無邪気
妻視点です
見慣れた景色。
小さなアパート。その一室のチャイムを押す。
すぐに、愛しい夫が出てきた。
精一杯の笑顔で話しかける。
「久しぶり!元気だった?」
「久しぶりだな」
いつも通りの問いかけ。いつも通りの返事。
その優しい笑顔に、チクリと胸の奥が疼く。
でも、笑顔はそのままだ。
何せ、この笑顔とは小学校の時からの付き合いだからだ。
こんな小さな痛みで、歪んだり曇ることはない。
だから、誰も私の心は理解できない。
あの人以外は。
私は、浮気をしている。
居酒屋で会った男。
まだ出会って日が経たない男。
なのに、私の心を何年も連れ添っている夫より、理解してしまう男。
「おい…?」
気が付くと、夫の心配そうな顔。
どうやら少しぼーっとしてしまっていたらしい。
「え、ああ、ごめん。どうしたの?」
「いや…ぼーっとしてたみたいだったから。疲れてるのか?」
「…そうかもね。昨日、ちょっとよく眠れなかったし」
「あんまり無理するなよ」
優しい夫。
何も不満はないのに。満足しているのに。
なのに、なぜ、あの人に惹かれてしまうのだろう。
大好きなはずなのに。気持ちは変わっていないのに。
久しぶりの手料理を、夫はとても嬉しそうに食べていた。
娘が作った手料理だからだろうが、それでも、おいしそうに食べる姿を見ていると嬉しく感じる。
食べ終わって、しばし休んでから買い物に出かける。
毎月のことだ。
今月も、冷蔵庫の中が悲惨だった。
相変わらず、夫は食生活のことは無頓着らしい。
こうやって毎月見に来ないといつか倒れてしまうのではないかと心配になる。
女性服コーナーで色々な服やアクセサリーを見ていた時。
ふと、目に留まったのは黒いブレスレットだった。
あの人に似合いそう。
気付くと、レジの前にそのブレスレットを持って立っていた。
今さら返してくるわけにはいかずにそのまま購入する。
幸い、娘はどこかに行っているので見られてはいない。
まぁ、大人しい娘のことだから、見ても何も言わないのだろうけど。
「…いい服あったか?」
「ううん、今日はいいわ」
「そうか?じゃあ、行くか」
歩き始める夫と娘。
その後を追う。
バッグが、いつもより重い気がする。
それを誤魔化すように夫の腕に抱きついた。
「うおっ!」
「へへ」
無邪気に笑う。
安心しきっているように。
何も変わっていないと。
いつまでも変わらないと、証明するように。
それを見て、夫が笑顔を浮かべる。
しょうがないな、とでも言うように。
子供っぽい。
それが私の形容詞。
皆は知らない。
それを私が作ってることを。
あの人しか知らない。
あの人の前では、無邪気に振舞う必要なんてない。
だから、私はあの人に惹かれているのだろうか。
心の拠り所にしているのだろうか。
私は、彼を利用してるだけなんじゃないか。
いつまでも答えの出ない問いに、私は悩み続けている。
その日は夫の家に泊まった。
泊まると言ったら夫は驚いていたけれど、快く了承してくれた。
久しぶりに夫の横で眠るけれど。
心の片隅は鈍い痛みを訴えていた。
なかなか眠れず。
私は寝返りをうって、夫に背を向けた。
早く【今日】が終わればいいと思いながら。