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第5話 これって痴話喧嘩!?

 人間という生き物はどのような環境でも慣れてしまうものらしい。

 それがたとえ幽霊という非現実的な存在との同居であっても、1ヶ月が過ぎた今となっては当たり前のように受け入れてしまっている。もう実香を追いだそうなんて考えがまるでない。

 非常識な日常が続くと人間はそれを当たり前に思ってしまうものだろうか。部屋に戻れば下着姿の実香に笑顔で「おかえりなさい」と出迎えられると、笑顔を返して「ただいま」と返事してしまう自分がいた。

 普通に接していれば怒ったり、笑ったりして生きている人間と何も変わらない。はた迷惑なところが多分にあるけど、二人で居るときが今は楽しく思えてくる。


 って、何を考えているんだ俺は!

 実香ゆうれいがいることが当たり前になっていくなんてどう考えてもおかしいだろう。


 なのに、どうしてか嫌な気がまるでしない。もしかして俺自身の思考がついに狂ってしまったのだろうか。

 それとも実香ゆうれいを家族として受け入れてしまったのだろうかといつしか考えてしまうようになっていた。

 いや、それは自分の気持ちを偽っているだけだ。異性として意識してしまっている事実を認めたくない為に気持ちを誤魔化しているに過ぎない。

 いつも下着姿の女幽霊は住みつくだけでなく、俺の心にまで取り憑いてしまったからそんな気持ちに変わってしまったのだろうか。

 それとも……。


 こんなの気の迷いだ!

 疲れて精神的にも参っているだけなんだ。

 それに妙な意識をしてしまうのはアイツが四六時中あんな格好でいるからだ。

 クソッ、なんでいい加減に慣れないんだよ俺は!

 アイツの下着姿なんかもう見慣れているだろっ!

 普通にしていればいいんだよ。


 お盆を迎えて倉庫会社でのバイトが休みに入った途端、疲れが溜まっていたのもあって家にいることが多い。せっかくの連休を随分と無駄に消費してしまっている。

 実香が家から出られたらなんて考えが浮かんでしまうのも暇を持て余しているからだ。せっかくの休みなんだから遊びに出かければ余計な考え事なんて消し飛んでしまうとは思っても、外出する気になれないのは果たして――。


 やはり最近の俺はどうかしている。

 こんなくだらないことを考えるぐらいなら、いっそのことファミレスのバイトを昼のシフトにも入れてもらえばと思っても後の祭り。今さらシフトの変更なんて出来ない。

 思えば実香が現れてからの1ヶ月で俺自身も随分と変わったものだ。冷え冷えとした部屋の気温にも慣れてしまっている。

 そして実香に対しての接し方も変わったのではないだろうか。

 今日も夕方ぐらいまでレンタルショップで借りてきたDVDを二人で観ていた。その後は俺一人だけが実香に頼まれて買い物に出かけ、帰りの道中にDVDを返しに行っただけで他に寄り道をしない。

 帰ってきたのが5分程前ほど前で、友人宅に寄ったりしなかったのは以前なら考えられなかったことだ。アイツが好きな缶ジュースのストックをわざわざホームセンターにまで行ってケース買いしていることにしても同じ事が言える。

 冷蔵庫の横に空いたスペースはいつしか缶ジュースが入った段ボールケースが置かれるようになっていた。


 で、買い物をした帰りにDVDを返しに寄っただけか。

 それにしても実香はなんでエプロンを買ってくれって強請ったんだ?

 スーパーで買い物もさせて何考えているんだろう。

 やっぱりアレだよな。


 おおよその見当はついていたが、その疑問は家に着くなりすぐ解消された。

 実香は手渡したエプロンをすぐ身につけ、理由を尋ねる前にスーパーのレジ袋を漁りだしたのだ。今夜は自分が夕食を作るだなんて、いったいどういうつもりなのだろう。

 それはいいとして、まともな料理を作れるのだろうか。何かとんでもない物を食わされそうで不安だ。


 幽霊が晩飯を作るって聞いたことないぞ!

 それよりちゃんと作れるのかよ!

 まさか料理を作るのは初めてじゃないだろうな。

 少しでもヘンなところがあったら絶対に食わねぇぞ!


 なんて思ったのは最初だけだった。

 お強請りされて買ったばかりのオレンジ色のエプロンを下着姿のまま身につけた実香が台所に立つのは今夜が初めてなのに、以前から見慣れた光景のように思えて違和感がまったくない。鍋のお湯を沸かし、包丁を扱う様が手慣れているように感じられてつい後ろ姿に魅入ってしまう。

 エビの背わたを取る手際の良さは先程じっくり拝見させてもらった。座って待っていてと言われてからというもの、離れて見ていてもまな板をトントンと叩く音がなんとも小気味よく聞こえてくる。

 コイツ、本当に幽霊なのかと疑ってしまうぐらいだ。いや、下着にエプロンという後ろ姿に魅入ってしまったあとでは、もはや普段の態度がどうであっても疑念を挟みこむ余地はない。

 むしろ俺のために腕を振るう彼女の後ろ姿を見つめているのが日常的なことのように感じてしまうからこそ、油が弾ける音で期待が高まってくる。食欲をそそる芳ばしい香りに鼻腔を擽られてしまえばお腹の虫まで鳴きやまない。


「ねぇ雅彦君、もう少しで出来るからテーブルを拭いておいて」


「ああ、いいよ。なんか俺の分だけ作ってもらって悪いな」


「いいのよ。誰かのために作るのって楽しいんだから」


 慣れた手つきでフライパンをかえす実香は歌を口ずさんで心底楽しそうだ。軽快なメロディに合わせてリズムまで刻んでいる。

 約3ヶ月前にも別の場所でよく似た光景を見ていたけれど、目の前の後ろ姿は料理への期待に加えて刺激までが強い。ピンク色のショーツに包まれたお尻がリズムに合わせて動いていれば目が離せなくなる。

 裸にエプロンもいいが下着姿でエプロンというのもかなり刺激的だ。見えないからこそのエロティシズムというものだろうか。

 こちらの方が下着だけの姿よりもはっきり言ってエロい!

