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第6話 もう偽れない

 真夏日に出かければそりゃ汗臭くもなる。

 両手いっぱいに荷物を持ってあの勾配がきつい坂道を上がってきたのだ。夜でも気温が30度を超えているのだから汗を掻かない方がおかしい。

 それに汗の臭いが気になるのならもっと早く言ってくれたら済む話だ。言う時間はいくらでもあったし、言ってくれたら帰宅してすぐ風呂に入っている。

 そもそもあの場面で言うことじゃない。せっかくのムードをぶち壊すなんて何を考えているのだろうか。

 ただアイツにまったくその気がないというのならそれまでだが、果たしてそうなのか。自分が生きていた頃の話をしたのは俺に心を許すようになったからではないのか。

 それとも、ただ単純に鈍感なだけだったらこの先は苦労しそうだ。あそこまで言って俺の気持ちが分からないようなら、この先もはっきり言わないかぎり気がついてくれそうにない。

 いや、気がついていながらはぐらかしているなんてことも考えられる。それはそれで鈍感以上に厄介だ。

 気がついていない素振りをされていることが分かった時、俺は今まで通りに接していられるのだろうか。

 いや、自分に問うまでもない。

 おそらく普段通りに振る舞うなんて無理だ。ヘンに意識しすぎてぎごちない言動が目立つようになるだろう。

 下手をすればたった一言から今の関係が崩れてしまうことだって考えられる。気まずい状況が続くようなことにでもなれば最悪だ。

 だったら何も言わず今の関係を保ち続けるべきではないだろうか。

 所詮は生きている人間と幽霊。お互いを認めてもそれ以上の関係になることはない。

 そもそも今の状況が現実離れしているのだ。人間と幽霊が互いを認め合って同居しているなんて俺達以外にいないだろう。

 どのみちお互いの気持ちがどうであっても、いつかは成仏させてやらなければならない。実香のことを考えてやるのなら、こんな狭苦しいところに地縛する未練から解放してやるべきだ。

 だがそれは永遠の別れを意味している。もう二度と会えなくなるのなら成仏してほしくないって思うのは我が儘なのだろうか。


 だよなぁ、いつまでも幽霊をやらせておくわけにいかないし……。

 でも成仏させてやったら実香は……はぁぁ、どうすりゃいいんだ。


 果たして、自分の気持ちを正直に言ってしまっていいのだろうか。それとも今のままの関係を続けていた方がいいのか。

 あるいは実香のことを想うのなら早く成仏させてやるべきなのか。

 湯船に浸かりながらいくら考えていても答えは見つからない。自身への問答は堂々巡りの末、結局は結論に至るどころかふりだしに戻ってしまう。


 ……って、さっきから何を考えているんだ。

 なんでアイツの嬉しそうな顔や怒った顔ばかり頭の中に浮かぶんだよ。

 それに見たくもない血まみれ……あれだけは思い出すのをやめよう。

 風呂で溺れて死ぬなんてシャレにならん。


「まっ、なるようにしかならないか」


 湯船のお湯を掬って顔を洗う。

 これで気持ちを切り替えられるのなら楽だけど、生憎とドラマのようにいかないものだ。湯船から出てからも実香が何をやっているのか気になってしまう。

 まっ、一応ではあるがおおよその見当はつく。今頃は先程のことを忘れて呑気に寝転がってテレビでも観ていることだろう。

 それはそれで接しやすいというのもあるが、どこか寂しいようでもある。

 しかし、もしも気がついていたらどうだろう。

 顔を真っ赤にして身体をモジモジとさせて待っているとしたら即応えてやるべきなのか。なんて考えているとまた淫らな妄想が浮かんでくる。

 実香が風呂上がりの俺を潤んだ目で見つめているなんて現実ではあり得ない姿がそこにあった。

 妄想の中にいるアイツは何も身につけていない。手ブラで胸を隠し、座ったまま上目遣いに終始無言だ。

 近寄れば目を伏せて視線を外す。大胆な行動でありながら初心な反応が彼女の心情をありのままに現している。

 恥ずかしそうに頬を赤らめている実香にここまでさせて手をこまねくほど俺は奥手ではない。寄り添って肩を抱き、目蓋を閉じて待つ実香に唇を重ねた。


 違う、違う!

 いきなりそんな関係になるわけがない!

