第1話 アイツはいきなり現れた
夜になっても蒸し暑さが和らぐこともなかった。
勾配のある坂道がこの先に待ち構えているともなると、自宅までの残りたった5分が億劫にもなる。
これが慣れ親しんだ道であれば坂を上がることで苦痛に感じることもなかったことだろう。引っ越して4日目の俺にとって、バイト帰りの疲れた身体ではこの坂道は正直言って堪える。
仕事着を詰め込んだカバンと夕食が入っているコンビニのレジ袋をここに捨てたいぐらいだ。案の定、自宅があるマンションの前についたときには全身汗まみれとなり、喉が渇きを訴えて水分を求めてくる。
マンションの入り口近くに設置されている100円均一の自動販売機に目がいくのも無理はない。何も考えることなく硬貨を入れ、目当ての飲み物を求めてしまう。
ガシャンという音がしたあとに取り出し口に手を入れると冷えた缶がまるで砂漠にあるオアシスのように感じられた。
ところが取りだしてみるとコーラを選んだのにも拘わらず、出てきたのはオレンジジュース。押し間違えたのかと思い、今度はサンプル品をよく確かめながら選んでみた。
すると、やはりオレンジジュースがまた出てくる。
たった200円でも貧乏学生には痛い出費だ。それが飲みたいコーラとは違う物となればこの蒸し暑さもあって余計に腹が立つ。
「くそっ! なんなんだよこの自動販売機は!」
蹴りを喰らわせたい衝動を抑えつつ2本の缶ジュースをレジ袋に放り込み、疲れで重くなった足を引きずるようにしてマンションの中へ入っていく。
古びた壁はこの建物の年期を示しており、1階の住人が通路に設置した洗濯機はどれも古い形式ばかりだ。おそらくここは住人の入れ替わりが少なく、同じ人が長く住んでいるのだろう。
しかし今は無関係なことを気にかける余裕は惜しむべきなのだ。ただでさえ疲労と蒸し暑さで倒れそうなのに、身体を休めるためには段差がある狭い階段を4階まで登りきらなければならない。
今さらながらエレベーターがあればとつくづく思っても、ここの部屋を借りる決断をしたのは俺自身だ。泣き言を言う前に少しでも足を動かせと自分に言い聞かす。
「よしっ!」
大きく息を吸ってから気合いを入れ、パンパンに張った足に最後の鞭を打つ。段差があって足が震えそうになってもまだ止まるわけにいかないと気力を振り絞る。
途方もなく長いように感じられた階段を登りきって自宅がある4階に辿りついた頃には、白いTシャツが透けてしまうぐらいに汗を吸い込んでいた。
※ ※ ※
玄関を開けると当然のことながら部屋の中は真っ暗で、不快な熱気が出迎えてくると想像していたのにまったく違った。照明が点いたままでエアコンも寒いぐらいに効いている。
俺としたことが家を出る時に確認しなかったらしい。だがどうしても違和感が拭えない。
「ちゃんと消してからバイトへ行ったのにどうなっているんだ!?」
まだ住み慣れていないのもあって今朝は5時頃に目が覚めた。出かける準備にかなり余裕があったから消し忘れるなんてありえないことだ。
だが考えられることが一つだけある。
最寄り駅まで徒歩15分で通える1DKのマンションの家賃がたったの4万円。トイレと浴室が個別にあっておまけに脱衣所まであれば破格だ。部屋が二つとも和室だから馴染みやすいのも利点だと言える。
都心まで約40分とならば交通のアクセスにしても不自由がない。
しかもエアコンが新しいものに付け替えられたのは去年のことだと聞いている。壁に少しシミがあることを除けば申し分のない環境だ。
つまり建物が古いとはいえ、一人で暮らすには十分すぎる部屋の家賃があり得ない安さは何らかの曰わくがあってのことだろう。得体のしれない気配をずっと感じていたこともあって嫌なことを連想させてくる。
おかげでここに引っ越してから一度もぐっすりと眠れなかった原因の一つにもなっていた。
「まさか出るってことはないよな。ハハッ、考えすぎだ」
気を取り直して部屋の中に入り、短い廊下の先にある部屋に向かう。扉を開けて部屋に入るなりレジ袋を小さなテーブルに置くと汗まみれのTシャツを脱ぎ捨てた。
ズボンまで脱ぐと冷えた空気の流れが気持ちいい。冷気を直接浴びることで身体の余分な熱を冷ましてくれる。しばらく涼んでいると少し寒いぐらいだ。
