5月7日 (月) (2)
────ふいに目が覚めた。
目の前には、見飽きた天井が広がっている。
住み慣れた我が家、自室のベッドで僕は目を覚ました。
夢……を見ていた様な気がする。
夢の内容は覚えていないが、どこか悲しいという気持ちが胸の中に残っているのを僕は確かに感じていた。
眠い……
昨夜は友也から借りた漫画に没頭し、つい時間を忘れて読みふけっていたことを思い出す。
時刻は5時30分。活動を開始するにはまだ早い時間だった。
先ほどの悲しい気分を忘れさせてしまうほどの眠気に、大きなアクビが出た。
もう一眠りするために再びベッドで横になる。
今度は良い夢が見れるといいなぁ、なんて思っている内に僕の意識は深い闇の中に落ちていった────
耳元で忙しなく鳴り響く携帯の着信音。
その音で僕は、目を覚ます。
まだ重い瞼を擦りながら携帯を手に取って見てみると画面には『真田 竜二』と表示されていた。
「もしもし……」
この時の僕はまだ夢と現実の狭間にいた。
『おう、亮か?』
「そうだけど、どうしたの?」
『どうしたもこうしたもねぇよ。お前今どこにいんだ?』
「えっ? どこって家にいるけど……あっ!!」
まだボーっとする目で時計を見やると、時間はすでに8時をまわっていた。
先ほどまでの夢うつつが嘘のように現実に引き戻される。
『亮が寝坊するなんて珍しいな。早く来ねぇと遅刻しちまうぞ』
「ゴメン、すぐに行くから竜二達は先に行っててよ」
『あいよ。じゃあゆっくり行きながら待ってるぜ……』
そこで電話は途切れた。
僕は時計をもう一度時計を見やる。
今から走って行けばまだ間に合う時間だ。
コーヒー片手に朝食を食べている時間はもうない。
僕は急いで身支度を済ませ、家を飛び出した。
普段とは違い今日は全力疾走で学校を目指すが、日頃の運動不足がたたってか、すぐに息切れを起こしてしまう。
しかし今は後悔している時間すらも惜しいので、我慢して走ることにした。
「ハァッ……ハァッ……もうダメ……」
我ながら自身の体力の無さに泣けてくる。
情けないセリフを吐きながら、一度呼吸を整えるために自宅と学校の中間地点である公園の前で立ち止まった。
その公園はいつも僕達が待ち合わせに使っている場所だ。
当然、今日はそこに二人の姿はない。
だが、その代わりに、
「んっ?」
数メートル先に女の子が立っているのが見えた。
白いリボンで飾りつけられた、腰まで伸びた綺麗な栗色の髪に一瞬目を奪われてしまいそうな横顔。
「みさき……さん……?」
自然と口からこぼれた、身に覚えのない名前。
しかし、僕は彼女にどこか懐かしさを覚えていた。
僕は彼女を知っている……のか?
いいやそんなはずはない。
僕は今日初めて彼女を見た。
自分でも何を思っているのか訳がわからなかった。
けれども何故だろうか、僕は彼女を……
「おっ! 可愛い娘ちゃん発見!!」
「ねぇねぇ彼女、こんなとこで何してんの?」
ふと、声が聞こえ我に返る。
声のする方を見ると柄の悪そうな三人の男が、その女の子に話しかけていた。
状況からすると、どうやらナンパのようだ。
こんな朝っぱらから何をしてるんだかと呆れてしまう。
「え、あの……」
突然の出来事に彼女は少し困惑しているように見えた。
「どう、これから俺達と一緒に遊ばね?」
「でも私……学校に行かないといけませんから」
「いいじゃんいいじゃん、こんな時間じゃもう間に合わねぇって」
「俺達、勉強なんかより楽しい事いっぱい知ってっからさ」
そんなことを知ってか知らずか男達はしつこく彼女に言い寄っている。
「け、結構です」
彼女が明らかな拒絶の反応を示すが、その効果はまるでない。
「いいから。俺らと一緒に来いよ」
男の一人が彼女の腕を掴み、無理やり連れて行こうとする。
「やっ、やめて下さい!」
男の手を拒み、彼女がその手を振り払った時、偶然それは起きてしまった。
彼女の予想外の反抗の反動で男はバランスを崩し、その場で尻もちをついてしまったのだ。
「ってぇな、何すんだよこのアマッ!!」
尻もちをついた男が叫ぶ。
「あーあ、またキレちゃったよ」
次第に険悪な雰囲気になっていくのが傍から見ていても感じ取れた。
「あ、あの……私……」
鬼気迫るような表情でゆっくりと迫ってくる男に彼女はひどく脅えていた。
「オラッ! こっち来いよっ!!」
男が再び彼女の腕を引っ張り、
「きゃっ!」
彼女の口からは恐怖の声が漏れた。
そんな状況を見かね、僕は覚悟を決めて足を前に踏み出した。
「あのっ!!」
精一杯の勇気を振り絞って男達に声をかける。
「あ、何だガキ?」
威嚇する様な鋭い目付きで睨まれる。
あれ……この状況、何処かで……?
