままになっていた。
やがて、たっぷりとカイの唇を堪能したティオが、舌なめずりしながら言う。
「……ふぅん。これがくちづけなのね? 悪くないじゃない」
「……え?」
カイがぼんやりした頭で考える。
(まさか……初めてだったのか?)
口に出しては言えないが、ティオは男慣れした、いかにも経験豊富といった出で立ちだ。
予想外の反応に驚いていると、今度はティオがなぜか驚いた顔をしていた。
「……あら? あらあら?」
彼女は自分の体を不思議そうに見つめている。
かと思うと、家の中だというのに、どこからともなく冷たい風が吹いてきた。
その風は光の粒とともにティオにまとわりついたかと思うと、彼女を中心にものすごい勢いで渦巻き始めた。廊下に風が吹き荒れ、辺りに七色の光がほとばしる。
「これは一体……!?」
風で顔を覆ったカイが見たのは、目をつぶったまま渦の中心で浮き上がり、内側から発光するティオの姿。その体には、パチパチと火花のようなものが走っている。
――やがて、ティオがゆっくりと目を開けた。
現れたのは灰色の瞳ではなく、氷を思わせるアイスブルーの瞳。
「……ふうん? ずいぶん、あっさり見つかるものなのね?」
「ティオ?」
事態が呑み込めないカイの後ろから、シロの嬉しそうな叫び声が聞こえる。
「ファスキナーティオさまっ! ついにお力を取り戻したのですね!?」
「そういうことらしいわ。わたくしは、あまり実感がないのだけれど」
なんて言いながら自分の体を見ているティオは、確かに何かが以前と違っていた。
元々美しかったが、それに加え今の彼女には迫力のようなものがあった。目の前に立つ人を畏怖させ、ひれ伏させるような気迫。
気圧されたカイが呆然と見ていると、ティオはにっこりと微笑んだ。
「あら、びっくりした? ……でももう遅いわ。わたくし、あなたを連れて帰るって決めたんですもの」
「待ってくれ、僕には領民が」
「その領民を、わたくしが助けてあげるのよ」
言って、ティオがパチンと指を鳴らした。その瞬間、家の中に吹雪が吹き荒れた。
横殴りの吹雪に包まれて目の前が真っ白になる。
廊下もティオも、何も見えない……と思った直後、カイはなぜか太陽の照り付けるだだっぴろい野原の下に立っていた。
「……!?」
何が起きたかわからず混乱する横で、ティオがスッと一歩踏み出る。
「あれでしょう?」
そう言って彼女が指さした先には、空に浮かぶ黒い大群。農作物を食い荒らすバッタたちだ。
「見てて。……秒よ」
言いながら、ティオがギラギラとした目で片腕をあげる。
ゴッと再び巻き起こった吹雪がカイの横を通り過ぎ、瞬く間に巨大なドラゴンを形作っていく。
現れたドラゴンはのそりと頭を持ち上げたかと思うと、クワッと口が開かれた。
そのままバクン! と音が聞こえてきそうな勢いで、白いドラゴンが空を食む。飲み込んでいるのは、空を覆いつくすバッタだ。
ドラゴンが動くたびに、汚れていたガラスが綺麗に吹き上げられるように空が綺麗になってゆく。
ティオの言う通り一分もしないうちに、辺りにはまばゆい青空が戻っていた。――役目を終えたドラゴンが、静かに霧散して跡形もなく消えていく。
気づいたときには虫は消え失せ、辺りはしんと静まり返っていた。
「一体、何が……」
呆然とするカイに、ぱんぱんと手をはたきながらティオが答える。
「ここら一帯と、ついでにまだ上陸していないバッタも片づけたわ。……ちょっとやりすぎて、絶滅したかもしれないわね」
「君は一体……!」
何が何だか、ついていけない。たじろぐカイに、ティオがゆるりと微笑む。
「あら。わたくしの名を知らない? ファスキナーティオよ。北のイルネージュを治める“雪の女王”と言えば、それなりに有名なはずなんだけれど」
「雪の……女王……?」
その名にはうっすら聞き覚えがあった。
オルブライトのはるか北に存在する、イルネージュ王国。
何もかも謎に包まれたその国には、ひとつだけ他の国にはないものがあった。
――それが冷酷で残忍な、恐ろしい雪の女王だ。
『心臓が氷でできていて、何でも凍らせてしまう』だとか、『手に触れると永遠の冬に連れ去られ、特に若い男を好んで連れ去る』だとか、そんな話をカイは聞いたことがあった。
「君が……? ということは、僕は君に連れていかれるのか?」
カイの質問に、ティオが満足そうに微笑む。
「そうよ。ただし、わたくしが連れて行くのはあなたが最初で最後ね」
誰でも連れていくわけではないのよ、と言いながら、ティオがぐいっとカイの胸元を引っ張った。
「うわっ」
引き寄せられ、再度口付けが交わされる。ティオの甘い匂いに、カイは頭がくらくらとした。
「さ。お次はゲルダね」
また、パチンと指が鳴らされる。吹雪に包まれたと思った瞬間、カイはフィッツクラレンス家の屋敷に戻っていた。
シロが「おかえりなさいませー!」と手を叩いている横で、ティオが叫んだ。
「ゲルダ! わたくしはカイを連れて行くわよ! いいわね?」
「よくないわよっ! どうしてそんな話になっているのよ!」