エアコンのリモコンを手にとって温度を確かめてみると設定温度が19度。朝からつけっぱなしなら部屋が冷えきっていて当然。それよりも電気代の方が心配でならない。
この世にいない存在よりも電気代の請求書の方がよっぽど怖いし肝が冷える。
「メシ食う前にシャワーでも浴びるか」
エアコンの温度を調整してからレジ袋を漁った。カップ麺とおにぎりをテーブルに置き、買ったばかりのオレンジジュースを2本とも冷蔵庫に入れる。
ふと、そこで人の気配を感じた。ここへ引っ越してきてから度々感じていたものと同じだ。
いつものようにソイツの姿はまったく見えない。この4日間と変わらなければいずれ静かに気配を消すだろう。
しかし今に限ってこれまでは違う。見えざる存在は浴室からしてはならない音を鳴らし始めたのだ。
部屋の主である俺を差し置いて、ソイツは無断で蛇口を捻ってシャワーを浴びているとでもいうのか。得体のしれない不気味さよりも、勝手に部屋を使われる憤りが上回った。
「くそっ、今日こそ正体を曝いてやる!」
おそらく明かりをつけっぱなしでエアコンまで使っていたのもソイツの仕業だろう。腸が煮えくり返る思いを叩きつけるべくまずは脱衣室のドアに近寄り、音を出さないようにそっと開けてみた。
ところが洗濯機と並べて置いてある脱衣篭の中には衣類がない。念の為に洗濯機の中を覗きこんでも何もなかった。
浴室と隔てるガラス張りの引き戸には湯けむりで隠れた人の姿があるのに衣類がないのはどうもおかしい。湯気で姿がはっきり見えなくてもヤツは裸でシャワーを浴びているのだからこれには違和感を覚えてしまう。
しかも視界の片隅からも別の違和感を覚える。ふと俯くと二段ラックになった脱衣篭の下にあるもう一つの篭から見覚えがないピンク色をした生地らしきものがあった。
どうやらこれがもう一つの違和感の正体だったらしい。
「なんだこれ?」
下の篭は普段まったく使っていないのにタオルが洗濯するときにでも落ちたのだろうか。いや、ピンク色のタオルなんか1枚も持っていない。
それに生地そのものが違うようだ。細長い先にフックのようなものが付いているタオルなんてあるのだろうか。いや、俺の持ち物にそんな物は一つもない。
「まっ、何でもいいや。それよりも……」
下の脱衣篭にある物が気になるが確認など後回しだ。浴室でシャワーを浴びているヤツの方がよっぽど気になる。
衣類を身につけずに素っ裸で部屋に忍び込み、人の部屋を我がもの顔で使った大胆な侵入者はいったい誰なんだろう。
空き巣なのか、あるいはこの部屋を乗っ取ろうとでも企んでいるのだろうか。そもそもこの侵入者は生きている人間なのか、それとも……。
何か悪寒めいたものを感じるがもう後には引けない。覚悟を決め、おもいっきり開けることでコイツを驚かせつつも正体を拝んでやろうと息巻いた。
「コラーーーーッ! 勝手に人ん家に上がり込んで何シャワーまで使っていやがっ……て……ぇ!?」
相手がどんなヤツであっても気持ちだけは負けないつもりだった。今さら他の部屋を借りるほど金銭に余裕がない状況では如何なる相手であっても追い出す必要があった。
なのに、ソイツは確かにそこで姿を現してはいるのだが、想像していたものとはまるで違う。
目の前で濡れた栗色の髪が振り向きざまに広がった。
パッチリとした目を大きく見開く顔だちはどう見ても二十歳前後ぐらいの女の子。背丈はやや小柄といったところだろうか。
シャワーの熱気にあてられた肢体を隠せずに驚きの表情で俺をじっと見ている。けれどこの女にまったく見覚えがない。
「お、女……!?」
ゆっくりと視線をおろせば程よく膨らんだ二つの膨らみがあった。更に下へと移すと縦長の小さな臍、そして見てはいけないと思いつつもその下を意識してしまう。
もう一度ゆっくり視線を上げてみればやはり見知らぬ女だ。驚愕に染まった彼女の顔がみるみると真っ赤になり、柔らかそうな唇がなわなわと震えだす。
「ひっ! ノ、ノゾキ……ひぃ、きっ、きゃああぁぁーーーーーーっ!! ノゾキ、痴漢、変態っ! 出てって、出てってよぉぉーーーーっ!」」
胸を隠しながらその場で蹲る女が叫ぶ。
な、なんだ!?
