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7/21

崩れる日常、響く咆哮

薬草でいっぱいになった籠を手に、アルトとリゼットは村への道を歩いていた。

森の入り口を抜けると、西の空が燃えるような茜色に染まっているのが見えた。それは息を呑むほど美しい光景でありながら、どこか血の色を思わせる、不吉なほどの赤色でもあった。


「わ、もうこんな時間。早く帰らないとお母さんに叱られちゃう」


リゼットは少しだけ焦ったように早足になる。やがて、彼女の実家であるパン屋の、温かい明かりが灯る窓が見えてきた。香ばしい小麦の匂いが、優しく二人を迎える。


「それじゃあ、アルト。今日はありがとう。すっごく楽しかった!」


店の前で、リゼットは振り返って満面の笑みを見せた。夕日に照らされたその笑顔は、アルトの胸に不思議な温かさを灯す。


「ああ、僕もだ。いい気分転換になったよ」

「えへへ。じゃあ、また明日ね!明日の朝も、ちゃんと叩き起こしに行ってあげるから!」

「はは、頼むよ」


また明日。

それは、昨日も、今日も、そして明日も、当たり前に交わされるはずの、何の変哲もない挨拶。

手を振って店の中に入っていくリゼットの背中を、アルトは静かに見送っていた。彼の視線は、彼女が消えた扉の向こうではなく、赤黒く染まる空と、静まり返った森の方へと向けられていた。胸のざわめきが、まだ消えない。


――その頃、店に戻ったリゼットは。


(よかった。アルトも楽しんでくれたみたい)


胸いっぱいに広がる幸福感で、自然と鼻歌が出てしまう。

昼間の、アルトの言葉が何度も心の中で繰り返される。


『大丈夫だよ、リゼット。僕がいるよ』


(うん、大丈夫。アルトがいるんだもん。きっと、明日も、明後日も、ずっとこんな風に平和な日が続くよね)


彼女はスキップでもしそうな軽い足取りで、店の裏にある小麦粉の袋を持ち上げようとした。

父のパン作りを手伝おう。そして、明日の朝、アルトに持っていくための、とびっきり美味しいパンを焼こう。そんな幸せな未来を思い描いた、まさに、その瞬間だった。


ゴゴゴゴゴゴゴゴ……!


最初に感じたのは、音というより振動だった。

足元から、そして腹の底から響き渡るような、低い地響き。店の窓ガラスが、カタカタと不気味な音を立てて震える。


「え…?地震…?」


リゼットが顔を上げた。

村人たちの「なんだ?」「今の揺れは…」と訝しむ声が聞こえる。


そして、次の瞬間。


―――グルルルルルオオオオオオオオオオオオッッッ!!!


森の方角から、数百、いや数千の獣が一斉に上げたかのような、絶叫の奔流が鼓膜を突き破った。

それは、平和な村が今まで一度も聞いたことのない、紛れもない『厄災』の産声だった。


咆哮。

それは、もはや単一の生き物の声ではなかった。

憎悪、飢餓、破壊衝動――ありとあらゆる負の感情を束ねて叩きつけたかのような、冒涜的な音の塊だった。


次の瞬間、森の木々が、まるで巨大な何かに薙ぎ倒されるかのように、内側から爆ぜていく。

地平線の向こうから現れたのは、赤黒い津波。

一つ一つが凶悪な牙と爪を持つ魔獣の群れが、土煙を上げ、大地を揺るghi、レヴィナス領へと殺到する光景だった。


「ス、スタンピードだ…!」

「なぜ、こんな所に…!」

「逃げろぉぉぉっ!」


村は、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄へと変わった。

笑い声は悲鳴に、穏やかな夕暮れの空気は血と土埃の匂いに塗り替えられていく。

平和の象徴だった家々の壁が、獣の体当たりで紙細工のように砕け散り、炎が上がった。昨日まで当たり前にそこにあった日常が、目の前で蹂躙され、崩れ落ちていく。


「お父さん!お母さん!」


リゼットは、恐怖に引きつる足で店の入り口へと駆け寄る。両親が、店の内側から必死に扉を押さえ、バリケードを築こうとしていた。


「リゼット!奥へ隠れていろ!」

「すぐに騎士団が来てくれるはずだ!」


両親の悲痛な叫び。

だが、その願いはあまりにも脆く、無力だった。


ドッゴォォォンッ!


店の壁が、入り口ごと爆散した。

木片や小麦粉が雪のように舞い散る中、そこに立っていたのは、豚の頭を持つ巨大な魔獣――オークだった。その濁った眼は飢えた光を宿し、涎を垂らしながら、リゼットと彼女の両親を睥睨する。


「あ……あ……」


リゼットの世界から、音が消えた。

大好きだったパンの匂いも、両親の声も、自分の呼吸の音すらも聞こえない。

足が地面に縫い付けられたように動かない。助けを呼ぶ声も出ない。ただ、目の前で振るわれる理不尽な暴力と、両親の絶望に染まった顔が、スローモーションのように映っているだけ。


(いや…いやだ…いやだいやだいやだ…!)


無力感。

昨日まで信じていた幸せな世界が、いとも容易く牙を剥き、自分を喰らおうとしている。その絶対的な事実を前に、パン屋の看板娘だった少女は、ただ震えることしかできなかった。


――ああ、誰か。

誰か、助けて。


――アルト。


心の奥底でかき消えそうになったその名前だけが、彼女に残された、最後の光だった。

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