 食欲を刺激されているところへ性欲まで掻きたてられるのはかなり堪える。しかしここは耐えなければならない。

 もしも実香の機嫌を損ねてしまえば後が怖いからだ。嫌らしい目つきを目撃されてしまえば最後、彼女が拭う汗はやがて赤く染まってしまうことになるだろう。

 食事の前に血まみれの姿なんて見るものではない。煩悩なんてものは今すぐに払拭しなければならないのだ。

 そんな俺の心情を知ってか知らずか、実香が背中を見せたまま尋ねてくる。どうやらイヤらしい目つきで見てしまったことに勘づいていないようだ。


「ねぇ、テーブルはもう拭いてくれた?」


「拭いたよ」


 料理を実香に任せている間、俺の方の準備はすでに終わっている。もちろんやましい感情も別の妄想を総動員して打ち消した。

 そしてテーブルを拭き終わったあとにコップ二つを並べる。冷たい飲み物を用意することも抜かりない。

 夏と言えば定番の麦茶と実香が好んで飲むいつものオレンジジュース。あとブロック氷を入れた容器の用意も済ましている。

 そこへ汗まみれの実香がチェック柄のトレイに料理を乗せて持ってきた。


「お待たせぇ。実香特製の海鮮チャーハンと卵スープよ。スープはインスタントだけどね」


「これは美味そうだ。へぇ、エビにイカ、他にもいろいろ入っていて具だくさんだ」


「ふぅぅ、熱かったぁ」


「悪いな、そんなに汗掻かせて」


「これぐらい平気、平気」


 トレイごと置かれた海鮮チャーハンと卵スープを見てますます食欲が湧いてくる。しかしまだスプーンを持つわけにいかない。

 暑がりの実香が汗まみれになって作ってくれたのだ。その労をねぎらってやるのが先だ。

 氷を容器から取りだしてコップに入れ、缶ジュースのプルタブを開けて注ぎ込む。これを食べる前に渡してあげなければならない。


「はい、おつかれさま」


「あっ、ありがとう」


 額の汗を手の甲で拭う実香が礼をいいながらコップを受け取る。しかしすぐに口をつけようとしない。

 暑さに耐えかねてエプロンだけは脱いだもの、頬杖をついて俺をじっと見ている。その期待の眼差しは最初の一口の感想を待っているのだろう。


「じゃあ、いただくよ」


「うん、久しぶりだからちょっと自信ないけどね」


 謙虚に言ってはいるが手慣れた様子を見ていれば味に疑う余地はない。食欲を誘う匂いもあるのだから躊躇いなくスプーンいっぱいに掬って口に運ぶ。


「どう、美味しい?」


「美味いっ!」


「ホントに?」


 お世辞など不要なぐらい本当に美味い。

 パラパラのご飯から現れたエビやイカ、それに貝柱の食感と味が口いっぱいに広がってくる。まるで噛めば噛むほどに海の幸の風味が大きな波に乗ってやってくるようだ。

 細切れのニンジンやピーマンといった野菜とも相性がいい。こちらのシャキシャキとした食感が歯ごたえを感じさせてくれる。

 卵スープにしてもインスタントでありながらタマネギとワカメを入れる一手間を加えているのだから驚きだ。刻みネギのアクセントも効いてとてもインスタントのスープだと思えない旨味が口の中に広がってくる。


「ああ、マジで美味い。また作ってもらいたいよ」


「ホント、よかったぁぁ」


 嬉しそうでいて、安心したような実香の笑顔が更に旨味を際立てている気がした。空腹だったのもあるけれど、あっという間に完食してしまった。

 普段は主にコンビニで買うおにぎりやカップ麺、それに弁当屋の弁当ばかり食べていただけに手料理というものが本当にありがたい。

 しかしなぜ急に料理を作る気になったのだろうか。俺から頼んだのならまだしも、実香の方から作りたいなど言いだしたのはどういう心境の変化なのだろうか。

 まさかエプロンを強請られ、おまけに食材の買い出しまで頼まれるとは思いもしなかった。更に手料理まで振る舞ってもらえるなど普段のコイツの言動から考えられないことだ。

 そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、実香は料理を褒められて嬉しそうにはしゃいでいる。


「ねぇ、こんな簡単なもので良かったら毎日作ってあげるけど、どう?」


「いいのかよ。暑いのは苦手なんだろう」


「そうだけどお料理するのは楽しいから平気。大変だって思わないわ。それに汗を掻いてもあとでシャワーを浴びれば済むじゃない」


「だけどさ、その汗の掻き方は普通じゃないぞ」


 言葉通りに実香の汗の掻き方は普通じゃない。幽霊が汗をおもいっきり掻くというのもヘンな話ではあるが、エアコンが効きすぎた部屋で火を使ったにしても異常だ。


「たぶんそれは死んだのが夏だったからかも」


「夏……!?」


「うん、前にも言ったけど死んだ時のことは覚えてないわ。でもその少し前のことは覚えているの。あたし、死ぬ少し前までこの部屋に居たわ。停電でエアコンも止まっていて暑かったからシャワーを浴びていた。なのに出てからのことが記憶にないの。気がついたら死んでいるあたしとご対面って感じかな」