いったいこれはどういうことなのかわけが分からない。
予想もしなかったことで俺自身、どういう感情なのかも分からず、どう声を掛ければいいのかすら頭に浮かんでこない。
驚かせてやるつもりが俺まで驚いて気が動転していたようで気がつけば玄関の外にいた。叫び声に思わずパンツ一丁の格好で飛び出してしまったらしい。
咄嗟に表札を確かめてみたが401号室は俺の部屋だ。手書きで “飯田雅彦”って自分の名前が間違いなく書いてある。
もしかして、さっきのアレがいつも感じていた気配の正体なのか!
あれはどう見ても生きている人間だ。
街で見かけたら声をかけたくなるような女の子がとても幽霊とは思えない。それに裸を見られて悲鳴をあげる幽霊がいるとはどうしても考えられなかった。
「あんな可愛い子がまさか……そんなわけないだろう。でも誰なんだ、なんで俺の部屋にいるんだ?」
知っている人物の中に心当たりはない。学校やバイト先、高校まで住んでいた地元にも見知った顔の中にいなかった。
もしも一度でも顔を合わせていたなら絶対に忘れることはないだろう。可愛らしい顔だちと色白の綺麗な肢体は今も目に焼きついたままだ。
「学校にあんな子が居たか? いや、居たら覚えている筈だ。店の常連客……そんなわけない。だったらマジであの子は……」
今まで感じてきた気配や脱衣室に衣類がなかったことを踏まえれば、あの子は幽霊だったという結論に辿りつく。しかし幽霊というものはおどろおどろしい姿で恨めしそうにしている筈だ。
いきなりノゾキ、キャ~~って女の子らしい反応をするわけがない。
常識的に考えても間違いないと断言できる。
視線を感じて振り向いた先でも似た出来事が起きればもう疑う余地はない。部活の帰りらしいお隣の娘さんと思われる女子高生が怯えた目で俺を見るなり金切り声で喚きだしたのだ。
やはりあの女は幽霊ではなかった……なんて悠長なことを考えている場合ではない。女子高生の誤解を解かなければ別の意味でここに住めなくなる。
下手をすればこのまま性犯罪者にされかねない。ここは部屋の中のことよりも今の状況を優先して解決すべきだ。
怯えてゆっくりと後退る女子高校生を宥めるべくそっと近づく。しかしこの場合はどう言えば理解してもらえるのだろうか。
「来ないでっ! こっちに寄ってこないでよこの変態っ!」
「ち、違う! 誤解だ、俺は変態なんかじゃない!」
「ママーーっ、警察呼んでぇぇーーーーっ!」
「違うって言ってんだろっ!」
助けを求めた女子高生が俺の言い分を聞かずに慌てながら隣の玄関に入っていく。
その数分後、駆けつけてきた警察官に事情聴取されて無実を証明するのに30分もかかった。
さすがにありのままを話すわけにいかなかったもの、どうやら痴話喧嘩で逃げた恋人を追いかけたという嘘を信じてくれたらしい。身分を証明できたことが幸いしたようだ。
とはいえ、これからお隣とは気まずくなるだろう。それだけならいいがヘンな噂をたてられでもすれば堪ったものではない。
こうなった原因はすべてあの女にある。この部屋が俺のものだって分からせる為にもここでガツンと言ってやらなければならない。警察に突きだすのはその後だ。
怒れる感情をそのままに部屋中くまなく探しまわった。襖の奥の部屋やトイレまで隅々探しまわった。
4階から飛び降りるなんて出来ないとなれば出口は玄関だけだ。そこから出ていないなら必ずこの部屋の何処かに隠れていると思ったのだが女の姿は何処にも見当たらない。
いったい裸のままで何処に隠れるのだろう。畳がどこも湿っていないのが奇妙でならない。
「いない!? まさかアイツ、まだ風呂にいるのかよ」
1DKの部屋ともなれば探すのに1分も掛からなかった。それで姿が見えないとなればまだ探していない脱衣室と浴室しか考えられない。
ところが浴室にも女の姿はなく、気配も消えたまま感じられなくなっていた。玄関を開けた音もない。
これはいったいどういうことなんだろう。
あれは妄想が生みだした幻だったのか。ここへ引っ越す原因になった恋人との別れが未練たらしくまだ残っているのだろうか。それにしては姿や声が別人だ。
