本当に魔王を封じられるのは、真の聖女様だけ
聖女、フロール・フローラは緊張した面持ちで、地下牢への階段を降っていた。魔王を捕えている牢獄。その地下牢は村の有力者が自費で建造したものだから、そこまで頑健ではないし大きくもない。つまり、直ぐ先にある拙い造りの頼りない牢獄内に魔王がいるのだ。しかも、その地下牢は古びていて、暗く、不気味な雰囲気を醸し出していた。
彼女が緊張をするのも無理はない。
慎重に階段を降りる度、肩ほどまで伸ばした綺麗な黒髪が揺れる。黒縁メガネの奥の瞳は多少なりとも怯えているように見える。彼女はいかにも真面目そうだが、冷徹な印象は受けない。それどころかとても優しそうだ。多少のルール違反なら、溜息混じりに「仕方ないわね」とでも言って見逃してくれそうな。
彼女は国から正式に認定を受けた聖女であり、魔王を封じる為にここに来ていた。階段を降りながら、彼女は魔王を封じる為に施す術式の再確認をする。
“いきなり襲いかかって来るかもしれない。備えておかなければ……”
階段を降り切ると、直ぐ目の前にその牢獄はあった。
魔王がいるはず。
彼女は慎重に中を見やる。術式を準備しながら……
――が、牢獄の奥の方にいる魔王を一目見るなり、彼女はその全てを忘れてしまった。そして、
“え………っと、怯えているようだから、まずは安心させてあげないと……”
孤児院で時折見かけるとても臆病な子供への対処方法を思い浮かべていたのだった。
そう。
牢獄の中にいた魔王だというそれは、幼い男の子の姿をしており、しかも毛布を抱きしめて奥の方で震えていたのだ。小さなコブが二つ額から出ているが、それ以外は普通の幼い子供となんら変わらない……
やや縮れた黒色の癖毛が、広めのおでこにカールして貼り付いている。茶色の大きな瞳は、まるで彼女に許しを請うているようだった。着せられているのは粗末な灰色のワンピースの服で、地下牢の冷たさから身体を守ってくれそうにない。
優しく、温めてやらなくては……
――数日後。
エスト・フローラは憤りながら廊下を歩き、姉であり、聖女でもあるフロール・フローラの部屋に向かっていた。
姉とは異なった茶色の髪に、卵型の顔立ち。やや性格がきつそうに思える。
大きな石造りの宿舎。国に仕える巫女や女性の術者達の為に用意された専用の住居である。
少し前、エストは大臣のミル・コーエンから相談を受けていた。彼は白髯を蓄えた身体の小さな初老の男で、地位や富に固執し、少しばかり心配性なところがある。だから、彼女に相談を持ちかけたのだろう。
「聖女様が魔王を庇護してしまっているのです。いえ、そればかりか、養育しようとすらなさっているようで……」
本来、聖女は魔王を封じる任を負っている。予言者マーザの「本当に魔王を封じられるのは、真の聖女様だけである」という予言に則ってそのように決められているのだ。魔王への対応を決める最も強力な権限が聖女にあるのもだからで、現行法では、魔王の処遇について聖女であるフロール・フローラの決定には逆らえない。しかし、彼女はとある村に現れたという魔王を封じに向かったはずなのに、何故か保護し自ら世話をし始めてしまったそうなのだ。今は村から戻り、魔王と共に自室で過ごしているらしい。
コーエンからの相談を受けて、エストは大いに怒った。もちろん、任務放棄とも取れる姉の態度に腹を立てていたというのもあるが、それだけではなく、公憤をアピールする事で聖女の座を狙いやすくするという意図もそこにはあるようだった。
妹であるエスト・フローラも、実は聖女の資格が十分にあると言われていたのだ。姉には一歩及ばなかったが。
そして、今でも聖女の座を狙っている。
「お姉さま! お話があります!」
エストは勢いよく姉の部屋のドアを開ける。が、次の瞬間、彼女は固まってしまった。本当は魔王保護に対する文句を姉に対し並べ立てるつもりでいたのだが……。
姉の膝の上には、見慣れない男の子が座っていた。ちょこんと。あどけない、不思議そうな表情で、いきなり入って来たエトスを見つめている。