 なにヘンな期待しているんだ俺は!


 どうも少し長湯をしてしまったらしい。

 都合の良い妄想にふけてしまったのはのぼせてしまったからなのだろう。

 どうりで湯船から出たあとも頭がボーッとしている。湯けむりのせいもあるかもしれないが浴室のガラス戸が2重に見えてしまう。


「そう言えばアイツ、風呂を出る前に水を浴びたら気持ちいいって言ってたな」


 のぼせた頭を冷やすという意味でもこれは期待できそうだ。一緒によからぬ妄想を流してしまわないと実香と顔を合わしづらい。

 それに妙な期待をしての落胆は余計なことを口走ってしまう恐れがある。今まで通りに接する為だと自分に言い聞かしつつ、シャワーヘッドを頭の上にかざしてから蛇口を冷水の方だけを捻った。


「ぐああっ、冷てぇぇっ!」


 冷水を浴びて確かに頭は冷えた。

 湯船に浸かってポカポカとした身体までが一気に冷めきった。

 しかしこれは気持ちがいいというよりも、むしろ一瞬の心臓の萎縮で健康に悪いといった感じだ。

 淫らな妄想も消し飛んで気持ちが落ち着くってものじゃない。全身に突き刺さる冷たさと心臓への負担に堪りかねてシャワーをすぐに止め、湯船のお湯を桶で掬って身体にぶちまけた。


「ハァ、ハァ……な、何が気持ちいいだ!」


 人間と幽霊とでは感覚がまったく違うものらしい。

 実香が異常なまでの暑がりだってことをあらためて実感した。




 ※ ※ ※




 風呂から部屋に戻ってみると実香の様子はいつも通りだ。丸いクッションの上に肘をつき、横になりながらテレビを観ている。

 かと思えばクッションを抱えながら起き上がってあぐらを掻き、テーブルに置いたオレンジの缶ジュースを手にとって口にする。これも見慣れた姿であり、風呂上がりの俺もパンツ一丁でいようが恥ずかしがる様子もなかった。

 風呂上がりはしばらくこの格好でいるのが日常化した今となっては、もはや気になることでもないらしい。振り返って一瞥したあとはテレビに見入ってしまい、黙って後ろに立ったままでいようがまったく見向きすらしなかった。

 やはりと言うべきか実香にとっての俺は快適な環境を与えてくれる同居人でしかないらしい。好意を寄せる相手どころか男としても眼中にないのだろう。

 良くてせいぜい家族みたいな間柄。それ以上の感情が湧かないといったところか。

 日頃の態度からして当然と言えば当然なのだが、やはり実香には先程のことが仲直りしただけで終わっているらしく、これではもう僅かな期待すら望めそうにない。おもわず落胆の溜息が漏れてしまう。

 しかし妙な安心感もあった。

 だからこそ俺もヘンに意識することもなく声をかけられるというものだ。


「こんな遅くにドラマなんかやってたっけ?」


「野球で放送が遅れているんだって」


「それでか」


 テレビの画面には二人の男女が映っていた。どちらも有名な若手の俳優と女優だ。

 俺は観たことがないけれど、ドラマは放送前から話題になっているらしい。更に放送開始後から物語終盤にラブシーンがあるという噂が広まり、女優のファンがやたらネットで騒いでいるようだ。

 しかし実香が熱中している理由は別にあると思う。物語そのものに惹きつけられたらしく、セリフ一つ一つに頷いて納得している様子だ。

 俺も冷蔵庫から取りだしたコーラを片手に実香の横に座る。少しだけ離れた位置に座ったのは入浴中の妄想が脳裏によぎったからだ。

 現実に妄想が重なれば、さすがにすぐ横に座れる大胆さは持ち合わせていない。こんな時に図々しい神経を持ち合わせていたらどんなに楽なことだろう。

 一方の実香は意識する様子がなく、言葉を返してもテレビに釘付けだ。手にした缶ジュースをテーブルに戻してからクッションをギュッと強く抱きしめたきりまったく動かない。

 ここまで無関心でいられるとさすがに少し堪える。いくら気持ちを切り替えようとしてもまたモヤモヤとした感情が胸の奥から湧きだしてしまう。


「最初から観ていないのに面白いか? 確か今日が最終回なんだろう」


「ちょっと黙って。今いいところなんだから!」


「はい……」


 怒鳴り声に気圧されてつい素直な返事をしてしまったあと、なぜか自分自身に可笑しくなってしまった。この期に及んでも妙な期待を寄せている愚かさに呆れてしまったからだ。

 そして感情を整理できない状態でテレビ画面に目を向けてみれば、主演の二人がこみ上げる感情を抑えきれない面持ちで見つめ合っていた。どうやらこれからクライマックスへと向かうらしい。

