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りく也30才 ユアン30才 (2)


 肩の縫合を終えると、次には脱臼の修復が待っていた。それからまた転んだ子供の額の縫合。血液検査で気になる数値が出た貧血の主婦の腰椎穿刺をした後で、血液ラボに別の検査結果を受け取りに行き――すぐに終わると思っていたことに、次々と付帯される。

 りく也が受付に戻れたのは二時間後で、傾いた陽が室内をオレンジに染めていた。ようやく外来にも余裕が出てきて、診察の流れも平常に戻っている。受付にはメイスン一人だった。スミスはやっとで休憩か、もしくはオフになったのだろう。りく也はメイスンに「少し休憩してくる」と断って、搬入口に向かった。

 搬入口の中扉を開けようとして止めた。二十四時間体制のE.R.の開設以来、閉じられたことのない門扉の傍に、兄のさく也と東洋人が立って話をしている。相手は見知らぬ顔。

(あれが、加納悦嗣か)

 背はりく也と同じくらい。日本人にしては高いほうだ。目を引くほどの美形でもなければ、全身からオーラが出ているわけでもない。どこにでもいる男に見えた。

 何を話しているのか、さく也が楽しげに笑っている。声が聞こえてきそうだった。りく也が知っているのは口の端を少し上げて薄らと笑う兄。彼を笑わせるために何でもしたが、りく也に出来たのはその程度だった。

 さく也を笑わせているのは加納悦嗣だ。弟の自分が望んでも与えてもらえなかったものを、他人の彼が与えられた。複雑な心境だった。

「ふん。まったくムカつくね」

 自分の胸の内を代弁したかの声に、りく也は鋭く反応して振り返った。『さく也のストーカー』だったユアンが立っている。右手にコーヒー、左手にダイエット・コーラの紙コップを持っていた。

「何なんだ、あのイチャイチャぶりは。あんな風に笑うのなんて、サクヤじゃない」

 その容姿に相応しいテノールが、棘含みの言葉を紡いだ。鮮やかな青い瞳は、レーザー光線のように門扉の二人を捉えている。

 りく也は彼を一瞥して、外に目を戻した。

「じゃあ、どんなのがサクヤだって言うんだ?」

「笑わないところがいいんじゃないか、クールで神秘的だ。そして弦の音が雄弁に語る」

「ふん」

 りく也は鼻を鳴らした。マクレインではまだ見せたことのないであろう、シニカルな笑みが浮かぶ。ユアンの二人を見ていた目が、りく也に落ちた。

「何がおかしい?」

「笑わないんじゃない、笑い方が下手なんだ。クールで神秘的に見えるだけで、あいつは普通の人間さ。おまえ、十七からのつきあいなんだろう? 何にもわかっちゃいないんだな? おめでたいヤツだ」

 さく也の見かけに惹かれる人間はみんなそうだ。無口で無愛想な彼を、都合の良いように性格付けをする。誰も本当のさく也を見ようとしない。彼らの理想の中原さく也を、勝手に理解したと思い込んでいるのだ――少なくとも、りく也にはそう見えた。

 きつい物言いにユアンの唇がムッと引き締まる。「おまえ」呼ばわりが気に障ったのか、「おまえ?」と繰り返した。

 りく也の笑みは自嘲のそれに変わった。

 自分は彼に八つ当たりしている。弟であるりく也が一番兄を理解していると思っていたのに、笑い声を引き出せなかった。そのことが悔しくて、さく也の上辺に惹かれるユアンに対し、優越感を持ちたかったのだと気付く。

「十分後にテレンスから一人搬送されて来る。受け取ってくれ」

 バートリーがりく也の肩を叩いた。振り返ったりく也は、いつもの『医学生のリック』に戻っていた。

「ヘリですか?」

「いや、救急車」

「じゃ、出て待ってます」

「頼むよ」

 そう言うと、彼を呼ぶ治療室の方へ走り去った。外来患者は少なくなったが、今日運び込まれた将棋倒しのけが人には重傷者が多く、スタッフは大忙しなのだ。りく也は首をぐるぐると回し、搬入口のドアに手をかけた。

「八つ当たりだ、悪かった」

 棒読みのような謝罪だったが、ユアンの唇の力が抜けて、美しい白い歯列が覗いた。笑ったのではなく呆けた、日本でいうところの『豆鉄砲をくらった鳩』な顔と言うところか。りく也の素直な謝罪は、よほど意外だったと見える。

「リク、」

 外に出る体勢に入ったりく也は、ユアンに呼び止められた。首だけで振り返り、 「その呼び方はするな。そう呼んでいいのは、サクヤだけだ」と言い捨ててドアを押し開けた。




 昨日の喧騒が嘘のように、日付の変わったE.R.は静かだ。夕方に外来が少し忙しくなったが、昼間とは対処はスムーズだった。将棋倒しの重傷者のほとんどは別の病棟に移されたので、ここ数日間では一番静かな夜となった。

 りく也はドクターのロッカー兼休憩室で医学書を開いていた。夕方の一時的な忙しさにまたも帰りそびれてしまったのだ。それで提出期限が迫るレポートの下書きをしながら、次の勤務時間を待つことにしたが、本は開いているだけで読んでいるとは言えない状態だった。頭の中は搬入口の外での場面に占められていたからだ。

