愛し君よ― Reason of tears ―
「達也。俺……結婚するんだ」
電話の向こうで、息をのむ達也の気配が伝わってきた。
「さようなら」
呼び止める声も聞かず電話を切る。決心が鈍らないうちに。そのまま電源も切ってしまい、テーブルの隅に置いた。澱む胸のうちを吐き尽くすような溜息と共に、座っていたベッドに横になった。
でも、すぐに気持ちが悪くなって、起き上がると洗面所に駆け込んだ。緊張から解放されたからか、俺は嘔吐してしまった。
――はは、情けない。手まで震えてる。
いくらか吐き気が収まってから顔を上げると、目の前の鏡に死んだ父さんそっくりの自分がいた。少し下がった目じりや薄い唇、癖のない柔らかな髪。そんな俺の一つ一つが、父さんを思い出させた。
冷たい鏡に映る自分にコツンと額を寄せ、
「俺、間違ってないよな、父さん」
と亡き父に尋ねてみた。
もちろん、答えなんかなかったけれど――……。
俺と達也は幼馴染みで、家が近所だったこともあり生まれたときからずっと一緒だった。学校に行くのも、遊びや勉強も、悪戯をして叱られるのだって。本当に何をするのも一緒で……。達也が嬉しければ俺も嬉しかったし、俺が泣いている時は隣に寄り添いながら黙ってその悲しみを分かち合ってくれた。
もしかしたら、二人は近すぎたのかもしれない。同じものを共有しすぎたから、相手が自分とは違う存在だと分からなくなっていたのかもしれない。この想いが禁忌であることを頭では理解していたはずだ。
それでも、俺たちは想いを消す術なんか知らなくて、互いに恋を――俺は達也に、達也は俺に――してしまった。
玄関のインターホンの音で我に返った。
――もしかして。
達也の姿が脳裏をよぎる。
「どちら様ですか」
緊張した声で訊くと、
「あたしよ」
女の声が返ってきた。聞き馴染んだ声にほっと胸を撫で下ろし息が漏れた。
ドアを開けてみると妹の百合がよっ、と手を挙げながら立っていた。
いつもはジーンズばかりで、スカートなんか滅多に穿かない妹が、今日は春らしい淡いピンクのワンピースを着ている。
「似合うじゃないか」
と褒める。そんな俺の言葉に、
「柄じゃないよ」
照れくさそうに笑った。その顔は二十歳にしてはまだまだ子供っぽい印象だ。兄の眼から見たらかもしれないが。
「どうした、母さんは一緒じゃないのか」
「うん。あたしだけ近くまで来たからさ。兄さんがどうしてるかなぁ、と思って」
招き入れると、妹はミュールを脱いだ。ヒールがあるのは足が痛くなるし歩きづらいから好きじゃない、と前に言ってたのに。
「なんだ、デートか?」
日曜の昼間から兄の部屋にわざわざお洒落して来るとは思えない。案の定、
「まぁね」
はにかんだ顔を見せた。嬉しそうなその顔は、それだけで相手のことが本当に好きなんだろうと思わせた。いつまでも子供っぽいと思っていたが、そうでもないらしい。
妹はテーブルの前に座った。俺が「コーヒーは?」と訊くと「お構いなく」なんて殊勝なことを言いながら「砂糖は二杯ね」と付け加えた。ちゃっかりしている。
コーヒーを持って行くと、テーブルに置いていた携帯が目に付いた。なんとなく俺を落ち着かない気分にさせるからポケットに仕舞って、ベッドに腰を下ろした。
「この部屋、ホント何もないよね」
出されたコーヒーを口にしながら、しげしげと部屋を見回している。部屋には、ベッドと折畳めるローテーブル、テレビも兼ねたパソコンくらい。あとはベッド脇のサイドボードにCDや本が何冊かあるだけだ。
「こんなもんだろ、男の一人暮らしなんて」
肩を竦めてそう言うと、妹は意味深な顔で俺を見つめながら、
「ねぇねぇ、お義姉さんはこの部屋来たことあるの」
と興味深げに訊いてきた。今まで浮いた話の一つもなかった堅物の兄が婚約したとあって、よほど聞きたくてしょうがないのだろう。俺はそれに、
「ないよ」
素っ気ない返事をする。妹はからかい損ねて面白くないのか、
「変なのぉ」
と不満げに言った。
――変、か……。
妹が何気なく言った言葉が心に引っかかった。話題をかえたくて、
「そういえば、母さんは元気か」
なんでもない話をするように水を向ける。妹がカップを両手で包みながら、
「うん、元気よ。今日は町内会でハイキングに行くって言ってたわ」
そう答えた。母さんは相変わらずみたいだ。
「お前も行けば良かったのに。そのゾウ足が人並みになったかもしれないぞ」