 となればこの先はおおよその見当がつく。ドラマにまったく関心がないと言えば嘘になるけど、結果が分かれば必要以上に関心を持つほどでもない。

 関心があるとすればむしろ俺の横だ。手を伸ばせば届く距離がとても遠くに感じてしまう。

 チラリと見た実香はゴクリと喉を鳴らし、ドラマの二人がどう結ばれるのかと期待に満ちている。その熱中ぶりからして俺の存在なんてもう消えてしまっているのだろう。

 もう一度テレビの方を見れば俳優が女優を抱きしめているところだった。

 どうりで女優のファンが騒いでいた筈だ。この流れからしてキスシーンはもう確定だろう。

 それよりも実香が気になって仕方がない。さりげなく肩に手をまわそうかと思っても、いざ実行しようとすると手を引っ込めてしまう。

 今日ほど手をついた畳が冷たく感じたことはないだろう。仰け反るように姿勢を崩していると深い溜息が自然に漏れ、いつの間にか天井を仰ぎ見ていた。


 何をやってんだよ、俺……。


 モヤモヤとした気分が抜けきらないまま「まっ、ファンなら初めてのキスシーンを見せられて騒ぎたくもなるか」と興味なさげに呟いた時だ。

 手の甲に冷たくて柔らかな感触に包まれ、すぐにギュッと握られた。


「えっ!?」


 自分の手に目を移すと実香の手が重ねられていた。

 この不意打ちでたちまち胸がドキドキと高鳴り、頭に浮かんだ言葉が声に出せない。仰け反らせていた背筋が真っ直ぐになり、動こうとしても何故か動くことが出来なかった。

 緊張と条件反射による硬直は何分ぐらい続いたのだろうか。その間の思考までもが停止したようだ。

 どのくらい経ったのかよく覚えていない。気がついたら実香の横顔をじっと見ていた。

 おもわず顔をそっぽに向けるとテレビの画面には予想通りの展開と言うべきか、誰もが羨む濃厚なキスが映しだされている。小さな物音が気になって横に振り向けば手を重ねた実香が先程よりも距離を詰め、もう一方の手でクッションを抱きしめていた。

 僅かでも寄ってきていながら俺をまったく見ていない。半開きに口を開いてテレビに魅入ったままだ。

 この状況をどう解釈すればいいのだろう。

 物語に没頭するあまりによる無意識の行動なのか、もしくは女優を自分に置き換えて役になりきっているだけなのか。

 それとも違う理由があるのなら話は変わってくるが、世の中はそう都合がいいものではない。

 これでは益々声をかけ辛い。

 ドラマはついにラストシーンへと移っている。主演の二人が何処かへ向かうシーンにエンドロールが流れだした。


「いいなぁ、あたしも一度でいいからあんな風にしてみたかったなぁ」


 ドラマの余韻を引きずった実香の感想は俺に向けられたものと決めつけていいのだろうか。うっとりとした羨望の眼差しはずっと画面に向けられたままだ。

 その横顔を見ていると数分前よりもっと近くに感じてしまう。

 ただ意識し過ぎただけなのかと思ったのは一瞬のことで現実は違っていた。俺の手の甲を握った実香はすぐ横にまで身を寄せていたのだ。

 もっと近くに、触れそうで触れない距離を実感した途端、思考の中で何かが這いずり回ったような衝撃が駆け抜ける。


「――!?」


「ん、どうしたの?」


「い、いや……べ、べ、別に……」


 どちらかが身体を少しでも傾けたら肩が触れてしまいそうだと意識してしまって息が詰まりそうだ。

 視線を感じたらしい実香が振り向いて尋ねてきても、ただ狼狽えるばかりでどう返事すればいいのか言葉が見つからない。

 付け加えてシャンプーと石鹸の香りは嗅ぎ慣れていても彼女自身から発する匂いは格別だ。こればかりはつい過剰に反応してしまい、高鳴る鼓動がより一層に激しく脈打つ。

 実香に握られた手の甲は冷たくても、握りしめている手の平は汗を掻いて熱い。額からも汗が滲み出ているのを実感してしまう。

 エアコンが効きすぎた部屋が普段は少し肌寒いと感じていたのに、今は少し暑くなったような気がしてならない。


 なんだよ、いきなり手を握ってきて……。

 これってどういう意味なんだ!?