前にも似たような事があった。
そんな違和感に駆られる。
「何の用だっつてんだ、コラァ!」
男の手が僕の方に伸びてきたとき、
このままじゃマズいっ!!
「きゃっ」
本能的に危険を感じ取り、僕は女の子の腕を取ってその場から走り出した。
「なっ! 待やがれぇっ!!」
男達もすぐに走って追いかけてくる。
彼女を連れたまま走ったのでは、すぐに追いつかれてしまう。
かといって僕が男三人を相手に堂々と戦って、勝てる道理はない。
何かいい案はないかと模索しながら、僕は彼女の腕をつかんだまま一心不乱に走リ続けた。
途中、角を曲がろうとしたとき、
「うわぁっ!」
何か大きなものにぶつかってしまった。
ぶつかった拍子に一歩距離を置く。
何でこんなところに壁があるんだ?
ジ~ンとする鼻を押さえ、その正体を確認する。
だが、それは壁などではなかった。
「なんだ、亮じゃねぇか」
「あ、竜二、に友也! 何でこんなところにいるの?」
「何でって、お前が遅いから何かあったのかと思って様子を見に戻ってきたんだぞ」
竜二の後ろに立っていた友也が言う。
「そ、そうなんだ」
「ところで、その娘はどうしたんだ?」
友也は僕が連れている女の子を見て怪訝な顔をした。
その言葉で僕は今の自分が置かれていた状況を思い出す。
「はは~ん、やけに遅いと思っていたらそういうことか。朝から女の子を口説くなんて、なんだかんだ言って亮も男だな」
いやらしい笑みを浮かべ、友也が僕のわきを肘でつつく。
どうやらとんだ勘違いをされてしまったようだ。
「ち、違うよ!」
「そんな照れるなって、亮だって青春の一つや二つ……」
友也のペースに飲まれ、僕があたふたしていたところで、
「もう逃がさねぇぞ、このガキが」
先ほどの三人に追い付かれてしまった。
「あん? 亮、何だコイツら?」
事情を呑み込めていない者同士が対面してしまう。
余計に話がややこしくなってしまった。
「関係ねぇ野郎は引っ込んでな! 痛い目見たくなかったらよ」
「はぁ、なるほどな。そりゃ亮が来るのが遅かったわけだ」
やれやれとため息つき、友也は僕をからかうのを止めた。
どうやら状況を察してくれたようだ。
「竜二、頼めるか?」
友也は横に立っていた竜二にそう尋ねる。
「よくわからねェが、こいつらを追い払えばいいんだろ?」
「ああ。けど、やりすぎるなよ」
「わぁってるよ」
指を鳴らしながら竜二がズイっと僕達の前に出た。
「どうやら痛い目にあわねぇとわかんねぇみてぇだな、ガキが……」
「おっ! やっちゃう、やっちゃう!! ハハハッ」
すでに竜二も向こうもヤル気満々。
こうなってしまってはもう僕には止められそうになかった。
「この場は竜二のヤツに任せとけば大丈夫だ」
「でもさ……」
「亮はその娘と一緒にアイツらから逃げてきたんだろ?」
「まぁ、そうだけど」
「なら問題ない。安心しろ、お前のことは俺達が守ってやる」
とても心強い言葉だったが、そう言う友也の顔は、どこか切なさを感じさせられた────
「あ……あひる…………」
謎の発言を残して、ドサッと男が倒れこむ。
「へっ、今日はチャライ奴の厄日だな」
パンッパンッと手をはたき、余裕綽々の様子で竜二が戻ってきた。
「やっぱり竜二って、すごく強いよね……」
竜二は一分もかからずに三人とものしてしまったのだ。
そのおかげで僕達が狙われる心配もなくなったわけだが。
「危ないところを助けていただいてありがとうございました」
一段落したところで、彼女はペコりと頭を下げてそう言ってきた。