 実香が言うには浴室から出たところで記憶が途切れ、気がつけば変わり果てた自分の姿の前に立っていたらしい。その時には誰もいなかったようだ。

 血まみれになった自分の死体をいきなり目の当たりにした実香はその時どう思ったのだろうか。平静に語る表情からはその心境が窺えない。


「どうも誰かに殺されたらしいのよね」


「こ、殺されたって!」


「もう、なに驚いているのよ。部屋の中で死んでたのよ。自殺や病気じゃなきゃどうして血にまみれるっていうの」


「じゃあ、あの姿になった時の顔中に浮かぶ痣も?」


「そうね、そういうことになるのかしら」


 血まみれの姿になったときに浮かぶ痣のことを訊いた直後だけ実香の表情が何故か曇った。そして返してきた言葉もどこか曖昧で隠そうって意図が感じられる。

 顔中の痣は殺された時のものならどうして言葉を濁す必要があるのだろう。一瞬の表情の変化は何を思ってのことだろうか。

 ふと、そこで考えが浮かんだのは顔中の痣に関しては別の理由ではないかということだ。普段の明るさからは想像すら出来ないことが実香の生前にあったのだろうか。

 ところが尋ねたいと思ってもそれを口にできなかった。何故か訊いてはならない気がしたからだ。


「ねぇ、どうしたの? なんか気になることでもあるの」


「い、いや、別に。しかし死んだ時の記憶だけがないってヘンな話だよな。でもその方が苦しいとか痛いとか覚えてなくていいかもな」


「そうね、記憶がなかったから死んだ実感はすぐに湧いてこなかったけど殺されたショックがなかったのは良かったかもしれないわね。もしも記憶があったら死んだ時の姿のままでしかいられなかったかもしれない。今みたいにこんな綺麗で可愛い姿で雅彦君と会えなかったかもしれないもの」


「あ、あのな……」


 自分のことをよくも綺麗で可愛いだと言えたものだ。コイツ、本当に死んだ時の記憶だけはないらしい。

 しかし記憶が欠けているからこそ幽霊になっても明るく振る舞っていられるのではないだろうか。そしてこうして向かい合って話していられるのも実香が人間味溢れる幽霊だからこそなのだろう。


「なによ、今の姿に不満があるっていうわけ? だったら死んだ時の姿にいつでもなってあげるけど」


「ならなくていい! 不満なんてないからその姿のままでいてくれ! そうだ、話の続きだ。なぁ、犯人は捕まったんだろう」


 あぶない、あぶない。

 コイツには言葉だけでなく表情も注意しなければならないのだ。やはり実香とつき合っていくには一瞬でも気を抜くわけにいかないとあらためて思いしらされた。


「ねぇ、話をはぐらかそうってしてない?」


「してない、してない。どちらかって言えば実香が話を脱線させたんじゃないか」


「え、そうだったかしら?」


 おい、何をすっとぼけているんだ!

 急に血まみれバージョンに変身するってお前が言ったからじゃないか!


 なんて怒鳴ればどんなに気分がスッキリすることだろう。

 ああ、我ながらなんとも情けない。これでは何時まで経ってもコイツには頭が上がらないままだ。

 いつか絶対に耐性を身につけよう。血にまみれた実香に“お前が悪い”ぐらい平気に言えるぐらいになってやろうと密かに決心した。




 ※ ※ ※



 実香の話はしばしの中断を経てからもしばらく続いた。

 そこで聞いたのが死んだ後の出来事だ。

 彼女の死体を発見したのは何かの用事でやってきたマンションの管理人らしく、その後に知らせを受けた警察が駆けつけてきたらしい。

 死んでから数日間を独りぼっちでいたことも、遺品を引き取りにきた両親のことも実香はありのままを語った。

 生前はここで独り暮らしをしていたことや片思いの人がいたこと。死んでからも新しい入居者が実香を見るなり逃げ出してしまい、誰とも会話することなくずっと孤独だったこと。

 何もない部屋から出られず、誰とも会話をすることもない寂しさはどれ程のものだろうか。彼女曰わく「そんなの慣れてしまえば気にならなくなるものよ」とのことだが本心ではどう思っていたのだろう。

 ただ黙って聞いているだけで胸がとても痛む。実香は平然と語ってはいるもの、本当はとても悲しくて心残りがいっぱいあって辛かったと思う。なぜ殺されなければならなかったのかという無念もあるだろう。

 どうやら俺は思い違いをしていたのかもしれない。普段の明るさは死んだ時の記憶が欠けているからではなく、悲しさや心残りの裏返しなのではないだろうか。いろいろと引っ掛かることがあるけど、辛い素振りを見せないからこそとてもいじらしく感じた。