 もう一度チラリと実香を横目で見たときに目が合ってしまえば、もう他のことなんて何も考えられない。

 キョトンと俺を見ている実香が呆れた顔になって溜息を吐いた理由にも見当がつかない。

 自分だけ舞い上がっていることは分かっていてもそれだけだ。不必要なまでの緊張のせいで思考が働かず、正面に向きなおった下着姿を見ているしかなかった。


「髪の毛が濡れたままじゃない。ちゃんと拭かなきゃ風邪ひいちゃうでしょう。もう、しょうがないわね」


 俺の手を握った細い手が離れると首に掛けているバスタオルの端を掴む。その手が顔の方に向けられて視界が遮られたと思ったが違った。

 自分のバスタオルで額の汗を拭ってくれたのだ。


「いいよ、自分でするから」


「ダメよ。ちゃんと拭けてないんだから動かないで」


 反射的に仰け反ろうとするよりも実香に押さつけられる方が早かった。なすがままに髪を拭かれていると、今度は膝立ちの肢体が視界を遮っている。

 フリルが付いたピンク色のブラに包まれた二房の果実が眼前で踊り、柔らかな腿の感触に俺の両脚を挟まれてはとても冷静ではいられない。


 ダメです、もうじっとなんてしていられません。

 こんなの反則です。

 堪えろって言う方が無理です。

 だからもう我慢しなくてもいいですよね。


 魅惑的な肢体を前にして、いったい何時まで理性が保てるというのか。純粋な気持ちがあるからこそこみあげてくる悦情が迷いを吹っ切れさせ、尚且つ俺の背中を強く押してくる。


「実香っ!」


 座ったまま両手を伸ばして実香の腰にまわすと彼女の背中がビクンと跳ねた。それを構わずに力いっぱい引き寄せる。


「きゃっ!」


 前屈みにもたれてきた実香が驚いて小さな悲鳴をあげて間もなく、柔らかな二つの膨らみが迫って頬に押し当たる。人としての体温がなくても、俺の胸に抱かれた身体はまぎれもなく彼女の存在そのもの。

 たとえ胸の鼓動が聞こえなくても、きめ細かな素肌に温かみがなくても俺にとって実香は実香だ。その気持ちに偽りがないと胸を張って言える。


「ちょ、ちょっと! いきなり何すんのよ!」


「頼む、しばらくこうさせてくれ」


 膝の上に座る格好から離れようと力いっぱい肩を押して仰け反っていた実香だったが、抵抗らしい素振りは最初だけだった。

 諦めたかのように「もう、しょうがないわね」と言ったあと、いつしか俺の背中に冷たい腕の感触を感じられたのが彼女なりの答えだったのだろう。背中にまわしている腕の感触がより強く感じられると顔に当たる彼女の胸が強く押しつけられた。

 もしかして今の表情を見られたくないとでも思っているのだろうか。背中にまわった手が頭を抱えるように位置を変え、より力をこめてくる。


「どうしたのよ、急に?」


「ダメなのか?」


「あたしにだって心の準備っていうものがあるし……でも、こういうのって」


「驚かせたのはお互いさまだ。実香だって俺の前に突然現れたじゃないか。アレにもなるし」


「そんなこと言ったって……」


 実香は今、どんな表情をしているのだろう。

 声には戸惑いや恥じらいといったようなものを感じられるからこそ気になって仕方がない。

 実香の顔を見ようと動くとブラの生地が擦れる。そこへ頭の上に頬を押し当てられてしまう。

 胸の谷間のおかげで呼吸は出来ても少し息苦しい。

 けれど、気分は悪くない。心地よい息苦しさと言うべきなのだろうか。


「そんなに締めつけてきたら息できないじゃないか」


「雅彦君がエッチなこと考えているからよ。今、どさくさに紛れて胸を触ろうとしたでしょう」


「バレてたか」


「やっぱりね。そんなことだと思ったわ。まっ、その気にさせたあたしが悪いし」


「そうだよ、あれじゃ襲ってくれって言ってるようなものだ」


「でもこれ以上はダ~~メッ!」


 してやったりと言いたげな苦笑が頭の上から聞こえても、腹が立つどころか可愛い響きとなって鼓膜を擽られた気分になる。濡れた髪に頬ずりまでされてはどうして悔しいと思えるというのか。