「こっちこそゴメンね。いきなり腕引っ張って走ったりして。ケガとかしてない?」
「はい、全然平気です!」
「君も、うちの生徒だよね。なんであんなところで……」
「おっと亮、話はそこまでだ」
僕が事情を聴こうとしたところで友也が話を遮る。
「事情を聴きたいのは山々だろうが、今は急いだ方がいいんじゃないか?」
「……あっ!!」
登校時間のことを完全に失念していた。
「やべぇっ、今から急いでも間に合わねぇんじゃねぇか! 仕置きをくらうのは嫌だあああぁぁぁっ!!」
竜二が一人、絶望の声を上げている。
「落ち着け竜二、まだ遅刻と決まったじゃないだろ」
「何か考えがあんのか!?」
「ふっ……ない」
「ダメじゃねぇかああぁぁぁ!!」
よほど竜二の中で前に遅刻をして、先生に尻をしばかれたことがトラウマになっているようだ。
「と、とにかく急ごう。君も急いだ方がいいよ」
「は、はい!」
僕達四人は急いで学校に向けて走り出した────
何とか学校に着いたものの、
「ぐわあああぁぁ、遅刻じゃねぇかーー!!」
竜二が絶望した。
「あとは、先生が教室にいないことを祈るしかないな」
「そ、そうか! まだその可能性があるじゃねぇか!!」
僅かな可能性に賭けて校内に入るが、
「あん? こんなところで何やってんだお前達?」
昇降口で先生とバッタリ出会ってしまう。
この世に神はいなかった……
「登校時間はとっくに過ぎてる。ということは遅刻か」
「いや、これには訳が……」
「問答無用っ!!」
終わった。
そう僕達が覚悟を決めた時だった……
「待って下さいっ!!」
女の子が先生を制止する。
「ん? 君は……」
「こ、この人達は悪くないんです」
そう言って彼女は今までの事情をかいつまんで説明してくれた。
それを聞いた先生はしばし思案したあと、
「ふむ、そういう事なら仕方ないな。今回は特別に不問にしてやろう」
なんとか許してもらうことが出来た。
「お前らはさっさと教室に行け。私は彼女と話がある」
先生は彼女のことを知っているのだろうか?
そのことを聞いてみようかとも思ったが、せっかく拾った命だ、この場はおとなしく教室に向かうことにした。
「ふぅ、危なかったぜ」
「ああ、あの娘に感謝しなきゃな」
安堵の声を上げながら教室に入る。
でも彼女は何者なんだろう……?
さきほどの不思議な感覚に頭の中がモヤモヤしっぱなしだった。
暫くして先生が教室に入ってくる。
「あー、突然だが今日からこのクラスに新しく生徒が転入することになった」
それは、何の前触れもなく、ぶっこまれた朝一のビッグニュース。
先生の言葉に教室中がざわめいた。
「ほらほら、静かにしろ」
先生が皆を制止する。
「じゃあ入って来い」
教室の扉が開き、一人の女の子が入ってくる。
腰の辺りまで伸びた綺麗な栗色の髪がさらりとなびかせ、女の子が教卓の前に立つ。。
今更忘れられるわけもなく、そこに立っていたのは、今朝、僕達が助けた女の子だった。
「おい亮、あの娘……」
友也もそれに気付く。
「ん? ああさっき俺達を助けてくれた奴じゃねぇか」
さすがに竜二も覚えているようだ。
黒板には『白河 美咲』と名前が書かれていた。
「じゃあ自己紹介でもしてくれ」
「はい」
先生に言われ白河さんは柔和に微笑んだ。
「白河美咲です。この町に越してくる前は父の仕事の都合で海外で暮らしていました。始めは皆さんに迷惑を掛けてしまうこともあると思いますが、よろしくお願いします」
美咲という名前。
それは朝、僕の口から出たものと一致していた。
何かの偶然だろうか?
