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第4話 下着姿の幽霊がスウェットを着てみれば

 学校が夏休みの間、少しでも蓄えを増やそうと思って始めたのが倉庫会社でのバイトだった。入学前から貯めた貯金が尽きかけていては無理を承知しながらでも働かなければならなかった。

 朝から夕方まで重い荷物を運ぶだけならまだしも、空調が効かない倉庫の中は常に気温が30度を超えて環境的にも苛酷だ。しかも昼を過ぎた頃になると40度を超えてしまう。

 さすがにこの仕事だけでもかなり疲れてしまうが俺の一日はまだ終わらない。シャワーで手早く汗を流したあとは急いで次の仕事場へ向かわなければならないのだ。

 電車を乗り継いで向かう先はファミリーレストラン。ここでのホール係は長く努めて慣れているといっても体力を著しく消耗したあとではもう立っているだけでも辛い。

 しかし生活が懸かっている以上は泣き言を言っていられず、たとえ足腰が痛くてもシフトの交代時間までみっちり働かなければならないのだ。夜のバイトだけでは学費と生活費のやりくりには無理があり、少しでも生活を楽にするためだと自分自身に言い聞かせて身体に鞭を打つ。

 実家も貧乏だから仕送りなんて望めないとなれば自分で稼ぐしかない。1年浪人してせっかく入った学校を辞めるわけにいかないのだ。

 とはいえバイトの掛け持ちは元カノのことを考える余裕なんてない程の苛酷なシフト。さすがに朝から夜遅くまで働くと遊ぶよりも少しでも身体を休めたくもなる。

 ところが今は自宅に気が休まる時間がない。これもすべて昨夜に姿を現したアイツのせいだ。

 これからずっと心身共に休まらないと想像しただけで目眩がしてくる。昨夜に続いて今朝も女幽霊に振り回されたとあっては自宅での平穏を失われるどころか、いつか疲労で倒れかねない。

 身支度を調えながら振り返るとその元凶は数分前に俺の頬をおもいっきりひっ叩いたことすら忘れてしまったかのように寝転がってのほほんとテレビを観ている。しかもどんなに急いで身支度していようが気に留めやしない。


 くそっ、呑気にテレビなんか観やがって!

 誰のせいで急いでいるかって分かってんのかよ。

 風呂にすら入れなかったんだぞ。臭いって言われたらどうしてくれるんだ!


 こちらは寝坊……じゃなくコイツのせいで朝まで気絶してしまった。おかげ寝冷えしただけで済まず、バイトの時間が間に合わないから焦っているのになんとも腹立たしいかぎりだ。


「ねぇ雅彦君、冷蔵庫にもう1本ジュースあるでしょう。持ってきてよ」


「急いでるのが見て分かんないのかよっ!」


「いいじゃない、取ってくるぐらいすぐでしょう」


「自分で行けよ!」


「やだ、今いいところだもん」


 毎朝N〇Kで放送しているドラマ小説に夢中になる幽霊っていったい何なんだ!?

 それはいいとしてなんて身勝手なヤツなんでしょう、コイツは……。

 一度ガツンと言ってやりたいが、今はそんなことを悠長に考える時間なんてない。


「ヤベェ、もうこんな時間かよ」


 時計を見ると8時27分、バイト先の始業開始が8時半だから果たしてガミガミと怒られる程度で済まされるのだろうか。もしもクビにでもなったらシャレにならない。


「早く持ってきてよぉぉ」


「そんな時間ないっ!」


 もうこれ以上関わっていられない。

 急いで古びた靴を履き、振り返ることもなく玄関を飛び出す。アイツが何か喚いていたようだが相手なんてしていられない。

 今は1分、いや1秒でも時間を惜しむべきなのだ。

 階段を駆け下りながら鍵をかけ忘れたことをふと思い出したもの、部屋の中に幽霊みかが住み着いているのなら泥棒に入られても心配ないだろう。たとえ入られても取られて困るものなんてないし、アイツに何かある心配もないのだから。


 ……って、なんでアイツのことを考えてしまったんだろう。




 ※ ※ ※




 明日はバイトが休みというのもあって遅くまで働いてしまった。

 朝から夕方まで働いている倉庫会社をクビにならず、遅刻して減った時給分をファミレスのバイトで少しは賄えたのはせめてもの慰めなのかもしれない。しかしその代償が疲労となって返っている。