「あっ、ごめんね。しんみりさせちゃって。こんな話はするもんじゃないわね。さ~~って、さっさと洗い物を片づけてシャワー浴びてくるわ」


 食器が乗ったトレイに二つのコップを乗せて持ち上げる実香が明るく振る舞って流しの方へ向かう。なのに声をかけたくても言葉に詰まって声がでない。

 言いたいことはたくさんあった。

 頭には無数の言葉が浮かんでいるのに何故か言ってはならない気がした。

 根拠なんて何もない。直感が余計なことを言うなと告げたのだ。

 しかしこのままにしたくない気持ちがあるからこそ後ろ姿を追いかけ、振り返ろうとした実香の肩にそっと手をかけた。

 実香の頬がほんのりと赤みを帯びたのは気のせいなのだろうか。少し驚いたようでありながら恥ずかしそうにはにかんだ笑顔を浮かべている。


「いいよ、洗うのは俺がやるから汗流してこいよ」


「ダメよ、お料理っていうのは片付けが終わるまでなんだから」


 いつもは自分から動きたがらない実香がトレイを渡そうとしない。そればかりかやんわりと断って自ら進んで後片付けをしようと背中を見せて俺の手から離れる。

 極度の暑がりの実香にとって調理中の熱は相当に堪えているだろう。少し寒いぐらいの部屋の中で彼女だけが今も大粒の汗を流している。

 今日にかぎって実香は何を思って夕食を作ろうと思ったのだろう。彼女の様子からして見返りを求めていない。

 まるで恋人のために尽くしているみたいで妙な感じだ。ずっと心の中にあったモヤモヤした気持ちと絡んで何故か自分自身に苛立つ。

 この焦れったい気持ちはどこからくるのだろう。


「だからってその汗の掻き方は異常だぞ」


「平気、平気。その代わり終わったあとは好きにさせてもらうわ」


「いいのかよ。火を使って相当堪えているんだろう」


「そんなに心配してくれるならいつものジュースを買ってきてくれると嬉しいんだけど」


「お、俺は別に! そ、そのっ……し、心配なんかしてねぇよって、おい! まさか冷蔵庫の中にあったやつ全部飲んじまったのかよ」


「うん、あまりにも暑かったからお料理しながら冷蔵庫で冷やしてたジュース全部飲んじゃった」


 実香が好んで飲む銘柄のジュースはケース単位で買っている。その内の数本を冷蔵庫で冷やし、飲んだ分だけ補充していた。

 俺の記憶が正しければ冷蔵庫の中には10本ぐらいあった筈だ。つまりこの汗かき幽霊は1時間足らずの間に全部飲んだことになる。

 冷え冷えの缶ジュースをよくもそんな短時間で飲み干したものだ。いくら暑くて大量の汗を掻いたとはいえ500ccの缶ジュースを10本飲んだとなれば単純計算しても5ℓ。普通なら短時間で飲み干せる本数ではない。

 たとえ飲んだとしてもお腹パンパンになってしまうのにコイツのお腹はそのままだ。まさか飲んだものはすべて汗になって出てしまったというのか。

 ただでさえ幽霊離れしているのにコイツには常識ってものが通用しないようだ。いや、常識云々というよりも幽霊だって自覚がないというべきなのだろうか。


「おいおい、いくら暑かったからってそれじゃ腹壊すぞ」


「大丈夫、大丈夫。あたし幽霊だから」


「だからってそりゃ飲み過ぎだろ」


「雅彦君は何だかんだ言ってもあたしのこと心配してくれているのね」


「ち、違うって! 俺はお金の心配してんだ」


「ふ~~ん、心配しているのは本当にお金だけ?」


 悪戯っぽい笑みを浮かべて問いかけてくる実香の目つきに思わずドキッとしてしまう。まるで心の奥底まで見透かされているようで腹が立つよりも気恥ずかしさがこみあげてくる。

 幽霊とは思えない血色が良い唇にあらためて目を奪われては余計だ。汗まみれの肢体から漂う甘酸っぱい香りが余分なことまで意識させてくる。

 ピンク色のブラによって胸の谷間が強調されているように思えてからというもの、実香を直視できない。視線だけがあらぬ方向に向いてしまう。

 そこへ実香が初めて俺の前に姿を現した時の光景が脳裏に浮かんでくる。

 湯けむりの中、一度だけ見た一糸纏わぬ姿はつい今し方のように鮮明でなんとも艶めかしいことか。

 妄想の前ではピンク色の生地などもはや無きにも等しい。浴室での光景が消えても、正面を向けばトップレス姿の実香が目の前にいた。

 チェック柄のトレイを持ったままだからやけに生々しい。


 あ~~~~~っ!!

 なんでこんなものばかり見るんだよ。

 一人でなに勝手に興奮してんだ俺は!


 現実を上書きした妄想を慌てて払拭すれば、今度は現実の実香が目に飛び込んでくる。見慣れた下着姿とはいえ、とてもではないが刺激的な妄想を見た直後だから冷静になんてなれない。