そして白河という苗字もどこか聞き覚えがあった。
だが、どこで聞いたのかどうしても思い出すことが出来ない。
いや……やはり気のせいだろうと僕は、すぐに考えるのをやめた。
「さて白河の席だが……ちょうど神谷の隣が空いてるな。とりあえず白河はあそこに座ってくれ」
「はい……あ!?」
僕の方を見たとき、白河さんも僕に気付いたようで少し驚いた顔をしていた。
「あなたは今朝の……」
「やぁ」
白河さんや友也達に比べ、僕は今朝偶然助けた女の子が自分のクラスに転校してきたという事実になぜか新鮮味を感じなかった。
それが、さも当然のことであるかのように不思議と受けいれていたのだ。
大したことではないのかもしれないが、今までの事をすべて冷静に対処している自分が少し無気味に思える。
その後も隣の席になった白河さんと僕達は今朝のこともあってか、すぐに打ち解けることが出来た。
午後の授業も終わり放課後になる。
バイトがあるため先に帰った友也を見送り、僕と竜二も早々に帰宅することにした。
「ん? おい亮」
「どうしたの?」
「あそこに立ってるの白河じゃねぇか?」
校門の前を見ると、確かに白河さんが立っていた。
「白河さん!」
一人困った表情をしていた白河さんに声をかける。
「あ、神谷君と真田さん」
「こんなところにつっ立って何やってんだ?」
「実はですね、今から家に帰ろうと思ったんですけど……」
「うん」
「住所を見ても家の場所がよくわからないんです……」
「へっ?」
白河さんの話によると今日から住む予定の家の場所が分からないとのことだった。
「ちょっと僕にも見せてくれる?」
「はい」
このまま放っておく訳にもいかず僕達は一緒に白河さんの家を探すことにした。
住所の記された紙に目を落とす。
それを見て僕は驚愕した。
「ありゃ、これって亮の住んでるマンションと同じ名前じゃねぇか?」
竜二の言うとおり、その住所は僕の家の隣の空き家を示していたのだ。
「えっ、そうなんですか?」
「どうやらそうみたいだね、あはは……」
「よかったじゃねぇか。探す手間が省けてよ」
「はい!」
家の場所が分かって安心したのか白河さんは嬉しそうに笑った。
自分の家の隣……
また妙な違和感を感じる。
僕の隣の家……前にも誰か住んでいた気がする……
しかし、それはあり得ない。
その場所は僕がマンションに住み始めてからもずっと空き家だったからだ。
でも確かにあそこには誰かが住んでいた……はず……
矛盾している事柄に僕は頭を悩ませる。
しかし、その人物のことを思い出そうとしてもどうしても思い出せなかった。
まるで頭の中に靄がかかってしまったように……
「おい、何ボーッとしてんだ亮。早く帰ろうぜ」
「あ、ゴメン」
竜二に呼びかけられて我に返る。
夕焼けに染まる道を歩きながら僕達は家路に就いた。
途中で竜二と別れ白河さんと二人でマンションを目指す。
「でも、私の家が神谷君の家の隣だなんて本当にビックリしましたよ」
「僕も驚いてるよ。何か漫画みたいな偶然だね」
「そうですね」
異性に免疫のない僕だが、白河さんとは緊張せずに話すことが出来た。
まるで何度も話したことがあるような感覚で、とても話しやすかった。
「ねぇ、美咲さんは……」
「はいっ?」
白河さんが何か驚いたように声を発する。
「あ……」
僕もすぐにその理由に気付いて、つい声を出してしまった。
『美咲さん』と自分でも驚くほど自然に異性を下の名前で呼んでいたのだ。
「ご、ごめんっ……いきなり馴れ馴れしいよね。その、勝手に口から出てきたって言うか……」
慌てて訂正をするがうまく言葉が出てこない。
日頃の疲れか、はたまた昨夜の夜更かしのせいかなのか、今日の僕はどうにかしてしまっているようだ。
「気にしないで下さい。いいですよ、美咲さんで」
そう言って白河さんは優しく微笑みかけてくれた。
「えっ!?」
白河さんの意外な言葉に僕は再び驚きの声をあげる。
「美咲さんでいいって言ったんです。そのかわり私も神谷君のことを亮君って呼びます」
夕焼け空の淡い光に照らされた、どこか儚さを思わせる笑顔を見て。思わずドキッとしてしまう。
どこか気恥ずかしい気分のまま僕達は歩みを進めた。
着いたマンションの前には引っ越し業者のトラックが止まっていた。
美咲さんの話しによるとこれから部屋に家具や荷物を運び入れるらしい。