「お姉さま…… もしかして、その子が魔王…… なのですか?」
それを受けると、フロールは手をポンッとその男の子の額にある二つのこぶの間に置いた。
「はい。その通りです」
エトスは顔を引きつらせる。男の子はやはり不思議そうに彼女を見つめる。可愛い。フロールは続ける。
「私が村を訪ねた時、この子は村の地下牢に閉じ込められていました」
その言葉にエストはピクリと反応をした。そして“そんな! こんなに可愛い子を地下牢に?!”といったような表情を見せる。
「とても怯えた様子でしたから、私はまずは安心をさせようとハグをしました。すると、この子は冷たい地下牢に閉じ込められていた所為で身体が冷たくなっており、しかも痩せていると分かりました。きっと十分に食べ物を与えてもらっていなかったのだと思います」
その説明にエトスは目を潤ませた。魔王を可哀想だと思っているに違いない。
「それで私はまずは弱った身体の負担にならないように消化し易いお粥を用意させました。そして、それを食べさせて、しばらく休ませて充分に体力が回復するのを待ってから、お風呂に入れて身体を温めつつ綺麗にし、その後でまた食べ物を与えました。今度は栄養のある蜂蜜とバターを塗ったパンです。幸い、美味しそうに全て平らげてくれました」
フロールのその説明で、エトスは魔王が食べたりお風呂に入ったりするシーンを思い浮かべたのか、今度はほっこりとした表情を見せた。
「お腹がいっぱいになったら眠たくなったようでしたので、パジャマに着替えさせて、私のベッドで一緒に寝ました。その頃にはすっかりと私に心を許してくれていたので、心地良さそうに私の隣で眠ってくれました。私に甘えるようにして……」
恐らくエトスは、今度は魔王が無邪気な様子で姉の隣で甘えながら眠っているシーンを思い浮かべたのだろう。明らかに胸をキュンキュンさせているのが見て取れた。
「――しかし、それでも安心はできません」と、そこでフロールは言った。自らの想像に和みまくっていたエトスは、その言葉で我に返った。魔王の頭を撫でながら、フロールは続ける。
「この子の母親は既に病気で亡くなっています。どうも庇護者がいなくなってから、魔王として地下牢に閉じ込めれてしまったようですね。もちろん、魔王ですから孤児院でも世話を引き受けてはもらえません。
つまり、魔王を扱える権限を持った私以外には、誰もこの子の世話を引き受けられないのです」
彼女はゆっくりとエトスを見据え、「――さて、」と言う。
「行き場のないこの子を、あなたは一体、どうするおつもりでいるのですか?」
エトスは固まる。
魔王は不思議そうに彼女を見ている。
……姉、フロール・フローラは、妹、エスト・フローラの性格を熟知していた。彼女は憐れな境遇の幼い子供を実際に目の前にして、冷酷な主張をできるような女ではない。だが、見透かされている事を分かっているのか、彼女は歯を食いしばり、迷いを振り切るかのような仕草をした後で、キッと姉を睨むと口を開いた。
「わたしはお姉さまに苦言がございますの!」
大臣のミル・コーエンは、聖女の妹であるエスト・フローラの仕事部屋を訪ねていた。彼女は“聖女による魔王保護”の話を聞いて、非常に怒り、それから姉に抗議をしに行ってくれたのだ。
つまり、彼からしてみれば、上手くけしかけられたのである。
――この国には、何十年間に一度、魔王が誕生するという摩訶不思議で禍々しい現象が起こる。無実の罪で殺された聖者の呪いだとか、かつてこの国が滅ぼした先住民族の呪いだとか、様々に言われているが詳細は明らかではない。頭に二つのこぶがある事で魔王と分かるのだが、その魔王は高い魔力を有し、長じてから世に災いをもたらすと恐れられていた。反乱を起こしたり、凄まじい数の人間を殺してしまったりするのである。しかも、下手に殺せば怨霊と化し、この世を祟ると信じられてもいた。
もし仮に、そんな“魔王”を野放しにし、何かしら問題が起こったりしたら、大臣である彼にも累が及ぶかもしれない。彼はそれを危惧しているのである。
“まったく! さっさと魔力を封じ、殺してしまえば良いものを!”
