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短編大作選

ひとのかたち

「ただいま!」

「パパ、お帰り!」

 おめめがクリクリとしている。まつ毛がピンピンしている。お肌がツルツルしている。髪の毛がサラサラしている。鼻がシュッとしている。娘はまるでお人形さんだ。可愛すぎる。

 地味な靴がバラバラ散らばる玄関と、ピンクの花柄マットの間にある段差は、娘を想うだけで軽々と越えられた。重い荷物を長時間支え続けた足は、娘に手を握られて導かれていくと、無重力空間にでもいるかのように、ふわふわとなった。

 僕の手から離れた娘は、両手を金色の長い取っ手にかけた。そして、全体重を込めるようにして下に引き、当たったら怪我をするような物凄いスピードで扉を強く引いた。

 長い取っ手の行き着く先には壁があり、娘の胸の高鳴りを表すかのようにゴンッと大きな音でバウンドし、そっと止まった。白いつるつるとした壁の取っ手が接触した部分には、黒みを帯びた跡がぼんやりと浮かんでいた。

 再度引っ張られた右手は、最初よりもさらに強い刺激に縛られてゆく。リビングのくすんだ黄土色の絨毯に隠れそびれたフローリングの焦げ茶の先に目をやると、見慣れた仲間たちの右側に見慣れない仲間の姿があった。


「今日ママに買ってもらったの」

「ミカ、良かったな」

「うん。可愛いでしょ?」

 隅でドスンと構える、娘とほぼ同じ大きさのフッサフサしたクマさん。グリーンのパッツン前髪に大きすぎるグリーンの瞳を携えた、頭でっかちのお人形さん。暖色系の不規則な模様で構成された着物を纏う小柄な和のお人形さん。

 他にも沢山の仲間がいて、毎日僕たち家族に微笑みかけてくれている。その仲間たちに今日、新しい仲間が加わったのだ。そのお人形さんを最初に見た時、少しの震えと少しの高揚感を覚えた。

 ドールと呼ぶべき異国感が漂う姿。笑みが一切ない表情。少し怒っているようにも見える吊り上がった眉。他の人形が太いせいで細さが際立つ身体。

 そのお人形さんは、フローリングの上に直で置くことを躊躇うほどの美しさと異彩を放っていた。一体でも空気の循環を悪くする存在であるというのに、それは三体いた。


「ミカちゃんはね、お人形さんになりたいの」

「そっか、なれるといいね」

「うん」

 娘は新しく仲間になったドール達に、バタバタと音を立てながら一直線に向かっていく。妻とのいざこざなんて忘れるほど、娘は生き生きしていた。娘の顔から溢れる笑いは顔だけでなく、口からも漏れ出ていた。

 娘が『ミドリちゃん』と呼んでいる、緑の髪と緑の瞳をしたお人形さん。そして、新しく仲間に加わったドール達。その間の僅かな隙間へと、娘は身体をねじ込んでゆく。

 僕の足は小さな手に誘導されることなく、娘の幸福感のみで動かされていた。埋もれるように座り込んだ娘は、右手を腰、左手を頭の後ろに回した新入りのような格好で、そこにいるお人形さん達に自然と溶け込んでいた。


「あれっ? ミカはどこだ?」

「パパ、ここだよ!」

「ミカがお人形さんみたいに可愛いから、分からなかったよ」

 隣のお人形さんの真似をする娘のまばたきは、空を飛べそうなくらい速い。娘の頭は首振り人形ほどではないが、小さくゆっくりと揺れていた。娘は人間らしく前髪を手櫛で整えたりもしていた。不完全な物真似に、可愛さと幸福感が音を立てるように押し寄せてきた。

 お人形さん達には失礼かもしれないが、娘がこの中で一番可愛いのは間違いない。そう感じることしか出来ないでいた。すると、そこに妻の可愛げのない声が響く。部屋に溢れていた幸福の中に、少しずつ不幸が侵入してきているのを、ひしひしと感じた。






「今日もミカは、ずっとあそこにいるのか?」

「うん。ほとんど動かずに座ってるわ」

 仕事から帰り、娘の視界に入る黄緑色のソファに沈んでいても、娘が僕の方に寄って来ることはなかった。少し前まで、玄関の立て付けの悪いドアを横に引いた時に現れていた娘の笑顔は、今日もない。

 何かが少し変だ。娘から元気が消えかけているような気がする。妻も妻で、人形のように表情をほぼ変えずに、淡々と家事をこなしている。家の中の会話や笑い声は、全てテレビの中で繰り広げられているものだけだった。

 右の角にあるテレビの画面では、ただ人が流れている。その右側では、中途半端に開けられた窓から吹く風で、水色のカーテンが揺らめいている。正面を向き、首の角度を少し上に上げてやると、真ん丸の時計の秒針が一定のリズムを刻んでいた。

 その時計のやや左下の地べたには、娘とその仲間達が静止画のように存在していた。娘とその仲間達の右側で動く、この幾つもの微動が存在しなかったら、僕の時間はもう止まってしまっていたことだろう。

 娘は正面の突き当たりで、硬いフローリングにお人形さんのように腰を据えていた。娘の左には、頭でっかちで様々な濃さのグリーンで織り成されたミドリちゃん。右には、細身で異国感溢れる金髪の三姉妹が、昨日と変わらず鎮座していた。

 娘が言うには、左から長女、次女、三女らしく、娘に寄り添っているのはどうやら三女らしい。娘は彼女達を『ドール三姉妹』と名付けた。今はそのドール三姉妹と心の中で会話をしているかのように、娘はお人形の世界にどっぷりと浸かっていた。

 おめめを前よりもクリクリとさせている。長い髪の毛は後ろで綺麗に纏められている。首はあまり揺れてはいない。そして、口元には仄かな笑みを浮かべている。以前に増して、娘はお人形さんだった。

 娘が本気でお人形になりたいという気持ちが、ズッシリと伝わってくる。今は、とても可愛いという言葉以外出てこなかった。


「ミカ? もうすぐご飯よ!」

「はーいっ!」

 妻のやる気の無い、地を這うような声に娘が全力で答える。その心を擽るような、人間味のある高音に、胸の中に詰まっていた蟠りがストンと落ちていった。

 娘の顔全体に幸せそうな笑顔が溢れ出し、僕の目をざわつかせるほどの動きを見せ始めていた。床の板を蹴る一定のリズムが、テーブルの周りを大きな音でぐるぐると回り続ける。

 テーブルに置かれたパステルカラーの食器や、食器に盛られた茶色いおかずの方に心配が移るほど、娘は元気に走り回っていて、少しだけほっとした。

 あの定位置に娘がいる時の恐ろしいほどの静けさに、思考回路は麻痺していた。そういえば、昨日の娘もこんな感じだった。元気がないのはお人形さんに埋もれているときだけ。なりきっているのだから、仕方がないと思うしかないのだろう。

 娘の、息を飲むくらいの再現率は不安を煽る。もう燥いでいる娘を見られないのではないか、とさえも思ってしまう。なりきり過ぎず、隣のお人形さんの真似を初めてした時のような、ぎこちない感じが僕にはちょうど良かった。


「ミカ、座って食べよう」

「はーいっ!」

 四角いテーブルの周りを沿うように走り回っていた娘は立ち止まり、ちょこんと座った。フローリングに比べて格段の柔らかさを誇る黄土色の絨毯が、娘を受け止める。娘が背を向けているテレビからは、深刻な声が流れていた。

「ミカ、さっき本当のお人形さんみたいだったぞ」

「みたいじゃなくて、ミカは本当のお人形さんだもん」

「そうだったな」

「パパも一緒にお人形さんになろうよ」

「あっ、パパはいいかな」

 こんな時くらいしか娘の声は聞けない。食事、お風呂、寝るとき以外はほぼ、お人形さんたちに埋もれてしまっている。お人形さんになっているときは、話しかけても口を利いてくれない。

 娘のお人形さんになるという夢も、もちろん大切にしたい。だが、クリクリしたおめめで嬉しそうに僕を見つめながら話す、このような時間の方が大切だと心から思っている。


「いただきます」

「いただきます」

 目の前には静かに食べられるのを待つ、唐揚げやフライドポテトたち。もう少し奥に目をやると、唐揚げを黙々と箸で掴み口に運ぶ妻。そして、妻の後ろには不気味で異様な雰囲気を放つ、異国のお人形さんたちがいた。

 金髪が煌めき、目元には威圧感が漂っていた。細い身体からスラッと伸びた手足、寸分の狂いのない三体のフォルム。正面を向いていても、幸せなものは瞳に映らない。幸福を纏っていないものを見ながら食事をしても、舌は僅かな喜びすら感じなかった。

「おいしいね、パパ」

「そうだね。おいしいね」

 娘の笑顔が一番の隠し味かもしれない。くしゃくしゃっと顔に皺を作り、娘は無邪気に笑いかけてくれた。下唇には茶色い破片がくっ付き、美しいテカりに覆われていた。娘がそこにいるだけで、笑顔の無い正面の妻も、愛が薄れてきている妻が作った料理も、少しはマシに思えてきた。


「パパ。新しいお人形さんが欲しいな」

「ミカはどういうお人形さんが欲しいんだ?」

「パパが選んだやつなら何でもいいよ」

「そうか。分かった買ってあげるよ」

「やった!」

 娘はお人形さんになりきることに、ほとんどの時間を消費していた。なりきりによって娘と話す時間は減ったものの、親子の会話が絶えることはなかった。

 前に比べれば格段に時間は短くなっている。それでも、最近揉めている妻よりも、娘と数倍多く話をしていることになる。以前は、小学校での出来事やテレビの話もしていた。でも、今はほとんど無い。娘の頭の中の全ては、お人形さんで構成されていた。

 遊び相手もお人形さん。欲しいものもお人形さん。一番大切なものを聞かれても、きっとお人形と答えるだろう。娘はお人形さんの話をしている時が、一番活気に溢れている。そして、一番楽しそうにしている。楽しいのならそれでいい。でも、娘がお人形さんに支配されているのでは、と思わずにはいられなかった。


「ママ、もういらない」

「ミカ、食欲ないの?」

「うん。パパにあげる」

「あ、ありがとう」

 お皿の上で佇む、歯形が残った唐揚げ。米粒で見えない茶碗の底。ぬるいスープが居座るカップに、ハの字に置かれたピンクの箸。それらが虚しさを物語っていた。

 娘はテレビの音が聞こえなくなるほどの足音を立てて走り、いつものポジションへとついた。食欲が落ちた娘を、僕は心配そうな目で追っていた。表情は活気に満ちている。身体もピンピンしている。なのに、それが食欲に作用してはいなかった。

