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超宗教編(日本における宗教史)

作者: Mako

「超・宗教」編


「超・宗教」編(1)


現代の日本人は宗教については無関心または疎いと思います。

日本人がいつ頃から宗教というものに無関心、疎くなったのかと言えば、明治以降のことです。

太古の日本では、大自然の美しさや荒々しさの中に神を見いだしていました。

その後は日本神話や伝承、言い伝えといったものから神が登場してきます。

自然のものや神話、伝承、言い伝えなどを含めた多くの神を信仰の対象としていたのが日本人です。

そこへ仏教が伝来しました。

仏教の伝来は飛鳥時代の事で、西暦538年とも552年とも言われています。

仏教を日本に導入するかどうかで朝廷内で争いがおきています。

この争いには聖徳太子も参戦しており、聖徳太子は仏教の導入に積極的な役割を果たしています。

現在では、聖徳太子は存在しなかったとする説もありますが、聖徳太子の存在はともかく、仏教を導入しようとした人が争いに勝ち、日本に仏教が入ってきたのです。

仏教が日本に入ってきてからは、日本の神と、仏教の如来・菩薩・明王・天などが同体と見なされ「神仏習合しんぶつしゅうごう」という形で神も仏も信仰の対象となります。


「超・宗教」編(2)に続きます。


「超・宗教」編(2)


710年には平城京へと遷都(せんと、都を移すこと)され、奈良時代が始まります。

聖武天皇しょうむてんのうは国家鎮護を目的に、当時の日本の各国に国分寺の建立を命じました。

総国分寺(国分寺の総本山)として、平城京に東大寺を置き、現代では「奈良の大仏」と呼ばれる「盧遮那仏るしゃなぶつ」を建造しました。

盧遮那仏とは、史実のゴーダマ・シッダールタ(釈迦)を超えた宇宙仏とされ、宇宙の真理を全ての人に照らし、悟りに導く仏で「大日如来だいにちにょらい」とも呼ばれています。

794年には平安京へと遷都となり、平安時代が始まります。

平安時代の天皇は完全に仏教の虜と言っても過言ではありません。

仏門に入っていた上皇(じょうこう、天皇を退いた人または天皇の父親)のことを「法皇ほうおう」と呼びますが、この時代は法皇だらけです。

現代では「仏教」と呼ばれていますが、当時は「仏法」と呼ばれていたことから、法皇という呼び名がでてきます。

また、摂政せっしょうと関白を独占し権勢を誇っていた高級貴族・藤原氏も仏教へ傾倒していました。

10円玉の絵柄となっており、現在では世界遺産に登録されている「平等院鳳凰堂びょうどういんほうおうどう」(京都府宇治市)は、藤原氏ゆかりの寺院です。

平等院鳳凰堂は「阿弥陀如来あみだにょらい」を本尊としています。

阿弥陀如来は「私(阿弥陀)を信仰する者は私の支配する極楽浄土へ生まれ変わる。」と宣言しています。


「超・宗教」編(3)に続きます。


「超・宗教」編(3)


阿弥陀の言う「極楽浄土へ生まれ変わる。」とはどういうことか説明します。

仏教には「輪廻転生りんねてんしょう」という考えがあります。

輪廻転生とは「生まれ変わり」のことです。

天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの世界(六道)があるとされ、生あるものは死んで肉体が滅んでも、魂は消滅することなく生き続けるという思想です。

釈迦が悟りを開いた古代インドでは「生きることは辛く苦しいことだ。なんとかこの苦しみから抜け出したい。」という思いが満ちていました。

釈迦のように悟りを開いた者を「如来(または仏)」と言い、如来になることで「浄土」という世界を治めます。

浄土とは輪廻転生の六道とは別の世界とされ、一人の如来が一つの浄土を治め、如来の数だけ浄土があるとされています。

つまり如来になることで、輪廻転生から抜け出すのです。

釈迦自身がそうであったように、本来は個人として悟りを追求するものですが、阿弥陀は「私(阿弥陀)を信仰する者は私の支配する極楽浄土へ生まれ変わる。」と宣言をしているのです。