 またそっぽを向いても横目でチラリと見てしまい、意識する度合いがますます酷くなってしまう。

 但し、下心だけではないようだ。モヤモヤした別の気分のせいで心臓が激しく動悸を打っている。

 僅か数秒の妄想は今まで意識しないようにしてきた感情を心の奥底から引っ張り出したかのような気がしてならない。


「あ、当たり前だろう。出費がこれ以上増えたら破産だよ、破産。他に何が心配することがあるんだよ」


 なんて言ってみたもの、照れくさい気持ちを紛らわそうとすると柔らかそうな唇を意識してしまう。

 自分でもよく分からない感情がこみ上げて落ち着かなくなってしまい、無意識のうちに髪をボリボリと掻き毟ってしまっていた。

 もしかして実香に今の感情が筒抜けなのではと思うと下心よりも照れくさい感情が上回ってくる。

 今日の俺はやはりどこかおかしい。

 実香を必要以上に意識してしまう。


「そう、そうなの。ちょっと残念。まっ、いいわ。それよりもお風呂上がりに冷えたのを飲みたいんだけど」


「だったらコップに氷を入れて飲めばいいじゃないか」


「嫌よ。やっぱ冷えた缶の方が飲み慣れていいわ」


「相変わらず我が儘なヤツだなぁ」


「あら、そう言うわりに嫌そうにしてないじゃない」


「そ、そんなことないぞ。面倒をかけられるんだからな」


「ふ~~ん、あたしのために下まで降りて買いに行くのが面倒なんだ」


 果たして、実香はどんな気持ちで俺の言葉を受け取ったのだろう。

 とにかく彼女自身が話題を変えてくれたことは助かる。ここで追求でもされたらヘンなことを口走ってしまいそうだ。

 しかし安心感に紛れてじれったいように思えてしまうのはどうしてなんだろう。


「分かった、分かった。しょうがねぇな、買ってきてやるよ。でもなんでいつも同じものを飲みたいんだ?」


「あのオレンジジュースが好きだからよ。生きていた頃は毎日飲んでいたけどヘンかな?」


「別にヘンってことはないけどさ、俺だったら毎日同じものばかりじゃ飽きる」


「毎晩おにぎりとカップ麺ばかり食べているのに?」


「おにぎりは具を変えて選んでるよ。カップ麺も昨日は醤油味で一昨日は豚骨味だったろ」


「まっ、そういうことでいいわ。とにかく心配してくれてありがとね」


「だから心配なんかしてねぇって!」


 しつこく言われてつい声を張り上げてしまった。

 いつもならここで実香が食ってかかってくるのに怒りだす様子がまるでない。いや、むしろ怒るどころか嬉しそうにしている。

 本当は心配してくれたんでしょうって言いたげな笑顔がとてもではないが真っ直ぐ見ていられずにまたそっぽを向いてしまった。


 それにしてもこの会話はなんだ!?

 どこまで続くってんだよ!

 コイツが暑さに堪えて大変だろうって思ったから代わりに洗い物をしてやろうとしただけなのに、これではまるで俺たちが付き合っているみたいではないか!

 いったい何処からこんな話になったんだ?

 最近の俺、実香のことを気にしてばかりで胸の中のモヤモヤがおさまらなくて変だぞ。


 普段よりもエアコンが効きすぎているのに何故かあまり寒くない。むしろ少し熱いぐらいで特に顔面が火照っているように感じてしまう。

 これはもしかしてクーラー病ってやつになってしまったのだろうか。ずっと付けっぱなしだったから十分に考えられる。

 だったらジュースを買いに行くついでに夜風にあたろう。それで少しはまともになるはずだ。


「とにかく買ってくるから終わったらすぐに汗を流せよ。でないと風邪ひいちまうからな」


「ありがと、やっぱ心配してくれていたんだ」


「してねぇって何度も言わすなよ!」


「はいはい」


 何が心配してくれてだ、そんなつもりは更々ないとは面と言えずに玄関を出ていく。外は空気が乾いてカラッとしていても思った以上に暑い。階段をゆっくり降りるだけで汗が滲み出てくる。

 やはり部屋の中はエアコンが効きすぎだ。これでは俺の方が先に風邪をひいてしまいかねない。


「あっ、アイツが風邪をひくわけがないんだ」


 そもそも風邪をひいてしまう心配は俺だけで、もっと重大なことを忘れていた。

 夏の間ずっとエアコンを付けっぱなしにされてしまえば電気代が大変なことになる。下手をすれば夏が終わってもあの部屋は極寒のままだって嫌な予感がしてならない。


「冗談じゃない。これじゃいくら稼いでも生活が楽にならないじゃないか」


 とはいえ実香にエアコンを使わせない手立てなんか思い浮かばない。いったいアイツをどうやって言い聞かせろというのだ。

 自動販売機に硬貨を入れながらふとそんなことを思ったのだが、なぜか自分自身がおかしくてならない。


「今さらそんなことを考えてもしょうがない、か。アイツはいつも通り我が儘な方がアイツらしいもんな。でもなんで料理なんて作りたいって急に思ったんだろう」


 そうだ、苦手な暑さを我慢してまで、あんなにも汗を掻いてまでしてどういうつもりなのだろうか。

 もしかして俺のことが好きなのかなんて思ったりもしてみたが、それは考えにくいと思ってすぐに一蹴した。とはいえ見返りを求めてこない理由が気になる。

 日頃からエアコンやテレビをつけっぱなしにしていた罪悪感からの行動とも思ったがそれも違うようだ。


 アイツはそんな殊勝なヤツじゃない。

 それだけは断言できる。

 じゃあ、なんでだ?


 いくら考えても理由が浮かばず、降りてきた階段をまた4階まで上がっていた。お隣からひょっこり出てきた娘さんが俺を見るなり急いでドアを閉めて部屋に戻る。

 これはもう毎度のことだ。実香が現れた日を境に俺のことを避けているらしい。

 あの日のことは誤解だということを証明されてもどうやら変態扱いされたままでいるようだ。

 癪に障るがこればかりはどうしようもない。相手にしない方がいいだろう。

 ここで下手に言い繕ってもあらぬ誤解を招く恐れがある。今度はどんなレッテルを貼られるか分かったものではない。

 だから心の中で「かまととぶるんじゃねえよ! 夜遅くにコンビニでエロそうなレディコミ買ってたの見たんだからな!」とドアの向こうに叫んでやった。

 向こうがあのような態度をとり続けるならこれぐらいのお返しは許されてもいいだろう。

 これで少しは気が晴れるというものだ。俺の方こそあのブリッ子女子高校生とは二度と関わりたくもない。


 そっちがその気なら徹底的に無視だ!