 むしろようやく心が繋がったと感じられて嬉しさがこみあげ、実香を求める感情が狂おしいばかりに燃えさかる。

 なのに実香はまだ俺にすべてを委ねるつもりはないらしい。


「なんでダメなんだ。俺は実香が欲しい」


「どうしてもダメ。そんなつもりなんてなかったし、こういうのって恋人同士がするものでしょう」


 俺の求めを実香は頑なに拒む。

 それなのに彼女は俺を強く抱きしめて離すつもりがないようにも感じられる。心底嫌で拒むのなら罵声を浴びせて突き放すだけでいい。


 なんで怒らないんだ?


 俺には実香が考えていることが分からなくなってきた。考えれば考えるほどに最後の言葉が頭の中で何度も反響して残る。

 分かろうとしているのに、分かりたいと願っても、見えない壁のようなものが立ち塞がって邪魔をしているようだ。

 それが無性に悔しい。

 だからせめて気持ちだけは言葉にして伝えようって思った。あとのことなんて一切考えていない。

 ありのままの想いを告げる。


「分かった。でも俺は実香が好きになっちまった。それだけは信じてほしい」


 どさくさに紛れての告白は卑怯かもしれない。

 でも実香の心には十分響いたようだ。俺の肩に両手をつき、膝の上に座ったまま驚いた顔を見せる。


「なんで、どうしていきなり言うの! 好きになったって嘘よ。こんな時に言われても信じられるわけないじゃない」


「こんな時だからこそ嘘なんか吐けるわけないだろ」


「あたし、幽霊なのよ。こんな冷たい身体しているのに、いつも迷惑かけているのに!」


「そうだよな。電気代の請求が今から怖いよ」


「だったら!」


「好きになったらしょうがないだろう。たくっ、なんでお前みたいなヤツを好きになったりしたんだ」


 本当につくづくそう思う。

 なんでこんなヤツを好きになったんだろう。

 我が儘で自分勝手なはた迷惑なのに、それが可愛くて無性に愛しくてならない。


「お前って、言わないでよ」


 気持ちを昂ぶらせていた実香の声音が“お前”と言ったことでか細いものに変わった。

 自分の感情を押し殺すようでいてどこか辛そうな面持ちだ。

 そうだ、前から気になっていたけれど、実香はどうしてお前って言われるのを嫌がるのだろう。


「なんで“お前”って言われるのをそんなに嫌がるんだ?」


「それは……その……」


 いつもなら言いたいことをはっきり口にする実香がこの時ばかりは言葉を濁した。

 辛そうにしていた表情が尋ねた途端に困惑の色に染まってしまい、恥ずかしそうにそっぽを向いて頬を赤らめた。


 なんだ、この反応は!?

 ここで恥ずかしがるなんてどういう意味だとツッコミを入れたくもなる。


「別に言いたくなきゃ言わなくたっていい。無理には聞かない」


 とは言ってみたもの、やはり本音としては顔が赤くなるような理由を訊いてみたい。

 しかし俺自身に思い当たるような理由が浮かばないのなら問い質すわけにいかないだろう。おそらく彼女の生前に関わることのようだから、本人から話す気になるまでそっとしておくべきだ。


「ただ俺の気持ちだけは分かっていてほしい」


 しばし間を置いてから最後にそう付け加えた。

 実香は顔を背けたまま黙って聞いているだけでもいい。俺の気持ちを知ってもらうことに意味がある。

 ホッとしたようで落胆したかのような感情でモヤモヤとした気分が抜けきらなくても焦ることはない。もう遅い時間だし、今のところはこれで十分だと思ってゆっくりと実香を離した。


