第2話 共存宣言!?
つい2ヶ月前までは俺の傍に別の女がいた。
大学を卒業して社会人になれば嫁にしたいと思った年下の子だ。
学校の後輩だったその子とはキャンパスでのちょっとしたトラブルで偶然にも知り合い、何回かデートを重ねていくうちに付き合うようになっていた。
やがて同棲するようになり、常に傍にいるのが当たり前のようになった半年後、ちょっとした誤解から喧嘩別れするなんていったい誰が想像できるというのだろう。
他愛もないことで笑い、一緒にいるだけで楽しかった彼女との関係はあっけなく終わってしまったのだ。
同棲していた家を飛び出してしばらくは友人たちの家を泊まり渡って世話になり、この部屋に引っ越したのが4日前。荷物の整理も少ないとはいえ終わったのが昨日のことだ。
これで幾分か気持ちの整理がつき、ようやく新しい生活が始まると思った矢先にアイツは現れた。
小さなテーブルに向かい合う相手が可愛い女の子なら新しい恋が始まることに期待もしよう。見た目だけなら確かにそうなのだが……。
「そう怖がらなくていいわよ。呪い殺したりなんてしないから」
なんて事を言われても説得力なんてものは皆無。先程のような猟奇的な姿を見たあとでは信じることなんて無理だ。
それにしても我ながら情けない。コイツが血まみれの顔になるまでたとえ幽霊でもギャフンと言わせてやろうって思っていたのに、いざとなったらこのザマだ。
腰を抜かした挙げ句、元の姿に戻った女幽霊から驚かせ過ぎてゴメンねなんて謝られるとは……。
今は落ち着いたように見せかけていてもそれは強がっているだけでコイツには完全に見抜かれている。それが癪に障って更に強がってみせた。
「じゃあ、何しに出てきたんだよ」
「出るも何もあたし、ずっとここに居たわよ。雅彦君が今まで気がつかなかっただけじゃない」
部屋の温度は十分に下がって少し寒いぐらいなのにコイツはまだ暑いと言わんばかりに手をパタパタとさせて自分の顔を扇いでいる。首に掛けたバスタオルを使ってもう一方の手で頬の汗を拭って本当に暑そうな様子だ。
コイツ、幽霊のくせに相当な暑がりなのかもしれない。それはどうでもいいとして、人のバスタオルを勝手に使っていることの方が気になってしまう。
いったい何時になったら人の物を無断で使用した詫びをいれてくれるのだろうか。出来るならお隣との騒ぎについても謝らせたい。
「つまり俺がここに引っ越してきた時から居たのか?」
「もっと前よ。でも死んじゃった時のことってぜんぜん覚えてないんだよね。気がついたら幽霊になっていたって感じかしら」
「って事は生きていた時の記憶がないってことか?」
「それは覚えているわ」
「何だそりゃ?」
コイツの言っていることがさっぱり分からない。
俺がここへ引っ越してくる前から居るようだがそれ以外は意味不明だ。もしかして長く幽霊をやっていると記憶に障害が出るのだろうか。
しかしコイツが身につけている下着は古めかしいものではない。昭和以前の時代ならもっと別の下着だったのではないだろうか。
女性の下着についての歴史的な知識がなくても上下お揃いの下着はどう見てもこの数十年以内のものだ。つまり目の前の女幽霊は戦後に死んだことになる。
「ゴメン、言い方が悪かったわ。簡単に言えばどうして死んだのか分からないだけ。それ以外の記憶はちゃんと覚えているの」
なるほど、これでコイツが何を言いたいのかよく分かった。
しかし俺には無関係の話でまったく興味もない。
コイツのことで気になることがあるとすればピンクの下着の中が生きている人間と同じかどうか。もしも見せてもらえるのなら是非とも見てみたい……などと口が裂けても言えない。
下手なこと言って取り憑かれては困るし、何よりもコイツには一刻も早くここから去ってもらいたいのが本音だ。幽霊と同棲なんてやってられない。
とりあえずは話を合わして様子をみるしかなさそうだ。会話の中でコイツに出ていってもらう手段を見つけるしかない。
「そうか、どうして死んだのか知らないとキツイな。死ぬ前にいろいろやり残したんだろう?」