 初めて会った兄の恋人――加納悦嗣は『感じのいいヤツ』だった。恋人と言うよりは良い友人と言った風で、今までの男達のようにさく也を溺愛している感がない。兄に初めて出来た友達。それがりく也の第一印象である。もう一人のユアン・グリフィスの方がよほど恋人然として見えた。ユアンが持っていたドリンクの一つはさく也の為のもので、甘い笑顔付きで手渡す様子は、以前の恋人達と同じだ。

「あ、何だ、帰ってなかったのか?」

 ケイシーが入って来た。手にはどっさりとカルテを持っている。それをりく也の座る大きなテーブルの上に放り出し、コーヒー・メーカーに歩み寄った。りく也にも「飲むか?」と確認し、二つの紙コップにコーヒーを注いだ。

「帰りそびれたんです」

 カップを受け取って答える。ケイシーは向かいに座った。りく也の意識は今に戻ってきた。

「兄貴が来たんだってな?」

 この質問は何度目だろう。りく也は苦笑した。スタッフの家族が会いに来ることは珍しくない。ケイシーの二人の子供は父親の職場を見に来たし、ロバートの元ミス・カルフォル二アの――今は二倍以上豊満になったと思われる――母親も着替えを持ってきたと称し、自慢の息子の働きぶりを見に来た。他にも友達や配偶者、異性・同性の恋人などの訪れもあったが、りく也の時ほど話題にはならなかった。

「たかが兄貴が来たくらい、珍しいことじゃないと思うけどなぁ」

 りく也の皮肉めいた呟きに、ケイシーがニヤリと笑った。

「普通の兄貴だったらな。やけに目立つ三人組だったって聞いたぞ。ヴァイオリニストなんだって? 今年のちゃいころすきー、最有力なんだってな? すごいな」

「それを言うならチャイコフスキーですよ、ケイシー」

 どう見てもR&Bしか聴いてなさそうなケイシーの口から出るチャイコフスキーの名は、相当に違和感があった。「すごい」がどれくらい「すごい」のか、わかって言っているとも思えなかった。大方、誰かの入れ知恵だろう。ケイシーは頭を掻いて、持ってきたカルテを開いた。

「クラシック好きの部長なんかは、あの派手なブロンドに大騒ぎだったけどな、他はみんな、おまえの行動に驚いてたぞ。本当に兄貴なのか? あの飛びつき方は違うだろ?」

「兄貴だってば、正真正銘、十五分違いの」

 からかい口調のケイシーに、乾いた笑いで答えた。

「ずい分会ってなかったから、ちょっとはしゃいだだけですったら。ご期待に添えなくて申し訳ありませんがね」

「それじゃ、重症なブラコンだな」

 違う声が割り込んだ。声の主はジェフリーで、彼はまっすぐロッカーに向かった。やはり予定よりずい分オーバーしてのオフだった。

「ICUのモンローをすっぽかしたろ?」

「ちゃんと断った。それに兄貴の為にキャンセルしたんじゃないぞ。夕方はそれなりに忙しかったじゃないか?」

「どーだかなー。いつもと雰囲気違ったもんなー。mouth to mouthだし。噂、変わったぜ。リック・ナカハラはブラコンでゲイ。満たされない性欲を、女で処理してるって」

 りく也はレポート・パッドを一頁千切って丸め、ジェフリーに投げつけた。

「みんな忙しくて、煮詰まってんじゃないのか? だいたい後半は君の創作だろーが」

 後頭部に軽い音を立てて当たり、床に落ちた紙屑をジェフリーは拾い上げ、今度はりく也に向けて投げ返した。しばらく紙屑の応酬が続いたが、ケイシーの嗜める声がかかったので、りく也の手からごみ箱にパスされて終わった。ジェフリーは腕時計に目をやる。

「遊んでる場合か」

 そう言うと手を振って足早に帰って行った。それでなくても大幅にオフを削られている。さっさと帰らないと足止めを食らってしまう。医学生は何しろ、使い走りだから。

 ジェフリーが出て行くとりく也を肴にした話も終わり、ケイシーは山と積まれたカルテの整理に取り掛かった。が、すぐにナースが呼びに来て中断せざるを得ず、頭を掻きながら出て行った。

 そうしてまた、りく也一人になった。

『重症なブラコンだな』

 そんなことはジェフリーに指摘されるまでもなく、とっくに自覚している。

 りく也は八才の時に、跡取を必要とした遺伝子上の父である男に引き取られた。不倫の末に生まれた彼はその妻と子供達に存在を認められず、財閥の後継者として厳しく教育される。優しかった実母と仲の良い兄が恋しくてたまらなかった。しかし瞼の母が手元に残った兄を虐待し続け、ついにはその首に手をかけて殺そうとしたと知った時、そして、ショックで感情を失くして空ろな瞳の兄を見た時、りく也は――子供は大人への期待を止めた。この世で信じられるものは、同じ日に同じ子宮から生み出され、辛い境遇の中で育ったさく也だけ。後はすべて敵。りく也はそう思って生きて来た。

 再び医学書に目を落とす。専門用語を解するほど大人になったが、りく也は精神的にあの頃と少しも変わっていない。人好きのする人気者のその実は、人間不信のまま育った、身体の大きいだけの子供なのだ。だから、さく也の幸せを素直に喜べない。あの笑顔を向ける最初の相手が、自分でなかったことがこんなに悔しい。

「ざまぁねーな」

 さく也の変わりようを見るのは嬉しい。加納悦嗣がいいヤツで良かったと思う。

 それでも人間の心は複雑で、ちりちりとした痛みがりく也を苛んだ。


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