だからこそ、彼は聖者候補でもあったエトスに期待していたのだ。彼女が動けば、魔王を保護するなどといった暴挙に出たフロールも考えを改めるかもしれない。
コーエンはエトスの魔王保護に対する抗議を聞いて、フロールがどんな反応を見せたのか知りたがった。首尾よくいっていれば、既に魔王保護を諦めているかもしれない。
「お姉さまは、何も分かっていませんわ。わたし、文句を言ってやりましたの」
訪ねて来たコーエンの顔を見ると、エトスはそのように愚痴を言った。“うんうん”と、コーエンは頷く。
「それで、聖女様はどのように言っておられましたか? 例えば、魔王の魔力を封じる術式を直ぐにでも施すとか……」
ところがそれを聞くと、彼女は「何を言ってますの?」と首を傾げるのだった。
「お姉さまの事です。あの子を甘やかしすぎるに決まっています。ですから、気を付けるように言ったのです」
(注:エトスも大体姉と同じくらい子供を甘やかす)
“は?”と、コーエンは疑問符を頭の上に浮かべる。
エトスは更に続けた。
「それに、あの年代の子供には、同世代の子供との付き合いが必要ですわ。一緒に勉強をしたり、遊んだり。お姉さまは、それをまったく分かっていませんの」
想定外の事柄で怒り続けるエトスに、彼は目を白黒させていた。
「え……っと、その、フロール様の魔王保護を糾弾して、聖女の自覚について諫められるのではなかったのですか? それでは聖女の資格はないと分からせる…… 延いては、本当に聖女に相応しいのはエトス様だと、皆にアピールを…」
それにあっさりとエトスは返す。
「そんな事、今はどーでも良いですわ!」
“そんな事? どーでもいい? 聖女の座が?”
なんとなくコーエンは思い出していた。彼女も充分に聖女に相応しいと言われている女性である事を……
「あっはっはっは。それはさぞ心配でしょうねぇ、コーエンさん」
セルシ・ボイルが快活に笑った。呑気である。まるで他人事だ。否、実際に彼は他人事だと思っているのかもしれない。彼は国に仕える医師で、まだ若いながらその実力を認められている。ただ、少しばかり人を食ったような性格をしていて捉えどころがない。
「笑いごとではない!」
と、コーエンは多少苛立った様子で返す。場所は医務局内の執務室。そこにセルシ・ボイルはいて、何かしら書類を作成していた。彼が魔王の健康診断を担当しているのである。
「あの魔王が何か問題を起こしたら、責任を追及されかねんのだぞ?!」
叱責を受けてもセルシはまったく平気な様子で、「そうですねぇ」などと言って笑っている。
軽く溜息を漏らすとコーエンは尋ねた。
「それで、魔王の健康状態はどうなのだ? 何か問題があったりはしないか?」
「ええ。大丈夫そうですよ。初日はやや栄養失調気味でしたが、聖女様がよくお世話しているからでしょう。どんどん健康になっています」
「そんな事はどうでも良い! 魔力はどうなっているかが知りたいのだ」
「ああ、ハイハイ。大丈夫ですよ。あの年頃の子供にしては随分と高いですがね、暴走するような気配もないし負荷もそれほどかかっていない」
「つまり、魔力は高いのだな?」
「そりゃ高いですよ。魔王ですから」
「そこが重要なのだ! やっぱり魔王なのだな? 単にこぶのある子どもではなくて」
コーエンの声はとても大きくなっていた。
「でも、健康状態は良いですよ。心身ともに。流石、聖女様で……」
「お前は国に仕える医師にくせに、そんな心配しかしないのか?」
「そりゃ、医師ですからね、患者の健康には気を遣いますよ」
「あれは患者ではないだろう?」
その抗議の言葉に、セルシは納得がいかないようで「うーん。そうですかねぇ?」などと返す。その呑気な態度に、コーエンは頭を抱えた。
「まったくお前は。私の心配も知らずに……」
そんなコーエンの様子に、セルシは頭を数度掻くとこんな提案をした。
「そんなに心配なら、エトス様がおっしゃったように“お友達”を用意してあげれば良いのじゃないですか?」
「はあ? お前は何を言っているのだ?」
「いやぁ、ちゃんとしたお友達ができれば、魔王だって悪さをしようとは思わなくなるでしょう? 人間社会に」
「お前、そんな事で解決するのなら……」と、コーエンは言いかけたが、直ぐに何かを思い付いたのか「いや、待てよ」とそう呟く。そして、それから「その手は使えるかもしれんぞ」と、にやりと笑ったのだった。
「お友達ですか? あの子に?」
翌日、聖女、フロール・フローラの執務室を訪ねたコーエンは、魔王に友達を連れて来る提案をしていた。
フロールの疑問符を伴った声に「左様」と彼は返す。
「本来は学校に入れてやるべきかもしれませんが、まだその年齢ではありませんし、それに他の生徒達の身も心配です」
「他の生徒の身が心配とはどういう意味ですか?」
「いえ、いじめられてしまうかもしれませんから」
その言葉に即座にフロールは、納得いかないといった様子で文句を言う。
「うちの子は、誰かをいじめたりなんかしません! とても優しい子です!」
それを受けると、コーエンは顔を引きつらせ、「今、“うちの子”って言った……」と小声で漏らした。フロールはとても不満そうな様子だったが、直ぐに考えを改めたのか、
「……でも、そうですわね。お友達は必要ですが、学校ではうちの子がいじめられてしまうかもしれません。大人しい子ですから」
と呟くように返した。
彼女がそのように思い直したのは、先日、妹のエトスから「同年代の遊び相手が必要だ」と説得されたからでもあった。現在、彼女やメイド達が魔王の世話や遊び相手もしているが、それだけでは教育によろしくないと心配していたのだ。
「はい。ですから、少し歳は上ですが、勇者として訓練を受けている子供達が数人いますから、その子達に魔王の相手をしてもらおうと思うのです。一緒に遊んだり、勉強をしたり、運動をしたり」
少し考えると、フロールはそれを妙案だと認めたようだった。
「分かりました。お願いします。何か問題があったら変えれば良いだけの話ですし。過保護はいけませんし」
その返答にコーエンはホッとしたようだった。
“よし! これで魔王の監視ができる!”