 妻は立ち上がり、窓際の棚に置かれたリモコンでテレビを消す。辺りには、リモコンを棚に戻す音が轟いた。そして僕の心臓は一瞬、宙に浮いた。娘の目は、ずっとこちらを向いていた。娘の耳は、音を拾うことの出来る圏内にあった。しかし、娘が何かに反応するということは更々無かった。

 妻は元の位置に戻り、足をテーブルの下に伸ばして座る。黙々と、手と口を動かす妻と僕の傍らにある、箸と茶碗の接触音だけが、ただ響いていた。


「あんなに唐揚げが好きなミカが、あれだけしか食べないなんておかしいよね、あなた?」

「うん。でも美味しいって言って食べてたし、気にしなくていいんじゃないかな」

「最近のミカ、変じゃない?」

「今もお人形さんのところに早く行きたかっただけだと思うし、まあ大丈夫だよ」

 小声で妻と言葉を交わした。妻の疑問を肯定することは出来なかった。出来なかったというより、したくなかった。何事もなく時が過ぎて欲しい、大丈夫であって欲しい、そんな願いから、心と反対の言葉を口にしていた。本当は心配で、大丈夫とは言い切れない。でも、そこから逃げることで楽になれた。

 娘は、あのお人形さんが来てから明らかに何かが変わってしまった。お人形さんには、何か秘密があるに違いない。ふと、正面のお人形さんに視線を移すと、三体が僕の方をじっと睨み付けていた。


「あなた? ミカはあの人形に呪われてるのかな?」

「気にしなくても大丈夫だって」

「でも、呪われた人形かもしれないし」

「ねえ、落ち着いて。大丈夫だから」

 唐揚げの油でべたつく指。唐揚げの油でべたつく指のように、べたべたと粘りつく胸のモヤモヤ。テーブルの隅の、左手でギリギリ届く位置に置かれた箱に手を伸ばす。萎れながらも立ち続けるティッシュを二枚引き抜き、指を擦り付けた。

 纏わり付く油の不快感をティッシュが全て吸い取ってゆく。ティッシュが届かない胸の奥のモヤモヤは、そっとしておくしかなかった。油の染み込んだティッシュは、クシャクシャに丸めて傍らに放置した。

 妻の奥にある動きのない光景が、ただただ僕の瞳をとろんとさせる。本来の娘ではない、無の感情を注入されたような姿を見続けていると、一瞬だけ可愛さが怖さに変わる瞬間があった。

 娘ではなく、娘の姿カタチをしたお人形さんだと、割り切って考えた方が楽でいられた。お人形さん達に囲まれている時の娘はお人形さん。お人形さんの海から解放された時の娘は僕の娘。そう考えればいい。それでいいんだ。

 いつもの娘は、可愛い笑顔を振り撒く。いつもの娘は、大声で泣きわめく。いつもの娘は、ほっぺたをパンパンに膨らませて怒る。いつもの娘は、元気に家中を走り回る。いつもの娘は、様々な感情を爆発させる。そして、目を疲れさせるほどに激しく動く。それでこそ娘なのに。今は全くそれが感じられなくなっていた。


「ミカに、人形ごっこを止めさせた方がいいんじゃない?」

「止めさせたら絶対に怒るし、少し様子を見てみようよ。ミカはお人形さんになるのが夢みたいだしさ」

「あなたの言ってることも分かるけど、コミュニケーションが減るし、このままじゃミカの未来が心配なの」

「もう少しだけ様子見てみようよ。ねっ?」

 口から出てきたのは、本音とは僅かにズレた言葉だった。娘の今の幸せが一番。でも、今すぐ止めさせたい気持ちも、ほぼ同じ位置にいた。ずっと話していたい。ずっと笑っていたい。ずっと一緒に遊んでいたい。そう、感じないわけがなかった。

 娘がお人形へと変わっていくのが辛い。このままでは、お人形さんに呑み込まれてしまうかもしれない。そんな本音も妻の前では口に出せなかった。

 虚しく匂う、唐揚げに纏わり付くニンニクの刺激ある香り。咀嚼を忘れて、舌でうずくまるコロッケの破片。丸みを帯びた背の低いグラス。

 僕は手のひらに、グラスの水滴と冷たさを押し当て、口へと運んだ。そして、不安と一緒にコロッケの破片を牛乳で流し込んだ。しかし、モヤモヤはほとんど流れなかった。

 娘の異変が僕と妻を変えた。娘の異変がきっかけとなり、妻との話が増えた。遠ざけていた妻を、娘が僕に近づけてくれた。でも、これは望んでいたものではない。こんな近づき方をしても、ちっとも嬉しくなんかない。娘の異変が無くなることが、僕の一番望むものだから。

 妻への愛が戻ったかというと、そうではない。心の距離が縮まったかというと、そうではない。僕も妻もずっと娘の方向しか見ていなかった。娘の話題でしか僕たちは繋がっていられなかった。

 魚の形をした陶器に、箸をきちんともたれさせた。正座で痺れた足の底を無理矢理、地面に接地させた。そして、何も言わず、僕はその場を去っていった。


 四角い焦げ茶色のお盆に乗せて、俯きながら食器を運ぶ妻。肉眼で確認出来る挙動を一切しない、お人形さんと化した娘。テレビから流れてくるCMの中の、微妙な距離感の父と娘。揺れるカーテンの隙間から覗かせる暗がりの葉。この場に、明るいものなんてほとんどなかった。

 風に揺れる水色のカーテン。妻が片付けているパステルカラーの食器。天井に張り付く、空飛ぶ円盤のような白い照明機器。この場に、目に見えない明るさなんて一つもなかった。

 音は、ほぼ妻の周りからしか聞こえて来ない。お盆をテーブルに置く音。食器を重ね合わせる音。足が入ったスリッパで、フローリングを叩く音。娘の名前をぶつぶつと呟く音。それらの音も、妻が娘を見つめている時だけは止んだ。

 妻との会話はどうしても、喧嘩中特有のたどたどしいものになってしまう。その会話も今は無い。娘のお陰で続いていた会話は長続きしなかった。色々と考えすぎて、僕は掛ける言葉を失っていた。妻は妻で、娘の心配をし過ぎて隙を見せてはくれない。決して妻に話し掛けられる状況ではなかった。

 前と全然違う。前は妻と二人きりでいても、エアコンの音さえ気にならなかった。それだけ、笑いも喋り声も絶え間なかったということだ。三人で仲良く公園で、笑いながらお弁当を食べたこともあった。

 あの日が懐かしい。あの日とはガラリと変わってしまった。あの日の痕跡は今はない。また、あの楽しかった日々に戻りたい。

 娘はいつもと変わらない。そんなことを考えていた。可愛いものが大好き。何かに集中すると他のものが見えなくなる。何か楽しいことを発見すると時間を忘れて熱中する。熱中している時以外は、飛び切りの笑顔や元気を振り撒く。今までの娘と何ら変わりはないように思えてきた。お人形になっている娘も、いつもの娘かもしれない。

 妻に似たのだろうか。妻も集中すると他のものが見えなくなる。妻と付き合いたての頃は、ひっきりなしにメールが来ていた。悩み出すと時間も忘れて悩み通してしまうのだ。

 娘が生まれた時も、娘だけに愛情を注ぎ続けていた。でも、今の妻の様子はいつもと違う。こんなに眉毛の下がった妻を見るのは初めてだった。こんなに肩を落とす妻を見るのも初めてだった。

 いつもと変わらない娘がここにはいる。なのに、それを見て、僕たち夫婦が勝手に乱されている。いつもと違うのは周りだけなのかもしれない。


 チャンネルを変えると、クイズ番組がテレビから流れ出した。僕はそっと音量を一つ上げる。司会席に白のスーツを着た俳優。そして、隣には赤いワンピースを着たアイドルがいて、愛想を周囲に投げ掛けていた。娘の大好きなクイズ番組。娘の大好きなアイドル。そして、娘の大好きが詰まった放送。しかし、娘はピクリとも動かなかった。

 独特な雰囲気を漂わせるドール三姉妹の横で、娘はお人形さんとして鎮座を続けている。細い身体と上がる眉毛の威圧感に、どうしても慣れない。心に訴えかける目力。脳に刷り込まれていく印象的な顔。それが三体も連ねられていたら、落ち着けるはずがない。威圧感が横に置かれているにも関わらず、全く動かない娘に、僕は心配の欠片ほどの誇らしさを感じてしまっていた。


「あなた? 本当にミカをこのままにしておく気?」

「うん。ミカは顔に出さないだけで、心ではお人形さんになることを楽しんでいるよ、きっと。心が笑顔ならそれでいいさ」

「そうかな?」

「ミカは熱中しやすいけど、ずっと飽きないわけがないから大丈夫だよ。それに、お人形さんになりきってないときは元気だしさ」

「うん、確かにそうだけど」

 ソファに身を預けている僕。お人形さんたちに身を預けている娘。その中間地点で、テーブルにくっつくように身を預け、こちらに顔を向ける妻。三人は同じようで、全く異なる方向に歩んでいるように思えた。

 テレビでは常識問題をナレーターが読み上げていた。しっとりとした低音で脳に響き渡る。そして、アイドルのおバカ解答にドッと笑い声が起こる。テレビの中で起こる笑いの渦が、僕たち家族に反映されることはなかった。僕の表情の緩みは、凛と張り詰める空気に制御されていた。

 難問クイズのコーナーに移り、ハテナがよりいっそう宙に浮かび出す。いつもは僕が答えられない問題に、娘がすぐ答える。考える暇も与えてくれないほど素早く。この番組の問題で快楽を得ていたというより、娘の痛快な解答で快楽を得ていた、と言った方が正しいかもしれない。だから、一人だけでテレビの方向を向いていても、心は常に重いものが括り付けられているような状態だった。

 小学生の娘には高校生並みの頭脳がある。その頭脳があるからこそ、あんなに可愛いお人形さんになりきれるのだろう。可愛い可愛い小学生の娘の中には、とんでもないものが潜んでいる。僕の手に負えない何かが潜んでいる。そんなことを感じさせる神秘性も漂わせながら、娘は今も一点を見つめていた。

 いつもならクイズに元気よく答える。いつもならクイズに楽しく回答し合う。いつもなら笑って飛び跳ねる。そして、悔しがって地面を叩いたりもする。でも、その姿はここにはなかった。