「そうね、好きな人がいたけど結局は告白すらできなかったのが一番の心残りだったわ」
「だよな、そりゃ死んでも死にきれないよな」
「でしょう。片思いのままいつの間にか死んじゃったから当然よ」
「そりゃ最悪だ。でも早くその人のことを忘れて成仏した方がいい。でないと永遠に悔いを残したままになるぞ」
そうだ、俺のためにも実らなかった恋なんか早く忘れてさっさと成仏してくれ。
このまま居座れちゃ迷惑なんだよ……なんて言わずに上っ面だけ同情しているのは黙っておこう。
上手くすれば納得して成仏してくれるかもしれない。
ただその為に話を合わすだけだ。
「分かってはいるんだけどね。でも、どうしても忘れられないことってあるじゃない」
「確かにそうだけど未練を残したまま幽霊を続けるのって不幸だとは思わないか?」
「かもしれないけど……」
「だろう。だったら気持ちを切り替えた方がいい。それに天国へ逝けばいい人に巡り会えることがあるかもしれないじゃないか」
我ながらなんとも小芝居が効いた嘘をよくも並べられたものだと思う。
この女幽霊は俺が真剣に思ってのことだと勘違いしているようだ。疑う素振りをまったく見せていない。
それなら徹底的に良い人を演じきるまでだ。心ではひたすら成仏してくれることだけを願う。
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、未練なんて簡単には消せないわ。割り切れたらとっくに成仏しているわよ」
「悲しいこと言うなよ。俺がその人を探してやるから。で、もしもその人に会ったらお前の想いをちゃんと伝えてやる。なんならその人に墓参りを頼んでやってもいいぞ」
いいぞ、もう一押しだ。
コイツ、完全に信じ切っている!
「ありがとう。でもどうしてそこまで親切にしてくれるの?」
「こんな話を聞けば放っておけないだろう」
「あっ、なるほど……雅彦君はあたしのこと気にしてくれているんだ。やっぱり一緒に住みたいんだね」
「ち、違う! そんなつもりなんかないぞ。ただ成仏できないのが可哀想だと思って、それだけだ」
「本当にそれだけ? なんか嘘っぽいな」
「嘘じゃない。やましい気持ちなんてこれっぽっちもないぞ」
なんだ、急に雲行きが怪しくなったぞ!
いったい何処で話を間違えたのだろうか。
せっかくの良い流れがヘンな方に向いてきている。
「なんかムキになることが怪しいな。はは~~ん、そうか同居人が可愛い女の子でテレているのね。だから早く成仏しろだなんて言って誤魔化そうとしたんだ」
「違うって言ってんだろっ! それよりいつまでその格好でいるんだよ」
はっきり言って目の前の格好は目に得……じゃなく目に毒だ。コイツの格好を指摘してつい胸の谷間に目がいってしまった。
それにテーブルで見えない下の方も気になってしまう。
「しょうがないじゃない。服なんて持ってないんだから。あたしだってオシャレしたいんだからね」
拗ねた態度があまりにも幽霊らしくない。むしろ生きている人間がするような態度だ。
長く会話を続けたこともあってもう怖いなんて感情は消えてしまっているのだから裸を見たいとかやましい下心は後回しだ。
コイツには一刻も早く成仏してもらう必要がある。
「ってことは、死んだときにその格好だったんじゃないか。お前、その時に何していたんだよ」
「だからまったく覚えてないって言ってるでしょう。シャワーを浴びていた時までは覚えてはいるんだけど、そのあとの記憶がまったくないのよ。気がついたときには自分の死体が目の前にあったって感じかな」
小首を傾げて考え込む女から一気に血の気がひき、目を合わすといきなり「こ~~んな姿で」と言いながら血にまみれた痣だらけの顔になる。
こちらの心の準備というものをコイツは考えてくれない。
「うぎゃ~~~~っ!!」
情けないことに思わず叫びながら身を反らしてすぐに屈んで頭を抱えてしまった。
一度でも見て多少の免疫ができているとはいえこれは心臓に悪く、とてもではないが直視できるものではない。
こいつバカか!