このことは乗り物に例えられます。

釈迦の原始仏教は、自転車やバイクといった基本一人で乗るような小さな乗り物という意味で「小乗仏教しょうじょうぶっきょう」と呼ばれていましたが「小乗」という言葉が差別的との事で、現在では「上座部仏教じょうざぶぶっきょう」と呼ばれています。

一方の阿弥陀は、電車やバス、飛行機といった多くの人を輸送できる大きな乗り物という意味で「大乗仏教だいじょうぶっきょう」と呼ばれています。

輪廻転生から抜け出すことを「解脱げだつ」と言いますが、どのような手段で解脱という目的地を目指すかが小乗(上座部)仏教と大乗仏教の違いです。


「超・宗教」編(4)に続きます。


「超・宗教」編(4)


鎌倉幕府の成立は、源頼朝みなもとのよりともが征夷大将軍に就任した1192年とされていましたが、最近ではもう少し早く、東国支配権を得た1183年説、守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力視されています。

鎌倉時代には浄土思想の普及や禅宗の伝来などにより、新しく仏教の宗派が誕生しています。

具体的には、浄土宗、浄土真宗(真宗、一向宗)、時宗、法華宗(日蓮宗)、臨済宗、曹洞宗が「鎌倉仏教(鎌倉新仏教)」とされています。

現在でも比較的耳にするこれらの宗派は鎌倉時代を起源とするものです。

平安時代までは天皇による国家鎮護や貴族の為の仏教でしたが、鎌倉時代には鎌倉仏教を中心に武士層や庶民に広がっていきます。


「超・宗教」編(5)に続きます。


「超・宗教」編(5)


時は流れ戦国時代。

1549年、カトリック教会の修道会であるイエズス会のフランシスコ・ザビエルによりキリスト教が日本に伝来しました。

カトリック教会とは、ローマ教皇を中心として全世界に信徒を有するキリスト教最大の宗派です。

宣教師たちは日本人と衝突しながらも布教を続け、時の権力者・織田信長の庇護を受けるまでになります。

1571年、信長は比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじを焼き討ちします。

延暦寺は比叡山全域を境内とする寺院で「比叡山」または「叡山」と言えば延暦寺を指します。

比叡山は平安時代初期の僧・最澄さいちょうにより開かれた日本天台宗の本山であり、住職は天台座主てんだいざすと呼ばれます。

そのような由緒ある大寺院を信長は焼き討ちにしたのです。

このことから信長は仏敵とされ「魔王」(正式には第六天魔王)とも呼ばれています。

実はこの時代の僧侶は武装していました。

武装した僧侶のことを「僧兵そうへい」と言います。

源義経(みなもとのよしつね、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の異母弟)の従者であった「武蔵坊弁慶むさしぼうべんけい」が僧兵として有名ですが、この時代の僧侶も弁慶と同じ僧兵なのです。

大きな寺院では僧兵の数も多く、少なくとも織田信長という戦国の覇者と互角に渡り合うだけの戦力を有していたのが当時の比叡山です。

信長は敵対勢力であった比叡山を焼き討ちにしましたが、信教の自由は認めているのです。


「超・宗教」編(6)に続きます。


「超・宗教」編(6)


豊臣秀吉の時代になると、勢力を拡大してきたキリスト教徒が神道や仏教を迫害する事例が増えてきます。

1587年、秀吉は「伴天連追放令ばてれんついほうれい」を発令します。

伴天連追放令とは、キリスト教の宣教と南蛮貿易に関する禁制文書のことです。

伴天連追放令は出されましたが、本格的な追放は行われず、宣教活動は半ば黙認されていました。

これは、宣教が開始された九州地方にはキリシタン大名や信者キリシタンが多く、下手に弾圧すると平定したばかりの九州での反乱が考えられたからのようです。

秀吉は1588年に「刀狩令かたながりれい」を出しています。

刀狩とは、武士以外の僧侶や農民から武器の所有を放棄させ、武装解除することです。

織田信長が焼き討ちという武力を以って、比叡山という日本最大級の仏教勢力を屈伏させたからこそ、後に続く秀吉は刀狩をすることができたのです。


「超・宗教」編(7)に続きます。


「超・宗教」編(7)