 大好きなものの集合体の音声が聞こえているはずなのに、娘はびくともしない。お人形さんに関する問題が流れ出しても、娘が反応することは一切なかった。


 妻は視界に入るテレビには目もくれずに、一点を見つめていた。赤くて丸くてビスケットのように平たいクッションに膝を押し付けながら。食事をするときもテレビを見るときも本を読むときも、妻は今と全く同じ場所にいる。そこが妻の定位置だからだ。

 今は食事の時とは逆の方向を向き、娘だけを見つめていた。動物園でパンダを見るときのように、じっと。

 妻は無心で娘を見つめているように見えた。動物園に閉園の時刻まで居座るような雰囲気を漂わせながら。妻と娘の距離はお互いの唾を呑み込む音さえ聞こえてしまうほど近かった。しかし、娘は妻を目の前にしても、動揺を身体に表さなかった。

 黒目は仁王立ちをし、足は床に張り付いているかのように動かない。妻がお人形さんに対して抱いている存在感と同じようなものを、お人形さんになりきっている娘も妻に抱いているような気がした。

 異様な光景に僕の心には波風が立つ。僕の気持ちが身体を伝い、黄緑色のソファも揺れ出した。この目には確かに娘と妻が映っている。姿カタチがここに存在している。

 娘には子供部屋はない。だから、何をするにもこのリビング。だから、ずっと娘の姿を見ることが出来ている。ずっと綺麗な二人を見ることが出来ているのだから、これでも幸せな方。そう思うしかなかった。家族はいなくなっていない。家族はここにいる。

 娘は今日、ご飯よりもお人形さんを選んだ。それはお人形さんに憧れている娘であれば、普通のことだということに気が付いた。

 娘が憧れてるお人形さんはご飯を食べない。ご飯を食べなくても、ここに存在し続けられる。娘はそれだけ、お人形さんのなりきりにストイックだということだ。

 人間が出来ることのほぼ全てを、お人形さんはすることが出来ない。だから、完璧にお人形さんになりきろうとする娘の未来が、心配で仕方がなかった。

 脳内にいる未来の娘からの揺らぎが、さらに僕の心の揺さぶりを強くしていた。網戸には蛾が張り付く。そして、カーテンは僕の動揺のようにガサガサと揺れ動いていた。






 娘が口に運ぶ料理の量は一向に増えない。箸と箸の間に乗る米粒の量は、一桁の時もざらにあった。喋る回数は減り、咀嚼する回数の下降にも、歯止めは掛からなかった。

 娘は将来、自力で口を動かすことが出来ない身体になってしまうかもしれない。近い将来、心も身体もお人形さんそのものになってしまうかもしれない。そういう心配は尽きなかった。顎の筋肉が衰え、身体がやせ細ってしまうかもしれないという不安が、絶えず頭の中を駆け巡っていた。

 好きなロックバンドのボーカルが、テレビの中でスタンドマイクを両手で抱え込むようにしながら熱唱していた。ドラムのシンバルの音や、ベースの重低音が心臓に響く。ボーカルの刺々しい金色の短髪や衣装が目に突き刺さる。そして、ボーカルの高音の滑らかな歌声が、心を撫でてゆく。

 聞き入っていると、僕の視界の左端の方に妻が無言で現れた。その静かな佇まいが、余計に存在感を沸き立たせていた。妻はテレビのロックスターにもソファの僕にも視線を置かず、今日も娘の前の席を陣取る。膝を娘に向けて座ると、見えていた赤いクッションは、一瞬で影を潜めた。テレビと現実の間には膨大な差が生じていると改めて感じた。

 妻は落ち着いているように見えるが、手には水分と微量の泡が乗っかってしまっている。洗剤の、鼻の奥を適度に刺激するような香りが、離れた場所にいる僕にも届いてしまう気さえした。

 娘はいつ見てもお人形さん。良いか悪いかは別にして、娘は本物のお人形さんよりも、お人形さんという言葉が似合っていた。置物よりも置物らしく、人間らしさも必要最低限ではあるが感じさせてくれた。娘ひとりだけ、時間が止められた空間に存在していると、考えてしまうことさえもある。

 そんな娘に普通の生活に戻って欲しいのは夫婦共通の願いだ。妻は、娘にお人形さんをやめさせたくて仕方がないという気持ちが強すぎて、前のめりで熱い視線を娘に向かって放出していた。


「ミカ、ママと遊ぼうか?」

「ねえ、ママとお絵描きしようよ」

「ミカは何して遊びたい?」

「トランプは、ミカ?」

「ねえ、ミカ遊ぼうよ」

「ママ、話し掛けないで。私、お人形さんやってるから」

「今日はこれくらいにして遊ぼうよ、ミカ」

「ねえ、ミカ」

「ミカ、お願い」

「ミカってば」

「ミカ」

「うるさい!黙ってよ、ママ」

 ついに娘に反抗心が芽生えてしまった。お人形さんには決して芽生えることのない苛立ちが。お人形さんから抜け出せば娘は感情的になる。しつこくしなければ、お人形さんから人間に簡単には戻ってくれない。

 着実に娘はお人形さんへの道を突き進んでいた。簡単には、普通の小学生としての道に戻れないかもしれない、という感情が僕の中から噴き出してゆく。

 娘に背を向け、こちらを向いた妻の目からは涙が溢れていた。頬を雫が伝い、上半身を預けているテーブルの上には水溜まりが出来ていた。

 赤と黒のまだら模様の上に広がる小さな水溜まりに、光が反射してキラキラと輝く。腕に乗り掛かるクシャッとした泣き顔は、ほとんど音を発していなかった。それが余計に不安を誘い出す。

 妻はロングスカートの右ポケットからおもむろにハンカチを取り出すと、頬に当てた。女性らしくない、シワが無数に見受けられるハンカチに、僕の微笑みの欠片は見え隠れする。邪念のない、淡い無地のハンカチが、涙を吸い取ってゆく。その間も、娘は平然と、お人形さんとしての業務に勤しんでいた。


 妻の精神状態も、母親としての立場も、元の道に戻るのは難しいだろう。心配ごとはことあるごとに増え、決して減ることはなかった。娘の本当の気持ちなんて分からない。でも、妻も娘も僕も、それぞれ違う道を歩んでいるということだけは、確実に分かっていた。

 ひとつになっているように見えて、前から不安定だったのかもしれない。ひとつのきっかけで急激にバタバタと崩れていった。完成間近のトランプで作ったタワーに風が吹き、倒れてしまったかのように。娘が元に戻る日も、僕と妻が同じ道を歩く日も、近くはないことだけは確かだ。

 ずっと同じ顔で固まる娘と、ずっと泣き顔で萎れる妻が、同じ視界の中に存在している。その中に怒り、哀しみ、優しさなどは含まれているものの、幸せはほとんど伝わって来なかった。

 耐えられなくなった身体は、首を右方向へと誘導してきた。テレビに目を移しても、場違いなCMのセクシーなシーンが執り行われているだけ。拠り所は、この場所にひとつも存在しなかった。

 テレビと現実のミスマッチな取り合わせに、心臓でノイズが暴れ出した。緊迫と平和が目をざらざらとさせる。いくら待っても状況は良くならない。待っても家庭は乱れるばかりだった。

 どこにでもいるような普通の家族に戻りたい。そのためには何か方法を考えなくてはならない。そんな方法がこの世に存在するのなら、とっくに思い付いているはずだ。そんな方法があったらとっくに試しているはずだ。暗闇は一層暗さを増していった。

 考えている間にも、娘はどんどんお人形さんに染まりゆく。時間が経過すればするほど、娘はお人形さんの成分を蓄えてしまう。グリーンの髪の毛をしたお人形さん。明るい色の着物を着たお人形さん。異国感のあるドール。不気味さや異様な雰囲気は、どのお人形さんも一級品だ。

 動き出してしまいそうなほど、壮大なパワーも感じる。しかし、不気味さでは、娘も周りのお人形さんたちを凌ぐまでに変貌を遂げていた。


 改めて娘をじっと見つめてみた。右手に持ったハンカチを目に押し当てながら、呼吸を整える妻の後ろ姿と共に。哀愁を帯びた不安定な背中だが、視線はしっかりと娘を捉えているのが想像出来た。真ん丸の目、シュッと長いまつ毛、美しくそびえる鼻。そして、ツルツルの肌にサラサラの髪の毛。

 全てが整っている娘の顔。だが、それがかえって不気味さを増幅させる。娘を見ることさえも辛くなっていた。自らの娘に不気味なんて言葉を使ってはいけないのかもしれない。でも、可愛さの後ろに不気味さが迫ってきていることに、目を瞑ることがどうしても出来なかった。

 壁に染み込んだ、焦げた魚の臭いが部屋を煙らせる。リモコンの縦に二つ連なるボタンの下の方を連打すると、声を張り上げていた芸人の声は囁きに変わっていった。

 静けさを持続しかけていた空気に、遠くの方から救急車のサイレンが入り込み、場が揺れる。救急車のサイレンは救いようのない僕たち家族を置いて、あっという間に通り過ぎていった。

 魚の焦げた味が、娘への心配と共にしつこく口の中に残る。その後も、僕は娘の顔を長い間見つめた。娘の顔をずっと眺めていると、あることに気付いてしまった。


 娘の目がほとんど閉じていない。まばたきをほとんどしていない。瞼は娘の視界を邪魔しないで大人しくしていた。瞼が娘のお人形さんになる夢を応援しているかのように。娘の瞳には流れ出すほどの水分はない。瞳は常に露出しているにも関わらず、充血している様子もない。赤くない白目が、逆に寒気をそそってきた。

 今までどれだけ家族のことを見ていなかったかが分かった気がする。僕は妻だけではなく娘とも真剣に向き合っていなかった。娘の変化を汲み取ろうとしていなかった。

 娘の顔に苦しそうな表情はない。きっと、幸せなのだろう。きっと、これが幸せなのだろう。まばたきを制御することを意識しているのか、いないのかは分からない。だが、何かに操られていると考えただけで身体が震えた。

 まばたきを無くし、お人形さんに染まりゆく娘を、心の中心で捉えたくはない。今になっても信じたくない自分がいた。自分の瞳への疑いまで溢れ出し、僕のまばたきも少なくなってゆく。まばたきの数と比例して、呼吸も少なくなってゆく。娘のように、涼しい顔で動きを表さずにキープし続けることなど、無理に等しかった。

 目には苦しみに似た刺激が走った。目からは悲しみに似たしずくが流れた。時が止まったかのような娘を見つめる僕の時間は進んでいく。この世界は笑っていても泣いていても、熟考していても、ボーってしていても流れていってしまう。