俺がさっきの仕返しとばかりにからかうと、
「なによそれぇ」
頬を膨らませていた。小さい頃から変わらない妹の癖だ。怒ったときや、自分の思うとおりにならない時、よくそんな顔をしていたのを覚えている。
その顔を見て、何となく父さんと行った玩具屋のことを思い出した。
「……なあ、覚えてるか? 昔、父さんが小さいお前と俺を連れて、一緒に 玩具を買いに行ってくれたときのこと」
妹がまだ幼稚園の年長で、俺が小四の時。今日みたいに晴れた日で、珍しく家にいた父さんと三人で手を繋いで買いに行った。父さんと手を繋いで歩いた覚えなんてあのときくらいだ。
妹は覚えてないのか、上を見ながら考え込んでいる。
「えぇ、そんなことあったっけ?」
「百合はまだ小さかったもんな……」
カップの中で揺らぐコーヒーを見つめながら、独り言みたいに呟いた。
父さんはいわゆる仕事人間といういやつで、あまり家庭にいる人じゃなかった。だから父さんが玩具を買ってくれるのが、とても嬉しかったのを覚えている。ひとり一個だぞ、と言う父さんに、妹は二つの玩具を欲しがった。頬を膨らませながら店の中で駄々を捏ね、父さんをひどく困らせていた。
俺も本当はもう一つ欲しいのがあったけど、妹みたいに父さんを困らせるのが嫌で、なんとなく言えなかった。買ってもらった玩具も本当に自分が欲しいものだったけど、選ばなかったもう一つが欲しかったのも本当だったのに。それでも、ありがとう、と笑って父さんに礼を言った。
今にして思えば、どこか無理していたかもしれない。
「……お父さんにも見せたかったね、兄さんが結婚するの」
俺が黙っているのを、父さんのことでしんみりしていると思ったのか、妹は残念そうな顔でそう言った。
それからしばらく、お互いの身近にあった出来事や、他愛のない世間話をして時間を過ごした。実家を出てから丸二年。電車で三十分くらいの近さだし、しょっちゅう実家には顔を出している。それでも一緒に住んでた頃とは違うのか、何でもないような話の中に、自分の知らない家族の姿を見るような気がした。
妹が自分の携帯に目をやり「そろそろ行くね」と言って立ち上がった。
「もう帰るのか? まだ来てから二十分位しかたってないぞ」
ベッド脇のサイドボードに置かれた時計に目をやりながら俺が言うと、
「ごめんね。彼が心配性なの。私が遅刻とかすると大変なんだよ」
面倒そうな声をしながらも、顔は口元が綻んでいる。それを見て思わず、
「大事にされてるんだな、百合は」
真面目な声でそう告げると、ぱっと妹が頬を赤く染めた。
「今、ちゃんと幸せか」
重ねて訊いてみる。困ったような恥ずかしいような顔で頬をかきながら頷いた。
帰り際に百合が「兄さんも幸せ?」と無邪気に見える笑顔で同じ質問をしてきた。
「ああ。百合が幸せなら」
妹には、誰よりも幸せになって欲しい。
いや、家族の誰もが幸せであって欲しい。それが、俺の望むことだ。
俺が中二のとき父さんが死んで、母さんは慣れない勤めをしながら俺と妹を育ててくれた。高校を卒業して働くという俺に「お前は母さんの自慢の息子だから大学に行きなさい」と、苦しい家計の中で進学も許してくれた。卒業して大手といわれる企業に就職したときは、本当に誇らしそうな顔で笑ってくれて……。
見合いで知り合った人と結婚すると言ったときも母さんは嬉しそうに笑って、父さんの仏壇に泣きながら報告をしていた。
俺は、家族が幸せであって欲しいんだ。それが俺の幸せでもあるから。
妹が帰った後、ポケットに仕舞っておいた携帯電話を取り出し、テーブルの上に開いた。
――留守電が入っているかもしれない。
何も映さない真っ暗な携帯の画面をぼんやり見つめる。さっきまで差し込んでいた光はなくなり、陰鬱な仄暗さが部屋を満たしていた。
溜息をついて携帯を閉じると、目の端に取り込んだままの洗濯物が飛び込んだ。その一番上に、母さんから誕生日に貰ったシャツがあった。空色のストライプが縦に走る派手なシャツ。俺の趣味ではなかったけれど「似合っているわ」そう母さんは喜んだ。派手なシャツは父さんが好んで着ていたもので、母さんは死んだ父さんと俺を重ねて見ていたんだと思う。俺は父さんじゃないのに……。
達也が部屋にあったそのシャツを見つけたときに「お前の趣味に合わないな」と言ったことがある。「別にいいだろ。母さんがくれたんだよ」って返したら「マザコン」とからかわれたけど、胸にじんわりと温かな想いが満ちていくのを感じた。達也が誰でもない俺自身を見てくれているような気がしたから。こいつと一緒にいられる自分は幸せだ、あの時は確かにそう思ったのに――……。