ニッコリ笑ってピースサインなんかやらかしても余計に怖くておぞましいだけじゃないか!
心の中で怒りをぶちまけても恐怖の方が大きい。早く元の姿に戻ってもらわないと心臓が耐えきれずに止まってしまいそうだ。
このまま永遠に眠らされて幽霊の仲間入りなんてシャレにならない。もしやコイツはそれを狙っているとでもいうのだろうか。
そんなの真っ平ゴメンだ!
たとえ元の姿で抱きつかれながら誘惑されても聞き入れるなんて出来るわけがない。
「分かった、分かったから元に戻ってくれ! 頼むからやめてくれーーーーっ!」
俺の切実な願いを聞いてくれたのか、しばらくしてつまらなさそうな返事が聞こえた。
恐る恐る見てみると、元に戻ってクスクスと笑う姿がなんとも小憎たらしい。
「もう、あれぐらいで恐がりすぎなんじゃない」
「あ、あのなぁ……」
コイツを成仏させるための作戦はこうして呆気なく終わってしまった。
どうやら一筋縄ではいかない相手のようである。とてもではないが直ぐに次の作戦は浮かびそうにない。
※ ※ ※
心臓が爆発しそうな動悸がおさまったのはしばらく経ってのこと。それでもまだドキドキとして落ち着く様子が感じられない。
もう怖いって感情は消えてしまっているのにどうしてなんだろう。
小さなテーブルを挟んだ向こうにいる女幽霊の胸元が気になるにしても心臓の鼓動は速すぎる。シャンプーの残り香に触発されたにしては理由にならない。
あんなおぞましいものを見たばかりなのだ。柔らかそうな谷間を見たぐらいで興奮したなんて思いたくもない。
それに対してコイツは頬杖をつきながら事もなげに「ねぇ、大丈夫?」なんて余裕までかましやがる。俺のことを心配するよりも、まずはいきなり血まみれになったことを詫びてほしいものだ。
呼吸が落ち着くまで何も言えないのが悔しくてならない。
たった数分がこんなに長く感じるのは初めてだ。
「どう、落ち着いた?」
「あ、ああ……ホント、死ぬかと思った」
「また怖がらせてゴメンね。でもどういった感じだったか、これでよく分かったでしょう」
今さら謝ったって遅い!
血まみれにならなくたって聞けば分かるのに俺を殺すつもりか!
って、本当なら怒鳴りたいのだが、落ち着いたらそんな気力が萎えてしまっていた。
自分でも驚くぐらいに今度は落ち着き払っている。
「一度見ているんだからやらなくても分かるって普通は思うだろう。もう少し相手のことを考えろよな」
「うん、そうする」
「だったらもうあの血まみれになるんじゃねぇぞ、いいな?」
「分かったわ」
幽霊に対して説教をするのもなんか変な感じだが、コイツが殊勝な面持ちで素直に聞き入れたのは予想外だ。もしかすれば何か魂胆があるのかもしれないと勘ぐってしまう。
実際にここまでコイツに主導権を握られたままだ。下手すればこのまま居座られるかもしれない。
それだけはゴメンだ。呪い殺したりしないとは言っているけど本心はどう考えているのか分からない。
俺を油断させる為なのかもしれないのだからここは上手く言いくるめて出ていってもらう必要がある。
もう回りくどい事はヤメだ。ストレートに言って分からせてやらなければならない。
「で、ここにずっと居たのは分かった。それでいつまで居るつもりなんだ?」
「ずっとよ」
「ここは俺の部屋だぞ」
「そうね、でもあたしの部屋なのも事実よ」
「家賃を払うのは俺だぞ」
「だね、しっかり稼いでもらわなきゃ。でも勉強を疎かにしてはダメだぞ」
ニッコリ笑って何がしっかり稼いでもらわなきゃだ、こん畜生!