 娘をじっと見つめ続ける妻の首の後ろに、ネックレスのチェーンらしきものが光る。こちらに顔を暫く向けていない妻の悲しさは、顔を見なくても察知が出来た。

 ネックレスのチェーンのように光る涙を流し続けていることも、その悲しみの成分の一部を僕が作り出していたことも明らかだった。あのネックレスをいつからしていたかは分からない。全く見覚えはない。だから、僕があげたものではない。僕はプレゼントというものを、今までに数えられるほどしかして来なかったのだから。


 家族の変化に気付けたことは良かった。でも、どれだけ今まで家族に無関心だったのかが浮き彫りになってしまった。そもそも気付いてあげられることが当たり前なのだから。

 いいパパを演じていたつもりだった。でも、なりきれていなかった。いいパパの像さえ、ぼやけてしまっていた。パパを演じるなんて考えては駄目だ。演じると考えている時点で父親失格だ。

 娘以上に、妻を今までよく見てあげられていなかったのかもしれない。妻や娘ともっと真剣に向き合いたい。正面から見た娘の顔と、妻の後頭部をじっと見ていたら、手のひらに収まるほどの幸せが込み上げてきた。

 一緒の空間にいる。一緒のひとつの屋根の下にいる。ひとつの視界に幸せが二人も存在する。そう考えただけで自然と口角が上がっていた。

 幸せの世界から一旦抜け出し、部屋の角に視線を移すと、幸せそうな親子が画面で微笑んでいた。テレビに映る、バスを乗り継ぎながら旅する番組に、三人の行く末をじっくりと重ね合わせた。


「なあ、ミサキ?」

「何? どうしたの、あなた」

「テレビ見てみてよ」

「うん。綺麗なところね」

「あのさ、最近一緒にこういう場所に出掛けたりしてないよな」

「そうだね。久し振りに行きたいね」

「よしっ、今週の日曜日行くか。その日は予定何もないし」

「うん、ミカもきっと喜ぶわよ。今は全然話しかけられる状況ではないけど」

「ミサキはどこがいい?」

「うーん、どこがいいかな。ねえ、そういえば名前呼んでくれたの久し振りじゃない?」

「そうだっけ」

 妻がずっと見せてくれなかった笑顔を取り戻した。悲しさが少しだけ吹き飛んだ顔を、こちらに向けてくれた。久し振りに綺麗な顔を見た気がする。

 楽しいことを考えれば楽しくなる。前向きなことを考えれば前を向ける。だから、楽しいことを考えて、前向きなことばかり考えてさえいれば、少しは前に進めるのだと感じた。


「ネックレス綺麗だね」

「ありがとう」

「そのネックレス、誰かに貰ったのか?」

「うん、ミカにね。少し前の記念日でも何でもない日にくれたの」

「そうだったのか」

「あなたとはあまり喋ってなかったから知らないわよね」

「うん」

「100円くらいの安いオモチャのネックレスなんだけど、その何十倍も何百倍も価値があるわ」

「そうだな」

「それで、今週の日曜日は? どこにしようか?」

「どうしようか?」

 娘の話をしていても、お出掛けの話をしていても、娘はこちらに近寄って来ない。妻とお出掛けの話をしながら娘が乗ってくるのを待っているが、反応はない。だが、娘はこのあと必ず入ってくるはずだ。

 娘は相変わらず、どこのパーツも動いていない。目も口も手も足も背景も、静止画を壁に嵌め込んだかのように全く動かない状態。妻や僕が壊れてしまっても可笑しくない現状が、リビングでは作り出されていた。娘の表情は全然動かないが、妻の頬が動いたからそれでいい。

 気のせいかもしれないが少し前と比べて、娘の隠れていた耳がほんの少しだけ顔を出したように思えた。


「私よりもミカが喜ぶ場所がいいわよね?」

「そうだね。やっぱり遊園地とか動物園とかかな」

「ほら、前に遊園地に行ったときメリーゴーランドしか乗らなかったじゃない?」

「あっ、そうだった。ずっとゲームセンターとかお土産屋さんにいたよね」

「やっぱり、女の子って可愛いものが好きなのよね」

「フフッ」

「あなた、どうかした?」

「ミサキが久し振りに笑ったから、嬉しくなっただけだよ」

「そう」

「あそこはどうだ? お人形さんが沢山いる夢の国」

「うん。そこならミカも喜ぶかも」

「ミカそこ行きたい!」

「おっ、そうか!」

 なりきっている最中の娘は、耳を遮断していたはずなのに、大きな声で僕たちの会話に飛び込んできた。僕が夢の国へ向かうことを決める宣言をすると、今度は娘の小さなカラダが僕の胸に飛び込んできた。優しさのある弾けた笑顔を携えながら。


 僕にとってこの光景は、あまり実感の湧かないもの。嬉しさは爆発しているのに、視界はずっとふわふわしていた。心もカラダもどこか宙に浮いているような感覚があった。まさに夢のようだ。僕は夢の国をすでに訪れているような気分に浸かっていた。飛び込んできた娘を、ずっと抱き締めていた。胸と腕で包み込んだ娘は、とても暖かい。

 ジワッとくる体温を感じた。娘の頬の柔らかさを胸で感じた。しっかりとした娘の握力を首筋に感じた。娘が人間としてこの世に生きている実感を心に感じた。娘とする夢の国についての会話は、幸せに包まれていた。

 妻の笑顔は、ここ最近で一番飛び抜けていた。妻の手や足は静寂を保っていて、顔の動きもやや控えめ。しかし、妻の心が激しく踊り、高揚していることは明らかだった。妻は僕以上に喜びを感じている。そして、僕以上に夢の国行きを心待ちにしていることだろう。

 娘は大勢のお人形さんに会えることに喜び、僕や妻は娘と共に出掛けることに喜ぶ。喜びの種類は違えど、共に幸福を得たことに変わりはなかった。


 娘がお人形さんに侵食されてしまう心配なんて吹き飛んだ。今は幸福を噛み締めるしかない。テレビからは楽しそうな笑顔と笑い声が流れて来ていた。

 やっとテレビに部屋の中の空気が追い付いた気がした。やっと僕たち家族の幸せ水準が、平均に追い付いた気がした。強張っていた家族三人の頬の筋肉は、急な変化に驚いていることだろう。いつもの何倍も働かされているのだから。

 お人形さんになりきる娘はお人形さんに弱い。娘の中のお人形さんは、お人形さんでしか越えられない。娘の喜びは尽きず、奇声に近い高音を部屋中に放ち続けていた。

 部屋にある全てのものが、明るく見える。ドタドタという足音や、着地音も頻りに聞こえてくる。笑って叫んで飛び跳ねて、走り回る娘の変化を改めて、まじまじと見つめていた。

 娘の眉毛は上を向いていた。お人形さんには不可能な、人間らしい笑顔を見せていた。そして娘にしか出来ない複雑な手の動きで、喜びを表現していた。

 お人形さんのような整いすぎたパーツを除けば、少し元気な普通の女の子にしか見えない。家庭を掻き回してきた娘。その娘が今は、走り回りながら良い方へ良い方へと、空気を掻き回していた。


「ゆめの国! ゆめの国! ゆめの国!」

「相当、嬉しいみたいね」

「うん。本当に久し振りだからな、出掛けるのが」

「私もあなたとミカと出掛けられて、本当に嬉しいよ」

「僕も嬉しいよ」

「もう、ここが夢の国みたい」

「そうだな」

 フサフサッとしたクマさんの周りを娘はウロウロしていた。クマさんの横に座ってみたり、クマさんの後ろに隠れてみたり、クマさんの足の上にもたれ掛かってみたり。仕舞いにはクマさんの足の上でスヤスヤと眠ってしまった。


「わぁ、カワイイ」

 娘はもごもごとした声で寝言を漏らしていた。小さい口の動きと、小さな音量ではあったが、確かにそう聞こえてきた。どうやら、夢の国の夢を見ているらしい。

 夢の国が娘にとってどんな存在なのか、お人形さんたちが溢れる世界が娘にとってどんな存在なのか、それらが手に取るように伝わってくる。

 僕は娘の小さな身体を包み込み、優しく抱き抱えた。腕は以前に抱いた時よりも、さらに大きな悲鳴を上げる。踏ん張る両方の足も、僅かによろめいていた。ひとりの人類としてのズッシリ感が身体にはのし掛かっていた。

 娘がどんどん大きくなり、また大人へと近づいていることを実感する。聞こえてくる寝息が、娘を娘に戻してくれた気がした。

 傍らで嬉しそうに微笑む妻にも、人間らしさが戻っていた。二階へ続く階段を、娘を抱えながら一気に駆け上がる。久方振りに足を踏み入れる部屋に、一瞬だけ躊躇いながらも、奥へと進んだ。娘は腕の中でスヤスヤと気持ち良さそうに眠っていた。僕はフカフカの布団の上に、そっと娘を預けた。

 寝ている時が一番いい顔をしている。寝ているときの顔が一番幸せそうだ。お人形さんの横でじっとしている時よりも何よりも、今が一番幸せそうだ。僕も妻も、今日はぐっすりと眠れそうな気がする。この平穏な時間が夢であるならば、覚めてほしくない。






「いただきます」

「いただきます」

「ミカ、本当にそれだけでいいの?」

「うん。ミカちゃんはこれだけでもお腹すかないもん」

 朝の光は、ザラザラとした曇りガラスを突き破り、リビングを明るく照らし出す。地べたで胡座をかきながら箸を進めてゆく。妻の元気も、娘の食欲も相変わらずだった。

 四つに区切られた白いプレートには、空白が目立つほどの量しか盛られていない。いつものことだが、それをいつものことだと判断してしまう自分が少し嫌だった。

 娘は5分も掛からずに食べ終えると、いつもの位置についた。そして、いつものようにお人形さんを始めた。そこにワンッワンッという鳴き声が響く。耳をピッと立たせ、シッポを小気味良く左右に振って近づいてきた。

 無邪気に走り回る隣人の愛犬のココロは、娘よりも元気が溢れていた。隣人が家を離れる僅かな間だけ、ココロは僕の家の住人になる。預かることを伝えたときの娘は、夢の国行きが決まったときと同じような笑顔を振り撒いていた。

 しかし、ココロは娘の斜め上を行くヤンチャさで、場を荒らそうとする。ココロはドール三姉妹に近づいていった。そして、右手を腰、左手を頭の後ろに回したドール三姉妹の姉に、ココロは鼻を付けてクンクンと頻りに動かし始めた。