……どうも彼はそのように考えているようだった。
「それでは皆さん、よろしくお願いします」
深々と聖女、フロール・フローラが頭を下げた。勇者候補の少年達はそれを受けて少しばかり戸惑った顔を見せる。まさか、“聖女様”がこのようなへりくだった態度を見せるとは思っていなかったからだ。
「もちろんです。お任せください」
と、ぎこちなく一人が返す。すると、またフロールは頭を下げた。ただ、それから彼女は、
「いじめたりなんかしちゃダメですからね。絶対に」
と、妙に圧のある口調で言ったのだった。顔は笑顔だったが、ちょっと怖かった。それで彼らは顔を引きつらせる。
彼らは大臣のミル・コーエンから、「魔王を監視するように」と密命を受けていた。そして、もしも、犯罪者になりそうな危険な兆候が見られるようだったなら、即座に報告をするようにとも言われていた。その為、強い使命感と警戒心で、彼らは魔王の相手をしようと思っていたのである。
がしかし、実際の魔王を目の前にし、彼らは拍子抜けをしてしまっていた。額にこぶが二つある以外は、ただの幼い男の子にしか見えなかったからだ。そして、それから、実際に一緒に遊んだり、勉強をしたりしてみたのだが、魔力が高い以外には異常な点は見られなかった。素直ないい子だ。
それで、彼らは結局、「何も問題はありません」とコーエンに報告をするしかなかったのだった。
もしも、捏造をしたりしたら、聖女様に何をされるか分からないし。
「――何故なのだ? どうしてあの魔王には一切凶暴性がないのだ?」
医務局。
セルシ・ボイルの前で、そのようにコーエンは愚痴を言った。ところだが、それを聞くなりセルシは、
「そーでしょーねぇ」
などと、まるで“当たり前だ”と言わんばかりの口調でそう返すのだった。
「何が“そーでしょーねぇ”だ! 魔王に凶暴性がないのだぞ? どうしてそんな事が起こり得るのだ?」
ニッコリと笑うと、セルシはこう返す。
「それは実は、“魔王”と我々が呼んで来たものが、本来、危険でも何でもなかったからではないでしょうか?」
「はあ?」とそれにコーエンは返す。
「どうしてそんな事が言えるのだ?」
「言えますよ。近くに魔王のサンプルがいるのなら、じっくりと調べられるじゃないですか。
僕が調査した限りでは、魔王は突然変異で強力な魔力を得ただけの、ただの人間ですね。頭のこぶはその変異となんらかの関係があって生じるのかもしれません」
「はあ?」と、それに再びコーエン。
「何を言っとるんだ? 魔王は歴史上、何度も大罪を犯して来たのだぞ?」
彼の反論を受けても、セルシは涼しい顔をしている。
「それ、多分、逆なんですよ」
「は? 逆?」
「きっと、“魔王”というレッテルを貼られて、世間から酷い目に遭わされた所為で凶暴化しちゃったっていうのが、“魔王が禍々しい行いをする”という話の真相だと思います。ちょっと気になって調べてみたのですがね、実際、歴代の魔王の幼少期は実に悲惨なものであったようでして……」
そのセルシの説明に、コーエンは口をあんぐりと開ける。
「……つまり?」
「つまり、それが“本当に魔王を封じられるのは、真の聖女様だけ”って予言の意味なのだと思います。聖女様なら、魔王の噂なんかに惑わされず、優しく幼い子供を受け入れるでしょうから」
それから少し笑うと、セルシは続けた。
「それにしても、流石、聖女様ですねぇ。我々にはできません。きっと、あの子は健やかに育つことでしょう」
その言葉に、コーエンは一気に脱力をしたのだった。一体、自分の心配は何だったのか? と……