言うに事欠いてちゃっかり居座るつもりでいやがる。
コイツには遠慮というものがないのか、エアコンのリモコンを手に取ると勝手に弄りだした。しかも小さな液晶画面を見るなり不満をぶつけてくる。
「さっきから暑いって思ったら温度の設定が上がっているじゃない。ダメだよ勝手に変えちゃ」
「これは俺のだ!」
「何言ってんのよ。このクーラーは雅彦君が来る前からあったものでしょう」
「これは元々据え付けられているもので電気代を払っているのは俺だ。だから使う権利は俺にある」
「でもあたしだってここの住人なんだから使う権利があるわ。それにあたしの方がここに長く住んでいるし、どちらに優先権があるのか考えるまでもないでしょう」
な~~~~んて屁理屈をよくも平然とこねやがるんでしょう、コイツは!
優先権がどうのこうの言う前に誰がお金を払うのかって考えやがれでございますよ!
いったいどういう神経をしているのだろうか。
この図々しさはとっくに死んでいて神経が働いていないからこんな自分勝手な解釈ができるのだろうか。
「お前、そりゃ滅茶苦茶だぞ」
「もうっ! さっきからお前、お前って失礼ね」
「名前を知らないんだからしょうがないだろ。他にどう呼べばいいんだよ」
「聞けばよかったっんじゃない」
「じゃあ、何て名前なんだよ」
なんか話をすり替えられた気がしないでもないが、コイツの感情が猫の目のように変わっていく方がついていけない。これではまともな会話なんか無理だ。
急に怒りだしたかと思えば名前を尋ねると嬉しそうに表情が晴れやかにしやがる。
止まった神経では喜怒哀楽が正常に働かないとでもいうのだろうか。
「聞きたい?」
「聞けって言ったのはお前だろっ!」
「あ~~~~~っ、またお前って言った!」
「だったら早く言えよっ!」
「そんなに怒鳴らなくたっていいじゃない、このバカァッ!」
「バカとは何だよっ!」
「また怒鳴ったーーーーぁ」
「あ、あのなぁ……」
これってコイツがボケて、俺がツッコンでいるみたいではないか。どうもワザとらしく思えてならない。
もしかして俺を苛つかせてここでの主導権を握るつもりではないだろうか。
だったらコイツは幽霊のくせになんて計算高い女だろう。危うく掌で踊らされるところだったがそうはいかない。やはりギャフンと言わせてやる必要がある。
「分かった、分かった。もう怒鳴ったりしないから機嫌直せよ」
「本当にもう怒鳴らない?」
「ああ、怒鳴らない」
「じゃあ、あたしが言ったこと全部認めてくれる?」
「それは認められない」
「意地悪しないでよ~~~~ぉ!」
「どっちが意地悪だってんだよっ!」
なんでこうなる!
いきなり泣かれても泣きたいのは俺の方だ。幽霊なんかに居座れちゃ堪ったものじゃない!
もしも新しい彼女ができたらどうしろっていうんだ。まさか同居している幽霊ですって紹介しろとでも言うのかよ。
友達が家に来たとしてもそうだ。気味悪く思われ、ヘンな噂が一気に広まるのが目に見えている。たとえ誰も部屋に入れないようにしても何か別の理由で不審がられそうだ。
今にして思えば引っ越して間もないから部屋が散らかったままだという理由でここの住所を誰にも教えてなかったが不幸中の幸いだった。
しかしいつまでも教えないままなんて出来ない。引き伸ばしても精々あと2日ぐらいだろう。だったらそれまでに決着をつける必要がある。
「アタシの方が先に住んでいたのに、生きていた時からずっと住んでいるのに、なのにどうしてなのよ。こんなの酷いわ。酷すぎるよ」
コイツの態度からしてまったく譲る気はないらしい。あくまでも自分の主張を貫くつもりのようだ。
このまま俺の言い分をまともに聞かないと分かった以上、もはや不毛な会話を続けていても埒があかない。こうなれば強硬手段に訴えるしかなさそうだ。
「あのなぁ、泣いたってこの部屋だけは譲れないからな。俺の言うことを聞かないなら今すぐ出ていけ。二度と俺の前に姿を見せるな。それとも居たいからって俺の言うことを何でも聞けるか? 聞けないだろう」
言ってやった、言ってやったぞ!