 もう歩くだけでも辛い。

 一度はネットカフェにでも泊まろうかと思ったが、無駄な出費を抑えたいからこそ思い止まった。貧乏学生の辛いところであり、こんな苦労を背負わされた原因を思い返すと苛立ちばかりが募る。


 くそっ、何もかもアイツのせいだ。


 夜の11時ともなると民家の灯りもほとんどなく、辺りは真っ暗で人の姿も見かけない。

 またあの勾配がキツい坂を上らなければならないというのに、なんで帰りに荷物が増えなければならないのだろう。

 出かけに持っていたカバンと夕食用に買ったコンビニのレジ袋は当然としても、大きな手提げ袋ははっきり言って余分だ。それに夕食を二人分用意してしまったことにも疑問が残る。

 俺は何をやっているんだ!?

 なんて言葉が頭の中でグルグル回っている。

 そして自動販売機からのガシャンという音で意識が現実に戻ってからも自分の行動に疑問がつきまとう。なんでオレンジジュースを買ってしまったのだろうかと――。


「ハハッ、アハハッ……疲れてるな、俺……」


 自称気味に呟きながらマンションの中に入っていく。

 疲労しきった両脚はだるくて辛いけど、最後の力を振り絞って階段を上がる。家賃の安さは幽霊みかが出てくるだけでなく、エレベーターがない古いマンションだという理由もあるようだ。

 やっとの思いで自分の部屋の前に立ち、両手が塞がっていながらも指先だけでドアノブを回す。

 案の定、明かりは点きっぱなしだ。エアコンも付きっぱなしで部屋の冷たい空気が俺の全身を包み込んでくる。

 だが冷たい空気が身体に溜まった余分な熱を冷ましてくれて心地いい。まるで疲労しきった身体を癒やしてくれるかのように感じてしまう。

 これで出迎えてくれる恋人ひとがいれば申し分ない。笑顔でお帰りなさいと言われたら疲れなんて吹き飛ばしてくれるだろう。

 しかし現実は無情だ。

 誰も出迎えてなんてくれないし、部屋には迷惑きわまりないヤツが住み着いているのだ。

 それを思うとささやかな妄想から現実に引き戻された途端にたちまち気が滅入ってしまう。


「とにかく……先に風呂に入ってからメシにするか」


 靴を脱いで短い廊下の先にある部屋に向かう。

 さぁ、ドアを開けて荷物を置こうって思った時だ――!

 ドアが勝手に開きだすと目の前に血まみれで痣だらけの顔が「遅いっ!」と怒鳴りながら出迎えてくれた。


 肝まで冷やしてくれやがりまして、どうもありがとう。

 おかげで暑さなんか完全に吹き飛んで背筋が寒いぐらいです。

 腰を抜かしてしまって立ち上がることができません。


「あれぐらいでまた腰を抜かしてしまうだなんて、雅彦君って本当に怖がりね。でも面白かったから帰りが遅いことは許してあげるわ」


 落ちつきを取り戻した俺に対し、元の姿に戻った実香が開口一番に言ったのがこの言葉だ。


 何が面白いだ、こっちは危うく心臓が止まりかけたんだぞ。

 許すも何も死んでしまったらどう責任を取ってくれるっていうんだ。


 本当なら文句をおもいっきり言ってやりたいところだが、激しく動悸を打つ息苦しさに耐えながら立ち上がる気力だけしか湧いてこない。一瞬の怒りはすぐ諦めに変わってしまう。

 とてもではないが実香の顔を見ることができず、荷物を放ったらかしで脱衣室のドアを開けた。今はコイツに関わる体力すら惜しい。


「ねぇ、これ置いたままでいいの? コンビニの袋は晩ご飯なんでしょう」


 実香は荷物を置いたままにしているのが気になるらしいが、その気遣いがあるならいきなり血まみれで現れないでほしいものだ。

 いつか本当にショック死しかねない。


「いい。風呂、入ってくる」


 もう、この一言を言い残すのが精一杯だった。




 ※ ※ ※




 風呂に入ったあとに夕食を済ませたが、実香は俺が買ってきたコンビニ弁当に手をつけていない。

 弁当を一緒に温めてやるかという問いに対しても「あたしは食べないからそれ明日にでも雅彦君が食べなよ」って断ってきた。

 実香が言うには食事というものは一切摂らないということだ。確かに幽霊なら食わなくても腹が減るどころか餓死することもないだろう。だったらどうして喉が渇くってジュースだけは飲むのだろうか。


