9
「落ち着いた?」
『はい、ご迷惑おかけしました』
ひとしきり泣いたせいで真っ赤に腫れ上がった瞼を濡れた手巾で冷やしつつ、シルフィーリアはやわらかく笑う。
『誰かと言葉を交わすのは、どれくらいになるでしょうか。思うことを伝えられず、自由もなく……そんな私がこうして今思いを届けられるのは、彼が私を助けてくれたからに他なりません。けれど、そのせいで彼は……!」
そうしてシルフィーリアは唇を強く噛む。昂る感情を抑え込むようにぎゅっと強く目を閉じたシルフィーリアの手を、アンジュはそっと握る。
「会いに、行こう。 そうやって声がなくても伝えられるようになったんだから、お兄さんに言えばいいの。守ってくれてありがとうって……ごめんなさいよりも、ありがとうの方がきっと嬉しいよ?」
『そう、かしら。私のせいで怪我をさせてしまったのに』
「守ろうとしたんでしょう? だったら、シルフィーリアさんがありがとうって言った方が嬉しいに決まってるよ!」
大丈夫だと笑うアンジュにシルフィーリアは躊躇い、そして小さく頷く。
『そう、ね。ちゃんと言わなくちゃ……ありがとう、ええと』
「あ、私はアンジュ! この銀色の狼はセイン!」
『アンジュさんとセインさんですね。私のことは、どうかシルフィンと呼んでくださいな』
「うん、シルフィンさんね!」
こっちだよ、と外に出たアンジュはすぐ隣の扉を叩く。
マホガニーの艶がある重厚な扉は、思ったよりも軽やかにコンコンと音を響かせる。
「コーラルさん、入ってもいーい?」
「ええ、どうぞ」
やわらかな声の返事を聞いたアンジュが扉を開ける。
広さはシルフィーリアの部屋の倍はあるだろうか。壁紙の小花が薄い緑の葉になっている以外はほぼ同じだが、家具は大きく異なっている。
ベッドとサイドチェストが二つずつ、本棚がひとつ。調合台と薬品が入った大きな扉付きの棚もあり、純粋な部屋というよりは処置するための部屋という意味合いが強く感じられる。
薬草の香りが満たされた部屋の奥、片方のベッドの上で青年が半身をたくさんのクッションに背を預ける形で起こされていた。
「薬も塗り終わり、包帯もまき終わってます。私のものですが清潔な服にも着替えたので、あとは熱さましが効いてくれば傷の治りも早くなるでしょう」
「そう、か」
まだ気だるそうに、それでも馬車の時よりははっきりと意識を持った様子の青年は、アンジュに手を引かれたシルフィーリアに視線を向ける。
「あんたも無事だな……よかった」
表情は変わっていない。声も取り立てて感情が籠ったものではない。けれど翡翠のような緑の瞳には確かに安堵の色が浮かんでいた。
シルフィーリアにもわかったのだろう。アンジュから手を離し、つんのめりそうになりながら青年へと早足で向かう。
「おい、無理は」
『ありがとう』
苦言を言いかけた青年が息を飲む。傍らに辿り着いたシルフィーリアはそのまま青年の手を取ると自分の額に押し当て、床に両膝をついた。
『あなたがあの時連れ出してくれなければ、私は今も絶望と共にいたことでしょう。たくさん怪我をさせてしまってごめんなさい、助けてくれてありがとう』
「声が戻った、訳じゃなさそうだな。だが、確かに聞こえる……」
『私の中に流れる、血のおかげらしいです。やっと、こうしてあなたに伝えられる。それがとても、嬉しいのです』
微笑むシルフィーリアに対し、青年は渋い顔になる。
「あんたが攫われたのも声を奪われたのもその血のせいだっていうのに、呑気なもんだな。だいたい」
「すみません、お話の邪魔はしたくないのですが」
青年がまたも小言を言おうとしたが、今度はコーラルがそれを阻む。
「だいぶ良くはなってきましたが、まだ彼女も万全ではありませんので。さあ、まだ傍にいるならちゃんと椅子に座って」
『ありがとうございます』
優しくほんわかとした雰囲気のコーラルと、同じように穏やかな印象になったシルフィーリアが揃うと、髪色や雰囲気のせいかまるで兄妹のようだ。
微笑みあう姿は春の陽だまりのように暖かく美しい光景で、毒気を抜かれたのか青年は大きく息を吐きだすと軽く首を振った。
「なんにせよ、ひとまず意思疎通ができるのはいいことだな」
「お兄さんも話せるようになったから、もうひとついいことあったね」
にこにことアンジュがそう言えば、コーラルとシルフィーリアも頷く。
笑顔を向けられた青年は少し顔を顰めた後、ふいっと壁を向いて表情を隠してしまった。
「あれ、お兄さん?」
「……うるさい」
ぶっきらぼうな声だが怖くはないな、とアンジュが思っていると軽いノックの音が響く。
「ああ、みんなここにいたんだ。セイン、こっちで大丈夫だよ」
「そうか」
手にお盆を持ったカイルが声をかけると、背中に籠をのせたセインも入ってくる。
「カイル、それは?」
「コーラルさんたちのご飯と僕たちのお茶。ちゃんと食べないと治らないでしょって、用意してくれたんだ。アンジュ、風邪の時に使うやつ持ってきてお兄さんのとこにおいてくれる?」
「あ、ベッドでご飯の時のね、わかった!」
ぱたぱたと足音も軽く出ていったアンジュはすぐに帰ってくる。
その両手に抱えられていたのは、足のついたお盆のような、小さな低いテーブルのようなものだった。
.