 普段なら特に何も思わないかもしれない。普段なら普通に見守っているかもしれない。でも、今は心臓が波打つように揺れ動き、気が気ではなかった。全ての動揺はお人形さんに関係しているのだ。

 お人形さんには危害を加えてはならない。お人形さんに失礼なことをしてはならない。もしもそのようなことをしてしまった場合、災難が家族に降りかかる。そんな想いで頭はパンパンになり、今にも破裂してしまいそうだった。

 不気味なお人形さんに何か仕出かしてしまうと、何かが起きる。今でも不協和音が鳴り響いているのに、これ以上の災難はいらない。そういうような考えが脳内を巡り、僕は声を轟かせようとココロに近づいていった。


「ココロ、おとなしくしなさい!」

 僕の喉元に溜まっている声を抑えるように、娘の可愛い声が響き渡る。なりきっていた娘が急に声を発した。娘は、なりきることも忘れてお人形さんをくわえようとするココロを注意した。

 なりきっているときの娘が、こんなに簡単に現実の世界に帰還することなど滅多にない。いくらお人形さんのことであっても、いつもはびくともしないのだから。

 動くことや喋ることなんて、僕達からしたら普通のことだ。でも、娘のそれに関しては、とても喜ばしい出来事に数えられるのである。

 娘の無邪気な顔を見つめていた。娘の怒ったり笑ったりする顔を、優しく見つめていた。すると、ある部分が目を通って体内に入り、僕の呼吸を苦しくさせた。

 なりきっている時に、まばたきをしていないことは、なんとか我慢出来る。でも、なりきりから一旦降りたはずの娘が、一切まばたきをしていないことに耐えることが出来なかった。


 ココロは歩を進め、お人形さんから徐々に遠ざかってゆく。僕の心は通常運転に戻るまでは行かなかったが、落ち着きは確認することが出来るようになっていた。

 ココロの爪がフローリングに当たる音がカシャカシャと鳴る。ココロの地を這うような声が静かに響く。ココロは心なしか、いつもより優しい顔をしているように思えた。

 昔からココロと娘は仲が良かった。家の中でじゃれ合ったり、追いかけっこをしたり。近くの公園で一緒にボール遊びをしたり。今はお人形さんに夢中な娘だが、昔は同じ熱量で犬のココロを全力で可愛がっていた。お人形さんと同じくらい熱中していた。

 ココロと娘には深い絆がある。ココロと娘は真の糸で繋がっている。だから娘はお人形さんの世界から現実の世界へと、すぐに戻って来れたのだろう。

 駆け寄ってくる娘に向かってシッポを振り、ピョンピョンと跳び跳ねるココロが目を綻ばせた。妻の顔にも笑顔の花がぽつりぽつりと咲いていた。もしかしたら、ココロも娘がお人形さんに呑み込まれていることに感付いているのかもしれない。

 ココロには娘の救世主としての役目を託したくなった。きっとココロはお人形さんたちに害を加えたりしない。妻、娘、ペット、僕は笑って過ごしている。こんな当たり前のことに理想の家庭を重ねてしまっていた。

 テレビと僕の間を引き裂くようにココロが右から左に突っ切る。隣では久し振りに娘が、僕と同じ方向を見て座っている。

 隣で普通にしているだけでどれだけ嬉しいか。一緒にテレビを見て笑っていられる時間がどれだけ尊いか。娘を妻と挟みながらソファに座り、肌に触れ合いながら過ごすことがどれだけ幸せか。それらの事柄が心身にジワジワと染みてきた。

 お人形さんに忍び寄る影。お人形さんにそっと近づく爪の音。テレビの豆知識よりも、娘の笑い声よりも、妻の控えめなくしゃみよりも、ココロの行き先が気になっていた。

 ココロはお人形さんの海へとグイグイ入ってゆく。きっと空気を読んでお人形さんたちをくわえることも、危害を加えることもない。そう信じていた。娘もそれを注意することなく、タコのようにぐにゃぐにゃな体勢になりながらテレビに齧りついていた。


 部屋の中心にあるテーブルの周りに戻ったココロは、穏やかに大人しく足を動かしていた。ゆったりと優雅に、空気を掻き回さない程度に。

 僕の口は眠気によって大きく開かれ、重低音を響かせる。リラックスが僕の口をカバにさせた。暖かい空気に本来、元からあるはずの暖かみが、やっとここに加わったような感覚だった。

 突然、進行方向を変えたココロは、お人形さんしか見えていないかのように、ズカズカと歩を進る。そして、あの決して大きいとは言えないカラダに付いている小さな口で、娘と同サイズのクマさんをくわえて逃げていった。

 暑さゆえに解放されていたリビングとキッチンの間の扉の隙間を通って、どんどん奥へ奥へと進んでいく。隣人の愛犬のココロが未来の幸せまでくわえ、奥へ奥へと運んでいる気さえした。カシャッカシャッという、フローリングと爪とがぶつかり擦れる音が、より鮮明に聞こえ出す。

 娘よりも先に、軽めではあるが叫んでいる自分がいた。娘よりも目が泳いでいる自分がいた。娘は何が起こったのか状況が把握出来ていないのか、オドオドしているだけだった。

 妻はもうすでに明後日の方向を向いていた。娘は黒目がようやく定まり、そのまま一直線にドスンドスンと音をたてながら、キッチンへと向かっていく。

 リビング側の扉から、巨大なクマのぬいぐるみが独りでに浮遊しているかのような光景が、チラチラと見えた。

 クマさんの下の方に視線を移動すると涼しい顔のココロが目に映る。まるで小兵力士が200kgを越える力士を背負うような感じで。ココロはクマさんをくわえながら再びリビングに戻ってきたが、疲れている気配は全然しなかった。

 飛び抜けて大きな音が存在しなかった空間に、娘の叫び声がココロを追いかけるように飛び、そして響き渡る。祟り、呪い、不幸せ、という言葉が僕の脳裏を伝ってゆく。

 ココロという優しさ溢れる名前を娘が叫んでも、ココロはウォーミングアップの如く身体を動かし続けている。どこか楽しんでいるようにも聞こえる娘の絶叫は、テレビから流れる野球の蘊蓄をも遮るほどだった。

 お人形さんへの刺激は僕への刺激。ココロは戯れ合っているつもりだろうけど、娘の顔も僕の心も、ちっとも笑ってなどいなかった。あれほど耳に染み込んでいたテレビの蘊蓄たちが、今はもうどうでもよくなっている。またひとつ肩の荷が増えた。明日の娘に悪い変化が起きていなければいいのだが。






 あれから、これといった悪い変化も良い変化も起こらないまま、テーマパーク内という未来へ歩を進めていた。

 地面には長方形の物体が敷き詰められている。辺りには植物が溢れ、森の中のように木がワサワサと生い茂る街並みが広がっている。そして、城というよりキャッスルと呼ぶ方が相応しい建物が、多数存在していた。

 そんな異国のような神聖な空間により、娘の笑顔が映え、笑い声が響いていた。僕の心の奥底が、他のお客さんに見透かされていないのであれば、僕たち三人は普通の幸せそうな家族として、大勢の目に映っていることだろう。

 妻とはまだ仲直りをした訳ではないので、空気は完全に元には戻っていない。夢の国だというのに、時折、現実が溢れ出す。だが、夢の国だけあって柔らかな雰囲気はひしひしと感じる。ほっぺをつねったらベッドの上で目を覚ますのではないか、そんな他愛もないことばかり考えていた。

「ミカがすごく楽しそうで良かったね」

「うん、そうだな。来て本当に良かったよ」

「人形と楽しそうに触れ合ってて安心した。でも、ミカ全然まばたきしてないわよね」

「うん。そうかもな」

「それが、どうも喉の奥につかえてて」

「気にするな。今は楽しむことだけを考えよう」

「でも、どんどんミカがおかしくなってきてる気がして」

「夢の国なんだから、そういうことは忘れて」

「でも、明らかにおかしいもん」

「おかしくなってるのはお前の方だよ。ミカは何も変わってない。ミカは何も変わってないんだ、何にも」

 妻との険悪は、落とそうとしても落ちない油汚れのように、常に僕たちに纏わり付く。妻との会話の種はほとんど娘のこと。妻の笑いの種もほとんど娘のこと。妻の悲しみの種もまた娘のこと。そして、喧嘩の原因もまた娘のことだった。娘の異変をきっかけに妻との話は格段に増えた。しかし、どんなものよりも、蟠りの方が遥かに多く感じた。


「パパ遅いよ。ママも早く早く」

「あっ、ごめんごめん」

「広いんだから時間なくなるよ」

「ミカ、楽しい?」

「すごく楽しいよ。ママは?」

「ママもすっごく楽しいよ」

「あっ、今度はリスのお人形さんがいるよ」

「ちょっとミカ、走らないの!」

「パパもママも全然楽しそうに見えないんだけど。夢の国なんだからもっと楽しもうよ」

 リスを人間に近づけたような顔立ち、黒い鼻先、メタボな体型、ピンクのスーツに身を包んだ姿等が目に映った。僕にとっては心をそそる程のものでもない。決して可愛いとは言えない。だが、娘の顔は綻んでいた。

 外で、これほどにまで積極性のある娘を見るのは初めてかもしれない。相手がお人形さんならば、娘は素直に心を許すことが出来るのだろう。


「ハグしてもいい?」

「いいんじゃないか」

「リスさん、ぎゅっ」

「よかったな、ミカ」

「うん。すごくカワイイ。ねえ、写真撮ろうよ」

「そうだな。撮ろう」

 僕は押入れに埋もれていた小さなデジタルカメラを、この日のために、日の当たる場所へと晒した。ホコリを払い、タオルで丁寧に磨き、今日に備えてきたのだ。デジタルカメラに積もったホコリの量が、僕たち家族が幸せから遠ざかっていた日々を物語っていた。

 このデジタルカメラをどれくらい使っていなかったのだろう。どれだけ娘の笑顔を撮ってあげていなかったのだろう。娘とカメラのフィルターを通して向き合うのは久し振りだった。娘以上にカメラ越しの妻はいい顔をしていた。

 幸福感とは裏腹に、ボタンを押す指はスムーズに動かない。娘がこれ以上の微笑みを表面上に出さなくなった場面を思い浮かべてしまった。そんな場面に遭遇したとき、写真に映った満面の笑みの娘を見るだけで哀しみに覆われてしまうだろう。今の娘の笑顔が強ければ強いほど、哀しみも強くなってしまうのだろう。