このままずっと居座られてたまるか。こっちだって生活が懸かっているんだから一歩も引き下がるわけにいかない。
「ほら、また意地悪なこと言う。ここから出られないのに酷いよ」
なにっ!?
今、なんか聞き捨てられないことをさらりと言ったような気がしたが聞き間違えたのだろうか。
そうだ、聞き間違えたに違いない。
コイツは正真正銘の幽霊なのだ。その気になれば壁をすり抜けられるだろうし、どこにだって行けるだろう。
伏せた顔を両手で覆い、嗚咽の声を漏らしていることにしても演技ではないだろうか。嘘泣きで俺に同情を誘っているようにしか見えない。
「アハハッ、そんな嘘で騙されないぞ。嘘泣きしたって無駄だからな」
「嘘じゃないもん。だってあたし“地縛霊”なんだから」
「はあぁっ、自爆霊!? なんだそりゃ」
嫌な予感がしたのでワザとボケてみました。
この先を聞くのが正直言って怖いです。
出来るならボケ通りに自爆して下さいませんか?
でもリアルな弾け方だけは謹んでお断りさせていただきます。
なんてことは通じそうにない。
予感めいた通りのことをこの女幽霊は悲しそうに語りだした。
「地縛霊はね、死んだところから動けないのよ。心残りの場所に縛られて他所に行けないから地縛霊っていうの。だから出ていくなんて出来ないのに、それなのに出ていけだなんて酷いよ。あたしをこんなに苛めて何が楽しいのよ、このバカーーーーっ!」
「な、な、ななな、なんですとぉーーーーっ!」
やっぱりこんなのシャレになりません。
つまりそれはコイツが出ていけないのであれば、出ていくのは俺の方ってことなのか。
いやいや、それは出来ない。ここみたいに安い家賃の家なんて早々に見つかるものではないのに出ていけばどこに住めばいいと言うのだ。
仮に運良く見つかったとしても次は何が出てくるのか分かったものではない。想像しただけで目眩がしそうだ。
「じょ、冗談じゃないぞ」
「冗談じゃないのはあたしの方よ。雅彦君なんてもう嫌い、大っ嫌い! 一緒に楽しくしたいって思っていたのに、こんな意地悪ばかりするんだったら……」
嗚咽の声がやんだ途端、揺れていた肩がピタリと止まる。素肌が青白くなって血の気が引いていくのはアレになる前触れだ。
顔を覆っていた両手をどけると酷い痣や赤く滴るものが見えてくる。
吊り上がった眉に鋭い眼光は恐怖そのもの。今から何をされるか分かったものではない。
「待て待て! 分かった、俺が悪かった! この部屋のこともみんな認めてやるからそれだけはやめろ、やめてくれーーーーっ!」
果たして、俺の切実な叫びを聞き入れてくれたのだろうか。
栗色の髪を垂らしたまま俯く女幽霊は何も言わずにじっとしたままだ。
「頼む、謝っているんだからもう機嫌を直してくれ」
「本当に、本当に全部認めてくれるの? あとで嘘なんて言ったら承知しないんだからね」
「ああ、もちろんだ。この部屋を自由に使っていいから。だから血まみれにだけはもうなるな。いいな、それでいいだろう」
「――う、うん」
小さく頷いたようだがこれを了承と受け取っていいものだろうか。
その答えは血色を戻したあと、勢いよく顔をあげての晴れやかな笑みをみれば分かるだろう。
ともあれ、俺はまんまとしてやられたということらしい。
「だったらこれで許してあげる。そうそう、まだ名前を言ってなかったわね。あたしは実香、松浦実香っていう名前なの。雅彦君は苗字なんていうの?」
「知っているんじゃないのかよ」
