相撲に関連する作品(相撲小説「金の玉」「四神会する場所」シリーズは、別途でまとめています)
相撲同好会の思い出 四股名で呼びあう私達。 本名は何でしたっけ
大学時代に所属していた相撲同好会の思い出話です。
これも以前運営していたホームページに収載していた文章の転載です。
相撲部の稽古が終わったあと、土俵を使わせてもらっていました。廻しは稽古場にかかっていたものを使用。
文字通り
他人の褌で相撲を取っていました。
投稿しました相撲小説「金の玉・四神会する場所」シリーズ。主要な登場人物は、同好会のメンバーの四股名を使い、彼らのイメージでキャラクターを造形しました。
03.12.1記
大学時代、相撲同好会に所属していたが、入学してすぐにはいったわけではない。
入学時は、お勉強関係のサークルと、テニスの同好会にはいっていた。
このホームページで「鳴尾」というタイトルで少年時代のことを書いており、この文章からいえば、中学時代など、当然、野球部に入部していたかのような印象を与えるかもしれ
ないが、野球部には入部せず、軟式テニス部に入部した。
上記のタイトルの文章をあらためて読むと、いささか自分のことを美化しているかな、と思った。
例えば、野球はクラスで一番上手かった、というようなレベ
ルにいたわけでは決してない。
そんなことを書けば、当時の同級生に「うそをつけ」と言われてしまうだろう(あるいは誰も覚えていないだろう)。
クラスで野球をやるときは、ピッチャーをやらせてもらっていたのは事実だから、自分としては平均レベルよりは上手かったのだろう、とは思っている。
ただ、いずれにしても5年生、6年生と学年があがっていくに
つれて、本来の運動神経というものが影響してくることになるのだろう。客観的に言って自分の上手さ具合というのは、どんどん落ちてきていたと思う。
「中学生になって、野球部に入部してもレギュラーにはなれないだろうな」
そういうことも推測がついていたように思う。
中学は三年間、軟式テニス部に所属し、高校のときは、硬式テニス部に入部したが、こちらは二ヶ月程度でやめてしまった。
大学生になって再び、硬式テニスをやってみようと思ってサークルに入った。
大学では体育の授業がかなり豊富に用意されており、自分でどのスポーツをやるか選択自由である。
ただ人気のある競技であれば、希望者が定員以上となり、
抽選となる。
「相撲」という授業もあり、当然のごとく人気はなかったので、選択すればフリーパスだったが、敬遠して、野球を選択した。
うちの大学は、相撲部はあるが、入学時には、相撲同好会はなかった。
ただ、二年生になると学内に「相撲同好会」のポスターが何ヶ所かに掲示された。
「ふーん、誰かが作ったのか」
とは思ったが、入会する気はなかった。
そのころは所属していたテニスのサークルにはほとんど行
かなくなっていたから、入会すれば良さそうなものだが、当時は「今までの自分を変えるんだ。」
という意識が強かったように思う。
相撲を始めてしまえば、今までの自分そのものではないか。
三年になった。ここでもうひとつ所属していたお勉強のサークルの一年先輩にとても相撲の好きな人がいて、私が相撲好きということは知られていたから、その先輩から、
「一緒に相撲同好会に入ろう」
と強く勧誘を受けた。
その先輩は前年、三年生のときは一年間、アメリカの大学
に留学していたので、うちの大学ではそのとき、私と同じ三年生扱いであった。
のらりくらりとかわしていたのだが、秋、学内の体育祭の時期を迎えた。「相撲」の授業を受けている学生たちにより、トーナメントが行われるという。
授業を受けていない学生も参加自由とのことであった。
そのとき
「よし、参加してみるか」
という気になってしまった。
結果は、本選トーナメントにも出場することができなかった。トーナメント前の予選で4番取り、3勝すれば、本選に出ることができたのだが、2勝2敗だったのだ。
意外だったし、悔しかった。
相手は大学で相撲の授業を受けているとはいえ、生まれてからの20年間で、相撲を取ってきた番数は、そんじゃそこらの人には負けていないはずだ。
そのあと、ただちに「相撲同好会」に入会した。前記の先輩はその時点ではすでに入会されていたと記憶する。
尚、上記の体育祭、翌年も参加した。体育の単位は一年(野球)、三年(球技全般)で取得していたから授業は受けていなかったが、相撲同好会のメンバーともども参加した。このときは(体重別に三階級くらいに分けており、私は真ん中
の階級、60~70Kgだったかと思う。そのなかでは、最も軽いほうの体重であり、前年であれば、50Kg台であったから、しまった、体重調整に失敗していると思ったが)無事、本選トーナメントに進み、準決勝で敗れたが、三位決定戦に勝ち、銅メダルをもらった)
さて、相撲同好会、幹事長でもある創設者は、私の他の文章にもしばしば登場するアイドリアンであり、大リーグ愛好家でもある友人である。
稽古は相撲部の稽古が終了した後、その土俵を使わせてもらっていた。自由参加である。私もその当時は、学校近くの八百屋でアルバイトをしていたから、さほど、参加できていたわけではない。八百屋の休みとも関係するが、平均すれば、稽古したのは、以後、週に1回程度ではなかったろうか。
同好会はトータルでは20名以上会員がいたと思うが、稽古場に行っても、待ったけれど自分以外、結局誰も来なかった、という日もあり、大体は3~4人程度で稽古していた。