「それじゃあ、そろそろ寝るよ。テレビのボリュームあまり大きくするなよ」


 襖の向こうへ行く前に実香の肩にそっと触れた。しかし頬を赤らめた顔はまったく反応がなく、俺を見ようともしない。

 名残惜しい気分を引きずって立ち上がろうとした時だ。実香が俺の手を掴んで呼び止めてくる。


「待って」


 実香は座って顔を背けたままだ。手をグッと引っ張ってここに座ることを強要してきたのにも拘わらず、続けて何かを言いたそうにしていながら一言も喋ろうとしない。

 だからと俺から口を開くことはないと思って彼女が切り出すのを待った。どれぐらい待ったか分からないけど、静かに時を刻む時計の針の音だけがずっと聞こえていたような気がする。

 妙な緊張感が漂い、冷たい空気が重くなってから実香がようやく口を開く。


「あ、あのね……」


 一言だけ発してまた押し黙る実香の表情からして、どうやらおもいきって切り出してみたもの、まだ言うことに躊躇っているといった感じだ。

 どうりで妙な緊張感があるわけだ。それにしても実香は何を言おうとしながら躊躇っているのだろう。


「そ、その……他の人なら別にお前って言われても嫌じゃないよ。だけど雅彦君にはあたしのこと、やっぱり名前で呼んでほしいかなって……」


 実香がなぜ“お前”って呼ばれることを嫌がるのかはこれで分かったが、どうして俺だけなのかがさっぱり分からない。

 気心の知れた仲になれば相手をお前って呼ぶなんて普通だ。友人や年下の相手、あるいは飛躍した言い方だけど恋人にお前って呼ぶこともある。

 だったら俺はまだそこまでの間柄になっていないということなのだろうか。1ヶ月そこらの同居関係ではまだ物足りないというのだろうか。

 それはあまりにも寂しいことだ。心にポッカリと穴が開いた気がしてならない。


「そうだよな、俺たち出会って1ヶ月も経っていないから実香がそう思うのはしょうがないか」


「違うの、そうじゃない! あたしにとって雅彦君は特別な人で……その、もっと前から……」


「えっ、もっと前って!? あっ、そうか。俺が実香のこと見えるようになる前って引っ越してきた時ってことか。んっ……ちょっと待て、その前に何って言ったんだ?」


 今、何って言った!

 聞き間違えたのか!?

 実香にとって俺はまだ親しい間柄じゃない……違うのか!?

 だったら今の言葉をもう一度聞きたい。

 また誤解とか、勘違いなんかもう真っ平ゴメンだ!


「頼む、もう一回だけ言ってくれ」


「恥ずかしいこと二度も言わせないでよ」


「いいじゃないか、ケチ」


「ダ~~メッ!」


「なんだよ、それぐらい……んっ!?」


 不満を訴えようとしたところで実香が振り向きざまに迫ってきた。

 冷たいけど柔らかな肢体を受けとめることだけに意識していた俺には突然の不意打ち。ぷっくらとした感触が俺の唇に重ねられてしまい、勢い余って受け身が取れないまま倒れ込んでしまった。

 背中への衝撃よりも実香の大胆な行動の方が衝撃的だ。受けとめた彼女を抱きしめ、今度は俺の方からキスを求めた。

 姿勢を変え、今後は俺が上になって口づけをかわす。

 キスは甘酸っぱいものだとティーン雑誌で読んだことがあるけど実際にそうだった。柑橘系の香りと味が感じられる。


 これってアレだよな。


 実香を意識しながら頭に浮かんだのは今も小さなテーブルに置いたままにされた缶ジュース。彼女の口から同じものがしてならなかった。

 しかし特別に意識するほどのことではない。今はもっと気になることがある。


「姿を見せる前って、もしかして俺に一目惚れしたのか?」


 唇を離したあと、少し照れ気味に尋ねると実香は俺よりも照れて顔が真っ赤だ。潤んだ瞳がまったく定まっていない。

 覆い被さった俺を真っ直ぐに見ていられなくなったのか、そっぽを向いたまま返答に困った様子だ。


「バカッ! ち、違うわよ。そんなんじゃなくて、その……!」


「なんか怪しい態度だな」


「もうっ、恥ずかしいこと聞かないでよ! この……バカァ」


 拗ねたと思えば恥ずかしそうにそっぽを向いて黙りこむ実香の表情が可愛らしく見える。実に彼女らしい意地の張り方だ。

 その横顔がとても愛おしく感じてならなかった。

 次回の更新予定日は実生活の都合上、いつになるか分かりません。

 ある程度の目処がつけば活動報告にてお知らせします。

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