 そんなことを考えている時点で僕の負け。そう思っていたら、スッと指に力が戻り、素直に指でボタンを捉えることが出来た。最近で一番の娘の自然な表情をカメラで切り取ることが出来た。妻も綺麗に収まっていた。

 シャッターを切る瞬間、僕の瞳に光るものが見え隠れした。でも、二人と僕の瞳の間にカメラを上手く差し込み、なんとか耐え忍んだ。

 目に見えている夢の国の情報を素直に口に出しながら、娘は笑顔で未来へと突っ走っていた。よく喋り、よく笑い、よく走る。今の娘は、お人形さんと似ても似つかない。

 お菓子を売っているワゴンの横を、何事もなかったように走り抜けてゆく。ポップコーンの香ばしい香りを、惜しげもなく撒き散らすスタッフには目もくれない。香ばしい香りに誘われることなく、空腹感に囚われることなく、娘は夢の国を優雅に駆け抜けていった。


 人間らしくなる娘を妨げるお人形さん達は、ここにはいない。だから、きっと大丈夫なはず。そう思うようにしていた。ここは平和に満ち溢れている。ここは夢がパンパンに詰まっている。きっと、この国に不幸せなんてない。不幸せが存在出来ない世界である。僕はそう信じていた。

 人間が入った大きなお人形さんがチラホラいる世界。あちらこちらでお人形さんを抱く子供達とすれ違う。この中に娘の敵は誰もいない。きっとリビングにいるお人形さんのどれかが、娘を仲間に引き摺り込もうとしている。だから、ここは味方しかいない。

 子供達を包み込みながらポーズを決める大きなお人形さんも、子供達に包み込まれるように抱かれている小さなお人形も、家にいるどのお人形さんよりも柔らかい印象だった。

 口を大きく開けて、安らぎの欠片を吸い込む。そして、全身を安らぎの僅かな成分でひたひたにする。それから、勢いよく負を吐き出す。この国は何でも浄化してくれるような気がして、安心感に少しだけもたれ掛かってみた。ほんの少しだけ。

 お人形さんを撫でながら、両親と一緒に夢の国を歩んでいる、僕の娘に似た女の子も目に入る。やはり少女はお人形さんに甘美な魅力を感じるのだろう。頭の中では、お人形さんに変わりつつある娘の姿が未だに邪魔をし続けていた。

 そんな重大なこと、たとえ夢の国だとしても忘れ去るなんて不可能だ。僕は少しずつ少しずつ、ゆっくりとゆっくりと、楽しむモードに近づけていった。


「ミカ、そのピンクのバッグ可愛いな」

「でしょ。これカミーラのオウチなの」

「えっ、カミーラちゃんって、お人形さん?」

「そう。一番はじめにウチにきた子なの」

「あっ。ママが一番初めにプレゼントした子よね。懐かしいわ」

 娘はピンクの可愛らしいバッグから、そっと何かを取り出す。中からは、バッグと同系色のお洋服を着た、細身のお人形さんが姿を現した。

 手のひらサイズのお人形さん。スラッとしていてスタイルのいいお人形さん。アメリカ美女と呼ぶべき、美しさ溢れるお人形さん。それは、僕が生まれる前にもうすでに世界中で流行っていた、あのお人形さんにとても似ていた。

 妻はそれを懐かしいと言う。娘はそれをまるでわが子のように、スリスリと頬に擦りつけていた。僕はというと、それを今までに一度も見たことがなかった。見た覚えがない。今日初めて見た。

 アメリカ美女のカミーラをピンクのバッグにいれて持ち歩く娘。普通なら微笑ましい光景だ。しかし、僕たち夫婦にとっては気掛かりの塊だった。娘が人形化している最大の原因と思われる、部屋の中にいるお人形さん。そのお人形さんが今、ここに存在しているのだから。

 せっかく夢の国に来たので、楽しみたい。でも、お人形さん特有の状態が娘の身に乗り移ってしまったら。現実から逃げてきたようなものなのに、ここでも現実が押し寄せてきてしまったら。僕はもうどうしたらいいか分からない。何も起こらないことを祈りながら、笑顔で歩を進めた。


「カミーラはね、ずっと暗いところでお眠りしていたの」

「そうか。だからあまり見たことがなかったんだね」

「うん。ずっとずっとこのバッグのなかだけで生活していたからね」

「大好きなんだね、ミカはこのお人形さんのことが」

「そうだよ。ほんとうに大切なお人形さんなの。だから、どうしても夢の国に連れてきたくて」

 娘の腕に優しく抱えられたお人形さんを、まじまじと見つめた。金髪がこの国の街並みに映える。細いカラダがこの国で存在感を抜群に放つ。ピンク色のバッグという名のお城で金色の髪がより光り輝く。ピンク色も金色も、娘のワンピースの赤色も、この国では絶妙に馴染んでいた。

 カミーラというお人形さんからは、負の要素はほぼ感じない。ずっとピンクのバッグに入れられていたと感じさせるものは表面から、何も滲み出ていなかった。苦しい顔をすることなく。不自然な微笑みをすることなく。ナチュラルな微笑みを周囲に振り撒くだけだった。

 ずっと閉じ込められていた腹いせから、娘をお人形さんの世界へ引きずり込もうとしているのではないか。娘をお人形さんに近づけることで、お人形さんの気持ちを考えさせ、自らの存在を思い出させようとしたのではないか。そのような考えが脳内にドバドバと降ってきた。色々考えを巡らせたが、カミーラの表情を見る限りでは、全くそれらが当てはまらない。

 その時、僕はあることを思った。娘よりも僕の方が、お人形さんの世界へ引きずり込まれているのではないかと。


「ミカ。次はどこ行きたい?」

「ミカね、プリンセスドールクルーズに乗りたいの」

「じゃあ、行こうか。楽しみだな」

「やった。ママもそれに乗りたかったの」

「方向はこっちでいいんだよね」

 妻が普通の母として娘の傍らにいる。お人形さんにコントロールされている娘の如く、夢の国によって妻の表情から不安がなくなっている気がした。妻の心も読み取れない。夢の国の楽しい部分と恐ろしい部分が、交互に押し寄せてきていた。

 目当てのアトラクションの建物はメルヘン一色。外観から内装に至るまでほぼ優しいピンク色で、目は宥められた。羽の生えた妖精のような店員に導かれるがまま、頭上を気にしながら低い体勢で乗り込んだ。目の前に何の障害物もない特等席に、娘の声も一層響きを深めていった。


 ピンク色を中心とした花があしらわれた船体。周りは沢山のテディベアやお姫様のお人形で彩られている。お花畑や浜辺、人魚姫や妖精、小人などなど、ここにはお人形さんの世界観が壮大に繰り広げられていた。娘だけでなく、僕ら世代にも通ずるような何かが、存在している感覚がある。心惹かれる何かが、ここにはある気がした。

 お人形さんがズラズラと整列している光景は家のリビングを彷彿とさせた。ここに僕がある限り、思い出すことからは逃げ出せない。悪夢を思い出さずにいることなんて不可能に近い。夢の国にも悪夢は溢れる。悪夢も歴とした夢。だからこんな優しい国でも少なからず、悪夢はうろうろしている。

 妻は現実から逃げるように時折、下を向いていた。カラフルさ、淡さ、優しさ、可愛さ。表面だけを見れば和やかになれる。でも、今の僕と妻に纏わり付いている不幸せの破片が、いつでも僕らを呑み込もうとする。妻は顔を上げ、決意を決めたように前を見つめるとすぐに、ぎこちない笑顔を取り戻していった。

 娘の顔に花が咲く。満面の桜が柔らかく溢れ出した。花の芳醇な香りが身体中を包み込む。周りの子供たちが、この世に存在を疑われるかのような奇抜な高音を、放り投げるように響かせる。そして、天を突き抜けるような不協和音が飛び交った。異様という言葉以外では表せないくらいの空気が、ここには漂っていた。


「楽しかった。あとで、もう一回乗ろうよ」

「そうだな。でも他にもアトラクションは沢山あるみたいだからね」

「一番人気だし、もう乗れないかもしれないんだよ」

「そうだな。他を回ったら、またここに戻って来ようか」

「うん」

「あっ、ミカ? お土産屋さんがあるわよ。行きましょう」

「わあ、行きたい。行こう!」

 一際、目を引き寄せる角張った建物。白一色で一切模様のないシンプルな外観。沢山のお人形さんに、一番最初に埋もれた時の娘のような異質感。そこへ何の躊躇もなく娘は駆け出していった。娘の姿は遠ざかっていくのに、娘の足音は段々と大きくなっていった。

 娘の足音が白に吸い込まれてゆく。もつれる足を必死に動かし、娘の背中を追う。息を乱しながら風を切ってゆく。心臓が保っている限り、僕は娘を追いかけようと決意した。


 店内は子供連れの人達でごった返していた。一度行き止まりに入ったら、人々で蓋をされて、抜け出すのが容易ではない。そんな激流が目の前にはあった。痩せている方だと自覚している僕でさえ、やっと通ることの出来る狭い通路。この窮屈な光景は今、僕が直面している人生に少し似ている気がした。

 密集地帯という名の、ざわざわとした窮屈な視界。その中にも、小さくて可愛くて大きな笑顔がたくさん広がっていた。ところどころにパッと咲いている微笑みの花。それは砂漠に咲いた花の如く、僕の瞳を潤してくれた。

 この場の窮屈さだけでなく、子供たちの笑顔が溢れているという事実も、今僕が直面している人生に似ていたら良かったなと感じた。

 お土産屋と呼ぶことに違和感を覚えるような、華やかさと異国感。ずらりずらりと奇妙さも漂わせながら並ぶお人形さん。ぺらっぺらの白い棚が悲鳴をあげるほど、どっしりとぎっしりと、そこに並んでいた。

 大部分のお人形さんの瞳が僕を見つめている。そんな気がした。敵として見つめている。そんな気しかしなかった。見張っているような瞳。心まで見透かそうとしているような瞳。蕩かそうとしているような瞳。そんな似たり寄ったりの瞳の中に異質のものが紛れ込んでいた。

 それは娘にそっくりで少し小さめのお人形さん。そのお人形さんは、ずっとこちらを見つめていた。似たり寄ったりのお人形さん達の瞳が払い除けられるように、娘にそっくりなそのお人形さんとビタッと目が合う。

 浮き上がるように、浮き彫りのように存在するその存在。他に同じタイプの顔のお人形さんはいない。取り残されたかのように、置き去りにされたかのように、周りに空白を置いてポツリと存在していた。