「お前って」


「お前じゃない!」


「ああ、ごめん。その実香はどうして喉が渇いたりするんだ。腹は減らないんだろう」


「うん、それがあたしにもよく分からないのよ。どうしてか喉だけは渇いたりするんだよね」


 自動販売機で買ったオレンジジュースを片手に考え込む実香の表情からして本当に分かっていない様子だ。

 まっ、それは別に気にしなくてもいいとして、どうして実香は“お前”って呼ばれることを嫌がって自分の名前で呼ばれることに拘るのだろう。

 あと飲んだオレンジジュースはどうなるのだ。まさか幽霊でもトイレに行くってことがあるのだろうか。

 コイツには幽霊らしからぬ行動があまりにも目立つ。


「どうしたのよ、なにボーーってしてんの?」


「いや、ちょっと考え事してた」


「考え事って何?」


「別になんだっていいだろう」


「あ~~~~~っ! またイヤらしいこと考えていたんでしょう」


「違うよ!」


「じゃあ何よ」


 まさか幽霊になってもトイレに行くのかなんて言えるはずもない。まだ知り合ったばかりだとはいえコイツの性格はなんとなく分かる。

 言えばまた怒りだして血まみれバージョンに変身するだろう。あれはいつかショック死しかねない。

 そこで目についたのが大きな手提げ袋だ。これで理由を誤魔化せると思って中身を取りだす。


「分かったよ。実はこれ、実香のために買ってきたんだ」


 取りだしたのはレディースの上下セットになったスウェット。グレーの生地にワンポイントの刺繍が左胸あたりにあるだけの地味なものだ。

 これと同じデザインの物を取りだす。こちらはピンク色で派手かもしれないけれど、女の子にはこれぐらいで丁度いいかもしれない。

 サイズは見立てで決めたから合わないかもしれないという不安を、この際は無視してもいいだろう。

 特価で安く買えたけど俺にとっては大きな出費であり、買うのにも恥ずかしい思いまでしたのだ。着てもらわなければ本当に無駄な出費で終わる。


「これを、あたしに?」


「ずっとその格好のままだろう。安物だけど実香に似合うかなって思って買ったんだ。それでこれ着てくれるかどうか考えていたんだけど……こんな安物じゃ嫌かな?」


 小さなテーブルにある食べ終わった弁当の容器を片付け、狭い場所にそれぞれのスウェットを上下重ねた状態で並べる。

 咄嗟に誤魔化そうとして我ながらなんとも下手な理由付けだ。なんか口が引き攣っているみたいで喋り辛い。

 実際は実香にまたイラらしい目で見ているなんて言われることから逃れるために買ったものだけど。


「嫌なら無理して着なくていいよ。明日にでも返品してくるから」


 黙って聞いている実香の様子を伺うといつの間にか俯き、細い肩を小さく揺らしいていた。


 マズい!