いや、あれが幻の類いだったらいったい誰が浴室を使い、エアコンを掛けっぱなしにしたというのだろう。
風呂に入り、夕食を済ませてからもあの女のことをずっと考えてしまってどうしても落ち着かない。
「これで何も起きなきゃそれでいいじゃないか。それよりもアレ、昨日借りてからまだ観てなかったんだよな」
レンタルショップで借りたDVDの存在を思い出して否応なしに気分が高まる。話題になった元アイドルのAVデビュー作ともなれば期待は大きい。目に見えない不安など、大きな期待と比べたら些細なことだ。
DVDデッキにソフトを入れただけで心臓が激しく動悸をうち、自然と股間が熱くなる。
「あの新堂亜由美がAVデビューなんてマジかよ」
リモコンの再生ボタンを連打するとは我ながらはしゃぎ過ぎだ。いや、これは別れた元カノにまだ未練を残しているからこその行動なのかもしれない。居もしない女の幻を見たのも元カノを忘れたいと無意識に思ったのだろう。
どうやら別れてまだ2ヶ月程度では気持ちの切り替えが出来ていなかったようだ……なんて考えてしまったら折角の気分が台無しだろうって自分にツッコミを入れる。
その間にもメーカーロゴが小さなテレビの画面に映しだされ、いよいよ待望の本編が始まろうとしていたのだが――。
無情にもせっかくこれからって時に画面がプツンと途切れた。
「おい、なんで電源が切れるんだよ!」
ボタンを何度押したところで何も変わらない。テレビの電源までも切れてしまったようだ。
コンセントを差し直してみたが電源が入ることはなかった。
「ツイてないなぁ、故障かよ」
期待していた分だけ落胆も大きい。半ば諦めかけていたその時――!
――そんなエッチなもの観ようってするからよ!――
どこからともなく女の声が聞こえたような気がした。
狭い部屋を見渡しても誰もいない。姿が見えない声を聞いた途端、背筋に寒いものがゾクゾクと駆け上がってくる。
「この声……!?」
そう、一度限りだが聞き覚えのある声。
アイツだ、シャワーを浴びていた若い女はこの部屋のどこかに隠れている!
「おい、いるのか! くそっ、隠れてないで出てこい! 卑怯だぞ!」
「卑怯だなんて失礼だわ。ちゃんとここにいるじゃない。さっきはよくも覗いてくれたわね!」
また声が聞こえた。
今度は先程のように聞き取り辛いものではなく、はっきりと背後からした。恐る恐る振り返ってみると小さなテーブルを挟んだ向こうであの女が下着姿であぐらをかいていた。
バスタオルを首に掛け、フリルが付いているピンク色の上下お揃いの下着姿はあまりにも無防備で艶めかしくもある。
「のわっ! い、い、いつから居たんだ?」
「ずっと居たわよ。貴方って、もしかして鈍い?」
女が言い放つとオレンジジュースを美味しそうにグビグビと飲んで溜息をつく。
まるでここが自分の部屋であるかのように「ま、いいわ。とにかく座りなさい」なんて言い出す始末。
「それ冷蔵庫にあったものだろう。なに勝手に飲んでいるんだよ」
「ケチケチしたこと言わないの。それにあたしがいる前でこんなイヤらしいのをこれからは観ないでくれる」
この際、コイツが幽霊だろうが不法侵入者であろうがどうだっていい。突然姿を現した驚きなんてもう消えている。小憎たらしい態度にどうしても腹が立つ。
あと、目のやり場にも困るというものだ。
「あ、あのなぁ……」
「いいから座りなさい」
こちらの言い分を遮り、女は手を上下に振って合図してきた。しかも俺をまったく見ておらず、どこまでもナメきっている。
「言っとくがな、ここは俺の部屋だ」
「知ってるわよ。それよりも先に言うことがあるでしょう。お風呂を覗いたんだからちゃんと謝ってよね」
「何言ってんだ、勝手に風呂入ったお前が悪いんじゃないか。それになんでここに居るんだよ。誰なんだお前は!」
そうだ、ここで立場というものをはっきりとさせなければならないと決断したのは、急に黙りこんだ女に足があるのを確認したからだ。