 声かけてきても謝るまで絶対に相手してやらないからな!


 いずれほとぼりが冷めるだろうからそれまで無視していればいい。

 あとはお隣の娘さんに誤解を招いた元凶についてだ。アイツが何を思って夕食を作ってくれたのか確かめたい。

 けれど本人に直接尋ねるのは妙に気が引けてしまう。

 結局のところ、オレンジジュースと自分のために買ったコーラを手にしながら部屋に戻っても、実香が何を思っての行動なのか解らないままだった。




 ※ ※ ※




「はぁぁ、さっぱりした。最初にお湯を浴びて、最後に冷たい水を浴びるのが気持ちいいのよね」


 浴室から出てきた実香が両手を広げて気持ちよさそうにエアコンの前で涼みだす。

 下着姿の肢体を包んで流れてくる冷たい風からシャンプーと石鹸の香りが漂ってくる。

 しばらくして首に掛けたバスタオルで栗色の髪を丁寧に拭く仕草もいつものことだ。

 俺の前に初めて現れた頃は腹立たしく見ていたのに今はそんな感情は一切ない。むしろ違った意味で落ち着かなくなってしまう。

 髪を拭き終わったあとにショーツの端に指を引っかけ、パチンと鳴らしながら穿き心地を整えている後ろ姿を眺めているとドキッとさせられる。

 こんな無防備な姿を見せられてしまえばとても平常心でいられず、男としての本能がムクムクと膨れあがってしまう。

 理性を総動員しなければとてもではないが平静を装っていられない。


 ダメだ、実香は死んだ人間なんだぞ!

 幽霊に興奮してどうするんだ!


 生きている人間じゃないって自分に言い聞かせても沸きあがってくる衝動がどうしても抑えられない。悶々とした気分だけでなく、なんとも切ない感情までもが沸き起こって心を嗾けているみたいだ。

 元カノとつき合いはじめた頃と同じような感情というものだろうか。それが頭の中で文字となって浮かんでくる。

 こんな気持ちになるなんて俺はどうしてしまったのだろう。とてもではないが気の迷いって自分への言い訳がもう通じそうにない。


「なにボーッとしてんのよ」


 振り向いた実香がキョトンと小首を傾げて声をかけてくる。それになんて答えていいのか言葉が見つからない。


「あっ、クーラーを占領したからもしかして暑かった?」


「い、いや……そんなことないけど」


「じゃあ何? あ~~~~っ、またエッチなこと考えてたでしょう」


 はい、その通りでございます。不覚にもそのお尻に見とれていました。

 今もその胸にも、柔らかそうな唇も、なんて言えるわけがない。

 それとは別の気持ちについては尚更だ。

 まだ自分の中で整理がつかないんだ。

 たとえはっきりと分かっても言っていいのか判断がつかない。


「そ、そんなことないぞ」


「だったら何よ」


 動揺しているのが自分でもあきらかに分かるのなら実香にはすべて筒抜けだろう。

 でも、たとえ本心がバレていても言うわけにいかない。実香が俺のことをどう思っていても、ここの一線だけは踏み越えてはいけない気がしたからだ。

 もしも踏み込んでしまったら、たぶんもう後に退けない。


「いや、前から疑問に思っていたんだけど、たまに姿だけ見えて実体を消していることってあるだろう。だから普段から実体化しなければ暑さも感じないんじゃないかって思ったんだよ」


「しても同じよ。たとえ姿も消してもね。で、なんで今さらそんなこと訊くの?」


「だから……いや、もういいよ」


「ヘンな雅彦君。まっ、いいわ。それよりも喉渇いたりしない?」


「あっ、そうだな。冷蔵庫から取ってくる」


 なんとか誤魔化せたと思いながら冷蔵庫へ向かい、買ったばかりの2本の缶ジュースを持って実香の前に行く。そしてオレンジジュースを彼女に渡して俺はコーラを片手に小さなテーブルの前に座った。

 いつもの実香ならテレビを正面にして座るのに、今夜にかぎって違った。缶を手に持ったまま俺の横に座ってきたのだ。

 普段ならジュースを飲みながらテレビに釘付けなのに、俺をチラリと見るなんていったいどういう心境なのだろうか。この意表を突かれた行動を疑問に思いながらもなぜかドキドキしてしまう。

 不意に目が合ってしまえば尚更だ。心臓が破裂しそうなぐらいにバクバクと激しく動悸を打ちだすと、視線を感じても実香の方に目を向けられない。


「で、なんで横に座ってんだ?」


「別に。ただこうしたかっただけよ。なんかヘン?」


「ヘンじゃないけどさ」


「だったら雅彦君の横に座ってもいいじゃない。それともあたしが横に座っちゃ、嫌?」


 実香は何気なく言ったつもりだとしても俺には意表を突かれたように感じてしまう。彼女からの視線を無視しようにもできずに目を移す。

 すると実香はじっと俺の方を見ていた。俗に言う体育座りで立てた膝に頬を乗せて微笑んでいる。

 両膝をつき合わせて踵を離して少し姿勢を崩した座り方が妙に可愛らしく見える。お尻から太股のラインが強調されているようで色っぽさまでが倍増だ。

 はっきり言ってその格好で「横に座っちゃ、嫌?」なんて尋ねられたら断れるわけもない。とはいえ素直にいいよと言うのは悔しいような気もしてしまう。

 本当は肩が触れ合うぐらいに寄ってほしいけど、言ってしまうのは小っ恥ずかしい。


「い、嫌じゃないけど……」


「じゃあ嬉しい?」


「なんでそうなる!」


「アハハッ! 雅彦君ったら照れちゃって可愛い」


「あ、あのなぁ……」


 なんだ、この奇妙な展開は!?