たまに5人程度以上集まり、その中に上記の友人も含まれて
いる場合は
「よし、今日は場所を開こう」
ということになる。
例えば6人いれば、3番総当りで15番。
5人であれば3番総当りで12番。時間があれば、4番総当りで16番、というふうにできるだけ15番に近い相撲を各人が取るようにする(その日、一日ですませる)。
勝敗については、記録魔でもあるその友人がすべて付けておいて、管理する。
そしてその場所の成績により、番付を決めていた。
会員はみんな四股名を付けていた。前記の友人は羽黒蛇六郎兵衛、先輩は千葉光、あと、よく来る会員は2年後輩(学年は後輩でも、相撲同好会においては先輩。但し、同好会ではプロとは違って、ありがたいことに私を先輩として立ててくれていた。)が多かったのだが、玉武蔵、荒岩、照富士、3年後輩の若吹雪など。
尚、私の四股名はここでは書けない。自分の当時のセンスには赤面するしかない。受けようと思って付けた四股名だが、ひどいものだと思う。
私が初めて場所に参加したのは、3~4年にかけての春休み。鹿島神宮神武殿の合宿であった。
参加者は8人だったかと思う。デビュー場所には上記の四股名で臨んだが、全く、受けた様子はない。
「はずしてしまったか」
と思い、いたたまれない気持ちになったが、気を取り直してがんばったら、優勝決定戦に進出、羽黒蛇に敗れるという活躍ができた。
あとで聞いたら、対戦相手は
「四股名を聞いて、おなかの力が抜けてしまった」
とのことであった。良かった。良かった。
ところで、会員の間では、普段も、飲み会の席でも、みんな、四股名で呼び合っていた。
今でこそ、上記のメンバーであれば、実際の姓も知っているが、当時はなかなか本名を覚えられなかった(使う必要もなかったし)。
私については、さすがにメンバーも四股名そのものを呼ぶの
はためらわれたようで、下の名前で「セイシローさん」とよばれていた。
卒業までのあいだに、もう一回、優勝決定戦に進出する成績を残せたことがあった。
この時も、決定戦で羽黒蛇に敗れ、結局、優勝は一度もできなかったが、このとき、幹事長で、横綱でもある羽黒蛇六郎兵衛に、優勝決定戦出場2回、という実績を評価いただき、大関への推挙を受け、謹んでお受けした。
卒業時、後輩の誰かに、私の四股名を2代目として受け継いで欲しかったのだが、誰も受け継いではくれず、この大関の名跡は一代限りのものとなってしまった。
今はもうないあの稽古場の風景がなつかしい。一度、相撲部の主将に
「稽古してみますか」
と声を掛けていただき
「適当に、力は抜いてもらえるんでしょうね」
との問いかけに対して
「土俵の上ではいつも真剣です」
との言葉にびびってしまったが、得がたい機会なので、胸をお借りした。
もちろん、適当に力は抜いてもらったが、それでも110Kgくらいあったその主将を一歩も動かすことはできなかった。
近くにある高校(早実。当時は大学の近くに学校がありました)にも相撲部があり、部員は少なく、大学の相撲部相手では力に差
がありすぎ、同好会のメンバーがちょうどよい稽古相手になった。
一度、稽古で、その相撲部の高校生ひとりと、羽黒蛇、私と3名参加という日があったのだが、羽黒蛇が
「今日は体調が悪いので、記録だけつける」
とのことで、私ひとりが高校生の相手をしたことがあった。
当時21歳。まだ元気だったのだろう。
2人で何番も取り続けた。
20番ちょっと取ったあたりで、さすがに疲れてきて
「そろそろやめようか」
と声をかけたが
「まだまだ、もう一丁お願いします」
とのことで、さらに取り続けた。
あと2回くらいは
「そろそろ・・・」
と言ってみたが、そのたんびに
「まだまだ、もう一丁お願いします」
と返ってきて、結局40番以上取った。
羽黒蛇が付けていた記録を、あとで見てみた。
トータルでは、少し私が勝ち越していた。24勝18敗くらいであったかと思う。
が、前半は勝ちが多かったのが、後半は負けが多くなっていたという内容であった。
稽古したときはいつものことであるが、稽古あがり、稽古場の風呂に入り、近くの店で、500mLの牛乳パックを買って、ぐいっと飲みながら、サンダル履きで高田馬場駅まで歩く20分間が爽快だった。
追記:
付き合い始めた頃、家内は、会社の先輩に
「あんな、学生時代に廻しを締めて相撲を取っていたような人と、よく付き合う気になったわね」
と言われたそうである。
家内は、おしゃれな男性というのが苦手だそうで、服装に気を使い、アルバイトもおしゃれなレストランのウェイターというタイプの人はノーサンキューなのだそうである。
私の場合、服装には全然、構わないし、さらに
「相撲を取っていた」
「八百屋でアルバイトをしていた」
という2点は大きなポイントになった、とのことであった。
社会人になってからも一度合宿に行ったりもしましたし、たまに稽古しました。
廻しはもう借りる訳にはいかないので、通信販売で「廻し」を買いました。
東京で単身赴任していたときも、千代田区体育館で年に一度程度でしたが、マイ廻しを締めて稽古していました。
が、マイ廻しがなくなってしまい、以降は廻しを締めての稽古はしていません。
会社でも、若い男性社員に声をかけるのですが、なかなか相手にしてくれません。
でもこれまでに三人、取ってくれた人がいました。
勤務地のグラウンド、テニスコートの中で相撲を取りました。