感傷的な気分になりながら窓に目を向けると、いつの間にか大粒の雨が降り始めていた。天気予報では、今日は雨が降らないはずだった。
「母さんも百合も大丈夫かな」
ハイキングやデートをしている家族の心配をしていると、ふいにアパートの階段を荒々しい音をさせながら、誰かが上ってくるのが聞こえた。それに予感めいた想いが胸をよぎる。次の瞬間、部屋のドアが突然開けられた。
達也が……そこにいた。
「おい。なんだよ、あの電話」
息を切らせながら訊いてくる達也は、ズブ濡れの服と振り乱した髪をしていた。カッコつけでお洒落な普段の達也からは想像もつかない格好だ。たぶん駅から此処まで、ずっと走ってきたんだろう。
鋭い目つきで怒気も露わな達也と目が合い、氷を飲み込んだように、身体の芯がスーっと冷たくなる。
「……言った通りだよ」
内心の動揺を抑え、静かにきっぱりと告げた。
「何で結婚するんだよ、さよならって何だよ!」
雫を滴らせながら俺に詰め寄り、両肩を力まかせに揺さぶってくる。
「ごめん」
達也の顔をまともに見ることが出来ない。必死で問い詰めてくるその声に、
「忘れてくれ、俺のことは」
とだけ答えた。嫌われたり憎まれたりするくらいなら『なかったこと』にして欲しい。そう思った。
「ふざけんな!」
こぶしが頬に飛んだ。身体が壁に叩きつけられ息が詰まる。テーブルに足がぶつかり、飲み残しのコーヒーがカップごと床にこぼれた。殴られた頬を押さえ上体だけ起こすと、口の中に錆びた鉄の味が広がった。頬に熱を感じ、口の端が鈍く痛んだ。
視線の先で殴られた俺より、殴った達也のほうが痛そうな顔をしていた。
「何だったんだよ……忘れろって、俺達の過ごした時間は何だったんだよ!」
荒げた声から、想いが伝わってくる。それは全身で愛していると言ってくれているようで、その言葉は頬の痛みよりも胸を衝いた。
――やめてくれ。
達也はひとしきり叫び、俺はその間、ずっとそれを黙って受け止めた。心の表面は凪いだ海のように静かだけれど、その深いところが暗く澱んだように重たい。痛みも熱も何もかもがリアルなのに、眼の前の知覚できる全てを空虚に感じてしまう。
やがて、達也は呟くように言葉を漏らした。
「……俺のこと、嫌いになったのか」
それは今にも消え入りそうなほど弱々しい声だった……。
嫌いになんかなれるはずがない。見合いの後、何度も別れ話をしようと思った。でも達也の顔を見る度に、声を聞く度に、その存在を自分の中に感じる度に……言えなかった。電話にしたのだって、狡いと分かっていたけど、とても正面切って言う勇気なんかなかったからだ。
嘘でも「嫌いになった」だなんて、言えなかった。
「嫌いになんか、なれない」
震える声で絞り出すように言葉を紡ぐと、俺は顔を上げ、まっすぐに達也の顔を見つめた。悲哀と情愛の宿る瞳からは涙が溢れ、雨に晒された顔が更に濡れている。
――何で、俺なんかの為に。
それは達也の心そのもののようで、俺なんかにはもったいないような美しい涙だった。自分のエゴで恋人を傷つけている罪悪感が、喩えようもないほど心を苛んだ。じわじわと不快な自己嫌悪が心に広がる。着ているポロシャツの裾を、ギュッと握り締めた。
「じゃあ、婚約者のほうが好きになったのか」
違う。そんなことはない。家族に抱くような想いを愛というなら、彼女にも愛はある。だけど、それは恋ではない。恋は、達也としかしていない。
俺は、ゆっくり首を振った。
「じゃあ、なんっ――」
「俺とお前じゃ……母さんに人並みの幸せをあげられないから。嫁とか孫とか。そういう『普通の幸せ』を」
俺は達也の言葉を遮り、決して言ってはならない言葉を口にした。
達也の顔に、苦いものが混じっていく。そんなことは、お互いを好きになったときから分かっていたことなのに。達也自身もそのことを母さんや自分の両親に対して、負い目に思っていることを知っている。
「それに義兄になる奴が同性愛者じゃ、百合にも迷惑をかける」
達也の顔にはもはや言いようのない苦しみと葛藤が表れていた。
俺は卑怯だ! 家族を盾にしている。そうされて優しい達也が我を張り通せるわけがないと分かっているのに。自分が達也に嘘をつくのも嫌われるのも怖い。だから、ただ相手にだけ選択を迫る。