 娘をぎゅっと小さくしたような優しさの塊。柔らかさと優しさを放つ美しい目鼻立ち。そのお人形さんだけは敵ではないような気がした。そのお人形さんだけは敵でないと、そう思いたかっただけかもしれない。

 だが、その優しさだけは信じられると心から感じた。僕たちを救ってくれるヒーローのように感じて仕方がなかった。そのお人形さんは、娘がおねだりをする時のような目で僕に、買って、と訴えかけているようだった。


「パパ? このお人形さんがほしいな」

「買ってあげるけど、一つだけだぞ」

「うん」

「見始めてまだそんなに時間が経ってないから、もっとじっくりと選んだ方がいいんじゃないか?」

「私、もうこの子に決めたの。お願い」

「うん、そうか」

 おねだりしてきた娘は、お人形さんが訴えかけてきたのとほぼ同じ顔で、僕に訴えかける。それに押されてお人形さんが二体収まるほどの小さなスカイブルーのカゴに、そのお人形さんをそっと入れてあげた。

 押されたのは娘の可愛さにだけではない。お人形さんのヒーローのような眼差しにも押された。真新しいお人形さんが家のリビングに、また新たに加入する。全ての感情が混じり合うくらいの複雑さが生まれていた。

 頭の中にある家のリビングの隅に、娘そっくりなお人形さんを置いてみた。想像の中でそのお人形さんは、優しい微笑みを浮かべていた。それが不敵な笑みにも、穏やかな心を映し出す笑みにも見えた。

 ずっと、その場所に居座られたことを想像したら脳が溶かされそうになった。しかし、娘の分身のような、そのお人形さんの可愛い姿を信じたい気持ちは変わらない。

 娘が乗り移ったかのようなお人形さんが、スカイブルーのカゴでちょこんと座る。重みを支えるために、指を丸め込む力を強めて、力の源にもしっかりとエネルギーを込めていった。手でギュッと握りしめて運んでいるカゴを、娘が下から手を差し込んで持ち上げてきた。

 二人以上の人間が、前後から担いで人を運ぶ乗り物である、駕籠のように思えてきた。娘がカゴをお神輿に見立てて、家のお人形さんの仲間入りをお祝いしているようにも見えた。

 カゴを通じて繋がっていた親子の時間は刹那に消えた。スカイブルーから走って離れてゆく娘の手は、前後いっぱいまで振られている。蹴る足に不規則な動きを付け加えながら人混みを縫って、あっという間に娘は奥へと消えていった。

 顔は見えないが、娘の後ろ姿は満面の笑みだった。娘と僕の間に人々の波という障害が溢れ返っていた。妻は目と鼻の先に存在しているというのに、孤独感の質量が半端ではない。娘との実際の距離も離れているが、それ以上に妻の心との距離が遠いことは否めなかった。


「パパパパパパパパ!」

「パパを呼ぶときは一回で十分だからね。どうした?」

「スゴいよスゴいよ。かわいいのがいっぱいある」

「うん。そうだな」

「ママママママママ!」

「何?」

「どれか買ってもいい?」

「いいわよ」

 なりきりグッズと題されたコーナーで娘は瞳を輝かす。そして肩から先を優雅に舞わせる。神秘性の集まりであるこの国にしては、ここだけ雰囲気が薄い気がした。

 ピンと立ったネコの耳、繊細さを持つ真っ白な天使の羽根、色鮮やかなウイッグなどが並んでいる。ウイッグという細やかな線の集合体が並ぶなか、一際鮮やかでくっきりとしたグリーンが僕の瞳を占領した。緑の細い連なりを見ただけでも身が震え、ゾッとした。考えただけでも身の毛がよだつ。

 グリーンのパッツン前髪。グリーンのまん丸おめめ。ウイッグはそんな娘の仲間の中でも奇抜さを発揮している、ミドリちゃんの髪の毛のようだった。娘の瞳の方向は確実にそのグリーンのウイッグに向いていた。

 家にいるお人形さんとお揃いだからとか、そういう部分についてはよく分からない。でも興味を持っていることはほぼ間違いなかった。このグリーンのウィッグが、興味を示した娘の瞳の奥で果てないことを、少しの間、脳に浮かべた。そして、ぎゅっと拳を握った。


「ママ? このミドリのカツラ欲しい!」

「本当にこれでいいの?」

「うん。これがいいの」

「ミカは本当に決めるのが早いわね」

「そうかな。なんか呼ばれてる気がするんだよね」

 買うものはひとつだけと提案した僕には頼まず、娘は妻にウイッグをねだる。娘がお人形さんに呼ばれているかも、と口走った場面で僕は、大量の唾を飲み込んでいた。時間を空けずに立て続けに二度も。

 妻の頭の中にミドリちゃんのことが過っているのか、過っていないのか分からない。でも、真っ直ぐな自然体な目をして、妻は素直に受け入れ、飲み込んでいた。


 神秘の国を歩く娘の頭上には、ミドリのウイッグが被せられていた。被っているというより、最初から身体の一部だったような自然体を放っていた。

 目の少し前を娘がドシドシと力強く、堂々と歩く。常に視界には娘が映っていた。それと同時に、視界には娘を操っているようなグリーンのウイッグが常にいる。

 硬い地面を蹴りながら進んでいると、感じる全ての柔らかさが段々と薄れていった。夢の国という全く別の空間にいるはずなのに、家の中を常に意識せずにはいられなかった。

 不安やストレスは身体を、思った以上に揺すぶってくる。負のものを溜め込みたくない身体が、外へ外へと要らないものを出そうとする。お腹の下の方でも、キュッと締め付けるようなモヤモヤが生まれ出していた。

 首を最大限に活用して、赤と青のシルエットが並んで描かれた看板を探す。すると、あちらの方から迎えに来たかのように、大きな建物が目のすぐ先で、ドスンと待ち構えていた。


「ちょっとトイレ行ってくるね。ミカは大丈夫か」

「うん」

「ミサキは?」

「あっ、私も行く」

「ミカも行っておいた方がいいんじゃないか」

「全然行きたくないもん」

「そうか」

 夢の国に来てから、まだ一回も娘はトイレに行っていない。行っていないにも関わらず、蟠りも不純物も溜まっていないような元気さを放っていた。

 足を硬い地面に打ち付け、ドタバタとたまに音を鳴らすほど元気がいい。だから嘘を吐き、我慢していることなんて少しも考えられなかった。トイレに関して、嘘を吐く必要性が全くと言っていいほどないのだから。

 娘がトイレに行った記憶はもう遥か遠くの方にある気がした。もう消えそうなほどに薄れていて、もう消え去っているも同然だ。

 尿意は消えているというのに、元気は一向に消えることも減ることもなく、むしろ前よりも格段に増えていた。それに関する理由は、全く持ち合わせてはいない。

 妻に手を引かれて、娘はトントンと片足を二歩ずつ地に着きながら、優雅に跳ねる。娘の姿に区切りを付けて、脳も心も瞳も身体もトイレへと向ける。洒落た文字が躍る看板が目に付く。その看板がなければトイレだとは想像もつかないほど立派なお城がそこにはあった。

 城の入り口をくぐり、暗い通路を進んでいくと、パッと照明の花が開いた。一瞬で明るさが全体に広がってゆく。そして、ずらっと並ぶ小便器が鮮明にその場に浮かび上がった。

 さきほどの跳ねる娘はこの瞳に焼き付いている。しっかりと地に足を着き、しっかりとした動作を繰り広げる娘の姿が今も瞼の裏にいる。でも、娘から人間らしさがまたひとつ消えた事実は消えない。そして、人形らしさがまたひとつ生まれた事実も、また消えない。


 ベルトを緩めて、一回小さめの深呼吸を挟んだ。そして、溜まったものを一気に放出した。溜まったものを体内から一気に外へ出しても、緊張感の度合いは下がらず、安堵とまではいかなかった。不安や蟠りなどは、強風が吹こうと大雨に曝されようと、ずっと僕の心臓にしがみ続けることだろう。

 少し間を置いて、またひとつまたひとつと、娘の人間である事実は消えてゆく。一度に消えはせず、焦らすように、僅かに惜しんでいるかのようにゆっくりと消えてゆく。まだ娘には笑顔が残っている。まだ娘には元気が残っている。

 水道の蛇口を捻り、自分の中に潜んでいる哀しみの如く、勢いよく水を放出した。手を擦っても、皮膚の表面にある汚れしか落ちてはくれない。

 ポケットで揉みしだかれたハンカチは、心のようにいくつもの皺を纏っていた。娘を想いながら、妻を想いながら、揉みしだくようにしてハンカチで水分を拭き取った。


 娘の活力は今までの10年間と何も遜色がない。表情を司る筋肉が動いているうちは、僕の心臓が止まるほどの苦痛はやって来ない。それは確実なことだ。

 変わりゆく娘に、家族の在り方、そして人としての在り方を教えられた。それらの在り方を教えるために娘は、お人形さんに変貌していったのだと考えるのが妥当だった。そう考えるしか救いがなかった。

 行きよりも長く感じる通路を、何度も何度も曲がりながら、外の空気を目指す。トイレの小さい網目状の線で仕切られた床を進み、本来の魔法が掛けられた美しい床へと出た。そこには、仲良く手を繋いで微笑ましく佇む娘と妻の姿があった。

 普通の家族に戻れば、本来の娘も帰ってくる。そう信じる心は、まだ中腹に存在していた。心の中腹でスヤスヤと眠り続けていた。

 今の僕たちは普通の家族に近づいていると信じている。一時的に普通の家族だと感じているだけかもしれない。まだ、どこかぎこちなさが残っている。まだまだ、家族が壊れる余地もありそうだ。でも、あの飾らない娘を必ず帰って来させるために、努力するしかないのだ。

 僕たち夫婦の在り方は、まだ片足も突っ込んでいないくらいのものだろう。でも、数日前の僕たちより何倍も成長したことは確かだ。段々と幸せに近づいて来ていることも確かだ。

 仲が良さそうに妻と娘が、抱き付き気味に手を繋いでこちらへと歩いてくる。夢の国に長く住み続けた住人であるかのように、夢のような光景を二人は見せつけてきた。

 夢の国で娘は、夢であるかのような最高の燥ぎっぷりをしていた。そして、光り輝くほどの最高の子供らしさをしていた。そして、美しい最高の笑顔を振り撒き続けていた。






 夢の国で買った娘にそっくりのお人形さんが、僕のリビングの定位置からの視界に入って来る度に、心を握られているような感覚になる。

 その度に、娘を人間に戻す手助けをしてくれているような気持ちにさせてくれる。今までよりも多い日差しが、窓を通り抜けていた。いつもよりテレビから放たれる光も、明るい気がした。