「何か手伝えることがあったら何でも言って」
邪魔にならないようにそう伝え、僕は先に部屋に戻った。
『白河 美咲』
今日、初めて出会った少女。
そのはずだが、そんな気が全くしない。
美咲さんの姿、美咲さんの声、美咲さんの笑顔を僕は知っているような気がした。
何だか頭の中が混乱してくる……
ついでに疲れがたまっているのか、しだいに瞼が重くなっていく。
そして僕の意識はそのまま深いまどろみの中に落ちていった────
『ピンポーン』
部屋に響く、インターホンの音で目を覚ます。
「はいっ、今出ます」
まだ重い瞼を擦りながら、家のドアを開けると、
「こ、こんばんは」
そこには美咲さんが立っていた。
心なしかどこかぎこちない。
「どうしたの?」
「えっとですね、亮君ってもう夕飯とか食べちゃいましたか?」
「いや、まだだけど」
「あの、よかったらなんですけど、うちで一緒に夕飯を食べませんか? ちょっと作りすぎちゃって……」
指をこすり合わせながら言う態度が、なんとも可愛らしかった。
時刻は21時。
今から夕飯を作るのがしんどい僕にとっては有り難い申し出だ。
「でも本当にいいの? 何か悪い気もするけど……」
「い、いいんですいいんですっ、気にしないで下さいっ。亮君の為に一生懸命作りましたから……あっ!!」
美咲さんは顔を真っ赤にして俯いてしまう。
僕の為に作ってくれた……?
なんとも大胆な発言に僕もつい顔を背けてしまいそうになった。
「あのですね……せっかく亮君とお隣さんになったのですから、その親睦を深めるためといいますか……」
そ、そうか……親睦を深めるためか。
妙な期待をするのはやめようと、緩みかけていた顔を直す。
「うん、せっかくだからご馳走になるよ」
「は、はい。ありがとうございます」
僕は案内されるまま美咲さんの家の中に入っていく。
家の中は香ばしい香りで満ちていた。
出来たての料理から発せられている食欲をそそられる匂いに。
真っ白な壁に囲まれた空間の中には、まだ必要最低限の家具しか置かれていなかった。
リビングに置かれているテーブルの上にはお椀に盛られたご飯にシチューやサラダなどが二人分用意されている。
「冷めないうちに食べようか」
「はい」
席に着いて、美咲さんの作った夕飯を食べ始める。
シチューを一口食べると口の中に広がる濃厚ホワイトソースの味が絶品だった。
「うん、美味しいよ! やっぱり美咲さんは料理が上手だね……ってあれ?」
また平然と口から出た感想。
その発言のおかしさを自分自身でも、よく理解していた。
今日初めて出会った美咲さんの料理の味を僕が知っているはずがない。
「そうですか。一生懸命作ったかいがありました」
しかし美咲さんは僕の発言の異変に気づかなかったのか、何の疑問も持たずに応対してくれている。
ならば無粋な真似はするまいと、僕もささいなことは忘れ、会話を楽しむことにした。
時間を忘れてしまいそうになるほど、途切れることのない会話。
なんとなく物足りなさを感じていた日々に新たな光がさしたような気がした。
もしかしたら美咲さんの無垢な笑顔が僕の心の中にあった隙間を満たしてくれているのだと、ふと、そんなことを思った────
「どうぞ」
「ありがとう」
食後に淹れてくれた紅茶を受け取る。
「部屋、大分片付いてるね」
まだ熱々の紅茶をすすりながら僕は言った。
「まだ向こうの部屋には、荷物が一杯ですけどね」
奥の部屋を目をやると、確かにダンボールの山が積み重ねられていた。
「本当だ。僕にも手伝えることがあったら何でも言ってね」
「はい、ありがとうございます」
「………………」
「………………」
しばしの沈黙が流れた。
二人して紅茶をすする音だけが聞こえる。
別に気まずいわけではない。
無理に会話を続けなくても自然体でいられる。
この空間が今の僕にはとても心地よかった。
「じゃあ、そろそろ帰るよ」
紅茶も飲み終えたのでお暇することにした。
「今日はありがとうね。料理、本当に美味しかったよ」
「いえ、今日みたいなものでよかったら、いつでも食べに来て下さい」
「うん、おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
美咲さんに見送られながら、僕は部屋に戻っていった。
こうして僕の不思議な一日は終わりを告げた──────