――選ぶ余地なんか、残してないくせに。
握り締めたシャツには深い皺が刻まれていった。
長い沈黙の後、達也は力なくうな垂れながら、ポツリと言葉を溢した。
「……幸せになれるんだな?」
その姿に、さっきの自分が重なってみえた。妹に自分も同じようなことを訊いたから。なのに、何も満ちてはいかない。ただ空の杯を抱くような渇きだけを感じた。
自分が望んだことなのに。俺みたいな人間を『自慢の息子』と呼んでくれる母さんや、これから幸せになろうとしている妹。そんな家族に俺が幸せを与えられるなら。平凡だけれど穏やかな幸せ。誰からも後ろ指を指されず、人並みの顔をして生きていられること。そんな、ありふれた幸せを家族にあげられるなら。それが俺の幸せだ。そう、信じている。
なのに、そう信じる心の向こう側で一生懸命に俺に呼びかける誰かの声が微かに聞こえてくる。
『これも幸せだよ! ボクはこれが欲しいんだよ』
……小学生の俺だった。自ら失おうとしているもう一つの幸せを、小さい俺が力の限りに叫びながら教えてくれていた。それは厚いベールで自ら覆い隠していたもの。
ただ自分で粗末にしているだけなんだ! 愛する人も誰のためでもない俺だけの幸せも。欲しかったもう一つの玩具を父さんや妹のせいにして我慢したみたいに。今度もまた、家族や世間のせいにしている。結局、俺は幼い頃から何も変わっていない。大切なことから目を背け、幸せを装っているだけ。
――それは分かっている。
それでも俺は、もう一つの幸せ――自分が望む達也との幸せを選ぶわけにはいかないんだ。玩具が一つしか選べなかったように、二つの違う幸せは手に入らない。俺が家族に与えたいものと自分自身の望みは決して相容れはしない。
俺は握っていたシャツの裾を離した。ざわつく胸に深く息を吸いこみ、自分から溢れそうなもの全てを抑えこんだ。そして、腫れて強張る頬と切れた口元を動かしながら、精一杯幸せに見える微笑みで答えた。
「あぁ。幸せになるさ」
これは誓いの言葉だ。
いつか、この選択が後悔に塗れる日が来るとしても、今ここで誓った言葉と彼への想いだけは嘘じゃない。絶対に。
ふいに達也が俺を引き寄せ、強く抱きしめてくれた。覆いかぶさるように俺の肩に頭をのせ、声を上げて達也は泣いた。痛いほどの力が、身体に染み込んでいく。
俺はこぶしを強く強く、血が滲むほど握りこんだ。達也の背に手を回さないよう。もう一つの幸せに手を伸ばしそうな、自分自身に負けないよう。強く、握り締めた……。
「……もう行くよ」
そう言って、愛しい温もりは離れた。俺は、唇を噛み締め涙を堪えている達也の顔を見つめながら、
「なあ……名前を呼んでくれないか。達也が呼んでくれるの、すごい好きなんだ。幸せに、なれるんだ」
最後の我が儘のつもりで。一体俺は、どれだけ達也に甘えるのかと呆れてしまう。
それでも、達也はそんな俺の為に精一杯の想いをその言葉に込めて、
「幸喜、幸せになれ」
涙の残る低く掠れた声で、静かに名前を呼んでくれた。
この名前には『この世の幸せと喜びが、この子に訪れますように』と父さんの願いが込められている。その幸せと喜びが、いま確かに訪れた。愛しさと寂しさも連れて。
「……うん。ありがとう、達也」
心を満たしてくれる温かな想いを残し、達也は部屋を後にした。こんなにも切ない気持ちで、彼の背中を見送ったのは初めてだった。
――俺は覚えていよう。初めて想いを確かめ合えたときの喜びを。誕生日に、出張だったくせに無理やり帰ってきて「おめでとう」とお祝いの言葉を言ってくれた達也を。何もなくたって、二人でいるときにふと感じた幸せを。今日の達也のこの優しさを。流した涙の美しさを。そんな煌くものすべてを俺はずっと覚えていよう。
そう思った。そして……幸せになろうとも。
胸に去来する想いを一つ一つ心に刻みながら、ずっと抑えていたものが堰を切ったように溢れだす。
俺は達也のいなくなった独りの部屋にしゃがみ込むと、
「……ぁ、っつや、た、つや。たつや、達也!」
繰り返し、愛しい人の名を呼びながら――泣いた。
こんにちは、ユエです。
男性同士の恋の終わりを描いてみました。
「もし、自分の望む幸せと現実がすれ違ったら?」
そんな思いで書きました。
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