 実香はどう思っているか知らないけれど、これでは余計に落ち着かないではないか!

 コイツ、まさかワザとやって俺をからかってないか。夕食を作ってくれたことにしても俺の反応を見て楽しもうって魂胆じゃないのか。


 実香の行動に疑心暗鬼が生じても、二の腕当たりに軽いボディタッチをされては余計な意識をしてしまう。細くて冷たい指の感触が離れた後も名残となって意識を掻き乱してくる。

 そんな俺の心情を無視するかのように実香が視線を外して俯く。そこにはつい先程までの小悪魔的な笑みはない。

 珍しく真剣な顔つきになると、どこか暗い影があるようにも見える。

 こんな表情をする実香を見るのは初めてだ。なるべく普段通りに明るく振る舞おうとしているのか、小さな笑みがとても悲しそうであり、辛いことから耐えてきたと訴えかけられているようにも感じてしまう。


「あたしもね、前から雅彦君に訊きたかったことがあるの」


 言葉を一旦そこで途切れさせた実香が缶のプルタブを開ける。そのまま缶ジュースを口にせず、少しばかり目を伏せ気味にして続きを紡ぎはじめた。


「今までこの部屋に引っ越してきた人ってみんな怖がってあたしと関わろうなんてしなかった。みんなすぐ出ていったわ。でも雅彦君は他の人と違う。あたしを普通の人と同じように接してくれている。ねぇ、どうして?」


「そりゃ幽霊を見れば誰だって怖い。そんな部屋に住みたいって普通は思わないだろう」


「うん、あたしも生きていたらたぶん怖くて出ていっていると思う」


「だろう。俺も初めて見たときは驚いたさ。特にアレで何度も腰を抜かしたからな」


「ああ、これね」


 なんですか、その「ああ、これね」って聞き捨てならない言葉は!


 どうも貴女さまの血色が悪いんですけど……なんて思った時には遅かった。

 血まみれバージョンでニッコリなさったお顔がいきなり目に飛び込んでくる。

 語りだす前の悲しげな表情はどうもフェイクだったらしい。

 完全にしてやられた。


「ぬわっ! そ、そ、そ、それ……や、や、やめなさい。それするからみんな余計に怖がって、で、出ていくんだ」


 これも見慣れたとはいえ、やはり心臓に悪い。それなのに俺の心臓はよく耐えてくれている。

 丈夫に産んでくれた親に今ほど感謝することはない……とは言いきれないか。これからも見ることになるかもしれない。

 スーーーーっと元に戻る実香には自分が怖がられた自覚がないのだから。


「死んだ時のあたしの顔ってそんなに怖い?」


「怖いに決まってんだろっ!」


「あたしの死体を運んでくれた警察の人達はもっと酷い状態を見ていたのよ。腐りかけていて匂いも凄かったのにぜんぜん怖がってなかったわ」


 あのぉ、今とんでもなく凄いことをさらりと仰いませんでしたか?

 ヘンな想像をしてしまったんですけど……。


「そりゃ仕事だからだ。刑事さんは死体なんか見慣れているんだよ。まっ、幽霊と死体って違いもあるだろうけどさ」


「ふ~~~~ん、警察って大変なのね」


 大変なのは俺の方だ。コイツがいつ血まみれバージョンに変身するのかって考えるだけでも気が滅入る。

 それにヘタなことを言えばその腐りかけた姿になりかねないと思うとゾッとしてしまう。

 はっきり言ってそれだけは勘弁してほしい。腐った実香なんかシャレにもならないし、俺の心臓は耐えられそうにないだろう。


 って、普通に会話するのになんでここまで気を遣わなければならないんだ!