構えていたのかと思うほどの速さでゲルダが走ってくる。
そんな姉に、ティオは微笑みながらぽんと何かを手渡した。
「な、何よこれ」
ゲルダがいぶかしげに掲げたのは、光り輝くダイヤモンドだった。
何事かと駆けつけてきた母が「まあ!」と声をあげる。
「なんて輝きなの……! こんなの見たことない」
「そうなの?」
首をかしげるゲルダにティオが言った。
「いい? これは絶対に商人に渡してはだめ。必ずあなたが王妃のもとに持っていくのよ。そしてこれを渡す代わりに、王妃の庇護を得なさい」
カイにダイヤの良し悪しはわからない。だが顔を覗かせた母の顔が、見たことのないぐらい輝いていた。
「これってもしかして、幻のダイヤモンドじゃなくって……? こんな貴重なものをいただいてしまっていいの?」
「その代わり、わたくしはカイを連れて行くわ」
その言葉に母がハッと息を呑んだ。それから、静かに息を吐く。
「……そう。カイが行きたいのなら、母さまは何も言わないわ」
「待ってくれ。僕はまだ何が何だか」
「あら、簡単よ。バッタはいなくなり、領民も守られたの。……これだけじゃご不満?」
ティオの言葉に、カイは考えた。
「そ、それは……だが、姉さんや母さんを置いていくわけには」
たじろぐカイに、ゲルダがはぁっと大きなため息をついた。それからキッと顔を上げたかと思うと、早口に言う。その顔には静かな決意がみなぎっていた。
「カイ。この国では女でも領主を務められるのを忘れたの?」
「それは……」
「それに、この間も言ったじゃない。今まであなたが守ってくれた分、これからは私と母さんも頑張っていくって。料理はできないけど、領主の仕事なら実はなんとかできそうなのよ」
「姉さんが、領主を?」
確かにゲルダは、昔から男勝りなところがあった。外仕事も計算も得意だし、何より領民に“おてんばお嬢さま”として好かれている。
(……姉さんなら、領主もできるのかもしれない)
カイがじっと考え込んでいると、ゲルダがぽんっとカイの背中を叩いた。
「あなたは私の弟。弟が幸せになってほしいと、本当に願っているのよ。……まあティオはどうやっても、気に食わないけれどね」
「ゲルダったら。応援はするくせになんでティオさまだけ敵視するのかしら」
母が首をかしげる横でゲルダが眉間に皺を寄せる。
「だってひと目見た時からわかったもの。この人はカイを連れていく人だって」
「それは正解ね」
からからとティオが笑う。それからまっすぐカイを見つめた。
「……カイ。わたくしとともに、来てくれるでしょう?」
ゲルダと母も、静かにカイの言葉を待っている。
「僕、は……」
――悩みの種であったこう害は、ティオがきれいさっぱり片付けた。
――姉のゲルダは、王妃の庇護を得れば女領主として自立できる。
(ならば、僕は……)
カイはまっすぐティオを見た。アイスブルーの瞳が、穏やかにカイを見ている。
(自分の幸せを、探しに行ってもいいのだろうか……)
カイが一歩ティオに近づく。
彼女の白い手をとり、カイは顔を上げた。
「……ティオ。僕は君の、真実の愛になりたい」
「あら。なら『何年も何十年もかけて』それを証明してくれるの?」
以前カイがブリトニーに言ったことを覚えていたのだろう。カイははにかんだ。
「……そのつもりだよ。だから、君も教えてくれないだろうか。最後の別れの瞬間、僕たちが本当に真実の愛で結ばれていたかどうかを」
「『死が二人を分かつまで』というやつね。……いいわ、その時になったら教えてあげる」
カイとティオは見つめあった。
そんな二人の横を、「あーやだやだ」と言いながらゲルダが通っていく。
「言っとくけどね、カイ。あなたが真実の愛だと呼んだその人は――とんでもない悪女よ。なんてったって私の可愛い弟を連れていくんですからね」
ゲルダがニッと笑う。その横で、カイとティオは手を取り合って笑っていた。
――その後、一人の若き伯爵が社交界から姿を消した。
駆け落ちしたとも、行方不明になったともささやかれたが、不思議と彼の家族や友人たちは穏やかな顔をしていた。
残された彼の姉は爵位を引き継ぎ、どうやったのか、王妃の庇護も得たのだと言う。領民たちが尋ねると、“おてんば領主”はこう言った。
「弟は、とんでもない悪女と幸せになっているわよ」と――。
<終>
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
もし少しでも面白いと思っていただけましたら、ブクマや広告下の☆☆☆☆☆部分で評価してくださると、泣いて喜びます。
また、書籍化/コミカライズ予定の完結済長編
『わたくし、悪女でございますので 〜断罪されそうな雪の王女はなぜか腹黒王子に求婚されていますが、悪女をお望みならなりきってみせましょう~』
と世界観が繋がっています。今回登場した人物(ティオ、シロ、ゲルダ)がちょっぴり登場しますので、興味がある方はよければ下のリンクからどうぞ。
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