 もしかして本心を見抜かれて怒らせてしまったのだろうか。


「そうだな、こんな安物でデザインも悪けりゃ着たくないよな。悪い、今度はもっとマシなの買ってくる」


 まだ血の気が引いていく様子がないけど、黙ったままというのが余計に不気味だ。

 実香の機嫌がこれ以上悪くなる前に仕舞った方がいいと思ってスウェットに手を伸ばす。

 そこへ細い手が目の前を横切って2着のスウェットを攫っていく。


「返さなくていい」


「えっ!?」


 意外な言葉が返ってきて思わず前を見た。

 すると実香は俯いたままだがいつの間にかスウェットを胸に押しつけるようにギュッと抱きしめている。

 栗色の前髪が邪魔をして表情がよく見えない。実香はいったい何を思って返さなくていいと言ったのだろうか。

 その答えを実香の頬を伝う涙の雫が教えてくれた。


「あたしのために、買ってきてくれたんでしょう。お金がないのに2着も買ってくれたのはお洗濯したときのことも考えてくれていたのね」


「あっ……いや、まあ……あのぉ……」


「思ってた通り、雅彦君って本当に優しいんだね」


 涙をボロボロと零す実香が顔をあげ、嬉しそうにはにかんだ笑顔を見せる。

 それがまた、なんて言ったらいいのだろう。

 予想してなかった不意打ちの笑顔と言葉になぜか心臓がバクバクしてくる。それにどう言葉を返していいのか分からない。


「あたしのこと、本当は邪魔に思っているんじゃないかって少し不安に思ってた。だから、あたしのことを想って買ってくれたのがすっごく嬉しい」


 いやいやいやいや、それはまったくの誤解です。

 そんなつもりで買ったのではありません。

 だからそんな風に泣いてまで喜ばないで下さい。


「ねぇ、せっかく買ってきてくれたんだから着てみてもいい?」


 片手でスウェットを抱きしめながら涙を拭う実香に頷くことで返事をした。

 まさか泣いて喜ぶとは意外にも程がある。これでは本当のことを言うわけにいかない。

 ともあれこれからはあまり余計なことを考えない方がいいようだ。いつか何気なしに口走って怒らせてしまうかもしれない。

 あの血と痣だらけの姿はもう真っ平ゴメンだ。今も激しく動悸をうつ心臓が違う理由でいつか耐えられなくなる。

 それに嬉しそうにピンクのスウェットを選んだあの笑顔を見ていられるのなら、たとえ実香が幽霊でも一緒に住むのも悪くない。


 って、俺……今、とんでもないこと思ってなかったか?

 いや、一時的な気の迷いだ。身体よりも精神の方が疲れているだけなんだ。

 落ち着け、落ち着いて考えろ。このままずっと一緒に住んだらどうなるかって分かってんだろっ!


 朝から夜までバイトして、さらに家に帰っても気が休まる時がなくては錯乱してもおかしくない。どうやら気がつかないうちにストレスが限界まで溜まっているようだ。

 いつか何かの弾みで爆発するかもしれない。その時、果たして今の自分でいられるのだろうか。

 そんな俺の心労を気遣うこともない実香はスウェット姿で嬉しそうにしている。


「どう、似合う?」


 まあ普通だろうとは言わず、とりあえず「似合ってる」と言っておく。出費は凄く痛かったけど、これで少しでも気が休まるのなら安いものだ。使ったお金は働くことで取り戻せる。

 なんてことを思っている間に実香が実体を消すことによってスウェットを脱ぎだす。

 フワッと床に落ちるピンク色の生地を見ながら思った。もしかして、本心が表情に出てバレてしまったのだろうかと。

 堪らず身が竦んで息を飲む俺を実香が悲しそうに見ている。これがいつ怒りの表情に変わるのかと思うと身体の芯まで凍りついてしまいそうだ。


「ごめん雅彦君。これ着ていたら暑いわ。せっかく買ってきてくれたけどやっぱ返してきて」


 な、な、なんですとーーーーーっ!

 それなら着る前に言いやがれでございますよ、このバカ!

 まだ丁寧に脱いでくれたら返品のしようもあったけど、そんな皺だらけになるように丸められちゃ返せるものが返せなくなるだろっ!

 って、放り投げて渡すな!

 お前、もしかしてワザとやってないか?

 俺を困らせて楽しんでるだろって面と向かっておもいっきり叫びたいぞ、こん畜生!


「ふぅぅ、暑い。ねぇ、オレンジジュース余分に買ってないでしょう。喉が渇いてきたから買ってきてよ」


 コイツ、あの血まみれバージョンになるよりも、通常の姿の方がある意味でとんでもないのかもしれない。ここまで無遠慮にされると文句を言うことさえ躊躇わされてしまうぐらいだ。

 それにしても実体を消しておいてどうして下着だけは残ったのだろう。あれも霊体の一部になっているのだろうか。

 また一つ謎が生まれも、その答えを実香に訊くことだけは出来そうにない。ただ皺だらけになったスェットを畳みながら思うことがある。


 そんなに暑いんだったら全部脱いじゃえ!


 なんて、言ってみたいが言えるわけがない。

 コイツの我が儘に振り回されているのだから少しぐらいの役得があっていいのだが、言った後のことを考えるとそこまでの勇気はなかった。

次は訳あって本編を休んで番外編を挟みます。

更新は来週の日曜日の予定です。

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