 少しはこちらのことも考えてくれたらと思わずにいられないのに、元の姿に戻ったコイツはつまらなさそうに溜息を吐いて俺を見ている。

 もしかして腐乱死体バージョンなんてものになろうなんて考えていたのだろうか。これはいよいよもって迂闊なことは言えそうにない。


「んな事はどうでもいい。とにかく無闇にアレになるな」


 そう、これが切実な願いだ。

 もう寿命が縮められることは勘弁してほしい。


「そんなに怖いの」


「怖いに決まってんだろっ!」


「じゃあ今は、普通にしてたらどう思ってるの?」


「今は……そ、その……」


「やっぱり怖い?」


 不安そうに目を潤ませて見つめてくる実香の問いにすぐ答えられなかった。

 怖いからじゃない。今思った気持ちを言うことに躊躇いがあったからだ。

 果たして、言ってしまっていいのだろうか。

 初めて会った頃とは違う感情はやはり気の迷いではない。どうにかして追い出すことを考えていたのに、いつの間にか実香にずっと居てほしいと思うようになってしまった。

 たとえどんなに迷惑をかけられてもコイツの笑顔は見ていたい。しかしこんな関係がいつまでも続いていいはずがないと思う自分もいる。

 実香のことを考えてやるならやはり成仏させてやるべきだろう。未練を残したまま天国に逝けないことは不幸だ。


 何も今すぐ即断する必要はないじゃなか。

 考える時間は幾らでもあるんだ。


 そうだ、何も決断が迫られているわけでもないし、自分の気持ちをもう一度整理する必要がある。答えを出すのはそれからだ。

 但し、今の気持ちはまだ伏せておくべきだろう。ここで正直に言ってしまえば気まずくなりかねない。

 だが実香は俺に少しの猶予すら与えてくれなかった。

 しばらくの無言がまた余計な誤解を生じさせるなんて、なんでいつもこうなってしまうんだろう。


「そう、雅彦君もあたしのことが怖いのね。分かった……何処にも行けないからもう姿が見えないようにするわ」


 悲しそうに伏せた実香の目尻から溢れた涙が頬を伝う。

 口をつけずに持っていたオレンジジュースをテーブルに置いて立ち上がろうとする彼女を誤解させたまま消えさせるわけにいかない。

 こんな別れ方なんて俺は嫌だ。


「じゃあ、さよなら……」


「待てよ、それは誤解だ!」


 叫ぶと同時に身体は動いていた。

 実体が消える前の実香の手を掴んで引き寄せる。

 なのに、どうして実香は俺の言葉を信じようとしないのか。掴んだ手を払おうとし、悲しみと怒りを混ぜた目つきで睨んでくる。


「何よ、あたしのこと怖いんでしょ、嫌いなんでしょっ! だったら離してっ!」


「だから誤解だって言ってるだろっ! ちゃんと聞けよ、このバカッ!」


「バカとは何よ、雅彦君なんて嫌いよ、大っ嫌いっ!」


 振り払おうとする力が強まる。

 それに負けじと俺も引き寄せる力を更に強める。

 実体が消えて見えなくなるまでに誤解を解かなければならない。ただそれだけしか意識になかった。


「俺のことが嫌いでも実香にはいてもらわなきゃ困るんだよ!」


「なによ、怖がってるくせに」


「だから怖いなんて思ってない、本当だ」


「嘘よ!」


「何度も言わせるな、俺の話をちゃんと聞けって!」


「それならこの姿になっても怖くないって言えるの?」


 掴んだ細い手首にとどまらず実香の全身から血の気が引いて青白くなっていく。

 唇から赤い雫が滴り、顔にいくつもの痣が浮かび上がり、やがて額からも夥しい流血が始まる。


 この姿はとても怖い。

 でも今は怖がっている場合じゃない!


 たとえどんな姿になっても今ここで掴んだ手を離せば終わりだ。実香はもう二度と俺の前に姿を現すことはないだろう。

 だからより一層に力を込めて彼女を俺の方に引き寄せた。冷たい手首を強引に引っ張りながらも、半身の状態になった実香の青白い腰にもう一方の手をまわす。

 柔らかくて冷たい肢体をギュッと抱きしめ、偽りのない気持ちをありのまま伝えるしかないと思った。


「怖かったらこんなことするわけないだろう。どんな姿になっても実香は実香だ」


「何よ、おもいっきり震えているくせに」


「震えているのは実香の方だ。お前、なに勘違いばかりしているんだ」


「お前って言わないでよ」


「ここで消えたらずっとお前、お前って叫んでやる」


「そんなことしたら怒るわよ」


「怒りたきゃいくらでも怒ればいい」


「だったら呪ってあげるわ」


 そう答える実香の声音は落ち着いていながらも震えていて柔らかな響きだった。

 掴んだ手首を離して栗色の髪を撫でてやると頭を俺の肩にもたれさせてくる。


「呪いたかったらずっと俺の傍にいろよ。たとえ実香が俺のことが嫌いでもずっと傍に居てほしいって思ってる。だから消えるなんて言わないでくれ」


「あたし、幽霊なのにずっといて欲しいなんて、雅彦君ってやっぱりバカよ」


「かもな……実香がいれば無駄遣いばかりさせられて生活が苦しくなるっていうのに」


「そうよ」


 実香がもたれている方の肩が濡れている感じがした。

 冷たい雫なのになぜか温かみを感じてしまう。下着だけの肢体も、背中にまわしてきた両手も、体温がない柔肌のすべてがとても心地いい。

 しばらくして元の姿に戻った実香が俺の胸に手を当てながらそっと押した。頬に涙のあとを残し、瞳を潤ませたまま上目遣いでじっと見つめてくる。


「雅彦君……」


「実香……」


 ここで自分の思いの丈を丸裸にして行動に移さなければ男として不甲斐なさ過ぎる。そもそも待っている実香に対しても失礼だ。

 見つめ合ったまま顔を近づける。

 あと少し、もう少しで互いの唇が触れそうになった時――!


「とても汗臭いわ」


「えっ!?」


「すっごく臭うから今すぐお風呂に入ってきて」


 なんて言われてせっかくのムードを呆気なくぶち壊されてしまった。

 やはりコイツ、いろんな意味で一筋縄にはいかない。

仕事との兼ね合いがあるので次回の更新予定は8月末までとさせて頂きます。

なるべく早く更新するように心掛けていますので引き続きお付き合いの程よろしくお願いします。

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