 娘の目の前に置かれた、いつもより欠けの多いハンバーグ。娘のいつもより印象深い瞼の色。そして、最近増えてきた、いつも感じることのない、娘がトイレのドアを強く閉める時に鳴り響くバタンという音の頻度。それらは心をそっと押さえ付けてくれた。全部、新しく家に来た娘似のお人形さんの仕業だと信じて疑わなかった。

 ハンバーグを掴む娘の箸も、小気味良く動く。しかし、夢の国が眩し過ぎたせいか、夢の国が魔法に満ちていたせいか、部屋の中での娘は、心なしか少しどんよりしている気がした。


 夢の国で笑顔を放出しすぎて、もう笑顔の蓄えが底を尽きたのだろうか。娘の顔から輝きが消えていた。僅かにまだ残ってはいるが、それは欠片にも満たないものだった。

 食事をする普段の娘。なりきっていない日常生活の娘。そんな娘が、まるでお人形さんのような表情を浮かべ、チビチビと肉片を口に運ぶ。まるで電池や仕掛けによって動かされているみたいだった。

 なりきっているときだけではなく、普段の笑顔も消えていた。それは覚悟していたこと。もっと脳内に染み込ませておかないとイケなかったこと。僕たち家族と触れ合っているこのような時間も、苦しさが充満していた。

 娘にそっくりなお人形さんが救世主に見えたのは、刹那の出来事だった。娘がお人形さんになりきっている時間よりも、むしろ一家団欒の方が息苦しい。もう団欒と呼べないほどに重苦しく感じていた。

 最近の娘は、魂を抜かれてしまったかのような覚束ない顔をする。今日はずっとそうだ。僕の目に映るもの全てが、覇気を無くしていた。明るさも色味も形も、みんな萎れているように感じた。それもこれも全ての原因は、僕の魂が身体から抜けて、部屋中を浮遊しているからなのかもしれない。

 ずっと、どんよりと沈む娘。それでもお人形さんになりきっている時は、水を得た魚のようにシャキッとする。今と比べれば元気になるが、一般的な元気には到底及ばない。

 生きているのに生きていないような感覚。人間であるのに機械的なものであるかのような感覚。それが粘っこく張り付いているようだった。

 娘はお人形さんの方が生き生きしている。娘は完璧なお人形さんにもうなったのかもしれない。徐に箸を置き、娘は身体をお人形さんたちが溢れる世界に迷わず向けた。

 そして力強く、お人形さんとして生きていく意志が固まっているかのようにしっかりと、娘は一歩ずつ一歩ずつ踏み締めて歩いていった。


 娘の夢はお人形さんになること。娘の夢はお人形さんとして生きていくこと。それがもし娘の本望だったら、娘の夢はすでに叶ったと言っていいだろう。

 夢が叶ったのならば僕も嬉しい。本人が喜びを得ているのであれば、すごく嬉しい。でも、この部屋のどこにも、そんな幸せの欠片は転がってなどいなかった。

 娘の頬の筋肉が、ほぼ動かなくなってきている。生きていればハッキリとした動きが顔に表れるのは当然のこと。目の前にあるグラスに入ったお茶の水面も、常に揺れ動いている。窓の外を見れば、木々も風に当たってゆらゆらと優雅に踊っている。なのに、定位置に飾られるように存在する娘に、少しの残像もなかった。娘の頬が動かなければ、もちろん僕の頬もつられて動かなくなる。

 静と動がハッキリしていた昔の娘が薄れてゆく。外にいるときの娘よりも、室内にいる今の娘の方が、お人形さんに相応しい雰囲気をより多く放出していた。室内での生き生きとした娘が薄れてゆく。静と動の境界線がどんどんぼやけてゆく。

 病院に行ってどうにかなる問題ではない。お医者さんに見てもらって治るような単純なものではない。たぶん、娘とお人形さんの狭間に存在する、深い何かのせいなのだから。きっと、この問題の解決法はこの空間に存在するお人形さんしか知らない。

 娘のお人形さんへの気持ちは、天を突き破ってしまったのかもしれない。突き破ったせいで、人間ではいられなくなってしまったのかもしれない。お人形さんは娘を仲間にしたいだけなのかもしれない。娘をお人形さんとして迎えるために、人間の機能を削ぎ落としたのかもしれない。

 仲間にしたいという純粋な気持ちしか、そこにはない気がする。色々と想像を広げてはみたものの、真実へは一向に辿り着けなかった。絶対に辿り着けるはずもなかった。

 僕の思考もお人形さんに、すっかり支配されてしまっているようだ。真相は濁った雨水の底に溜まった不純物のように、暗く汚い場所の奥底に、黒く沈んでいるような気がした。






 静寂に現れた玄関チャイムの力強さが場を荒らす。耳に溜まった不安を押し流すように、綺麗に鳴り響いた。鳴り止まないうちに2、3度押されたせいか、滑らかさが躓きながら響き渡った。

 脳から身体全体に考えを巡らせながら、細長いドアノブに手を掛ける。そして、流れるような自然に任せた力では開くことのない、リビングから玄関へ通じる扉を身体ごと押した。

 ダンッと、力が解放される音が鳴る。開くとそこには、ゆらゆらと黄色い光が揺れていた。玄関の段差に足を伸ばし、下にあるスニーカーに慎重に収めていく。カカトが潰れたままのスニーカーに爪先だけをヒョイっと差し入れ、玄関扉を横に引き、レールのガタガタという音を鳴り響かせた。

 そこには見覚えのある凛々しさが突っ立っていた。それは妻の友達であるリオさんだった。赤ちゃんも泣き叫んでしまうような目力を引っ提げて、いつもより強気に突っ立つリオさん。

 目力とは対照的なパステルカラーの柔らかな服装。手首を使ったこちらへの柔らかい手の振り。それらの優しさを振り撒いたと思えば、躊躇の欠片もない足の踏みしめを披露した。段差を登り、娘にはないハキハキとしたメリハリのある動きで、ズカズカと靴下を床に押し付けていった。


「こんばんは」

「こんばんは」

「ミカちゃん久し振りだね」

「うん」

「すごく大きくなったね」

「うん」

 娘もリオさんに身体を向けて出迎えたが、いつものように駆け寄らず、距離を一定に保ったままだった。テンションのバロメーターも言葉数も振り切れることはなく、少量を維持していた。

 リオさんがハスキーな声をいくら飛ばしても、娘は一度に5文字以上発することはなく、発する予感もない。友達も異変に気付いたらしく、眉や瞼や鼻先に微動を表し始めた。目力も眉も、だんだん弱々しくなってゆく。急いで用意したスリッパに足をすり減らしながら差し込み、重い扉をいとも簡単に開け、リオさんは床を打楽器のようにして進んでいった。


「何これ? リビングの隅が人形に占領されてる」

「最近になってどんどん増えて、この数になったんです」

「これ全部ミカちゃんのもの?」

「はい。最近お人形さんになりたいって言い始めたくらい、お人形さんにはまってしまって」

「そう」

 リオさんが以前ここに来たときには、リビングの隅の床は完全に見えていた。スッキリとした印象を放ち、何のざわめきも起こらないほどだった。それがいつの間にか姿を変え、今では増え続けたお人形さん達に、目をチラつかされるまでに至っている。

 リビングに通じる扉を開いたときに、合う瞳はひとつも存在しなかった。お人形さん達は、どこか俯き加減でそこに存在していた。

 リオさんの目力と同様に力強かった足取りはよろめいて、次第に体内から空気が抜けていくように、覇気が薄れていっているのが分かる。リオさんは一旦後ずさりをしたが、娘としっかりと向き合ってくれていた。


「ミカちゃんはお人形さんが好きなの?」

「分かんない」

「ミカちゃんはお人形さんになりたいんだよね?」

「分かんない」

「そっか」

 友達が家に来てから、急激に娘の人間としての機能が失われているような感覚があった。分かんない、という便利な言葉を連発してリオさんの問い掛けを交わしていく娘に、呼吸が荒くなる。

 リオさんのしっかりと通る声がただ響くだけで、次第に娘は返事さえもしなくなった。首振り人形よりも、僅かに大きな縦の首振りをただ行うことのみになっていた。


 人形化は、目に見える情報だけでも、しっかりと確認出来るほどのものとなっていた。娘は遂に動きまで止めた。その姿はお人形さんそのものだった。

 それでも、まだ最終形には到達していない。でも、到達するのも時間の問題かもしれない。知能という、生き物の中心に存在するものがまだ残っている。娘から知能まで奪われたら、もう悲しみの類いしか残らない。知能まで綺麗サッパリ消滅してしまったら、僕の知能も真っ白に澄み渡ることだろう。

 今の僕は妻と、昔みたいに普通に喋れている気がする。あの、愛情を与えることを最優先していた時代。あの思っていることが素直に口から漏れていた時代。それらを今回のことで思い出した。今はあの時のように、普通に喋れていることは事実だ。

 娘という当たり前にある幸せと、それを拒む人形化という普通ではない状況が、僕たち夫婦の普通を後押ししてくれていたのだろう。複雑に絡み合った世界では、それらも心の潤いの足しには、僅かしかならなかった。


「娘さんの隣にいる人形の仕業じゃない?」

 少しの間、止まっていた友達の口が、小さいながらも素早く動く。音量はそれほど感じられなかったが、ずっしりと重いものだった。何よりも深く深く染み込むように、全てのものに溶けていった。

 僕も、何度も何度もお人形さんたちを疑ってはいたが、証拠なんてひとつも見つからなかった。欠片さえも、何ひとつ見つけることが出来なかった。

 僕は悔しさをぶつけるように、望みにすがるように、お人形さんたちに視線を送る。妻の瞳も、妻の友達の瞳も、僕の瞳も、吸い込まれるようにお人形さんたちの瞳を見つめていた。

 見つめ続けていると、娘の隣にいる、グリーンのパッツン前髪に、大きすぎるグリーンのおめめを携えた、頭でっかちのミドリちゃんが、少し動いたような気がした。改めてじっくり見つめてみると、ミドリちゃんはうっすらと不気味な笑いを浮かべていた。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  少しずつ忍び寄ってくるような人形の影が、とてもよく描けています。気のせいと思いこみたい事実。自分の娘が心配で仕方ない親の目を介することで、恐怖が何倍にも膨らんでいました。  娘による発言…
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