「知らないわよ。メール見たときに雅彦君の名前は書いてあったけど苗字まで書いてなかったわ」
実香と名乗った女幽霊は、元カノと別れる決断になったメールを読んで名前を知ったという口ぶりだ。つまりそれまで俺の名前をまったく知らなかったということになる。
玄関前の表札を見ればすぐに分かることなのに、それをしなかったのは部屋から出たくても出られなかったという言い分にも説明がつく。とはいえ、実香は嘘を吐いていないということを認めてしまっていいか。
ただ、これで自宅での平穏を失ってしまったことには間違いない。部屋の優先権を与えてしまっては、実香が何をしても文句を言えないのだ。
だからこそ怖じけしまって冷静になれなかったことに悔やんでも悔やみきれない。
それにしてもコイツ、また嫌なことを思い出させやがった。
何度も誤解だと、浮気なんてしていないって俺の言い分を聞かなかった元カノが怒りまかせに送ってきたメール。事の発端はバイト仲間の女の子が彼氏に渡すプレゼントを選ぶのに付き合った現場を元カノの友達に目撃され、それが元カノに伝わったことだ。
理由も聞かずに捲したてる元カノについ俺も感情的になって口論となり、お互いが意地を張ったまま数日後も大喧嘩をやらかした勢いで家を飛び出してしまった。あのメールは家を飛び出した直後に送られてきたものだ。
あの時、お互いが冷静になっていれば、元カノが俺のことを信じてくれさえいれば別れることもなかったことだろう。
何度も消そうって思ったけど、消さずに残していたのはどこかに未練があったのかもしれない。もしも今からでも誤解を解くことが出来ればまたやり直せるのではという気持ちが無意識のうちに残っているのだろうか。
それともあれから誤解を解こうとしなかったのは、もう未練というものが心に残っていないからなのだろうか。
どちらにしろもう過ぎてしまったことだ。たとえ自分自身の気持ちがどうであれ、今さらやり直すなんて出来ない。
最後の大喧嘩の時に悟ったのだ。俺は初めっから元カノに信用されていなかったことを――。
だからこそお互いのためにと学校で顔を合わすことがないように配慮してきたのに、つき合って楽しかった頃をまた思い出してしまった。なのに今はそれを思い出すことが辛い。
「――ねぇ、聞いてる? お~~いっ!」
何か現実に引き戻してくる声がした。
ふと我に返ると小さなテーブルを挟んだ向こうに座っていた実香の姿がない。
「どこ見てんのよ」
声がしたのは正面ではなく左側からだった。
そこからほんのりと漂ってくるシャンプーの芳しい香りと頬に吹きかかる甘い匂いが俺に振り向かせる。
「ぬわっ! お前、いつのまに!」
「さっきからここに居たわよ。雅彦君ったらいくら呼んでも返事してくれないんだから」
四つん這いになって上目遣いの実香がすぐ傍にいた。
柔らかそうな唇、そしてフリルが付いたピンク色のブラに包まれた二房の膨らみが否応なしに目に飛び込んであまりにも刺激的だ。
「それにお前って呼ばないでよ。名前を教えてあげたんだからちゃんと実香って呼んでよね」
少し前屈みになればお互いの顔が届きそうな距離から甘えた声で拗ねる実香。
頬に吹きかかっていた甘い匂いは実香の吐息だったらしい。
声を掛けられてからいつしか彼女の目と合い、見つめ合ったまま言葉を失ってしまった。
あの……この状況って、どういうことなんでしょう?
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