そもそも幽霊がシャワーを浴び、あまつさえ何食わぬ顔であぐらを掻きながらジュースを飲むなんて聞いたことがない。コイツはおそらく俺の目を盗んで忍び込んだのだろう。
そして見つかるのが時間の問題とでも思って自分から出てきたのではないだろうか。物怖じしない大きな態度にしてもそうだ。堂々とすることで逃げる隙を窺っているのだろう。
だったらやるべきことはただ一つ。どうやって忍び込んだのかは分からないが、こいつの正体をここで曝いてやる。
「おい、黙ってないで何か言えよ。言えないってことは自分がやましい事をしたって認めているんだろ。どうなんだ?」
「はぁ、うるさいわね。貴方ってケチだけでなく神経質なの? おまけにノゾキまでして謝らないなんて本っ当に最低ね」
コイツ、完全に開き直ってやがる。
それにしてもなんて図々しいんだろう。見た目はすごく可愛いのに性格はとんでもなく悪そうだ。
いったい親にどんな躾をされてきたのだろうか。コイツには一般常識というものが欠けている。
「もういいからさっさと座んなさいよ。会話ってものはね、ちゃんと目線を合わしてするものよ。人を見下ろして怒鳴りつけるなんて貴方には常識というものがないの」
自分の常識の無さを棚に上げ、なんて事を言いやがるんでしょう、コイツは!
なんでお前みたいな非常識女に説教されなければならないんだ!
どうやらこの女は人を怒らせることに関しては達人の域に達しているようだ。気がつけば俺のスマホを弄り、慣れた手つきで操作している。
しかも持ち主である俺より早い。
「ぬわああーーーーっ! 人のスマホを勝手に触ってんじゃねぇぇっ!」
「フムフム……そっか、雅彦君は彼女と別れたんだ」
「メール読むなぁーーーーっ!」
「いいじゃない、減るもんじゃないんだから。だいたい別れた彼女のメールをまだ残しているなんて女々しいわよ。さっさと忘れたらいいのに」
「うるさい、そんなの俺の勝手だろっ!」
「続きは、え~~っと……」
「無視するなぁーーーーっ!」
「誤解だなんて嘘つくなんて最低! 私がどんなに辛い思いしたのか雅彦はぜんぜん分かってないだって。そうよねぇ、気持ちすっごく分かるわ。本当は大好きな雅彦君と別れたくなかったんだよねぇ。んで……」
「やめろぉぉーーーーっ!!」
メールの内容を知られた恥ずかしさのあまり、考える前に身体の方が先に動いた。
小さなテーブルをまわり込んでスマホを取り返そうとしていた。
ところが女の手首を掴んで取り上げようとしたところで俺は非現実的な体験をすることになってしまったのだ。
俺の手が女の手首を掴めずにすり抜けていく。
「なっ、これはどういうことで……?」
「見た通りよ」
「ってことは、その……つまり……」
ぶっきら棒に言いきる女の横顔を見ながら全身から冷や汗が噴きだしてくる。
今さらになってこの世に決して居てはならない存在とはどういったものか身にしみて分かった。
「あっきれた、まさかあたしが幽霊だってまだ気がついていなかったの。雅彦君って本っ当に鈍いのね」
いえいえ、気がついていないっていうよりも生身の人間だって決めつけていただけです。
貴女があまりにも幽霊らしくなかったので非常識な不法侵入者だと思い込んでいました。
「あれっ? ここまではっきり言ってもまだ分かんないの。しょうがないわね」
ちゃんと分かってますとも。
ただいきなりだったもので何も言えないだけです。
こんな非現実的なことをすぐに飲み込めるほど、あいにくと図太い神経を持ち合わせていません。
「だったらこうしたら、いくら雅彦君が鈍くても分かってもらえると思うわ」
女が振り向いてニッコリと笑う。
透明感のある肌から血の気が引いていき、ぷっくらと柔らかそうな唇の端から赤いものが流れだす。顔中に幾つもの痣が浮かび上がった途端、青白い死人のような顔つきになって額からも滴り落ちる血にまみれていった。
極限までの恐怖というものを味わうと、人間という生き物は意識に反して声が出なくなるようだ。
自分では絶叫したつもりでも実際には一言も発していない。無残な顔になった女から飛び跳ねるように離れた拍子に躓き、その場で腰を抜かしてしまった。