徳川家康の旗印は「厭離穢土(えんりえど、おんりえど)欣求浄土ごんぐじょうど」です。

「厭離穢土」「欣求浄土」ともに仏教からきている言葉です。

厭離穢土とは、苦悩の多いけがれたこの世界をいとい離れたいと願うことです。

欣求浄土とは、この穢れた世界を離れて極楽浄土を願い求めることです。

「穢土(えど、穢れた世界)」に嫌気がさし、浄土を求めるといった意味合いの「厭離穢土欣求浄土」を旗印としていた家康が「江戸」に幕府を開いたのは皮肉なことだと感じます。

江戸時代になるとキリスト教は禁教とされます。

1612年、江戸幕府は幕府直轄地でのキリスト教禁教令を出し、翌1613年には禁教令の範囲を全国に広げました。

禁教令により信仰したり布教することが禁止されましたが、信者が密かに信仰を伝えていくということが行われ「隠れキリシタン」が明治まで続くようになります。

隠れキリシタンを見つけるのに用いられたものが「踏み絵」です。


「超・宗教」編(8)に続きます。


「超・宗教」編(8)


江戸時代、幕府は身分を問わず全ての人に(家単位で)必ずどこかの寺院に所属することを義務としました。

寺院が発行する証明書を持ってキリシタンではないことを証明したのです。

寺院は戸籍の管理など、現在の市区町村役場のような役割を果たすようになります。

これらのことは「檀家制度だんかせいど」「寺請制度てらうけせいど」などと呼ばれ、幕府の宗教統制政策から生まれたものです。

つまり、江戸時代には寺院は幕府統治の一翼を担うようになるのです。

これらのことから日本仏教界では布教といったものは行われなくなります。

あえて布教をしなくても檀家という信者は固定されているのです。

檀家制度は現在も続いています。

時が過ぎ明治になると、西洋列強国に追いつき追い越す為、また、キリスト教に対抗する為に「廃仏棄釈はいぶつきしゃく」が行われます。

廃仏棄釈とは、日本古来の神道を強化し外来の仏教を廃することです。

廃仏棄釈により多くの寺院が廃寺となり、寺院や仏像が破壊され、経本が焼かれたりしました。

明治政府は天皇を中心とした国家形成、皇祖神・天照大神あまてらすおおみかみを祀る伊勢神宮を頂点とする神道国家へと舵を切るのです。

この状態は1945年のポツダム宣言受諾による日本の敗戦まで続き「国家神道」と呼ばれています。


「超・宗教」編(9)に続きます。


「超・宗教」編(9)


国家神道により天皇は「現人神あらひとがみ」とされました。

現人神とは人の姿で現れた神ということです。

仏教徒と言っても過言ではなかった天皇がある日突然、神とされたのです。

奈良時代、平城京に東大寺と盧遮那仏を建立した聖武天皇から、江戸時代末期の孝明天皇(明治天皇の父親、明治天皇の先代天皇)までは仏式による葬儀が執り行われています。

宮中(きゅうちゅう、皇居の中のこと)には「御黒戸おくろど」と呼ばれる仏間がありました。

京都市に「泉涌寺せんにゅうじ」というお寺があります。

泉涌寺には歴代天皇の陵墓や位牌があり、天皇家(皇室)の菩提寺とされています。

泉涌寺は「御寺みてら」とも呼ばれています。

江戸時代まではどんな形にせよ日本人の中に信仰というものがありました。

明治時代に廃仏棄釈や天皇の神化といった政策が行われたことにより、それまで信仰していた寺院や仏像が破壊され、また、天皇を神として崇敬しなくてはならなくなりました。

つまりその時点で日本人の頭の中が混乱してしまい、宗教や信仰というものが分からなくなってしまったのです。

それが現在まで続いており、日本人は宗教に関して無関心または疎いといったことになっていると感じています。

比叡山を焼き討ちした織田信長は「魔王」と呼ばれましたが、廃仏棄釈を行なった人は「魔王」とは呼ばれていません。


「超・宗教」編完


March 2017

Mako

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